草原の満ち潮、豊穣の荒野
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オンディーン。
彼はいつも夕暮れになると鐘つき堂へ上る。 打ち鳴らす為ではない。
「やってらんねえ」
彼は背伸びをしながら喉元のボタンを外し 遥か下を見下ろした。
何処までも豊かな海底都市が広がる。 穏やかな潮流、豊かな実り。暖かい気候。 妖魔や荒れ狂った海獣は屈強な兵士と 魔術師の強力な結界に遮断される。
街の中央には海の焔を納めた塔。 燃え続ける海の焔。海で暮らす者達の命の灯は 遠く離れた街道を行く旅人にも届けられていた。
その先は暗い海。 道なき道の果て、地図にない辺境の地。 光はそこにも届いていた。 辛うじて届くわずかばかりのものではあったが 『ブルー』はそこで育てられた。
置いて来たみすぼらしい外套と想い出。 懐かしい人々。 かつてのやせて汚れた子供はもういない。 そこにいるのは聖職者の神紋を 清潔な長衣にあしらった若者。 まだ学生ながら知識と経験も積みつつある。 充分な食事も与えられ急激に伸びた背丈。 体格は成人のそれに近付いていた。
17歳。
眼下の街に灯が点る。豆粒程の人々が家路へ急ぐ。 微かな夕餉の匂い。 彼は再び暗闇の彼方へ目を向けた。 リラの食卓は今も騒々しいだろうか。 あれから2年。
「老師様が呼んでるよ」
階段をひとりの学生が上って来た。 同年代の人魚。
「....」
「何かあったの?」
「だったらなんだ」
「いや....別に。なんだかいつもと違う気がしたから...」
「見張らなくても逃げねえよ」
「そういうわけじゃ...」
「クソライオンの言い付けだろ。 いつもケンカの邪魔ばかりしやがって 目障りだ」
人魚は腫れた頬に大きな湿布を貼付けていた。 やや長い濃紺の髪は地味に結わえられている。 見るからに気の弱そうな薄い紺の瞳。 いつもオドオドと顔色を伺うようせわしなく動く。
「君は何処から来たの? 他の皆と違う感じだし、あの老師様にも よく呼ばれてるみたいだし...」
「知ってどうする。 言っとくがオレはお前らが死ぬ程嫌いなんだよ。 ここの連中は司祭も学生も全員 ひとり残らずだ」
人魚の言葉を早口に遮る。 眼下の街に目を向けたまま、人魚を見向きもしない。
「特にあのマーライオンのクソ野郎。 あいつには反吐が出る」
人魚が眉を潜めた。
「やめなよ。誰かに聞かれでもしたら大変だよ。 ガレイオス様は厳しい方なんだから」
「ああ、ガキでも平気で殺すからな。 あんな奴がいずれここの指導者になるなんざ 正気の沙汰とは思えんね」
「ぼくは...そうじゃない...と思う...」
ぼそぼそと独り言のように人魚が呟いた。
「はん?」
「いや...だってさ 厳しい方じゃないとこういうの 勤まらないんじゃないかな...って」
人魚は己の顔すら見ていない相手を 用心深く覗いてから続けた。
「昔はいろんな種族がさんざん諍いを続けてた。 4つの神殿が各地に設置されて ようやく平和になって環境も整った。 皆が安全で幸せな暮らしを手に入れられた。
それを維持する為にも 公平に統率出来る人物が必要だよ。それに....」
オンディーンは腕を組むと向きなおり 人魚の学生を眺めた。
「続けろよ」
「え....あの...。...うん。
ち...中央で管理してる以上 ルールは守らなきゃ....。
少しくらいは厳しくなっても仕方ないよ。 皆が勝手な事言い出したら ......また戦争ばっかりやってた頃に戻るわけだし....」
「で?」
「多少の犠牲はあっても...」
「ガキひとりくらい気にするな、か」
「そ、そんな!」
「そんな事...ぼくは .....言ってない...」
視線に耐えられなくなって下を向く。
「口に出すバカはいねえだろ」
「き..君こそどうしたいんだよ」
俯いたまま人魚が問いかけた。
「街道の先にある辺境の 街や村を知ってるか?」
「街道の先?地図にはそんなもの.....」
「あるンだよ」
「そんなバカな!あんな荒れた場所に? 妖魔だってうろついて..」
「あっはっは!てめえら一生守られてろよ」
オンディーンが笑いながら歩き出した。 夕暮れは既に夜。暗い階段を降り始める。
「待てよ!ちゃんと教え...」
つんざくような鐘の音が鳴り響いた。 時を告げる音。 耳を塞ぐ人魚。
高笑いもかき消され足早に降りて行く。 鐘の音が全身を包むように追って来る。
「こんな街ブッ壊れりゃいい」
まだ鳴り止まぬ鐘の音。
吐き捨てたその呟きは 人魚の耳には届かない。
苦い酒
「なんの用だじじい」
彼は深海の浜辺を足早に歩いていた。 瓦礫に座る老人に呼び掛ける。 月があり得ぬ海を照らす。
「一杯やらんか」
長い白髭を撫でながら老人が酒瓶を放る。 少年はぞんざいに受け取るとそれを 砂浜に叩き付けた。
「酒に当たるな、たわけが」
老人はやれやれと叩き付けられた酒瓶を拾い上げ 無事である事を確かめる。
仁王立ちで波間に立つ少年。 老人を刺すような目で睨んでいる。
「やれやれ」 「!」
派手な水音。 しっかり立っていた筈の少年の両足は いともあっさり蹴り倒されて 波間に沈められた。
「お前は毎日毎日海に叩き込まれねば 話もできんと見える」
ひっくり返った少年の頭を覗き込むと 老人は深く溜め息をついた。
「話す事なんか」
波間に座り込んだ少年が吐き捨てた。
「聞きたい事もないか」
「.......」
「まあ飲め。 ....っと。 古いと栓も固くてかなわん」
手間どって開けた酒瓶。 老人は先にラッパ飲みしたあと少年に回す。 彼はヤケクソ気味に瓶を呷った。
「ぶはッ!!なんだこりゃ」
ペッペッと口に含んだ液体を 吐き出しながら叫ぶ。
「てめえこの何飲ませやがった!!」
「酒に決まっとる。ま、ちと古いがの」
「こんなクソまずいモンが酒だァ!?」
酒瓶を投げ付けるように老人に戻す。
「うむ。味が変わってしもうた」
「はあ?」
「若い頃沈没船から拝借した極上のワインも 数百年経てばこんなモノかの」
「ワイン?」
「地上の酒じゃ。昔飲んだ時は 旨かったんじゃが」
「いつの話だ」
「100万年程前だったかの」
「ふざけんじゃねえぞ。おい」
「少しは賢くなったか。面白くない」
「...くたばれ死に損ない」
「生憎元気いっぱいじゃよ」
老人が白い髭をプーと吹いて笑った。 少年は苦虫を噛んだような顔で 唾を吐き続ける。
「ちとサバ読んだが年代ものには 違いないわい。酒もわしも」
「まずくて飲めたモンじゃねえよ」
「ああ、全くじゃ....」
老人が別の小瓶を懷から出して再び少年に放る。 彼は匂いと味を確認してから 用心深くちびりと呷った。
波の音。 しばし黙って飲んでいる 老人と少年。 他に誰も見当たらない浜辺。 少年は空になった瓶を脇に置いた。
「おい...」
「なんじゃ」
「....あんたに聞きたい事がある」
「ん?」
老人が呷った手を止めた。
「真面目に聞くから真面目に答えろ」
「ほほう?わしはいつも真面目じゃが」
少年が立ち上がる。 一歩下がり老人に目礼を向けてから口を開いた。
「老師、あんたは誰よりも長く生きている。 年寄りにはそれなりの敬意を払うべきだと思ってる。 その上であなたに訊ねたい事がある」
「...聞こうか」
老人がゆっくりと少年に向き直って立つ。 背筋を伸ばした背丈はまだ、少年より頭ふたつ軽く越える。 少年は丁寧ながら強く問うた。
「何故、多数の人間が死傷した村に たった3人しか出向けなかった? 神殿には被災した人々に対応した組織もある。 海流の女神の慈悲の元にその救いは 無償で受けられる。
司祭や神官達はそう指導していたにも関わらず 何故?」
老人が穏やかだがきっぱりと答えた。
「彼等は規格外じゃ」
「それがてめえ自身の答えかよ!!」
少年が叫んで老人に掴み掛かった。 失望とこんな奴らの慣習に僅かでも従った己を 呪いながら。
「!!」
「動くと首を落とす」
少年が信じられないという顔で老人を見上げた。 自分の首筋には長い刃物のようなものが 当てられている。
老人が刃物を隠し持っていたわけではない。 それは深い皺が刻まれた掌の指3本程を 鋭い刃に変じて少年の首を鋏み込んでいた。
「...殺しやがれ... 今すぐとっととブチ殺しやがれッ!!」
老人は恐ろしく冷たい声で言った。
「お前は子供ひとり 守る事すらできんかったのう」
激しい水飛沫と共に少年は頭から波間に深く 叩き込まれた。
「考えろ」
ひと事だけ言い置いて 老人はさっさと浜辺の外へ歩き出した。 扉をくぐればそこは深い海の底。
幻の浜辺で少年はひとり 泣いた。
頭上には獅子のレグルス。 それすらも遠い幻。
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