落ち鮎 |
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2005年09月18日(日) | |
9月になってもなかなか涼しくなりませんねー。 日差しの強い日に外を歩いていると、土の匂いにはっとして思わず足を止める瞬間があります。(サザエさんの予告か) この作品を読んでいる間、それと同じことが起こりました。 土の匂い、草の匂い、雨の匂い、落ちて割れた果実の匂い、 蝉の鳴き声、鳥の鳴き声、木々のざわめき、風の音、 作中に書いていないものまで見える、聞こえる、 というよりも物語がそのまま体内に入ってくるような感覚です。 乏しい想像力を酷使することなく、物語の舞台に立って直接事の成り行きを見つめられる、映画のような、いや、映画以上の体験! ぐっときたのは、やはり士朗の恋心。 「当時おれは、やえのことが好きだった」なんて無粋な書きざまの 10万ボルト倍、胸にせまる感情の昂ぶり。赤いスカーフ! むせかえる夏の暑さと情欲の熱さがシンクロして心を焼きましたね! いつも気づくと見ていて、ついつい観察してしまう。くぅ・・・。 た ま り ま せ ん 。 こういう病気なファンがいるとあれなので、このへんにしてですね それにしても、菅原さんはどうしてこうも、人が生きている時間をごく自然に紙のうえに写し出せるのでしょうか。 かねがね天才とは思っていますが、ときどき不思議になります。 「士朗の記憶のなかのやえは、なぜかいつもぼんやりしたひかりのなかにいる」という一文があります。 誰にでも笑いかけるやえの笑顔、 提灯の明かりに浮き上がったやえの肌、 やえの「ひかり」はいつも士朗の目にぼんやりと映っています。 でも、それは彼女の奥底で燃えるひかりを直視しなかったからではないか。 逃げ場を奪われ見つめられたときも、やえの姿をした狐だったのではないかと思った士朗。 やえの目の奥で揺れる炎、その存在を知っていて、あこがれを抱いていながらも、ずっと見つめることができないでいた。 自分は村を離れるつもりがない、だが、ひとたびその炎をじっと見つめてしまったら、つかまってしまうのではないかと感じていたように思います。 だから知らないふりをしていた。 最後にやえの命の炎を見て、長く続けてきた知らないふりが無意味であったことを知ります。 ラストの士朗の微笑みは、ずっと胸のそこに無理やり沈めていたひかりを陽のあたる場所へ解き放ったように感じました。 いま世の中では「珠玉の」という言葉がそのへんにごろごろしていますが、本当はこういった作品のためにある言葉なのでしょうなあ。 |