草原の満ち潮、豊穣の荒野
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『...祈りが誰かの幸せを願うのなら それは化学という名の方法で叶えよう。
...信仰が誰かを想ってなされるのなら それは世界を護るものでいられるだろう。
そしてそれらはすべて 誰かの犠牲など 必要としてはならない....』
ゆっくりと銀の髪の男が振り返る。 少年が叫ぶ。 その大きく裂かれた口には青い閃光。 頭を落とされた娘の唇が牙を剥く。 命乞いは呪詛の言葉へと変わる。 切り捨てられた願いが濁流に消えて行く。
笑い続ける子供。
青い髪の少年が口を引き結んで睨んでいる...
「老司祭、大丈夫ですか」
酒場の店主がテーブルに突っ伏した老人の肩を揺らす。 仄暗い、他には誰も見当たらぬ店内。
「あ、ああ。すまんの。ちと眠り込んだか」
「うなされてましたよ」
「あのド阿呆の事が落ち着かんと 夢にまで出てきよる」
老人が飲み直そうとグラスに手を伸ばしたのを 軽く制す。
「飲むよりきちんと寝たがいい。 奴さん、謹慎中ですか」
「ああ、ガレイオスやその周辺の者と離しておる。 適当に無銭飲食で放り込んだよ」
「あっはっは。数年分だな。そりゃいい」
外は昼。ひっそりとした店内。 いつもは昼食や夜の開店準備であわただしい時刻。
「事の収拾がつくまで不便をかけるが...」
「いやいや、マーライオンに睨まれて 辺境に飛ばされるよりは。 あんたには子供の時分からいろいろ 世話になりっぱなしですな」
「もうそんなになるかの」
店主が寂しそうに笑った。 かつてひとり、辺境の廃村から流れ着いた 子供の目に映った老人は、今も全く変わらぬまま。 自分だけが年老いて行く。
「俺が死んだらあんたの酒の面倒は 息子に任せますよ」
「おお、あの小さいのか。それは嬉しい」
老人は目を細めて顔をくしゃくしゃにした。
「そういえば奴さん、また試験、失敗ですか」
「はは。今謹慎部屋に 本の山と一緒に放り込んであるよ」
「勉強が嫌なら俺みたいにのんびり 裏町で店でも開いて暮らしゃいいのに」
「....そうさせてやりたいのはやまやまじゃがの」
「......」
「まあ、せいぜい学ばせて住んでいた街へ戻すしかあるまい。 本人もそのつもりでおるわ。 あれは都市では生きていけぬよ」
「司祭、あんたいつからそうしてきたんです?」
「はて。とんと思い出せんが、あれが今までで 一番強情なのは間違いない」
「あの悪ガキもそろそろいい大人だ。 あんたもあまり無理は効かない。 いつまでも面倒を見てやるのはあまり感心しませんがね」
老人は肩を竦め明後日の方向へ目を向けた。
「ガレイオスを補わせるつもりじゃったが 例の問題が片付かん。 薬もそろそろ馴染んでくれねば...」
「気付かれてますよ」
「ああ。じゃがそこまで利口ならば 黙って飲むじゃろう。己の為にな」
「辺境に住む者は魔が巣食う....か。 光届かぬ場所に適応して生き延びてきた者には 行き場もありゃせんのですな...」
「何事も裏道はあるよ」
「....申し訳ない。あんたの苦労も忘れてつい...」
「忘れてもろうた方が愉快に飲める」
「あはは。しばらくは営業停止だが あんた専用ならいつでもヤリますぜ。 奴さんも謹慎でちったあ懲りるだろうし そん時ゃ従業員で雇ってやりますか」
「ああ、ぜひ頼む。あれもお前さんには 気を許しておるようじゃから」
老人は笑顔で手を振ると店を出て行った。 テーブルに上げられたままの椅子。 灯もカウンターのみ。 老人の気配がすっかり消えてから 店主がぽつりと呟いた。
「...じいさん、それは違いますぜ。 奴さんがアレを黙って飲み続けているのは...」
店主は老人が去った扉に向かって 深く頭を下げた。
「こういうのは後になって自覚するもんなんですぜ。 あんたにゃ長い時間がありすぎて わからんのかもしれませんが.....」
昼、尚暗い酒場。
〜地上にて、ある神殿内部報告記録より〜
某所轄内にての内部処理事項。
対外脅威担当実動部所属・特殊要員一名 死亡により登録抹消。
氏名 ヴァグナー・ハウライト 死因:任務中の事故による、とのみ記載のこと
助手兼従者一名は重傷。 死亡もしくは再起不能を確認次第記録抹消要請。
氏名 カノン・ルシード 記録抹消該当の場合:任務中の負傷による、と記す以外必要なし。
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