随想
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2008年02月29日(金) 言葉と心

人の心は見えない。

見えないから分からない。
自分の心なのにその自分の心の奥底でさえ分からず他人の手によって心理分析してもらったり、精神分析してもらったりする。

一方見えないのに分かるときがある。
それは動作からであったり、表情からその心を読み取ることができる。
目は心の眼(まなこ)という喩えがある。
嘘をついている人の目は「泳いでいる」。
「顔に書いてある」などとも言う。
子供の頃小さな嘘をつくと母が「顔に書いてあるわよ」といわれてわざわざ鏡を見に行って「書いてなかった」と言ってばれたことがあった。
キョロキョロと落ち着きがなかったり、薄ら笑いを浮かべたりからも分かることがある。
また分からないはず、見えないはずの心も体全体で表していることがある。
それは「恋」している人の心。
平兼盛(たいらのかねもり)の有名な歌。

・しのぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで

恋している人は隠しても隠しても体全体が笑っているようにみえることがある。
大学入学してすぐの五月。
五月の連休が過ぎてすぐのこと。授業が始まる前に二人の女子大生がいきなり「私名前が変わりました。結婚しましたので!!!」と言い出した。
「うっそ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!」
お相手は二人とも医者。年齢は一回り以上も離れた人。
一人は何とお見合い結婚だというからなおさら驚いた。
大学に入ってこれからいっぱいいろいろなことを学び、遊び、友と語らってという青春の真っ只中に結婚だなんてと驚いた。
ドイツ語の宿題に四苦八苦している頃、新婚さんが私に聞いてきた「ねえ、ポテトサラダの作り方教えてくれない?」
お料理したこともない私だと知っているくせに!こりゃおのろけなのね!!
そんな料理のレシピなんぞ「das des dem das」
この二人の背中はいつも笑っているように見えたから不思議だった。

そして時が経って
人の心の奥底に秘めたものについて考えるようになった。

人は自分の心の奥底にあるものをいつどのようにして表出するのだろうか?
短歌を詠むことから自らを鼓舞したり慰撫したり励みにしたりすることがある。
そしてそれを読む側もその歌に共感し、それが増幅して感動となって自らの励みとしたり慰めとなったりする。
詩もそうである。

篠沢秀雄氏がその第一詩集『彼方からの風』を刊行したのは
篠沢教授が誰にも語ることができなかった愛息の死を真正面から語ることができたのは「詩」だったからだった。

では私の場合はどうだろう?
詩でもなく短歌でもない。
ブログを書くようになって自分の心が見えてくるようになった。
ブログ日記で日々自らの心の一端を吐露してきた。
気がつけば亡き父や母の想い出が多くなった。

両親が亡くなって法事などで姉たちや親類と両親の思い出を話し出すと私は必ず席をたち、語ることができなかった。私の中で両親の死を認めることができなかったからでもあったし、自分の中にある父や母の思い出は自分だけのものであったからだった。
心の奥底にある慟哭を言葉で表すことができないと思った。
しかし、ぽつぽつとブログで誰へともなく書き連ねていくうちに自分の心が見えてくるようになった。
自分で自分にマスクしてきた部分も含めてしだいに自分の心の林を分け入っていった。
自分で書いているうちに「あぁ、私ってこんなことを考えてきたんだなあ」と気付くようになった。
しかし、こんなことは自分だけのカタルシスであってよそ様にはなんのたしにもならないのである。
もっと人の為になるようなことを書かなければとためらいが湧き上がった。
そんなとき、友人がこのブログを読んで自分の父の事、母のことなどをあらためて考えるようになったとメールを寄せてくれた。
そして長い邂逅があった。
独り言ばかりの私の日記も誰かのお役に立つことが少しでもあるのなら嬉しい。
私のブログ日記が、友のうっそうとした心の森に分け入って亡き父上のことや、今介護にある母君に思いを寄せ、来し方の自分を見つけ出す一助になったのなら幸いである。

人は日常に埋没して心の奥を見る機会がないまま打ちすぎていく。
言い換えればそれは幸せな証拠でも在る。
なぜなら心の奥を見つめようとするときは必ず何かのきっかけがある時で、それはかならずしも良いときばかりはない。

人の心は見えない。
その見えない心を「言の葉」が潤し慰め鼓舞し励ますことができるのなら、「言葉」が単なる情報の伝達手段でなく「こころ」の「在り処(ありか)」の表出となり、心を支え潤す「泉」にもなる。

「はじめに言葉ありき」は聖書の言葉だったろうか。

「言の葉」が心を繁らせ実りあるものにできるのならそれはまたとない美しい葉である。


2008年02月28日(木) お雛様と母の愛

2008年2月29日 快晴




うるう年の二月も今日でお別れ。

明日からは弥生三月。

桃のお節句である。

お雛様というとほのぼのとした話を思いだす。

塾の教師をしていた頃のこと。

塾では子供たちは休み時間に教師にいろいろなことを話してくれる。

女の子はファッションこと、男の子は笑い上戸の私を笑わせようと競って面白いことを言う。人生相談めいたことも持ちかけられることもある。

そんな中ちょうどお雛様の頃だった。
一人の女の子が「家では弟ばっかり可愛がられてつまんない!」と言い出した。
すると他の女の子が「うちもそうだけれど、私はお雛様を見るといつもお母さんの愛を感じて嬉しくなる」と言い出した。

クラスのみんなは「え〜?何でお雛さま?」と聞いた。

するとその女生徒は「お母さんは、私がお腹にいた頃こう思ったんだって」「お腹の子が女の子だったら自分の手でお雛様を作ってあげたい」と。

産まれて見たら女の子だった。
それから母親は育児の合間にこつこつと木目込み人形のお雛様を作ったという。

何年もかかってしまったらしいけれどお母さんの愛情がこもったお雛様は完成!

毎年そのお雛様は飾られ、産まれる前からのお母さんの思いが話題に上るそうだ。

女の子はいじけたりひがみそうになるとそのお雛雅の話を思い出して気持ちが温かくなるという。

母の愛が形となってその子を守って育てているのだ。

その話を聞いてしみじみ母の愛を思った。

昔の人は女の子が生まれると庭に桐の木を植えたそうだ。
ちょうど成人した頃桐は大きくなってそれで嫁入り道具を作るのだろう。

私の友人は鎌倉彫を趣味としている。

娘が産まれた頃から鏡など嫁入道具を一つ一つ心をこめて彫っているという。

体の弱かった母は年をとってから私を産んだのでいくつまで生きれるだろうかと心配ばかりしていた。
ある日まだ私が小学校の5年生ぐらいの頃、登校前の私を捕まえて顔にお化粧をして口紅を塗った。気持ち悪がって抵抗する私の顔をつくづくみて「きっと綺麗な娘になるわ」と言った。

意味が分からない私は顔をぷるんと洗って学校へ急いだ。

今思うと、母は私が成人するまで生きていることができないと思ったのだろう。

お化粧した美しい娘の顔を見ルことができないかもしれないとまだ小学生の私にお化粧をほどこして成人した姿を想像したのだろう。

塾の生徒のお雛様の話を聞きながら私は母が小学生の私にお化粧した意味がそのときやっとわかったのだった。

お雛様。

それぞれの家庭の両親がむすめの幸せと成長を願ってひな祭りしているのだろう。


2007年12月25日(火) 老境とBuddhaとイエス

『神谷美恵子日記』を何度も再読する。

25歳から亡くなる前の65歳までの間の日記であるけれど、著書の数々を書く上の苦悩と思索が書かれており、著書が出版されるまで、母として、妻として、生活者として、研究者として、文学者としての様々な役割を果たした上での血のにじむような結果だと知ることができた。

生涯をかけて自らの生きがいを懸命に追い続けてきた魂の記録はそうそうに読み終えるものではない。

46歳のときの日記には「生きているのが苦しいときあなたはどうするの?」という独り言をしばしば言う自分に気がつくとあった。
結婚生活の幸福のただなかでこういう独り言が無意識にでる自分をふと考えてみるという箇所があって、深く考え込んでしまった。

神谷美恵子さんは1935年、津田英学塾本科を卒業後大学へ進学、結核をわずらう。その後、アメリカの大学に進むが、日米開戦で帰国。27歳で東京女子医専に入学。卒業後精神科医になったときは30歳になっていた。多感な19歳のとき、ハンセン病患者の悲惨な状況をまのあたりにみて、医師を志したのだった。
当時死の病といわれた結核をわずらい療養生活を経験した神谷さんは死の病から生還でき、自分だけが癒され、生きていることに負い目を感じるようになった。
その負い目がハンセン病患者のために働くことを決意させる動機になった。

ハンセン病患者の中にも高い精神生活を送っている人を見出して、生きる意味、生きがいについてかんがえるようになったのだろう。

この日記を読むと深く思索し、研究、勉学し、己を謙虚に謙虚にいましめ、苦悩する姿に心が揺り動かされる。

41歳のとき、初期癌に侵されるがラジウム照射でくいとめたりという経験がある。
大学時代結核をわずらい療養生活を二度し、医師となってからはハンセン病患者の悲惨な状態を見、献身する中から生まれた著作には観念や筆先だけでない真摯な魂がこめられている。

神谷美恵子さんは十代のとき、キリスト教伝道活動をしていた伯父の三谷隆正氏の影響をうけたようだ。
ハンセン病患者に対して、「なぜ私でなくあなたが?」と思う底にはキリスト教的なものを感じる。

しかし、神谷さんは排他的で、キリスト教を唯一無二のものとする考え方には同調しなかった。晩年65歳(亡くなった年)の日記では
(私が「キリスト者」になれない理由は、イエスが30歳の若さで自ら死におもむいたため。三十歳といえば心身ともに絶頂のとき。その時思う理想と、65歳ににして経験する病と老いに何年も暮らすことは、何というちがいがあることだろう!!私はまだしもBuddhaのほうに、人生の栄華もその虚しさも経験し老境にまで至って考えたほうに惹かれる。)と日記で述懐されていることに私は深い感慨をおぼえた。

科学者で難病に長い間苦しんできた柳沢桂子さんについてここであわせて考えてみたい。

柳沢桂子さんは1938年生まれ。コロンビア大学大学院博士課程修了。原因不明の難病による闘病生活が続く。生命科学者・サイエンスライターとして病床から啓蒙書を書き続ける。著書に「生きて死ぬ智慧」等がある。

柳沢桂子さんは生命科学者であり、神谷美恵子さんは精神科の医者である。
柳澤さんも難病に苦しんできた人であり、その病床から得たものから「生きて死ぬ智慧」を書き、般若心経についての著作をものした。

神谷美恵子さんは10代で結核をわずらい、40代で初期の癌を克服。57歳で狭心症。入退院を繰り返し、一過性脳虚血の発作などで14回も入退院を繰り返してきた。
最晩年はいつまで意識を保っていられるだろうかという不安と恐怖を抱えながら自伝を書いてきた。

神谷さんの最後の日記は壮絶。
「人を愛するのは美しい。しかし、愛することさえできなくなった痴呆の意識とからだはどうなのだ?だから愛せる者よりも価値が低いと言えるか。くるしみに耐えること、ことに他人に与えるくるしみに。」とある。
精神科の医者が一過性ではあるけれど脳虚血症を患ったことはいつ痴呆になるかと精神的に苦しんだことだろう。

(私が「キリスト者」になれない理由は、イエスが30歳の若さで自ら死におもむいたため。三十歳といえば心身ともに絶頂のとき。その時思う理想と、65歳ににして経験する病と老いに何年も暮らすことは、何というちがいがあることだろう!!私はまだしもBuddhaのほうに、人生の栄華もその虚しさも経験し老境にまで至って考えたほうに惹かれる。)

という言葉は私の胸に響いて去らない。

「なぜ私でなくあなたが?」と私はとうてい思えない。
反対に「なぜ私ばかりが?」と不満に思う私である。
だから「なぜ私でなくあなたが」犠牲になってくださったのかと思う神谷さんの精神的背景を知りたいと思ってきた。

長い人生の苦闘の魂の記録である「神谷美恵子日記」の最後のページは柳澤桂子さんの苦悶の末に行き着いたところとあまりにも似ている。

そして私が生死の境をさまよったとき、見たものは奇しくもBuddhaだった因縁を深く思う。


2007年09月02日(日) 遊びをせんとや生れけむ

新幹線の回数券を買って、金曜日に飛び乗り東京へ。
月曜日の朝、また新幹線に飛び乗り仕事場へ。

そんな東京⇔名古屋間の看病生活が続いた日々。

やっと平穏な日々が続いたと思ったら舅が認知症に。
姑も病に。
看病疲れのある日、風呂場で昏倒、救急車で運ばれ大手術。
赤や青や、緑のレーザー光線のようなものが飛び交っているのをみたのは幻覚だったのか、あの世とこの世の間だったのか?

そんな月日を経て今があることを感謝する。

いろいろなことを経てみると健康でいられることに深い感謝の念がわきあがる。

当たり前のなんでもない風景、朝ご飯を食べ、洗濯をして・・・
そんな日常が病を得ると限りなく大切なひとときだったことを思い知る。

退院した日、太陽の光、木々の緑、風のそよぎ、街のざわめき、
なにもかもが美しく、「あ〜!生きていて良かった」と思ったものだ。

愛犬の散歩で仲良しになった小さな女の子。
無防備で疑うことを知らない純な瞳。
一緒に並んで原っぱに座る。
大きくなった私が小さかった昔の私に出会ったような錯覚におちいる。
二人とも子どもと大人という感覚がない。

野原でであった友だち
一緒に四葉のクローバーを探し、
夕日と共に別れていく。

ただそれだけ。
そこに意味などふたりとも考えない。
野原の向こうとこちらから
「やぁー」と手を振って転がるように犬とかけてくる。

人間は何かに意味を考えようとするけれど、
日常の一瞬をありのままに素直に過ごせばいい

「さようなら」と女の子と別れるとき
ふわりと柔らかな風がとおりぬける

何も考えず犬と遊び
花を摘み
女の子と笑みをかわす

ここちよい極上のひととき。

良寛さんもきっとそんなここちだったのかもしれない。
                           
 遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん
                      
 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動(ゆる)がるれ

(梁塵秘抄 巻第二 四句神歌 雑)


2007年06月13日(水) 負け犬なんてもう言わせない!

ヴァージニア・ウルフの「自分だけの部屋]
A Room Of One's Ownの書評を書いて以来、再度英文を読み直している。

ウルフはその中で日本の紫式部についても言及していて、英国の中でもかなりのインテリ階級のなかで育ったウルフの博学に恐れ入ってしまった。

もっとも同時代に生きた与謝野晶子も鉄幹のあとを追って渡欧し、見聞をひろめているのだから何ら知識の互換は不思議でないのだが・・

晶子も同じように女子への啓蒙をその評論の中でおおいに語っている。
「女であるまえに一人の人間であるべし」と。
「女性の経済的独立と精神の自立」を謳っている。
全くおなじことをウルフは著書「自分だけの部屋」で言っている点が感興。
英国父家長制社会にたいする痛烈な弾劾。
英国のこうした父家長制は女性を劣者として教育の機会も財産の所有も参政権の行使も認めてこなかった。
女性が自分の意見を持つなら真に「経済的独立」があってはじめて精神的自立があると導くのは晶子、ウルフでなくとも自明の理。

こうした先駆者の苦難をバトンタッチし、さらなる飛翔をと呼びかけるウルフや晶子に対して、現代はどうであろうか?

「負け犬の遠吠え」論争がある。
未婚か既婚か、子なしか子ありか、・・などにより勝ち順、負け順があるという論。
全くもって世の中天下太平。と言おうかむしろ世も末!

やっと「自分だけの部屋」を獲得した女性は今自らの首を自らが締め上げようとしているようなもの。
いつになったら「女であるまえに一人の人間であるべし」という晶子の精神が全うできるのであろうか?

「既婚だから、未婚だから、子供があるからないから、そのこが女であるか男であるか」で負け犬、勝ち犬の序列を云々するなどなんとなげかわしい退却ぶりであろうか?

これは精神の退化だ。

「一人の人間」としてどうあるべきかという当たり前の論に基づいてページをさいてほしいものだ。

市井でかわされる会話の中にもにそれと同様なことが幅をきかせている。
つまりこうだ。

・結婚していないものをみつけると「なんで結婚しないの?」ととがめる。

・結婚したら「子供は?」と聞く。

・「子供が一人できると一人っ子はかわいそうね。もう一人産みなさいよ」と言う・

・「女の子を出産すると、男の子が欲しかったでしょ?」と言う。


おしなべて隣りと同じでいると安心する感覚。
異端は排除あるいは奇異なるものとして見る感覚。

いじめもこんな発想から生まれるのでは?
みんなとおなじでないと排除しようとする感覚からでは?

社会全体が成熟した物の考え方になるべきなのではないだろうか?
異なるものも含めて他を尊重する考え方をしよう。

隣りがするから我もするということになるとそのうちとんでもない闇がそこに深い穴を掘っていることになるのだから・・・

100年前に掲げた与謝野晶子、ヴァージニア・ウルフの「女である前に、一人の人間であるべし」を再考してみようではないか。

狭量な世界から成熟したものの考え方へと移行しようではないか。
負け犬なんてもう言わせない!



2007年05月29日(火) 旅と青柳瑞穂

トルコの旅での出来事である。

谷沢永一氏と開高健という希有な文学のマエストロの間にあって、友人として、同年の者として、自分の道を模索し、苦しんできたのは向井敏であった。

ちょうどそんな向井敏と同じように苦しんできたのは阿佐ヶ谷文士の一人であった、青柳瑞穂であった。

時代は異なるけれど、青柳はフランス文学で糊口をたてる翻訳者であり、阿佐ヶ谷文士の一人でもあった。仲間に堀口大學がいた。
堀口大學は外交官の父とベルギー人の義母の家庭にあっては日常会話はフランス語であったという。
フランス語を母語のようにする堀口大學と肩を並べてフランス文学で道をたてることの苦しさははかりようがない。また他の阿佐ヶ谷文士であった井伏鱒二、太宰治、木山捷平、岸田国士、太宰治などの間にあっては文学で一家を為すことの苦しさはいかばかりであったろうか。

そんな逃げ道を骨董に見いだしたのであろうか。青柳瑞穂は農家で見つけた平安時代の壷を掘り出したのをはじめとしてまたたくまに国宝級の骨董を次々と見つけだしたのである。

そんな青柳瑞穂について日常語ることはまれなことである。
よほど骨董が好きな人か、フランス文学に明るい人でないと口の端にものぼらないのである。
それがはるばるトルコの旅でツアー客の一人と食事をしながらふと瑞穂の話が出たときは驚いた。

二人で阿佐ヶ谷文士のだれかれの話や、瑞穂はなぜ骨董に走ったか、光琳の皿について、平安時代の壷について、瑞穂の翻訳本「マルドロールの歌」についての書評などを語り合ったのであった。

はっと気がつくとツアー客はみな食事が終わって二人だけがいつまでもそこにいたのであった。

博物館に入って古い壷にかけよるとそこにまた彼が同じように駆け寄っていた。
二人して「ふっ」と笑いがこみあげた。

どこの誰かも知らないし、知ろうとも思わないことであったけれど、こんな楽しい時の流れがあるのも旅の楽しさである。

旅は道連れとはよく言ったものである。


2007年05月24日(木) Time goes by

朝、窓をあけて新鮮な空気と、晴れ渡った澄んだ空をながめると気分までさわやかになる。

その一方、どんより曇った空から今にも降りそうな空を仰ぐと気持ちまでどんよりしてくるのは人の常ではなかろうか。

四季の美しい日本にはお天気にまつわる言葉や挨拶が豊かで素晴らしい。

「花曇り」「秋晴れ」「五月晴れ」「菊日和」「五月雨(さみだれ)」「時雨(しぐれ)」「風花」など。

俳句を嗜む人はそんな季語になる言葉には敏感なことだろう。

茶道の世界でも掛け軸は少し早めに季節を表すものを架けたりする。

道具もそれに合わせるようなものを取り合わせて客も一服の茶と共に季節を感じ合う。
和菓子の世界もしかり。

自然の妙、季節の雅(みやび)を分かち合うところに「時の至福」をみる。
茶室に射し込む太陽の傾きや障子越しに感じる陽のあかるさにも「時」を感じるものだ。

散歩が日課である私と愛犬にとっても、日々刻々と移ろいゆく季節の装いを肌で感じることは、何にもかえがたい楽しみでもある。

毎日同じ道をおなじ丘を見ても決して同じでない。
それは流れ行く雲が一つとして同じでないように、夕焼けの色合いも、風の匂いも、木々の葉も、移ろいゆく美しさと儚さに満ちていて心に染み込むのだ。

農夫が一日の農作業を終えて汗を拭う姿には満ち足りた疲労感が漂っていて、バルビゾン派の絵画をみるようだ。

都会に育った私は田舎暮らしを嫌悪したこともあった。
新宿の雑踏の中に降り立つと喧騒の中、ほっと人心地ついたりする。
そんなことどもを経て今、この田舎暮らしになじんできた。

ニューヨークから帰ってきたばかりのときは、なぜか血肉が騒ぐ自分に不思議な感じをおぼえた。
昔の記憶が呼び覚まされたように刺激的な早回しの渦の中を輪舞する。

私は自分勝手な生き物だ。
刺激がほしくなったり、隠遁生活をしたくなったり、スピードのある会話を欲したり、寡黙を愛したり。
まるで四季を歩むように。

浮き立つような春、焦げそうに刺激的な夏、しっとりと落ち葉を踏みしめる秋、冷え冷えとするがゆえにたまらなく温もりが欲しくなる冬。

私の中を季節が通り過ぎて行く。


K先生のいないレッスンはさみしい。
いい人とのめぐり合いは幸福感に満ち、別れはさみしい。

人生ってやつはそんなことの連続なのだろうか・・・


2007年05月17日(木) 館野泉さん

BSでピアニストの館野泉さんの番組をみたら感動で胸がいっぱいになって他の事が考えられなくなった。
ピアニストが脳梗塞になって右手が麻痺してしまったら・・・・絶望。
館野泉さんはフィンランドを中心に活躍しているピアニスト。
コンサート会場で演奏中に脳卒中になり、右手が麻痺してしまった。
ピアノが命であるピアニストが弾けなくなると言うことは死と同じだ。
息子さんが左手だけのピアノ曲を見つけて演奏を促したのがきっかけで左手だけで演奏することをはじめた。
シベリウスの家で彼が愛用していたピアノで左手だけで館野さんは弾いた。
父上が亡くなったときも、このシベリウスの家のピアノを弾かせてもらって亡き父に捧げたという。
弾き終わった館野さんは感無量の面もちで涙をうかべてこういった。
「ありがとう。・・・・誰に言っているのだろうか・・分からないけれど、今はありがとう。」
「嗚呼!、気持ちがいい」そう言って心よりの満ち足りた顔になった。

絶望の淵から蘇った喜びは「ピアノがまた弾けること」。館野氏が信心があるかどうか分からないけれど、信心のないものでもこうした深い喜びにたいしては、何か大きなものへの感謝の念がわきあがってくる。

私も死の淵から蘇った日、雲も、風も花も全てのものが美しく、生きていることの喜びに打ち震えたことを覚えている。館野さんと同じようになにものかに、おそらくすべてのものに「ありがとう」と言いたかったものだ。

館野さんの奏でるピアノには上手い下手や、通り一遍の評価など無用。
所在なげな虚ろでさえある麻痺した右手は膝の上。その右手が演奏中に今にも弾きそうに時々動く。
ピアニストとして世界をまわり奏でてきた両手。
かつては背筋を伸ばして弾いた姿勢も片手だけをうごかすゆえ丸くなる。
一つ一つの音の粒がきらめく。
命のきらめきのように。フィンランドの湖面に映る陽のきらめきのように。
全霊が左手に。
弾き終わって静かに目をつむる館野さん。

「ありがとう・・誰にいうのだか?でも今はありがとう」
「嗚呼、気持ちがいい」

穏やかで満ち足りた顔だった。

今日はこの感動を深く心に刻んで一日の終わりにしたい。


2007年05月15日(火) 英国式誕生日の祝い方

カンタベリーの家はカズオ・イシグロが通っていた大學のすぐ側で、カンタベリー大聖堂にも近かった。

大學からカンタベリーの街へ行くときはバスもでていたけれど、学生は背丈ほどのびた草むらの獣道をかきわけて街へ降りていくのが常だった。
背丈ほどの草むらを降りていくと人家があり、そこにはフットパスとよばれる私道があり、その道が私は大好きだった。
フットパスを過ぎると繁華な通りへでる。そこはチョーサーの「カンタベリー物語」で有名なイギリス国教会カンタベリー大聖堂がそびえている。
いまだに英国各地から巡礼に来る人や観光客で賑やかだ。

大學は小高い丘の頂上にあって、そこから眼下に広がるカンタベリー大聖堂を見下ろすのはなんとも豊かな気持ちになったものだ。
キャンパスの中を小川が流れていてそこに鴨や水鳥が遊んでいて学生達は川縁に座って語り合ったり、本を読んだり、昼寝したりした。
午前と午後2回お茶の時間があり、スコーンやビスケット、お茶が供される。
紅茶カップを手にかわべりで先生と議論したりするのは格別な楽しみだった。

英国からたよりがくるといつも懐かしさにかられる。
牧師さんのパパはちっっとも牧師さんらしくないひとで、むしろ人間くさい人だった。
食事中に高校生の息子がパパをかついだりするとそれにうまうまと乗ってしまって、すぐだまされてしまう。
かつがれたのにも気がつかず怒ると息子が「父さんったらー!冗談だってばー!」と言うと、それにまた腹をたてたりするまぬけなところもあって愉快な家族だった。

娘二人は独立してよそで生活。英国は16歳になるとほとんど親元を離れる。
日曜日になると皆実家に山のような洗濯物を抱えてかえってくる。
長女は同棲をしているらしかった。パパに一度同棲することをどう思うか聞いたことがあった。
パパは牧師さんなので同棲は認めてはいなかったけれど、厳しくいましめることはせず、好きにさせていると言った。随分ファジーだとおもったものだ。

この長女と私はよく喧嘩した。電話のことで大喧嘩。でもさっぱりした気性で嫌いではなかった。
思い出がありすぎてなつかしすぎて便りをもらうと涙がでてくる。
もう私には両親もなく、帰る家もないけれどカンタベリーが私のふるさとになった。
イギリスは私にとってなつかしい故郷だ。


2007年05月14日(月) 野の花とジョージ・ギッシング

私の随筆「センセイの鞄とジョージ・ギッシング」にも書いたように、
ギシングの文が年を追うごとにぴったりと身になじんで行くのが分かる昨今。

特に「ヘンリー・ライクロフトの私記」は西洋の徒然草のよう。

あんなに嫌だった田舎暮らしも終の棲家として愛着がわくようになった。

近くの牧場には乳牛が草をはみ、きじの「つがい」が散歩していたりする。

このひなびた所から20分ほど車で行ったところに大きな公園がある。
この公園が愛犬と私の唯一の憩いの場。
毎日出かけて、同じ風景のはずなのにこれが一つとして同じでない。
それはお天気にもよるし、私の心の風景が違うからかもしれない。

この公園はイギリスにいた時毎日学校まで近道して通った公園の風景とそっくりなので愛着がひとしおなのかもしれない。

この公園の池を一周する間に色々なことを考え、つぶやき、涙したりする。

春のまだ浅き頃、小さなすみれを見つけた時の喜び、空の青から切り取ってきたかのような可憐ないぬふぐり、クローバーの絨毯、ヤマモモの赤い実、蛇イチゴ、蓮の花、など、など。

ギッシングの「ヘンリー・ライクロフトの私記」の中で、「今日は遠くまで散歩した。行ったさきで小さな白い花をつけたクルマバソウを見つけた。それは若いトネリコの林の中に生えていた」とある。
英国の美しい田園、デヴォンシャ−の四季の美。

ギッシングはその文を季節の綾な衣装にまとわせてライクロフトに語らせる。

それは日々自然の中にある私の身にまとう唯一の美しい言葉の衣装となり、季節の衣装となる。

無為徒食な私も、ただひたすら咲いている花や草の美しさに癒され、これを日々愛す心が、ライクロフトのそれと重なって一つとなる。

また、ライクロフトの本への陶酔的な描写(本を持つ幸福)が心を打って一人うなずく私。

高校生の時に読んだ、いや、読まされたジョージ・ギッシングはやたらにつまらなく、退屈極まりなかった。
それが時を経て今読み返してみるといぶし銀のような光を放って私の心を捉えて離さない。

私も年をとったということなのだろう。
そうしてみると年をとるということもそう悪くないものだ。

「人には添ってみよ」という言葉がある。
一人の人間の中には善も悪もあるものだ。
それを踏まえて添ってみようか・・・と最近思えるようになった。

あの野の花のように何のけれんみもなくただひたすら咲く花になりたいものだ。


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