ぶらんこ
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2023年12月27日(水) 月日









昨日(12月26日)、今年最後の歯科受診。
12月22日4時の予約だったが某理由で延期された。その理由というのが
「その日クリスマスパーティーが開かれるので〜ごめんなさい!」
思わず笑ってしまった。なかなか正直だ。
クリスマスパーティーと明確に言われたのにも好感を抱いた。

「もちろん良いですよー楽しんでください。」こんな風に応対する自分にも少し驚く。
この国に戻って来てもう15年、いや、年齢的なものかもしれない。



今日はDeweyが虹の橋に向かった日だ。















2022年04月23日(土) $100のブルース




1ヶ月くらい前に書いたものだけど、ここに残しておく。




 ・・・・


その犬は$100だった。20年前とは言え、格安大爆発。
値引きを交渉したわけではない。何より彼には値札が付いていなかった。
某ペットショップでのこと。いわゆる売れ残りだったのだろう。
店主は言った。"$100 is fine."
 
犬はケージの仕切りが外された2部屋分を使っていた。
ショップ正面の中央上部に位置し、かなり目立つ。
彼の周囲の部屋では、犬種毎に数匹の小型犬がむにむにと動いていた。眠っているのが多い。
でも彼だけは、黒い大きな瞳をして凛々しい姿で私達を見ていた。
 
犬を迎え入れることは、娘との長年の約束だった。
彼女は物心ついた頃から「犬かって」と言い続けた。
買って、なのか、飼って、なのか。多分前者だろう。
私はどちらにも抵抗があったので、日本語のみならず「迎える」という表現を使った。
私たちは娘の小学校入学を機に、夫の母国である米国に移住した。
娘との約束は、アメリカに引っ越してから、その後、一軒家に引っ越してから、と、度々延期された。
犬は生きた命、家族だから、待とう。そう言い聞かせた。
 
その犬はAustralian Shepherdという犬種だった。初めて耳にする。
どれくらい大きくなるのかという私たちの質問に、女店主は軽く答えた。"It's almost the max size."
後にこれは明らかな偽情報だと判明する。
既に四ヶ月を過ぎたその犬を、彼女は何としてでも売りたかったのかもしれない。
 
娘はシーズー犬を欲しがっていた。私の姉の愛犬がそうだったこともある。
ショップにはシーズーもいた。仔犬なので毛糸玉か何かのようで、とても愛くるしい。
下見に行った日、小さな子を連れた家族連れらも何組かいた。彼らは小型犬をお部屋から出してもらっていた。
子供たちはもふもふする塊を抱っこしながら、しきりに仔犬に話しかけていた。
下見のつもりで出かけたので、私たちはどの犬にも触れなかった。
不思議と、娘もそれを要求しなかった。
 
翌週、私たちは意を決してそのショップに向かった。
今日、犬を連れ帰りましょう。
私は、あの犬まだいるかな、心の中でそっと思った。
私達夫婦の間では仔犬を選ぶのは娘に任せると決めていた。
 
ショップに足を踏み入れると、果たして

彼は、いた!

そして、周囲の仔犬たちは見事なまでに別の仔犬と入れ替わっていた。
胸が締め付けられた。
その時、娘が言った。"Can we have that dog ?"
私は驚き、夫を見る。彼は大きく息を吐き、自分もあの犬に決めていた、と笑った。
私もよ!

私達家族は、それぞれがそれぞれ、あの日、この犬に魅了されていた。
誰も口にしなかった。
でも、心の中で決めていた。もしまだいるのなら、それなら。
 

犬を部屋から出してもらい、サークルの中で遊ばせた。
ボールを見せても、どうしたら良いのかわからない。それでも仔犬らしい好奇心は垣間見えた。
実際に触ると痩せていて、ひどく小さく感じた。
ショップを出る時、歩こうとしない彼を、夫が抱えて運んだ。
犬は娘と共に後部座席にいたが、発進するや否や、おしっこしてしまった。
娘は怖がる彼をずっと撫でていた。

 
犬の名前はブルースとした。
哀愁を帯びた彼にふさわしい名ではないか。
夫は少し考え、Bruceにしようと言った。まぁいい。日本語的には同じだ。


こうして彼はやってきた。
彼のブルースはこの日から奏でられ、ブルースが虹の橋に行った後も尚、聴こえてくる。
家族の歴史、悲喜交々。

お金にはかえられない、私達のブルース。




 ・・・・











2021年02月15日(月) 料亭の海鮮サラダ





父が夢に出て来た。
これはすごいことだ。初めてではないかもしれないけれど、もし前にもあったとしたら40年いや45年以上は経ってるかも。

父はわたしが6歳の頃、他界した。正直、父と話した記憶すらない。
思い出の父は兄や姉たちが語る父であり、わたしの中の父は病床で横たわっている。でもそれも後から付けられた記憶なのかもしれない。
父は脳腫瘍だった。母は一向に良くならない父を連れ、最終的には東京の病院まで行ったが診断を受けたときには既に手遅れだった。

最期は島の病院で亡くなった。

夜のまだ明けない頃、長兄に起こされたわたしたちは父の入院先へ向かった。
海岸線、兄の車の窓から、黒い波しぶきをずっと見ていたのを覚えている。モノクロの世界。
幼かったわたしと弟は、病院の地下、あれはどこへ向かう扉だったのだろう、もしかしたら霊安室だったのか?そのホールで待たされた。大きな丸いタイル張りの柱がいくつもあって、かくれんぼをしたり鬼ごっこをしたりした。
それから、父の病室へ連れて行ってもらったと思うのだが、記憶は朧げでほとんど覚えていない。

次の記憶は、父がオモテに横たわっているところ。
母は泣いていた。兄たちが母の少し後方に順番に正座していて、弟は次兄の膝の上にいた。兄たちも泣いていたので、わたしは怖ろしく心細くなって、弟みたいに誰かに抱っこしてもらいたいなと思った。
それが父の最後の記憶。



 ・・・


家にいる。どこか忙しない。母が少しピリピリしている。どうやら「ハンクヮイ(寄り合い)」があるらしい。酒や料理の準備が必要だ。

とにかく何か準備をしなくては、、と、あるもので拵える。町の料亭から海鮮サラダが届いた。母が頼んだのか?ハイカラだな・・と意外に思う。
兄2が焼酎を運んでいる。
プラスティックのケースに入った筆のようなハケのようなものをわたしに見せ、「これは料理用だけど使うなよ、あれのだから」と言う。あれというのは兄4のことだったので、「いやー使われんわーあれのだれば〜」とわざと大袈裟に答えると、兄貴は振り向いて「その通り!」と意味深な顔をしながら大きく笑った。

食器を運ぶと、場所が変更になっていた。いつものオモテではなく、隣の離れを使うのだと言う。
そこへ行くと、既にハルカうじやらシズカおばやら、他にもわたしの幼馴染(ワタル?と、ひとつ下の誰か)もいた。他にもよく知っているおじさんおばさんたちがいて、食卓は大賑わい。誰がどの席とか関係なく、それぞれ思いのままに飲んだり食べたりしている。

父がその中にいた。穏やかに笑っていた。
母は食事をすすめたり焼酎やビールをすすめたり、それから友人のおばさんたちと大声で笑いあったりして、とても楽しそうだった。
母は集まりが大好きな人なのだ。

喧騒。

あぁそうだ、と不意に思い出し、iPadを取りに母屋へ戻った。
そこに幼馴染が2人(一人はヨシヤ?もう一人は同級ではない年下の誰か)いて、「マコーヤァに電話が通じらん、っちどー」と言われる。電話番号はもらえんのじゃ、と心の中で思ったが、面倒だったので無視していると、もう一人が「アメリカの電話だから電話番号が違うっちー」とか言っている。なんだ知ってるんかい、と思う。部屋の隅に置き去りにしていたiPadを手に取ると、スクリーンにはメッセージも何も表示されていなかった。

離れに戻ると、宴はいよいよ賑やかである。
父の姿はない。
と、父は、布団に寝転がっていた。眠ってはいない。わたしを見て、にこりと笑った。
離れはLの形になっていて、宴会場所から折れたところで休めるようになっていた。今、まさに母はそのための布団をいくつか敷いていた。

なに、ユックライはここで眠るのか、、、、と驚く。と同時に、まぁ合理的だな、とも思う。
母は忙しそうに布団を準備している。シズカおばが大笑いしながら手伝っている。既に出来上がった連中もいて、すぐにでも必要な感じだ。

わたしは父のそばへ行った。父は何も言わずに笑いながら皆のことを見ていた。
わたしは痩せた父の体と、相変わらずハンサムな顔をじーっと見て、なぜか急に「会いたかったー」と思う。
そして、父ちゃん〜と言って、父のすぐ隣に横になった。
父はポンポンとわたしの背中を叩いた。何も言わなかったけれど、「わらぶっかじゃが」という顔をして笑っていた。父に抱きつこうかなーと思ったけれど、なぜかそれはダメだと思ってやめた。


幼馴染が、サラダが違うっちょ、としきりに言っていた。
失礼な奴だ、と思い、何が違うんじゃ、と訊いたら、「海老はいいっちょ。だんば、イクラが入っとる」と言っていた。
ばかたれじゃ、と心の中で思う。そして、「イクラどければいいがな」と言ってやった。
失礼な奴だ。海鮮サラダ、じゃ。料亭からのものじゃ、と心の中で言う。




 ・・・


不思議な夢だった。

まず、登場人物は亡くなった人ばかり。何これ、、、何かのしるしなのか???
父、母、兄2、ハルカうじ、シズカおば。みーんな、もういない。


それから、我が家の「離れ」。
これは昔、確かにあった。兄2が実家の庭を取り壊して建てた。でも、夢の中のそれは兄のものとは違っていた。


海鮮サラダと料亭。
これも島のどこのものなのか不明。てか、「料亭」って何?って感じ。島に料亭なんかない。
笑える。










2020年09月26日(土) 母語録




2017年の記録。
これを見つけて読んだとき、思いきり笑った。
泣き笑い、じゃ。
はげはげ、母ちゃんすごいわ。じつねぇ、いまだに健在。




(6/18)
わかとぅんよ
あおおに、かん、きしんに
たるんちゅり、通らんが

にへら顔しち ぬぅーよ

(6/19)
まるー あんたひとりね

(6/20) 
口先女

(6/21)
うなぐぬ はぎっちば かーし あぎてぃ 時代の変わてぃ
昔や くゎんきゃぬ ゆうばんしち はたらきゅん うやじ ゆうばんぬ準備しもたっとー ち ゆびが いじゃある
なまや うやぬ ゆうばん準備しち くゎんきゃぬ ゆうばんじゃがうら っち 世の中 ひっくりかえってやー
うがしゅん 暮らし あた

(6/27)
ミソば カメち うつさんば

(6/30)
ウヤバ ハゴハゴ シチ ヌッチュン カイ
ウバ ユムタ ボォリ ユウナ

(7/1)
アオゾラ ッチ テント ナンティ ワンバ スィティヨ ッチナ
ヤンキャ イノリ ダガ シランダロ トナエララン ダロガ トナエテミ シチュランダロガ

(7/4)
一番さーは たるよ
ただしんたむだか いしょ道具っか つぃかわしよー

(7/10)
あん むじゃらむじゃら しゅんや ぬぅよ
(姉作のごぼうとコーンのかき揚げを見ての一言)

(7/17)
セェボーリコラティ ユラユラユラユラ シチ ヌゥヨ
ナンドガ ワンバ ミオクリド ナンガ ウガシアタレバ ワンヤ シナランド
ワンバ ミオクルンガ ナンヌ セキニンド
ワカトゥンナ!

(7/25)
みこんじ やしなわってぃ みしょり元気!
おわりゅん日ば 楽しみっくゎにしんかなよー
・・・終わる、ではなく、会える、という意味らしい、と、姉3と笑いあった




(日付は逸したが・・・母の寝言?いくつか思い出したのを記しておく。)
・キュウノツユコ ッチ タズネテイケバ・・
・ワン バンナ? チギヤ ワン バン アナンナ?


(7/26)
トゥクバリタインバン インガン クヮンキャ マタンバ チ ウムティ
お客さんが来たら お茶っくゎ 出してね よろしくね(標準語!で寝言)




 ・・・

もっと母ちゃんbの言葉を記録しておくべきだった。
今更だけど。

















2020年03月15日(日) むがりどころ、ニコニコ







ピクニックに行くよ、と言った母の話を前に書いた。


その時のことを覚えているかと母に訊いたことがある。
今思えば、母はすでに認知症が発症していたように思う。それでも、認知障害とは思わず、年齢によるものだろうと思っていた時期だ。



覚えているよ。
と、母は言った。
その日(週?)は、教会で「巡礼」と呼ばれる旅行があったのだそうだ。
母はそれに参加することが出来なかった。父は既におらず、もちろん旅行に行くような蓄えはなく、しかもくゎんきゃがぼろぼろといる中で、どうして行くことが出来ようか。


前に母はこうも言っていた。
「教会の巡礼だけが楽しみっくゎ」

女手ひとりで子育てをしながらも、巡礼旅行のために細々と積み立て貯金をした。
それが母ちゃんの唯一の息抜きだったのだろう。


あの日、母は巡礼に参加することは叶わなかった。

「ちゅや ごっと 巡礼ち、 母ちゃんや うがしゅん余裕ぬぬん はぐはぐ 情けぬぬん なだがり うとぅる
だんば やんきゃや でけぶちくゎんきゃ なてぃや ニコニコしゅん顔 みし
わきゃ だか 行こ ち うむてぃよ」


母ちゃんは、気持ちを奮い立たして、そうやって出かけたのだ、あのピクニックへ。


「母ちゃん、すごいね」

わたしがそう言うと、母は笑いながら言った。


すごいち あんにゃ 
母ちゃんは 情けなくてや くゎんきゃだか きもさげさ ち うむたんば 
ありがてなんやー やなんかくゎんきゃは ごっとでけぶちなてぃだろや むがりどころ、 ニコニコ!
はげはげ、ありがてなんやー神さま、 ちどが うむたっと



いやいや、母ちゃん、すごいのはやっぱり母ちゃんじゃ。



こんな話 きょでとしたかったやー
母ちゃんの三回忌に。

















marcellino |mail