2004年06月16日(水) |
1999年 摂食障害発病 |
私が摂食障害になったきっかけは例に漏れずダイエットだった。
1999年 当時高校一年生。
中高一貫の学校に通っていて緊張感も現実味もなく高校生になった。 人間関係がうまく行ってないなかったけれど大好きだったバレーボールを続け、 お弁当も変わりなく作って登校してた。
部活での人間関係に期待をするのをやめバレーが出来ればいいやと感じ始めていた頃、 私のプライドが高いところ、不安定なところを見透かされてか コーチと顧問から冷たくされるようになった。 私はそういうのがとても苦手で干されるのが続きバレー自体が、部活の時間が苦痛になり部活を辞めた。
朝5時半に起きてお弁当を作って朝練をし、早弁して昼練をし、午後練習をするという事を続けていた私に空白の時間がたくさんできた。 暇で、テレビを見たり勉強するようになった。 そして晩御飯を作るようになった。 料理をするのは好きだったし、おこづかいがもらえた。 人に食べてもらうというのはとても満足出来る事だった。 家族の中で役立つ自分に満足出来ていた。
女子校だからか、ませてるのか年頃なのか、他校と交流のある子が何人かいて、 彼氏が欲しいだの、男友達が欲しい、ときめきが欲しい、合コンしたいだの、そういう話になり ある日他校の男子校と合コンなるものをした。 16、7歳の高校生がその頃する合コンとはお酒が入らず,ただカラオケに行ってプリクラ撮って・・・という絵に書いたような事をした。 合コン自体は非常に居辛いモノだった。 人見知りで,相手は周りにいない同年代の異性。合コンという、とても恋人作るゾ!の会には私には合わなかったらしい。 それでも少し気になる男の子が出来た。 何回かみんなで遊んでるいる間にその気になる男の子と付き合うことになった。
当時は流行がPHSから携帯へ移動している頃だったけれど、 私には必要ないと持たせてもらえなかった。 確かに危ないからという理由で持たされる事はなかった。今と時代が違う。 全国的にどうかは知らないが、クラスでも3割ぐらいしかもっていなかった。 もともと人とコミュニケーション取るのを苦手とする私は携帯を持っていなかったらもっと取り残されてしまうだろうという不安を薄っすら感じていた。
『彼氏』の事は母には話さなかった。 学校の出来事をあれやこれや話す仲ではなかったから必要ないと思ったし 私にも初めての彼氏だったからどうすればいいのか分らなかった。 月並みに,母には「友達と遊ぶ」と言って出かけ、友達と遊んだ帰りぐらいに家に帰った。(夜遊びしてないよ)
手帳に日記もどきを書いていた。 それまで学校の人間関係で埋め尽くされていた内容が付き合ってる人への気持ちや出来事について書かれるようになった。 私だけが楽しむ内容で調子に乗って色んな事を書いてた。 ある日、手帳を広げて出かけてしまったらしい。 不覚だった。 母に見られた。 母はすぐに男の子と仲が良いのか問いただしてきた。 人のプライベートを覗かれ、怒りより先に恥かしさがこみ上げてきた。 そして母は私の行動を制限させるべくルールを命じた。 男の子との接触の制限、門限7時。
「その男の子と会うのは否定しない。 けれど『手を繋ぐのさえダメだ』 『晩御飯は家族で食べるモノだ』」と。 恥かしさの後に怒りがこみ上げてきた。
親だからといって子供の手帳を見るのはどういう事だ。 自分は仕事やら友達に会うやらで最近じゃ晩御飯はみんな一緒に食べてないじゃないか。 都合の良い時だけ「家族」という言葉を利用するな。 そう思った。
怒りを爆発させ反抗した。 が、母は譲らず私は翌日から門限を気にするようになった。勉強を今までよりするようになった。 門限を守らなかったら、いい子でいなかったら・・・母にこれ以上ルールを決められ窮屈に思うのは嫌だった。 不自然に不思議な空気の中、家族で食卓を囲んだ。
早起きして学校に行き、ぼーっと朝拝を聞いて 好きな授業は熱心にノートを取りつつ先生に質問をして 嫌いな授業は適当にノートを取って考え事をしたりその日食べた・食べる予定の物のカロリー計算をして 小テストをしたり、 友達なのかただのクラスメートなのか分らないけど、学校で他の子と他愛もない話をして。 学校から帰るとステッパーで運動し、宿題をし、家庭教師に勉強を教わった。
家庭教師に勉強を教わって、今までよりも勉強したわけだけど 成績は中の中ぐらいになっただけだった。 数学はクラスの上の方・体育は上位だった。
虚しかった。 「友達」って何?クラスメートに、学校に「友達」はいる?心を許せる人はいる? 他愛もない話をして、毎日小テスト。 人間関係も家族もよく分からなかった。「彼氏」の存在もよく分からなかった。 何も自分に自信を持てなかった。 バレーをやってる時は一心不乱でやっていて、でもそれもなくなっていた。 何か自分の自信を持てるものが欲しかった。
ダイエットを始めた。
中学の最後の方から健康的な食べ物を好ん食べた。 油はなるだけ取らない・白米も少なめに。 日に日にエスカレート。体重は変わらない。 ある日、晩御飯を抜いてみた。お風呂は半身浴。 次の日体重計のメモリが減った。 驚いた。 今まで絶対越えられない壁を越えられたのだ。 嬉しかった。 翌日も晩御飯を抜いた。 体重は変わらない。 翌々日も。 また体重が減った。 味をしめた。
お弁当を食べるのをやめた。 自分でコーヒーを作ってポットに入れて持っていった。 朝ごはんはきゅうり。お腹が空いたらこんにゃく。 晩御飯を抜いたり、お弁当を持っていかないというのは罪悪感は感じなかった。 家の食生活の管理は私がしていたからそんなものは感じなかった。 家族のお弁当や晩御飯は作っておこづかいを稼いでたけど食べない事で咎められなかった。 体重は面白いように減って一ヶ月で5㌔痩せた。 途中、痩せた私に気がついたのか母がカロリーブックを渡して来たがそれは絶食ダイエットに拍車をかけるだけだった。 クラスメートも私が痩せた事に気がついた。 「痩せたねぇ!」 嬉しかった。誇らしかった。私はやってやったんだゾ。そう思った。 ダイエット前、私は肥満ではなかった。普通体型。 クラスメートからはバレーで鍛えてる分、筋肉質で顔が丸い分ちょっとぽっちゃりと思われたのかと思う。 自分では他の子に比べてぽっちゃりしてる自分が嫌だった。 5㌔痩せて、それでも普通体型だけど絞られた と思った。
ただ、半身浴が終わったら体の関節が痛かった。 睡眠時間もかなり減った。 疲れやすくなった。
ある日、学校で文化祭があった。 「この日は特別」と昼食を友達と取った。 更に、「特別」は続き友達とパンを一個食べた。 久しぶりに食べる感じがした。 「もう一個食べたい!」心が強く欲求した。 「明日絶食すれば体重はキープ出来る。『今日は特別』」 そう言い聞かせてもう一個パンを食べた。 満腹にならないどころか「もう一個!」心がまだ欲求する。 「うーん。明後日も絶食すればいい。今のこの欲求を我慢出来ない」 友達の目もいつもより気にならない。もう一個手を伸ばした。
その日から「食べたい!」欲求を我慢出来る事が少なくなった。 その欲求に応えるには絶食を条件にした。 どんどん私は壊れていった。手に取って分かるように壊れていった。 誰にも相談せず、する人もいなく、する気もなく。 体重が減らないどころか増えるのが怖くなった。キープするのが精一杯だった。 一度食べ始めると止まらない。 お腹一杯にならない。 食べ過ぎたと思いっきり後悔する。 少ないながら食べないと体や脳みそが動かないような気がして それなら朝食べて消費してしまおうと、朝ごはんに甘くないシリアルを食べるようになっていたけど 足りなくて、牛乳と一緒に食べるわけではなく、台所に座り込んで戸棚のシリアルをそのままむさぼったり 食パン一袋を食べきったり。 自分をコントロール出来ない。太りたくない。なんで?おかしい。 母に泣きついた。 「お腹が一杯で気持ち悪い。今日は学校を休ませて」 渋っていた母に無理やり学校へ電話してもらって休むようになった。 それが週に1日から2日3日、4日に増えていくのは早かった。 学校を休めてほっとした。あの空間は息苦しかった わざと過食をして休む日もあった。 その代わり学校に登校した日は授業についていくのに必死だった。 学校を辞めたいと思った。 いや、中学から辞めたかった。他の学校を受験する勇気や私立という肩書きは惜しかった。 自分をコントロール出来ない。太りたくない。 母に病院に連れて行って欲しいと頼んだ。 母は困惑した顔で、それでも数日後には母の知り合いの紹介で精神科クリニックに連れて行ってもらった。 診断は「摂食障害」。 安堵した。病名がついた。この異常なのは病気なのだ。 医者は胡散臭く、カウンセラーは優しそうなおばさんだった。 カウンセリング中心で通院する事になった。
中退したいと思い始めた。そして母に訴えた。 母は困惑した顔を見せた。 私の気持ちは固まっていった。こんな子達ともう無理して付き合わなくていい。やり直しだ。やり直せる。 丁度冬休みだった。 過食三昧の年を越し、世間はミレニアムだと騒いでいた。
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