草原の満ち潮、豊穣の荒野
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35 決別(2)〜遠い空のむこうに

神殿の敷地は人でごったがえしていた。

深夜に起こった事件は口を封じる間もなく
街まで広まった。

人魚の遺族が悲しみを叫びに変えて歩き
人々は様々な推測を流す。
神殿を荒らす者はいないわけではなかったが
人魚が殺され、その上犯人が神殿内の者であった事など
前代未聞。人々は皆神殿に詰め掛けた。

制止される前に潜り込んだ人々だけでも
広場は埋まった。ばらばらと投じられる石や物。
皆が『大罪人』を一目見ようと集まって去ろうともしない。
石を投げる者の大半は理由などどうでも良かった。
ただ、日頃の些細で積み重なった憂さを晴すため
石を握った。


繋がれた罪人は神殿の紋の入った長衣も汚れ果て
何者か一見ではもうわからない。
ただ長い髪だけが人魚のそれと同じ青を覗かせ
何人かの手から石を落とさせた。



「何故人魚がそんな恐ろしいことを」

「あれは違う。似た色だが辺境の蛮族だ」

「そんな奴がこんな中央まで入り込んだなんて」

「殺してしまえ!」



海人や獣人すら石を取った。
血まみれで倒れ伏す姿を哀れむ者はいたが
口に出さず目を背けた。

オンディーンは死んだように動かない。
打たれる痛みに時折体を震わせる以外顔すら上げなかった。
かつて寄って集って殴打される事もあったが
今度は規模が違う。
足を打つ石は立ち上がる力を奪い
頭部を打つ石は思考能力をもぎ取って行った。



「じいさん!!奴を放っとくのか!
あれじゃ死んじまう!」



人だかりの中、酒場の親父が叫び続けていた。
老人の姿を探すが見つからない。
それどころか打たれるオンディーンの姿すら人の背中で
見えない。


「なんてこった!だからあれ程忠告したんだ!」


中年の男は空を仰いで嘆いた。
オンディーンが望んで誰かを殺すとは信じられなかったし
信じたくなかった。
彼は己と限り無く近い身の上なのだ。
この街でやっと人並みの暮らしを手に入れ
酒を飲みバカ話や博打に盛り上がっていただけだ。
人生にそれ以外のなんの価値がある?
わざわざ誰かを死なせてまで彼が
何を欲しがったというのだ。


「じいさん!あんたはそれでいいのか!!」


悲痛な叫びは人々の新たな歓声に飲み込まれて消えた。
別の囚人が二人引き出されたのだ。
オンディーンを見た囚人達は逃げようとして
兵士に殴り倒された。
声高く彼等の罪状が読み上げられる。
子供を殺害した男と窃盗と詐欺を繰り返してきた男。

たちまち石に打たれて半死半生の有り様となった。
ガレイオスは注意深くそれを見ていた。
オンディーンが死ぬ寸前で止めなければならない。
本当の地獄を見せる為に。
二人の囚人はオンディーンへの投石を減らし
長引かせる為の道具だった。


それでも異様な興奮に包まれた人々の投石は激しかった。
集団の意志は良心や抑制というブレーキをへし折り
死を要求してやまなかった。


「おやめ!あぶない!!」


何処からか女の叫び声があがった。
広場の中央に現れた鮮やかなストールの白。
ひとりの女がふらつくような足取りで
オンディーンの元に駆け寄った。


「およしったら!エレンディラ!」


病み上がりのやせた女がひとり、頭からすっぽりと被った
白いストールをはためかせてオンディーンの前に立った。
群集が静まり返る。


彼女は何も言わず倒れたオンディーンの前で両手を広げた。
長いストールから覗く紺の瞳。
その眼には言葉の代わりにとめどなく流れる涙。
唖の女には彼女のみが知る、彼の真実を叫ぶ事すら出来なかった。
ただ彼の前に立って遮る事しか。



「あの女も仲間だ!」


怯んだ人々の中から声が上がる。
それと同時に彼等はリンチを再開した。
エレンディラに情け容赦ない石が降り注ぐ。


「頼むからもうやめてくれ」


酒場の親父は頭を抱えて座り込んだ。
男の腰には妻が行くな、としがみついて泣いていた。



折れそうな枝の防波堤は数秒で膝をついた。
老人は口を引き結んでそれを見ていた。
全ての者を助ける事などとうの昔に諦め
手の届く者だけに手を伸ばしてきた。
公の場に出てしまった事には一切関わらなかった。
物事にはルールがある。
正面切って壊してはならない事がある。



倒れたエレンディラの白いストールは血が滲んでいた。
それでも彼女はもう一度立ち上がろうと顔を上げた。
頭から被った長いストールが滑り落ちその顔が露になった。


「!!」



全ての人が凍り付いた。



彼女の顔半分は長いいくつかの病で崩れていた。
そして同時にその舌も
言葉を発音する機能を失ってしまった。

おそらく元は美しい娘だっただろう。
深い紺のウェーブがかった長い髪。オンディーンがせめて
髪の毛くらいは、と指の動きもままならなかった彼女の髪を
整え続けていた。顔はもうどうにも戻し様がない。
それより足や指の機能を戻す事の方が先だった。
手足の崩れた肌は鮮やかな色の服で隠しながら
数年に渡った治療が続けられていた。




彼女は立とうと2〜3度もがいた。
流石に老人も広場に向かって足を踏み出した。
ガレイオスは渋面でそれを睨んでいた。


「......」



老人の足が止まった。







オンディーンの指が一本ずつ開かれ
空を掴んだのだ。

何度か何かを探すようにゆっくりと
開かれた手のひらだけがゆらゆらと彷徨う。


人々は固唾を飲んでそれを見ていた。


やがて彼の指先はエレンディラの髪に触れた。
紺色の髪を辿ってやせた肩に腕を伸ばす。
片腕もまた、地面に突き立てるように伸ばされ
地面に振り流した青い髪が起き上がって行く。



左の腕は拳を握り地面を突き支え
右の腕はエレンディラの肩を抱き抱えながら
彼はゆっくりと顔を上げた。

乱れた長く青い髪の隙間から覗く眼光。
深いブルー。



腫れ上がった全身と
いくつかの折れた骨をきしませながら
彼はエレンディラに覆い被さった。
骨折した足は不自然に曲がりあらぬ方向へ。
異様な抱擁。



喉の奥で威嚇の咆哮を洩しながら
彼はエレンディラを完全に、己の体で隠しきった。
たったひとつの小石すら当たらぬように。
そしてその眼に激しい怒りの色を浮かべ
取り囲む者達を見た。


ひとり、ふたり。


女が、男が後ずさって行く。
子供が両親の顔を見る。
老人が項垂れた。
司祭は蒼白な顔でガレイオスをせわしげに伺っている。





「......」

老人は反対方向に歩き出した。
広場に背を向けて。





「罪人の追放執行を執り行う!!」



ガレイオスが吠えるように叫んだ。

彼はびくついた司祭達に地上への通路を
開くように命じ、
ヤジ馬を散らすよう兵士に指示を出した。

「女も一緒に追い払え」




引き剥がすように兵士はエレンディラを連れ去った。
唖の娘は水鈴をオンディーンに渡そうとしたが
兵士の足に踏まれて砕けた。

仰向けに倒されたオンディーンは両の眼を
見開いたまま遠く遥かな『空』を見ていた。




深海の『空』は夕暮れ。