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2005年10月01日(土)  傷 

 先生が「ネズミは苦手だ」と言うので、新入りペットのハムスターたちの話は、なるべく避けるようになった。
 主に猫の話をする。
「昨日ね、先生。わたし、クマちゃんのキャットフード入れてあげるの忘れたまんま寝ちゃったの」
「ふぅん、それで?」
「クマちゃんね、きっと、よっぽどお腹が空いたんだと思うよ。テーブルの上に出しっ放しになってたじぃちゃんのおつまみの牛肉の薫製をね、箱から引き出して、袋破いて、そこら中引きずり廻して、食べちゃったみたい」
「あらら」
「今朝ね、クマちゃん、お腹こわしてたよ。びちびちウンチだった」
「まぁ、かわいそうに」
「うん。おまけに、ばあちゃんには叱られるし」
「さんざんだ」
「そう、さんざんーっ」
「笑いごとじゃないでしょ」
「はぁい」
 先生は、「一度クマちゃんに会ってみたいなぁ」と目を細める。
 グリーンイグアナの話もする。
「昨日、脱走したよ」
「だれ?」
「イグアナさん」
「ええぇー!」
「ベランダ中、探したらね、エアコンの室外機の上で、ひなたぼっこしてた」
「わはは」
「どこか他所のお宅に迷い込んだりしてたら、どうしようかと思っちゃった」
「驚くよねぇ」
「うちのご近所って、お年寄りが多いから」
「心臓発作起こしたりして」
「うん、それ想像して焦っちゃった」
 先生は、「妙なもの飼ってると大変だねぇ」と、苦笑する。
 セキセイインコの話をすることもある。
「やっぱり4羽も一緒に入れとくのって、無理があるのかなぁ」
「どうしたの」
「どうもオス同士がケンカしてるみたい」
「へえー」
「若い方のオスの目の下の、ここの辺にね、血豆ができてたよ」
「うわぁ、それはケンカだねぇ」
「うん。ダメなのかなあ、仲良くできないのかなぁ」
「うーん、どうなんだろうねぇ」
 先生は、「専門外だからなぁ」と腕組みして、一緒に考え込んでくれる。
 でも、ハムスターたちの話はしない。

 だけど今日、しなくてはいけなくなった。
 せずにはいられなくなった。
「先生、……」
「どうしたの」
「先生、ネズミ、嫌いでしたよね」
「うぅん、好きではないなぁ」
「ハムスターも」
「うん。……どうしたの?」
「クマちゃんがね」
「うん」
「昨夜、クマちゃん、またハムスターの観察してたの」
「うんうん。毎晩カゴの前に座って見てるって言ってたねぇ」
「そう」
「――で?」
「わたしがお風呂から上がって、ハムちゃんたちの様子を見に行ったら、クマちゃん、」
「クマちゃん?」
「何かくわえたまんま、振り返ったの」
「それ、」
「ハムスターだった」
「ああぁ」
「あわててクマちゃんの口からは取りあげたんだけど。そのハムちゃん、走って本棚の後ろに逃げ込んじゃって」
「うん」
「急いで捕まえなきゃ、と思ったはずなのにね。わたし、……すぐに軍手をしなきゃ咬まれる、と思ったの」
「うん」
「軍手はめてる間にも、ハムちゃんどこかもっと狭いところへ逃げちゃうかもしれないのに」
「でも、捕まえられたんでしょ」
「うん。見たらハムちゃん、足の股のあたりから、こんな風に裂けちゃってて、ぱっくり開いて赤い肉が見えちゃってて、……急いで虫カゴにガーゼ敷いて寝かせたけど。今朝はまだエサも食べてたけど」
「ふぅん」
「クマちゃんね、きっと、カゴの外からハムちゃんの足をくわえて無理やり引きずり出したんだと思う。だからハムちゃんの足、あんな風に裂けちゃったんだと思う。――先生、どうしよう。わたし、どうしたらいい? ハムちゃん、かわいそうすぎるよぉ」
「あのね。そのハムさん、いっぱい出血してた?」
「んーん、少しだった。傷のわりには」
「じゃ、内臓も出てないんでしょ」
「あ、……うん」
「なら、生き延びるかもしれないよ。ネズミの生命力ってのは凄いからね」
「…………」
「いいかい、まずその傷が化膿しないように塞ごう。肉をこう摘まむようにして、ここんとこをテープで止める。なるべく傷口は空気に触れさせた方がいいから、ここんとこのテープは細く切り込んでね、こう。わかる? 大丈夫だよ、内臓が無事なら、きっと死にはしないよ」
「……やってみます」
「なんなら縫ってあげようか」
 急患じゃないから、2時からでもいいね。遠慮しないで連れておいでよ。
 先生はそう言って傷用のテープを持たせてくれた。
 お昼休み、わたしは急いで家に帰った。
 にゃお〜ん、とお出迎えしてくれるクマちゃんには目もくれず、ハムちゃんのいる虫カゴを覗いた。
 真っ白のハムちゃんは、まだ生きていた。
 生きてはいたけど、もう、目を開いていなかった。
 ためしに大好物のタマゴボーロを一粒入れてやると、くんくんと匂いをかいだだけで、噛ろうとはしなかった。
 昨日は赤かった傷口が、今日は黒く変色していた。
 なんだか匂いまで違うような気がした。
 虫カゴの中のハムちゃんを、1時間40分、昼休みに取れる時間いっぱい、見つめていた。
 結局、ネズミ嫌いの先生が教えてくれた手当方法は実行しなかった。
 午後にまた出勤するときも、ハムちゃんは連れて行かなかった。
 次の朝、ハムちゃんは動かなくなっていた。
 軍手なしの手で、そっとハムちゃんを取り上げ、手のひらに乗せて、ゆっくりと撫でた。
 ハムちゃんは動かず、傷口は固くなっていた。
 庭の木蓮の木の根元を掘って、木蓮の葉にハムちゃんをくるんで、そっと埋めた。
 どうか1日も早く土に還りますように、と願いながら土をかけた。



「もしももう長くないのなら、怖い思いはさせたくないな、と思ったの。おいしいものに囲まれて死ねたら、ちょっとくらいは幸せかなあ、って」
 残念だったね、と先生はつぶやいた。
 わたしは告白した、
「先生、わたしね。ほんとうはね、観察したいって気もあったの」
「うん?」
「ハムちゃんの裂けた肉が腐っていく様子」
「ふぅん」
「昔なら、道端に犬が車に轢かれて死んでても、涙流してかわいそがってたくせにね」
「ネズミは、あまり痛みを感じないんだよ」
「いつか先生にそう聞いて知ってたからかもしれない」
「言ったっけ」
「うん、だってわたし知ってたもん」
「そっか」
「そう。それからね、安楽死させた方がいいのかも、てことも考えた」
「難しいね」
「怖くてできなかったけど」
「うんうん」
「でも、殺してみたい、って気持ちがあったのかもしれない」
「ボクはずいぶん殺してきたなぁ」
「え、」
「マウスだよ。学生時代には、とてもお世話になったんだよ」
「ふぅん」
 ――そっか。だから先生はネズミさんに会いたくないのね。
 とは、思いついたけど言わなかった。
 先生の、いつもと違うこのときの顔を、わたしはずっと忘れないと思う。
 でも、あのハムちゃんのことは、たぶん、もうすぐ忘れてしまうよ。
 ハムちゃんのために掘った穴が、とても小さく簡単に掘れてしまったように、きっと……





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