mortals note
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2.
「あ……!」 「……」 翌朝。 玄関を出たところで、あろうことか薙本人とはちあわせてしまった。 薙も別に比奈子を待っていたわけではないらしい。驚きに目を丸くしている。 居心地の悪い沈黙が流れる。
「……比奈子」 「お、おはよう薙!」 やがて、薙が気まずそうに呼びかけてくる。 とっさに比奈子は、幼馴染の横をすり抜けていた。 振り返らずに、学校のある方向へ駆け出す。比奈子にしては猛ダッシュだ。 背中に視線を感じる。けれど、振り向くこともできない。 (な、なにやってるの!?) もうだめだ、わけがわからない。
自分はどうしてしまったのだろう?
*
「……んで、逃げてきちゃった、ってワケね」 「伊織ちゃん……!」 呆れきった様子で頭を抱える伊織に、比奈子は泣きついた。 「なんつーか、アンタたちって、マジでめんどくさい……」 じんじんと鈍痛を訴えるこめかみを押さえて、伊織は深々とため息をついた。 「あのねぇ比奈子、あんたはどうしたいのよ?」 「……え?」 「このままギクシャクしたままで、薙がアメリカ行っちゃってもいいの?」 真剣な顔で伊織に言われ、比奈子は言葉に詰まった。 このまま。 海を隔て、昼と夜も逆転した場所で。 薙は、自分のちからをどう活かせばいいのか、その研究に協力するという。 期間の決まっている留学とはわけが違うのだ。 終わりなど、ないかもしれない。 もう二度と会えないとしたら? 「よく……ない……」 そんなのは嫌だ。耐えられない。 「だったら、しゃんとしなさい。女でしょ!」 伊織に平手で背を叩かれた。 びりっと体に電流が走る。背筋が伸びた。 「わたし、薙と話してくる」 「ようやく"らしく"なったじゃない。そーよ、一発ぐらいぶん殴ってやればいいのよ」 「うん、ありがとう」 凛々しい伊織の笑顔に見送られて、比奈子は教室を出た。
*
ポケットの中で携帯電話が震えだして、御神晃は廊下の只中で立ち止まった。 いたるところで落としたりぶつけたりして、傷の多い携帯を引っ張り出す。 「何や、ラギーやないか」 メールの着信だった。 珍しいこともあるものだ。 京羅樹は、姫宮伊織などとはこまめにメールをしているようだが、晃と連絡を取るときは、ほとんどが電話なのだ。 時と場合と相手、つまりはTPOをわきまえているのだ、と本人は豪語するけれど、どうも手間を省かれている気がしてならない。 そして、その稀有なメールの内容はというと――。 「アホかあいつ!」 通りすがりの生徒を驚かせる勢いで、晃は悪態をついた。
――ナギが比奈子に無視されてヘコんでんだけど、どうにかしてくんない? マジ、葬式みたいな雰囲気で、もう色々面倒くさいんだけど。
薙が、卒業後は渡米すること。 そしてそれを比奈子に黙っていたことなどを、晃は京羅樹と伊織からステレオのように聞かされた。 (アカン、あいつホンマモンのアホや!) 話を聞いたときも、どうしようもないと思ったけれど。 再確認してしまった。 薙は元々、他者と干渉をしない節がある。 傍目から見れば、馴れ合いを拒む、冷徹な人間に映ることだろう。 けれど、薙は決して冷酷でもなければ、外界に無関心なわけでもない。幼馴染である晃は、それをよく知っている。 ただ、不器用なだけなのだ。 今まではそれを、薙の個性だと思ってきたけれど。今回ばかりはいただけない。
「まったく、あいつの思考回路はどないなっとんねん! ここは一発、ワイが喝入れて……」 どうやら薙と京羅樹は、いつものブリーフィングルームにいるらしい。 ここは幼馴染として、親友として、忠告してやらなければならない。 気合十分で、目的地へ一歩踏み出した晃は、しかし次の瞬間ぴたりと足を止めた。 中庭に面した窓から、外が見える。 二階から下を見下ろすと、見覚えのある人影が横切るところだった。 「比奈子? それにあいつは……」 幼馴染は、ひとりではなかった。 傍にもうひとり、男が――。 「ア、アカン!」 ぞっと全身から血の気が引いた。
*
「大変やぁああああ!」 雄たけびをあげて、弾丸の如く飛び込んできた男に、鳳翔凛は柳眉をひそめた。 ただでさえ異様な雰囲気のVITルームに、少々嫌気が差していたのだ。 「騒々しいぞ御神、何が……」 しかし、赤い暴走機関車・御神晃は、凛になど目もくれずに前を通り過ぎていく。 一直線に、部屋の隅で黙りこくっている男のもとへ、駆け寄ったのだった。 「薙、まずい! 伊崎や!」 薙の前にあるテーブルに、ばちんと両の掌を叩きつけ、晃は叫んだ。 「イザキ? C組の?」 少し離れたところで携帯電話をいじっていた京羅樹が、振り返る。 「"あの"イザキ? あいつがどうしたって……」 「あいつと比奈子が一緒に歩いとったんや!」 「ちょっ……!」 反応が早かったのは京羅樹のほうだった。 「オンナとっかえひっかえしてる奴じゃねぇか! 飽きたらすぐにポイで有名だろ! しかも異様に手が早いって噂……」 ……それをオノレが言うんかい、と内心で思った晃だったが、今はそんなところをつついている場合ではない。 「その伊崎が比奈子を呼び出したのがどういうワケか、いくら何でも分かるやろ。どないす――」 言葉の途中で、薙が席を立った。 「薙?」 戸惑い、声をかける凛の前も通り過ぎて、VITルームを出て行ってしまった。 ぴしゃり、と扉が閉ざされる。あとに残された3人は、ただ顔を見合わせるばかりだった。
3.
「あ、の……!」 比奈子は、前を歩く男子生徒の背に声をかけた。 薙を探して廊下を歩いている途中に、声をかけられたのだった。 同じ学年だから、顔ぐらいは見かけたことがある。けれど、それだけだった。 話したこともない。 「お話って、何ですか……?」 振り向いた男子生徒は、整った顔立ちをしていた。 人を選ぶといわれている月詠の制服もぴしりと着こなし、ところどころに遊びを効かせている。 いわゆる、イケメンと呼ばれる部類だろう。 伊崎、と言っただろうか。女子たちが騒いでいたのも覚えている。 「朝岡さん、可愛いよね」 人気の無い裏庭まで来て、伊崎は比奈子に向き直った。 「えっ……!?」 急にそんなことを言われて、比奈子は戸惑った。 かっと頬が熱くなる。そんなこと、面と向かって言われたことがない。 「真っ赤になって。マジで可愛い」 無遠慮に伸ばされた手が、比奈子の髪に指を差し込む。 梳くように撫でてきた。 「い、伊崎くん……」 「俺さ、朝岡さんが好きなんだ」 身をかがめ、伊崎が低い声でささやいてくる。 耳にすべりこんでくる声に、ぞくっと背筋が薄ら寒くなった。 す、き? 一度も話したことがないのに? わたしの、何が? 「ねえ朝岡さん、俺と付き合ってよ」 伊崎の指先が比奈子の髪をするっと撫でながら、耳の後ろをくすぐった。 「でも、わたし……伊崎くんのこと、全然知らなっ……」 「すぐに分かるよ。もう俺、我慢できないんだ。朝岡さんが――比奈子のことが、好きすぎて」 とろけるような甘い声。歯の浮くような台詞。 比奈子も女の子だから、素直に鼓動が早まる。 だけど……。 (何か、違う) 名前を呼ばれたときに、そう思った。 違和感がある。 「でも、わたしは……っ」 「いいから、黙って」 顎に手が添えられた。くいと持ち上げられて、間近に伊崎の顔が迫った。 「だっ、だめっ……」 「黙れって、言ってるだろ……?」 いつのまにか、伊崎の腕が比奈子の背に回っていた。 ぐっと押さえ込まれて、もがいても逃れられない。 近づいた男から、甘い香水のかおりがした。 「や、だ……! 薙っ……!」 「うわっ……!」 きつく目を閉じた、次の瞬間。 比奈子を拘束していた伊崎の腕が、離れた。 どさりと、何かが倒れる音が続く。 「てめぇ! 何しやがる!」 伊崎の怒声。そして。 「大丈夫か、比奈子」 抑揚のあまり感じられない、それでも聞きなれた声。 とたんに、体の力が抜けてしまった。 その場にぺたりと座り込んでしまう。 「おまえ……、飛河!」 気色ばむ伊崎を、薙は真紅の双眸でにらんだ。 月詠学園一のプレイボーイとあだ名される優男は、荒々しく舌打ちをしたあと、足早に立ち去っていった。 気配がなくなるまで伊崎の背を見送ってから、薙は比奈子に向き直る。 「どうした、どこか痛むのか」 座り込んでしまった比奈子に手を差し出しながら、薙が問う。 その声に、わずかな焦りを感じ取って、胸がぎゅっと締め付けられてしまった。 平素の冷静沈着な薙とは違う。動揺している。 ただそれだけのことなのに、こんなにも嬉しいなんて。 「……どう、して?」 どうして薙はいつも、一番に駆けつけてくれるのだろう? 助けてくれるの? 子どもの頃から、ずっとそうだった。 比奈子がピンチのときは、必ず助けてくれた。 薙は、比奈子の問いかけを察しかねて、怪訝そうに眉根を寄せる。 「なんでも、ない。だいじょうぶ」 ゆるく首を横に振って、比奈子は薙の手を掴んだ。ぎこちなく立ち上がる。 薙は、静かに安堵の吐息を漏らした。 ぴんと張り詰めていた緊張を、ゆっくりとほどく。 そして、本当に油断したような小さな声で。 「……よかった」 と、呟いた。 つなぎ合わせた手がやけに熱くて、驚いた。 薙の手は、いつもひんやりとしているのに。 気づけば彼は、少し息を乱していた。 慌てて駆けつけてくれたのだろうか? だとしたら。 嬉しすぎる。
「比奈子……?」 上ずった、戸惑う声がすぐ傍で聞こえた。 とん、と自分の体が何かにぶつかっている。 行動を移したあとで、自分が驚いた。 ぐっと湧き上がった衝動に抗えずに、薙に抱きついてしまっていた。 「怖かったのか? 震えている」 薙の手が、なだめるように背をさする。 それだけで、もう胸がいっぱいになってしまった。 「ごめんね……ごめんなさい……」 言葉が見つからなくて、繰り返す。薙が戸惑っているのが分かる。 頭と体の接続が切れている。ふくれあがった気持ちを、もうどうにも制御できなかった。 視界がにじむ。涙まで出てきてしまった。 「薙が、アメリカに行っちゃうって、聞いて……わたし、ショックで……薙ともう、会えないんじゃないかって……」 うまく言葉にならない。まとまらない。 その上、声が上ずって、跳ねる。 「でも、そんなの嫌で、ほんとうに嫌で、一緒に……いたくて……。薙には迷惑かもしれないけど――」 「迷惑なんかじゃない」 きっぱりと、耳元に否定が返ってきた。 次の瞬間には、ぎゅうっと力を込めて、抱きすくめられていた。 「僕は比奈子が好きだ」 心臓が。 とまった。一瞬、確かに。 「家族でも、幼馴染としてでもなく、比奈子が好きなんだ」 すぐ傍で聞こえる薙の声は、かすかに震えていた。 ぴったりと合わせた体から伝わる鼓動が、速い。 何だ? 何が起こっているのだろう? 頭が現状をうまく理解できない。正直な体ばかりが、緊張して、熱くなっていく。 確かなのは、今自分は、薙に抱きしめられているということ。しかも、強く。 (す、き……?) それって、どういう意味の言葉だったろう? ゆっくりとまばたきをして、伝わる鼓動の速さを感じて。 「自分でもどうしたらいいのか分からない。こんな気持ちは――はじめてだから」 ようやく、実感がついてきた。 「アメリカに行って、研究に携わるようになれば、自由な時間なんてなくなる。日本にいつ戻ってこられるのかも分からない。そんな状態で、比奈子を困らせても仕方がないと思った。迷惑をかけるなら僕のほうだ。勝手に気持ちだけを伝えて、楽になろうとしている。そんな自分が嫌で、何も言えなかった。でも……我慢ができなかった」 こんなに続けて薙の言葉を聞いたのは、初めてかもしれない。 いつも理路整然としていて、的確な言葉を用いて話をする薙らしくない。 薙も。 言葉がまとまらないのかな? (わたしと、おなじ?) 「比奈子がしあわせでいてくれれば、それでいいと思っていた。でも、崇志に言われて気づいたんだ。比奈子が、別の誰かと一緒にいるのは、嫌だって」 「わたしも、薙が好き。いちばん好き」 気づいたら口走っていた。 ドキドキと、嬉しさと、恥ずかしさとで、胸が苦しい。涙が出てきた。 「他の誰よりいちばん大事。誰にも、負けないぐらい……!」 薙が息を呑む気配が、耳にすべりこんだ。 比奈子を抱きすくめる腕に、ぎゅっと力がこもる。
「……死にそうだ」 やがて、震える声を絞り出す。 きつく抱きしめられて、顔は見えない。 けれど、腕の中から見上げた薙の耳は、びっくりするほど赤くなっていた。
4.
「てかさ、速すぎない?」 「え?」 放課後の教室。 比奈子は、後ろの席に座った伊織に声をかけられた。 携帯電話を片手に、きょとんと学園のアイドルを見つめ返す。 速い? 何が? 「今来たメール、薙からでしょ」 すっかりと据わった目を細め、伊織が顎で比奈子が握った携帯を示す。 「う、うん……どうして?」 「比奈子が送ったの、5分ぐらい前だったわよね?」 「そ、そうだったっけ?」 「そうよ! ねぇ凛ちゃん、そうだよね!?」 伊織は、隣の席に座らせた凛に同意を求める。元々この女子会は、伊織がねだったマフィンを凛が焼いてきたことから始まっているのだ。 「確かに……そうだったような気もするが」 伊織の勢いに押されつつも、凛が答えた。 「だ、だって、伊織ちゃんが送れって……」 そう。 そもそもメールを送れと言い出したのは伊織なのだ。 とりあえず何でもいいから送ってみろと言われて、仕方なく凛のつくったマフィンの写真と、女子会の模様をメールしたのだった。 「前からレスポンスがいい気はしてたけど、速すぎるわよ。あー、興味本位で実験してみるんじゃなかった!」 投げやりに言って、伊織はマフィンに手を伸ばす。メープルのいい匂いがした。 「実験……?」 「薙がどれだけ比奈子を甘やかしてるかの実験!」 「なに、それ……」 「だって、考えてもみてよ。あたしらが薙にメールしても、ほとんど返ってこないんだって! 来たかと思うと『わかった』だの、『問題ない』だの、一言だけだし! それも、重要な確認があるときしか返ってこないんだからね! 急ぎの用事だったりすると、ほぼ電話で折り返し。それがよ!」 びしり、と比奈子の顔に、伊織は形の良い人差し指を突きつける。 「放課後の教室で女子のお茶会をしてる、なんてメールに、たった5分で返信してくるのよ! 分かってたけど、薙は比奈子を溺愛しすぎ!」 「そんなことないよ!」 「いや、わたしも確かに返信は速いと思う」 「凛ちゃん……」 二対一だ。分が悪い。 確かに、薙があまり携帯を持っているところを見たことはないが、それほど差がついているとは思わなかった。 何も、付き合い始めてから返信が速くなったわけでもなく、比奈子にとってはこのペースが当たり前だったのだ。 ……とは、さらに突っつかれそうなので言わないけれど。 「そもそも薙ちゃま、比奈子にちょーカホゴじゃん。元々そうだったけど、最近ホントに顕著すぎ!」 「ち、違うよ……わたしが頼りないから叱られてるだけ……」 「へぇー、ふーん。おつかいもひとりで行かせてもらえないくせに?」 「え!」 「このあいだ、スーパーまで買い物に行くとき、薙ちゃまに護衛されてたんでしょ?」 「ち、違う! あれは家を出たところで偶然会っただけで……! 誰に聞いたの!?」 「タカからの連絡網。ってことは、お買い物デートかー」 本当に、ただばったり鉢合わせただけだ。 ……確かに、そこから一緒に買い物にいく必要性はなかったけれど。 「やめろ姫宮」 「凛ちゃん……!」 「春になれば薙は渡米するんだぞ。残された時間は多くない。そんなに突っついてやるな」 「……凛ちゃん」 伊織をなだめてくれるのは有難いのだが、論点が違う。 結局のところ凛も、「薙は比奈子に甘い」という立ち位置らしい。 正直、甘やかされているような予感もしていただけに、嬉しい……けれど、居心地が悪い。 「ま、それもそっか。大目に見ることにするわ。……で」 肩をすくめた伊織が、ぐっと比奈子のほうへ身を乗り出してきた。 「伊織ちゃん……?」 「残された時間は少ない、ってことで。……薙とどこまで進んでんの?」 「なっ……!」 「真っ赤になっちゃってカワイー。オトメ会なんだから、いいじゃないの〜!」
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