草原の満ち潮、豊穣の荒野
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教会の裏には遊廓があった。
「オンディーン、お前達はそっちを頼む」
司祭が学生や部下を采配する。
「またあそこだ...」
人魚の神学生がぼやいた。 隣を歩く青い髪の学生は返事もしない。 渡された護符らしきものを束ねて パタパタ仰ぎながら裏手の路地へ入って行った。
表通りは清楚な佇まいの街角。 ふたりはだんだん雑多になって行く小道を進む。
ひとりは居心地悪そうに、もうひとりは活き活きと。
「苦手なんだ...こういうところは」
「聖女がいる所ですよ」
「....慣れないな...それ」
やがて恐ろしくわい雑な建物が現れふたりの学生は 立ち止まった。
「あら、司祭がいらっしゃったわ」
「まだ学生です。僕らは....」
「なんでもいいわ、ね、オンディーン、あれ持って来てくれた?」
「ええ、抜かりなく」
「うわっ!!!オッ...オン...オンディーン!!」
「なんでしょう」
「なんでしょうじゃないよ。それって....」
「避妊道具と媚薬、ついでに試供品もつけておきました」
こうやって使うのだ、とひとつ摘まみ上げて説明する。 女達は取り囲んで嬌声をあげた。
「実践して教えてよ、ねえ」
「やりますか」
「ちょっと待てーっ!!」
聖女、つまり遊廓の女達の家。 神殿や教会が黙認する裏手。 数人の男達が『聖女』のポートレイトを眺めては あれこれ品定めする声が聞こえる。
彼等は月に一度ここへ来る。 以前は司祭達が来ていたのだが ここしばらく学生のふたりが通っていた。
「ね、オンディーン。そこの彼いつもカタいのね。 もう顔馴染みなんだからさ、リラックスしてよね。 それともリラックスさせてあげようか」
「オッ...オンディーン!!早くすませよう」
「偽りには白、堕胎はこの金の縁取りのものをどうぞ」
「お金足りないわ。仕方ないからひとつ下の安いのを ちょうだい」
「罪作りばっかしてると懐も恵まれないわ」
「....なんで僕らがこんなとこに....」
「女神のしもべの役目ですよ」
「オンディーン、その喋り方やめてくれないか? 僕らは学生同士なんだから普通に...」
「私はこれが普通ですが」
「オンディーン、さっさと終わらせちゃって遊ぼうよ」
「馴染み.....?」
「そ、彼ね、ひいきのオンナノコがいるのよねえ」
「エレンディラが待ってるよ」
「今行きます」
「行くって...」
「あとはよろしく」
「ああ、もう...」
オンディーンはすたすたと奥の部屋へ行ってしまった。 人魚の学生はひとりしどろもどろ。 女達に免罪符を売る。
「エレンディラ、具合は?」
オンディーンは質素な一室へ入ると声をかけた。 他の部屋は豪華なベッドや装飾品で埋め尽くされている。 比べればまるで物置き。 彼女はそこで眠っていた。
「免罪符を持ってきました」
「.............」
「それからこれを飲みなさい。少しは痛みが和らぐから」
薄汚れた寝具のベッド。寝ていた女はよろよろと半身を 起こした。ぼさぼさの長い紺色の髪。 痩せ細った腕で彼女は神学生の差し出した薬瓶を受け取った。
「零さないように...ゆっくり」
彼女の唇は震えながら長い時間をかけて僅かな小瓶を 飲み干した。オンディーンにはその姿に似た記憶がある。 酒に溺れた老人....。 彼女は同じ匂いをさせながら落ち窪んだ目で オンディーンを見ていた。 喋る事もおぼつかず、身ぶりで辛うじて希望を伝えていた。
「酒はいけない。もうしばらく辛抱すれば元のように 元気になれる。がんばりなさい」
オンディーンはそう言いながら床を布で拭いていた。 血反吐の跡。 苦い記憶が頭を過る。
「エレンディラ、今日は土産があるんですよ」
彼は懐から小さな鈴を取り出すと軽く指で触れた。 振動がゆるやかに広がる。 水鈴。
エレンディラはオンディーンをしばらく見つめていた。 水鈴の響きに何か思い出したような気がするのだが 彼女の頭は霞がかかったようにそれ以上 考える事は出来なかった。
「元気になりなさい。いつかきっとあなたのいた街へ連れて行く。 それまでゆっくり体を回復させて待っていて下さい」
ある想い出。 丘の上。香油と髪の香り、水鈴の音...
「免罪符はもう支払いもすんでいます。何も心配しないで きちんと薬を飲んでいなさい。まだ間に合う。 .....諦めてはいけない」
そっと肩に手をかけてベッドに寝かし付ける。 指に触れたのは柔らかい肌ではなく堅い骨。
「オ...オンディーン!!」
相棒が飛び込んで来て叫んだ。
「何をやってるんだ!君は...」
「黙れ」
低く静かだが人魚の学生を黙らせるには充分な一言。
「....」
「エレンディラ、いい夢を。また来ます」
オンディーンは扉をそっと閉めた。 豪華で卑猥な廊下を歩き出す二人。
「オンディーン!君に移ってからじゃ遅いんだぞ。 気は確かなのか。彼女は....」
「生憎私は上品な生まれじゃありません。 免疫ならあなた方以上にある。 それにアレなら治す治療薬が 存在するはずですが」
人魚がやや声を落として抗議を続ける。
「あんなふしだらな病いの女なんか...」
「それが聖女の所以でしょう。女神は売女でもある」
「なんて事を言うんだ!」
「マトモなモノがマトモな所にある事の方が 珍しいんだぜ...。」
人魚は首を振った。 もう何年もオンディーンと組んでいる。 ガレイオスの言い付けでもあったが未だに彼の言動は理解に苦しむ。 ケンカこそなくなり日々、薬剤開発研究に没頭しているように 見えるが彼の考えている事はわからないまま。
「ねえ、もう少し負けてくれない?」
女が彼の背中から抱きついて囁く。
「いいえ、ビタ一文負かりません」
「ケチねえ...」
負からなければサービスは不要、とばかりに女は離れる。 笑いながら。
「払いさえすれば罪も帳消し。こんなけっこうな事は ありませんよ」
「ほんと。あたし達こそいい上得意なンだから 大事にしてよね」
「全くです」
女達が姦しい笑い声を響かせる。 オンディーンも珍しく声をあげて笑っていた。
ただひとり、人魚だけが笑う彼の目を見て黙り込んでいた。
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