草原の満ち潮、豊穣の荒野
目次|前ページ|次ページ
彼はいつもゆっくりと歩いている。 肩で荒く息をしながら ずるずると足を引きずり 壁に手を付け、赤い染みを長く残して 歩いて行く。
毎日、来る日も来る日も。
怒号。 彼の叫ぶ声が聞こえる。
ひとり、ふたり、三人.... 彼を殴っては殴り返され 壁に叩き付けられる学生達。
ぼくは耳を塞いで教室の隅で見ている事しかできない。 彼が動けなくなるまで。 大勢に叩きのめされて 嘲笑の声が遠ざかるまで。
ぼくは臆病者だ。
彼が立ち上がる。 誰もいなくなった教室。 散らばった本、倒された机、椅子。
彼は唾を吐きよろよろと立ち上がりかけ また崩れ落ちた。 腫れ上がった頬と瞼。 彼の表情は全くわからない。
腫れ上がった唇で何かブツブツと呟いている。 ぼくには何を言っているのかもわからなかった。
彼は廊下に出た。 這うように、壁にしがみついて 少しずつ立ち上がって歩く。
ずるずると。
すれ違う神官や学生は皆振り返るが 苦い笑いで彼を追い抜いて行く。
ぼくはやっと彼に近付いた。 壁を掻いた指に手を差し出す。
「さわるな」
ぼくはそれ以上動く事もできなかった。 彼は壁にぬぐった鼻血の染みを 壁に残しながら ぼくの前を通り過ぎて行く。
のろのろと。
彼は顔をあげて歩いて行く。 よろけた足取りで元の歩幅を戻そうと試みながら。
何度となく頭から転倒しながら。
ぼくは近寄らずにおられない。 彼に殴られる事もあるけれど。 ぼくは聞いてみたいんだ。
何故君は.....
彼は決して答えない。 その生い立ちも名前すら語る事はない。
ガレイオス様に彼の行動を報告しながら 彼の事を訊ねてみたが何も答えて下さらなかった。
彼は長い廊下の角を曲がって姿を消した。 いつも彼はそこに辿り着く頃には 立ち上がって歩いている。 何事もなかったかのように。
ぼくは廊下にひとり残される。 彼の見ている世界を ぼくも見てみたい。
だけどぼくには 勇気がない。
|