色なし鉛筆
もくじ|昨日
「あのひと、いつか殺るよ」
そう言われていた。
鈴木さんは生まれついての殺し屋だった。だから彼が本気になったら殺せない人なんていなかった。どこの大統領だって、どこの格闘家だって、どこの仙人だって、鈴木さんが本気になったら殺れない人なんていなかった。
でも鈴木さんは、殺ったことがない。
「鈴木さんは、ほんとうに人殺しなの?」 「らしいね」
そう答える鈴木さんは、わたしにはただのサラリーマンにしか見えない。生まれついてのサラリーマン、それがわたしのもっている印象である。でもやっぱり違うらしい。昨日も鈴木さんといっしょに電車に乗っていたら、横のおばあさんがちらちらと鈴木さんを見ていた。そして鈴木さんがこくこくと居眠りを始めたとき、わたしに言ったのだ。
「お姉さん、あんた、横のひとと知り合いかい」 「ええ」 「すごいひとと知り合いだね」 「そうですか」 「あんた、分かってるのかい」 「何をですか」 「とんでもない殺し屋さんだよ、あんたの横にいるそのひとはね」
ときどきこうやって、誰かがわたしに鈴木さんが殺し屋であることを告げにくる。けれど彼がどういう殺し屋なのかは分からない。だいたい彼は部屋に銃もなければ、ナイフだって置いてない。こんなひとが殺し屋になれるとはとても思えない。腕力だってわたしとたいして変わらないくらいだ。わたしはけっこう、強い。
でもそんなことは関係ないと、人は言う。
「殺しっていうのは、そういう力じゃないのよ」
公園で女子高生がわたしに教えてくれた。
「殺しの技術っていうのは、腕力でもなければ、銃の扱いに長けてるってことでもないのよ。それはあくまで『人を殺す技術』なの。ほかの何かと比べようったって無理。彼は単にうまく『殺せる』のよ。世界の誰よりもうまく殺せる」
だからわたしも今ではきちんと、鈴木さんがほんとうに殺し屋だということを知っている。ときどき得たいのしれないひとたちが鈴木さんに依頼を持ち込むのも目にしたことがある。もちろん鈴木さんはすべて断っている。
「申し訳ありません。僕はとても、そんなことはできないです」
でも鈴木さんだって知っている。自分が誰よりも優れたおそろしい殺し屋だということを知っている。ただ彼は、いつその力を使うかをはかりかねている。
「鈴木さん」 「なに」 「いつ殺すんだろうね」 「わからない」 「どうやって殺すんだろうね」 「とても思いつかない」 「けど、やるんでしょ?」 「たぶん」
わたしは鈴木さんが殺すのが、自分なのかもしれないとときどき思う。いつかわたしは鈴木さんを嫌いになり、そうして鈴木さんがわたしを殺すのかもしれないと想像する。そしてときどき鈴木さんにその空想をしゃべろうとする。
「ねえ、鈴木さん」 「なに」
でも、やめる。
「なんでもない」
言ったらいけないような、そんな気がしてわたしはやめる。
私は近頃、ブログで検索をかけています。
「○○○」「○○」「○○○」
ここに入る言葉は、あるひとの職業だとか、今日やったことだとか、そんなことが入ります。私は誰かの日記を探しているのです。
もちろんそのひとがブログを書いている可能性は低いです。いえ、たぶん書いてないでしょう。でも探さずにはいられないのです。もしかしたらあのひとが日記を書いているかもしれない。そうして私のことを書いているかもしれない。
そう思うと、私はあのひとの書いた、あるはずのない日記を探してしまい、何時間も過ごし、酷く疲れて、後悔しながら眠れぬ床に就くのです。
小さい頃は、記念日なんてあまり気にしませんでした。 クリスマスだとか、お正月だとか、誕生日だとか。 そんなのってまるで気にならなかった。そういうのを気にすることが、かえって子どもっぽいと感じていたのでしょう。子どもは子どもであるほどに、子どもっぽく見られることを嫌います。もしかしたら「子どもっぽさ」を演じられるひとほど、人気のある子どもなのかもしれませんけど。 じゃあそういう子どもが大人になると、さぞかし大人っぽい人間になるだろう、と思いきや、案外そうはなりませんでした。 わたしはいま、記念日というものをたいそう気にする人間になってしまいました。 今日は七夕です。 普段会えないふたりが、一日会える日です。 しかし、わたしはやっぱり、オトナコドモです。わたしが考えるのは、一年ぶりに出会えたふたりの笑顔ではありません。一年ぶりに会っている牽牛と織姫の隣に住んでいたであろう、ひとりぼっちの人間です。 今日は、七夕なんです。
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