別に元からこういう感じなら、ハナから敬遠するのですが、中学の頃から断続的に話をしていた印象はそうではなかったので今も会ってしまうわけです。大学に進学する前の彼女は後者の意味で、もっと「ふつう」だったように思います。
中1の頃、夜眠りについて、そのまま死んでしまったらきっとわからないだろう、眠りにおちるということは怖いことだ、というような作文を彼女が朗読したのをよく覚えています。
妊娠っていうのは、違う生き物にある日突然身体を乗っ取られるということだし、狐憑きなんかとどこが違うものか、といった話をしたのも楽しかったものです。
自分の身体のままならなさへの恐怖というところが、私には新しく、とても面白く感じました。人の興味が変遷するのは当然だけれども、当時のように人にわかるように話してくれたらと思えてしょうがないのです。馬鹿にされて悔しいのだか、悲しいのだかわからないけど涙が出そうになります。
でも恐怖というのはそんなに簡単になくなるものでもないのではないか、と勝手に思っています。そして、後者の意味で「ふつう」の感覚だからこそ、私は共感もできたのでしょう。そうした歴史を一足飛びにして、見た目の奇抜なものに飛びついて、恐ろしい自分の身体から、「ふつう」の自分から、なんとかして遠ざかろうとしている気配を感じるのです。
彼女の関心を見た目の奇抜さとしか表現できないところ、劣等感の裏返しで哀れんでいるのだろうと言われたら反論できないところ、など自分の理解力の限界のためもあるかもしれません。この世の中には「変」と言うほかない、わかりあえない人もきっと存在するはずです。ただ、もし彼女が「ふつう」の二つの意味を分けずに嫌っているのであれば、少し考え直してはくれないか、と思います。
そしてもう一度、普通に話せる友達になれないものでしょうか。
こんなキレイ言を言いつつ、私も相当棘のある発言を繰り返していたのは否定できないところです。私はもう少し大人にならなければなりません。
ともかく、この一件から見えてきたことは、私がこれから考えなくてはいけないのは、(3)(4)それぞれの「ふつう<変」の布置であるということです。なぜ自分はつまらないと感じさせられるのか、という問題です。
また、このように刺々しい付き合いがある一方で、優しい気持ちで付き合える(ひょっとすれば現在唯一の)存在である恋人の大きさが、改めて身に沁みてもくるのでした。
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