叔父の思い出
3月に叔父が亡くなった。
長い間、癌を患って逝ってしまった。

叔父は誰でも知っている企業の執行役員から、グループ企業の
社長を経て退職した。

私が大阪の会社に勤めていた頃、偶然道で叔父に会った。
お茶行こうや!と言われたけど、新入社員で内勤の私は行けなかった。

私が東京にいた頃、叔父も東京に赴任中だった。
電話をくれて生活は大丈夫かと聞いてくれた。
貧乏やけどなんとか生きてる、楽しくやってると話すと
「一杯のかけそばみたいか?清貧なんやなあ」と笑った。

食事に誘われ、丸ビルの1階で待ち合わせした。
ねぷた祭の武者絵が天井に飾られているのを見ながら
待っていたのを思い出す。
叔父は青山から品川に引っ越したと言った。
会社が借りた部屋は、青山が100万で品川はもっと安い
新幹線も止まるし、これからは品川がいいぞと言った。

父と叔父は10歳違いだ。
父が叔父の大学費用を出したと聞いた。
ずっと父が叔父の親代わりをした。
私が幼稚園に入る前は、大阪市内の大きな家で一緒に暮らした。
私が生まれ、祖母が私に夢中になると
「俺のおかあちゃんや」と拗ねたそうだ。

祖父母と私たち家族が大阪の郊外に引っ越すと独身だった叔父も
一緒に住んだ。
叔父が結婚して独立すると、叔父の部屋が私の部屋になった。

叔父がヨーロッパに出張した時に、ロイヤルドルトンの
ティーセットをお土産に持ってきてくれた。
私はほわんとした花柄が好きになれなくて、子供の学校の
チャリティに出してしまった。

私の最初の結婚の時は、好きな家具を買っていいと
連れて行ってくれた。
その頃、タイルの入ったスペイン家具に夢中だったが
金額を見て欲しいと言えなかった。
代わりに、チェスト3竿、洋ダンス2竿をお願いした。
今もチェスト2竿は使っている。
他は、離婚の引っ越し、その後の引っ越しで手放してしまった。

叔父はおもしろい。
レーシック手術が流行る前に、手術しに海外に行った。
よく見えるぞー、おまえもやってこいと言った。

叔父は講釈が好きだった。
偉そうに語るが、兄弟で一番下だから
話し終わる前に「そんなん知ってる!」と
みんなに遮られるのが決まりだった。

妹の死のすぐ後に祖父母の50回忌法要があった。
今までなら、家のことは全て父がやっていた。
叔父は癌で苦しい身体なのに、父に赦しを請いに来た。
今回は自分がやりたいと言ったそうだ。

妹の死は伏せられたままで、読経が進み、私は爆発しそうだった。
一緒に弔ってもらえと言いそうになり堪えるのに苦労した。
法要後の食事は、上本町のシェラトンだった。
叔父の顔色は悪かった。
身体も辛そうだった。
久しぶりに親戚が数十人集まり、叔父は挨拶した。
その時の映像も私の宝物だ。

コースにない料理やデザートを、叔母の主導で次々に注文する。
うちの親戚は遠慮を知らない。

私は怒りのやり場を普段飲まないビールにぶつけ
中座して外に出ようとすると、叔父がいた。
叔父の顔を間近に見た途端、泣き出してしまった。
叔父は「泣くな」と一言だけ言った。
そして、私にお小遣いを手渡した。

Face Bookに私が写真を投稿すると、叔父はすぐに「いいね」
してくれた。
闘病中なのに、ずっと見守ってくれてる気がした。
叔父に見てもらいたくて、写真を投稿した。
父は忘れていたのに、叔父は私が写真を撮ることが
好きなのを覚えていてくれた。





2021年06月24日(木)

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