Allegro


2004年06月27日(日)

名取義春 -1-

 寝返りを打ったら右腕がやわらかな感触に包まれた。何事かと思って目を開けてみるとそこにはサラと呼ばれている女の子が眠っていて、僕の右腕をぬいぐるみでも抱くみたいにして細い両腕にくるんでいた。いつもの部屋のいつもの居間の、いつもの丸いラグの上で、僕とサラは一枚の毛布を分け合っている。僕はサラのあらわになった胸と腕のあいだから慎重に右腕を抜き取った。サラは小さな胸をふくらませてわずかに鼻を鳴らしたが、目は覚まさなかった。サラの鎖骨の少し下あたりに茶色いほくろが二つ並んでいる。女の子の裸を見慣れているわけじゃないけれど、サラは酔っ払うとすぐに脱ぎたがるので今では誰も彼女の裸を気にしたりしない。
 わずかに痛むこめかみを指先で押しながら僕は立ち上がった。空き缶やお菓子の屑や髪の毛や吸殻の散らばった床の上では、数人の友人たちが各々いびきをかいたり丸まったりしながら眠っている。中には、友人の友人もいて僕はそいつの名前がわからない。けれどもそんなことはどうでもいい、僕にとって重要なのはそこにいるのが誰か、ではなくて、そいつがどんなやつで、何をするか、ということだ。
 何人かの体を跨いで洗面所へ行き、鏡を覗き込んだ。ひどい顔だ、と思わずつぶやいてから髪にからみついたクラッカーのテープをつまみあげた。ばしゃばしゃと適当に顔を洗う。冷たい水が心地よかった。アクリル製のコップに水を汲んで歯ブラシを口にくわえたら、急に吐き気がした。トイレに駆け込んでコップの水を飲み干すと、指を舌の奥に突っ込んで吐いた。
 ゆうべはいったい何の日だったのだろう。よく思い出せないが、結構な量のアルコールを摂取したらしい。ひとしきり吐いたあとで口をすすぎ、再び歯を磨き始める。ごみの収集車が流している音楽が聞こえてきて、きょうが月曜日だと気がついた。
 寝室のドアを開けると僕のベッドではクラスメイトの成田と知らない女の子が頭を寄せ合って熟睡していた。ゆうべ僕がベッドで眠ろうとして寝室を訪れたとき、そこはすでに彼らに占拠されていたのだった。それを邪魔するほど野暮ではないので僕は居間で眠ったわけだが、頭をくっつけ合うようにして眠っている二人の顔を見るとやはり邪魔をしなくてよかったなあと少しだけ幸福な気分になった。
 クローゼットから制服を取り出していると成田がくぐもった声をあげた。「ナトリ? 早起きだな」僕は振り返らずに「もう八時だよ」と言い、寝室を出た。きょうが月曜日だと教えてやったところで、彼は昼過ぎまでは登校して来ないに違いない。


 僕が住んでいるのは学校に近い高層マンションの十一階で、金を湯水のように使うことを自分の正しさだと勘違いしている父親が買い与えてくれたものだ。僕の父親はわりと大きい製薬会社の社長をしていて、要するに資産家というやつだ。こんな僕も中学までは私立の進学校に通って一挙手一投足を家庭教師に監督されていたのだが、十歳離れた兄が留学先で地元の資産家の娘と結婚したのを機に英才教育から解放された。出来の悪い次男坊に無駄な労力を使うよりも、適当に隔離しておこうという方針に変わったらしい。僕の父親は本当に、有り余っている金の使い方が上手いと思う。
 一ヶ月前に拾った猫のクシナダは玄関マットの上で丸くなっていた。「行って来るよ」と声をかけると彼女は目を覚まして僕の足に一度だけ頭をすり寄せ、それから食事の置かれているキッチンのほうへとのんびり歩いていった。それを見送ったあと、ほとんど中身の入っていないデイパックを背負って玄関のドアを開けると、同時に隣の部屋のドアが開いて、中から出てきた女のひとと目が合った。
 頬と唇がふっくらとした、おとなしそうな感じの女のひとだった。幾分そっけない服装だったが、履いている靴はフェラガモだ。年齢は僕と大して違わないように見えたので、おおかた僕のように金の出る蛇口を持っているのだろうと思っていると、そのひとは僕を見て忌々しげに眉を寄せた。ゆうべのばか騒ぎを怒っているのだろうか、と言うよりもばか騒ぎをしたのはゆうべに限ったことではないので、ここぞとばかりに憎悪をぶつけて来ているのかも知れない。
「おはようございまーす」
 次の瞬間、僕は軽快な動作で頭を下げ、エレベーターに駆け寄ってボタンを押していた。相手が怒ったり悲しんでいたりするほど笑顔が上手く作れるのは僕の特技だ。到着したエレベーターに乗り込んで振り返ると、隣人は憮然とした顔のまま立ち尽くしていた。しばらくボタンを押したまま待ったが乗り込もうとしないので、僕は仕方なくエレベーターの扉を閉めた。

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