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yagレーザー治療

2024年12月06日(金)

昼夜問わず、体調不良を訴えては私を呼ぶようになった母。
仕事を休んでかけつけて受診しても、どこも悪いところは見つからず。ただ食欲がないため、採血で栄養の値が低く出ていました。

飛蚊症さえなんとかなれば、元の母に戻るかも……と思い調べたら、まだ保険適用はされていませんが、YAGレーザーという飛蚊症へのレーザー治療があることがわかりました。

まだ全国でも数カ所の眼科しかその治療法を取り入れていないのですが、たまたま母の住む家から小一時間の場所にレーザー治療をしている眼科がありました。
自費診療になりますが、これで母が元気になるのなら……と、藁をもすがる思いで受診。

とてもいい眼科で医師もスタッフも親身に話を聞いてくれました。
白内障の手術をした時のようなベルトコンベア的な流れはいっさいありませんでした。

2回にわたってレーザー治療をしてしばらくすると、飛蚊症の症状がほぼなくなりました!すごい!

これで母が元通りになる……、と思ったのが甘かったのです。

おやすみ。


白内障の合併症?

2024年12月05日(木)

母の体調が悪くなったことの発端は、白内障手術でした。

「ひとりじゃ不安だから、ついてきて」

今年の4月ころ、母に眼科付き添いを頼まれました。
母の住む町の眼科に行き、いっしょに説明を聞きました。

詳しくは言いませんが、この時の医師の説明や眼科クリニックのスタッフの応対に、一抹の不安を感じました。
この時、反対しておけばよかった……。

結果として、白内障手術のあと、飛蚊症を発症しました。
飛蚊症は、言えば老化現象のひとつで、年を取れば誰にでも出てくる症状なのですが、母の場合、白内障手術のあとにいきなり「蚊」のような黒い物体が目の前を飛ぶようになったのです。しかも他の眼科で見てもらったところ「これはひどく濁っていますね」と驚くほどの症状でした。

それから、母は変わりました。
暗くすると、飛蚊症の症状が軽減することを覚え、昼でもカーテンを閉めて部屋をまっくらにしたり、がんばって買い物に出かけても、「虫が私の目から出てきて、ほかの人のシャツに止まっている。どうしよう」と電話で相談してきたり。

眼の中の濁りで、慣れるしかない、と説明して一度は納得しても、やはり同じ質問をしてきます。

手術をした眼科を受診しても「老化なので気にせずに」と一笑されたとか。
あぁ、やはりこういう対応の眼科だったのか……。
これが、私の最初の後悔です。

そのうち、食欲がなくなり、料理好きだったのに料理もできなくなり……。
どんどん痩せてみるみる元気がなくなっていったのです。

続きはまた明日。

おやすみ。


母親

2024年12月04日(水)

午後から、母の入院している病院に行ってきました。
10日ほど前に救急車で運ばれて、生死をさまよいましたが、なんとか生き残りました。

「早くて、命、あと数時間。これは、大変」

当直の中国人の医師からたどたどしい日本語で告げられました。
最初は、「この人、大げさだな」と話を聞いていましたが、ストレッチャーに寝かされ酸素マスクをしている母の土気色の顔を見て、ショックを隠せませんでした。

会わせたい人がいるなら呼ぶように言われ、母の兄弟姉妹に連絡を取りました。
山登りに行っていた長男を夫が迎えに行きました。
次男坊は最初から私に付き添ってくれていました。

母の体調がおかしくなったこの5月から。
何度も救急搬送されましたが、とくに何も見つからず。
母も自ら救急車を何度も呼ぶため、119の常習犯のような扱いになり、入院もできず返されることがたびたびありました。

自宅での生活が困難になり、ショートステイを利用して入院できる病院を探していたさなかに、急変しました。
ショートステイ先の看護師さんが、「いつもと違う病院に搬送しましょう」と言ってくれて、今に至ります。

病院に4日間ほど泊まり込みで付き添いをしました。
その間に、命の危機は脱しましたが、みるみる認知症がすすみ、別人のようになってしまいました……。

今日、面会した母も「かつての私の母」ではありませんでした。
でも、もう少し病状が回復すれば、かつての母に戻ってくれるのでしょうか。
家族としての勝手な期待です。

「暗くなる前に、早く帰り」

面会に行くと、母はいつもそう言います。
母は、どんな状態になっても、「母親」なんだな、と思えるのです。

おやすみ。


ごぶさた日記

2024年12月02日(月)

何年ぶりでしょうか。
エンピツ日記。

これまで、いろんなSNSを試しました。
mixiだったりfacebookだったり、インスタやブログなど、いろいろ試しました。
それなりに楽しんではいたのですが、エンピツ日記のように気軽に書けなくて、だんだんと遠ざかってしまいました。
とはいえ、年に数回、子どもの誕生日やイベントがあって気が向いたら投稿はしています。これからもそんな感じで続けていくと思います。

で、今、なぜエンピツ日記を思い出したのか、と言うと……。
日常の中で、こっそり、でも確実に残しておきたい感情や出来事がたくさんあることに改めて気づきました。

エンピツ日記、再開します。
でも、続くかな。

自信はありませんが、なんでもない日常を書き留めていきたいと思います。

おやすみ。


ごぶさたしています

2022年01月24日(月)

久しぶりにエンピツ日記にログインしました。
何年ぶりでしょうか。
もう日記の書き方も忘れてしまいました。

日記を書かなくなったのは、まさに家事、育児、仕事に追われて時間がなくなったから。
けっして書くのがいやになったわけではありません。

簡単に近況を報告します。
あれから、勤めていた病院を辞めて透析クリニックに転職、数年働き、今は訪問看護師をしています。

子育てはまだまだ続いていますが、赤ちゃんのころに比べたらだいぶん楽になりました。
あくまでも、比較して楽になったというだけで、大変なのは大変です。

今日はこのへんで。
また、これからちょこちょこ日記を書いていけたらいいな、と思います。

おやすみ。


大往生

2015年03月06日(金)

いわゆる「施設」に入ってもう20年近くなる祖母を訪問すると、いつも大声で笑ってくれました。

 わはははは

と笑い、少し静かになり再び、

 わはははは

と笑いまいした。
ずいぶん前から重度の認知症ですが、でも笑っている祖母に会えるので私はたびたび祖母の施設を訪れるのが好きでした。

祖母は私が生まれたころからそばにいました。
私のアルバムには祖母がそばにいる写真が多く貼ってあります。
祖母と兄と公園で遊んだ記憶がたっぷりあります。
幼いころから、私と兄のそばに祖母は寄り添ってくれていました。

若いころ、奉公していたときのこと、戦争時代のこと、敗戦のときのこと、おじいさんと結婚したときのことなど、私の知らないことをたくさん教えてくれました。

いつしか認知症がすすみ徘徊をしだして警察のお世話になることも何度かあり、やむをえなく施設に入所することになりました。
こういう歳のとり方もあるんだな、と私に教えてくれているんだと思いました。

私が高校1年生のときから、祖母との二人暮らしが始まりました。
お弁当に必ず入っていた紅しょうが。
母より上手だったオムレツとポテトサラダ。
白菜の浅漬け。
年末に作るおもち。

朝、私を起こす声。
祖父のお仏壇に供えるごはん。
飼い猫の「太郎」に語りかけるときの柔和な瞳。

祖母との思い出はまだまだたくさんあるけれど。
あるけれど……。

先日、祖母は亡くなりました。

享年100歳。
大往生でした。

私が大学受験のとき、祖母に言いました。
「私が一生懸命に勉強してずっと養ってあげるから長生きして」
養ってあげたわけではないけど、長生きしてくれました。

「若いころの苦労は買(こ)うてでもせよ」
一人暮らしを始めて寂しくてたまらなかった私を慰めるために、よく言ってくれた言葉です。
今も身にしみています。

私が遅まきながら「ひ孫」を連れていったとき。
誰がきてもわからないくらいひどい認知症なのに、私の生後11ヶ月の長男の顔を見たとたんに、
「あぶぶぶぶーー」
と赤ん坊をあやしていたおばあちゃん。



親戚が集まりました。
涙のない葬儀になりました。
ありがとう、の言葉に満ちた2日間でした。

幼いころから私を知るかけがえのない親族が、長男と次男坊をあやしてくれていました。
そっか。
こうして、世代は受け継がれていくんだ。
万が一、私がいなくなっても、この人たちがこの私の宝物たちを気にかけてくれているんだろうな。

いえ、私は長生きする予定です。
わが子たちが巣立つまで。
できれば、孫の顔を見られるまで。

おばあちゃん、約束、するね。
ありがとう。


もう少し

2014年11月12日(水)

「太郎を眠らせ 太郎の屋根に雪 ふりつむ
 次郎を眠らせ 次郎の屋根に雪 ふりつむ」

三好達治の詩だったと思います。
小学校か中学校のときに国語の授業で習いました。
当時は「別々の家や離れにこどもたちが寝ているんだなぁ」と安直に考えていたけど、今はなんとなくこの詩の意味がわかるような気がします。
気がするだけで、うまく表現できません。
ただ、共感するだけ。

詩や短歌って、作者の心のほんの一部に触れただけ感動します。
それが、好きです。
だから私も短歌を詠み始めたのかもしれません。
私の心の一部でいいから誰かと共感したかったのでしょう。

三好達治、あまりよく知らなかったけど、もう少しよく知ってみようかな、と思うのでした。

久々のエンピツ日記、読んでくれてありがとう。
こうしてときどき、こどもたちがおだやかに眠ってくれた夜は、日記を書き進めていきたいと思います。

おやすみ。



2014年03月29日(土)

去年の4月、ふたりの息子を保育園に預けました。
それまで通っていた週に3回の保育園とは違い、集団生活を強いられます。
だいじょうぶかな、情緒不安定になったらどうしよう。
そんな、親の心配とはうらはらに……と言いたいところですが、案の定、長男、情緒不安定になりました。

それでも、そんなことにかまっていたら働けません。
働かないと、この子たちが将来、困るのは目に見えています。

心を鬼にしてなきじゃくる子どもたちを保育園に預け、お迎えに行くと満面の笑顔で走りよってくるわが息子たち。

息子が入院しても付き添うこともできず仕事に行き、これって親としてどうなのよ、と思うことしばしば。
そんな心苦しい1年が過ぎてようやくわが家らしきものが建とうとしています。

それもひと悶着もふた悶着もありそうなのですが、それでも、家族に住む家。

完成を楽しみに待っているところです。

長男、次男坊、ともに新しくできるわが家で、のびのび育っておくれ。



2014年02月06日(木)

次男坊、原因不明の熱を出して1週間。
原因不明……というわけではないのですが、インフルエンザでもなく風邪薬も効かず、熱が上がったり下がったり。
はてさて、この先どうなるのでしょう。

おやすみ。


登りたい

2014年01月12日(日)

今年も明けてもう半月が経とうとしています。
この日記を読んでいただいている皆さま、前年に変わりなくお付き合いくださいませ。

今年はまたいろいろと変わることが多い予定。
またそのつど報告していきます。

とりあえず、長男・次男坊は元気にしています。
私は相変わらず育児、家事、仕事に追われています。
自分の時間は今は育児に費やす時間……と思うようにしていたけれど、夜、睡眠の時間すらありません。
でも、それも「今」だけのこと。
あと数年したら、懐かしい日々になるのでしょう……(たぶん)。

今年はひとつ、山に登りたい。
どこでもいい。
日帰りハイキングでいい。
六甲から有馬に抜ける道でいい。
生駒山で山上遊園地でもいい。
摩耶山を途中からケーブルで登ってもいい。

山に登らなくなってもう4年。
毎週のように山に行っていた私。
禁断症状は、もうとっくに過ぎていますが、ときどきむしょうに山に登りたくなります。
それとも、もう、山からは遠ざかったほうが、いいですか?

おやすみ。

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celeste [MAIL] [アルバム「紺と碧」]

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