泣きながら雨にぬれて歩く、 そんなことも出来なくなったくらい「大人」になってしまったのか、 時間というものに絡めとられてしまったのか。 どちらにしろ勢いってものが大事なんだろうと思いながら 珍しく雨の降る命日に、久々の涙を流しながら人気の無い墓地の道を歩きました。 ちょっとセンチメンタルな曲がiPodで流れてきたのをきっかけに 色々こみ上げてしまっていながらも、 雨は傘で色々隠してくれるからいいなあとか、 荷物があるから涙が拭きにくいとか、 ちょっと嗚咽がこぼれても聞こえないかもとか、 そもそも雨のおかげで人通りが少ないから目立たないなとか、 泣いてるっていうのに雑念ばっかり浮かんでるなあとか。 そして、泣いても、もしかしたら頭の中を一番占めていたのが、長靴履いてこなかったのは失敗だったなあ、でした。 晴れ男なら意地でも年一回の命日くらい晴天を死守しろってもんだよと私は言いたい。 今年は(ちょっと思い出があるので)バラを嫌がらせに買ってみようなんて考えてみたのです。 買おうとして、ふと、真っ赤なバラだったはずなのに、ピンクのバラだったのではないかと不安になりました。 強烈に覚えていたはずで、本数だって間違いようがありません。 でも9年もしたら、記憶はどこか曖昧になっていました。 よく、辛い事も時がたてば忘れる事が出来るというけれど、楽しい事も霞んでいくのでは意味が無いよと思いたくもなります。 でも果たして楽しい事だけ覚えていていいものかと言ったら、そうも思いません。 むしろ辛い事の方が覚えていたいと思っているような気もします。 そして(今の私はそう思う事は無いけれど)、渦中の辛くて辛くて仕方ない時期というのは、本当に辛い記憶というのはもしかしたら楽しい記憶なのではないかとも思います。 楽しい事を「あんなに楽しかった、幸せだった」と思い出す事は、一瞬の幸せはよぎっても、何より辛い気持ちになる事だったから。 泣きながら雨にぬれる事が出来ないのは、 やっぱり時が経ちすぎて記憶が曖昧になるくらい昔になってしまったから、なのでしょう。 もちろんそれだけ年を取ったので単に記憶力が落ちたっていうことも間違いないでしょうけれど。
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