うわの空日記


ワルシャワに暮らす主婦ゲラッチの日常です。

2005年03月06日(日) ちびくろサンボ

この数日間で、私が巡回してるウェブ日記でちびくろサンボの復刊に関して触れてるのがいくつかある。

実は私、去年の5月にすでにちびくろサンボについて日記に書いてるんで、先取り感を満喫したりして。
それにしても去年の5月の時点で復刊の話はかなり進んでたはずなのに、結構時間かかるもんなんだねー。

ただ日記をいくつか読んで気になったのが、何人かの書き手さんが「ちびくろ」に問題があると思っているらしい事。
いやいや、問題は「サンボ」なんだけどねー。あと、黒人の子どもの描写か。

とは言え。差別用語ってのは難しいモンですな。
「言葉だけ変えても差別はなくならない」って考え方も「言葉が思想を作る」って考え方もどっちも正しい気がしちゃう。言ってることは180度正反対なのに。

しかも差別について考える場合、被差別者の言い分が100%正しいかと言うと、そんなことは無い。長年の被差別経験のせいで感情的になりすぎてる人だっているだろうし。というか、そもそもこれは正しいとか間違ってるとか、そういう問題なのか?ってな気もするし。
かといって被差別の経験って第三者が客観的に判断できるもんでもないし。

更に複雑なのが、差別用語を自己解放に遣う人達。これは発想の転換としてはすごく意味のある事だと思うんだけど。
例えばゲイの人達。
ナチスドイツが強制収容所でゲイを振り分ける時に使ったピンクの三角印ってのがあって、これはゲイの目印として使われてたんだけど。
このピンクの三角を自ら身に付けて
「私はゲイです。文句ある?」
って開き直り。いつまでも被差別者ヅラしてないで、差別の象徴として遣われてたものを自己解放=被差別者からの脱出として遣う。
少なくともアメリカでは今、ピンクの三角形って差別アイテムでは無い事を考えると、これは成功例だと思う。

そこで困るのが、被差別者の間でもコンセンサスがしっかりしてない時。
困ると言うか、問題を複雑化させてるって意味ね。
被差別者が全員「逆にこれを遣って被差別意識の脱却を図ろう!」って言ってくれればいいけど、そう簡単に事は進まない。

アメリカで言ったら「ニガー」って単語がそれにあてはまるかな。
自らを「ニガー」と言い放って自己解放の道を探る人達と、「ニガー」という言葉(=意識)と戦ってきた自分たちの同胞(というか、先代)を思う人達。
確かに自分の両親や親戚が過去何十年にも渡って「ニガー」って言葉を遣わせないようにありとあらゆる努力をしてきて、やっと勝ち取ったと思いきや、別の黒人が自らを「ニガー」って呼んでるのは複雑な気分だろうしね。

それを考えると、
「黒人がTVでサンボについて○○だと思うって言ってた!」
てな意見は全然参考にならない。
差別問題に関して被差別者の発言が絶対的なものなのか。
その黒人の発言は他の被差別者のコンセンサスを代表してるのか。

と、言うわけで結論。
差別問題は難しい。私の日記でまとまる程度の問題ではないって事だ。


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