ゼロノオト

2007年02月24日(土) ことばあそびにおぼれるものはわらわれる

ことば
ことばって普遍じゃない。時代や場所によって変わる。
だから「いまどきの若者の日本語の乱れ」っていう表現は、保守的な見方であって、
その実体は少しだけ加速のついた言語の自然淘汰の一部、なのかもしれないよね、みたいな感じぃ?って思う。
そもそも江戸時代と現代の日本語を比べて、意味が逆転した言葉とかやまほどあるわけだし、今は誤用とされる表現も時代を遡れば正しい表現、ってこともありえるじゃんみたいなかんじぃ。

けどTPOにあわせた言葉遣いっていうのももちろん大事で、
例えば就活の面談でタメ口をきいたりしてはいけない。

余談だが、先輩などに対して「半タメ口」がきけるひとの器用さはうらやましい。
失礼過ぎず、馴れ馴れし過ぎず、堅苦しすぎず、かつ、礼儀正しく、フレンドリー。
こういうひとはすぐに人と打ち解けて、世渡りがうまく、たぶん出世率が高い。


時代によって言葉は変わると書いたけれど、疑問に思っていることがある。
確かに言葉は変わる。良いとか悪いとか関係なしに、変わっていくものなのだ。
その時代を検証するとき、残っている記録に書かれた言葉をみれば、わかるという。
だけど、今だって書き言葉と話言葉が違うように、昔も文献通り話していたか、というと、
そんなことはないのではないか。それとも話し言葉を忠実に記録した文献があるのだろうか。
だとしても、誰もその日本語がその時代のありのままの声だとは知らないのだ。

そんな観点で現代を見回してみると、おもしろいことが目についた。
ケータイのメールやインターネットのブログなど、
とにかく気軽にものを書く機会が爆発的に増えているとおもう。
一昔前の紙媒体の手紙にしても日記にしても、毎日書くようなひとは珍しかったんじゃないかなと思うし
それらを書くにしても、文章の内容や長さとは別の次元で一球入魂的な、性質があったようなイメージがある。
性質、だのと、一般化したような書き方をしてしまったが、自らの経験上そうだったように思う。
遠くの友達に書く手紙とか、一生懸命書いたよ。今の文章を書く姿勢が一生懸命じゃないって言ってるんじゃなくってね。
よーするに、書き言葉と話し言葉の差が縮まっているという面もあるよねっていうお話。
もちろんメールやネット独自の文字文化っていうのが別のところで育っていて、
2ちゃん用語だとか、顔文字だとかみたいに、逆に、話し言葉との距離が離れてくケースも同時存在しているんだけど、(と同時に話し言葉がネット的な言葉に侵されている側面もあったりもするんだけど、)
「今日はディズニーランドに行きました。すごく楽しかったです」って書き方の他に
「今日ディズニーランド行ったんだけどすげえ楽しかったよ」っていう、より会話、話し言葉に近い書き方をするひとが多くなったことで、話し言葉と書き言葉の差が縮まっているように感じたのだ。

書き言葉の大衆化?みたいなぁ?感じぃ?




けれども、メールなどの文章が話し言葉に素直に近づいているともいえないのであり、
そこには話し言葉っぽいメール言葉という新たな奇妙な言語が誕生している。


その人の声が聞こえてきそうなメールを書くひとが、私の周りには何人かいて、
私はそれが大好きだ。

けれど一方で、内容にもよるんだけど、食指のまったく反応しない類の文体があるのも事実。
かたっくるしく書けばいいってもんでもないけど、
"ちゃらい"絵文字多用のメールやブログは…。

だけど、そういうちゃらい日記をわざと書いているひともいて、
そいつらは、テスト前に「全然勉強してないよ〜」
といいながら、なにげに良い点をかっさらってくタイプだ。

そんなひとの前でこういう意味も目的もないような駄文をわかったふうに書き連ねる僕は恥ずかしさのあまり穴があったら入りたい気持ちになるときもある。

あいにく隠れられそうな穴もないし、穴を掘るのも面倒なので、このまま書き逃げします。イエーイ!




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