僕は昔から躁鬱の傾向がありました。気分が高揚したり落ち込んだりした時の差が激しく、やたらと悩みが多かったです。友達のちょっとした言葉に、棘があるような気がして、嫌われているのではないか?と悩んだり、自分の言動が知らないうちに人に不快感を与えている、と思ってしまうなど、延々と悩んでいました。 自分が本当に躁鬱病なのかは、わかりません。精神科にでもいって、診てもらえばはっきりするのでしょうが、あまり行く気にはなりません。行った所で、人生が楽しく明るくなって、自殺願望が消えるかと言えば、たぶんそうはならないでしょう。
2004年09月29日(水) |
樹海にダイレクトアクセス |
死に場所を探そうと思って、会社のビルの屋上にいったり、人気のない近所の公園をウロウロしたりしてきました。 これまでも自殺に適した場所を暇な時に探してきましたが、どこも死ぬのにふさわしいとは感じられませんでした。 死んだ後のことを考えるのはおかしいかもしれないけど、できるだけ見苦しい僕の死に様を人に見られたくありません。誰にも気づかれることなく、ひっそりと消えるのが理想です。 最近は樹海までいって、そこで人生の終わりをむかえようかと考えています。 樹海というのは有名な自殺の名所です。いろんな理由で生きていくのがつらくなった人たちが、樹海に飲み込まれて消えていきます。樹海だったらそう簡単に見つからないし、誰にも迷惑がかかりません。
僕は樹海のことを考えます。そこで僕は死にます。僕の死体は野生の動物や蟲に喰われて、植物の養分になります。意識や記憶、感情といったものも全部、樹海の中に溶けて消えてします。それが最もふさわしい死に方のような気がしてきました。
死について一人延々と考える。自殺しようと決心する。 けど出来ない。僕はチキンだからすぐビビってしまう。 鈍る決意。やっぱり今度にしよう。結局は妥協する。その繰り返し。
なにが足りないのか? 勇気が足りない。絶望の深さが足りない。死への執着が足りない。 僕の苦しみなんて所詮は上っ面だけのものなのか? だからこうやって生き続けてしまうのか?
イヤイヤそれは違う。なぜ僕は自分で死ぬことを選べないのか? 足りないからだ。仲間が。 一人では解決困難なことも、2人、3人いれば話は違ってくる。
自殺事案における、ここ最近の動向は、自殺が既に一人で行うものではないことを示唆している。仲間を集め、お互い励ましあい、慰めあいながら、皆仲良く死ぬ。 それが一人では死ねない臆病者たちが考え出した解決案なのだ。
みんなで死ねば怖くない。
名前 ユウヤ 性別 男 年齢 23 住所 愛知県 趣味 サーフィン・ヴァイオリン・ボランティア
すいません。最後の趣味については全部ウソです。スポーツなんか昔から嫌いです。楽器なんて弾けるわけありません。ボランティアなら2、3回したことはあります。 これといった趣味なんて僕にはないですね。強いてあげるなら空想することぐらいでしょうか。子供のころから暇さえあれば空想に耽っていましたね。 自分のところにはドラえもんが来てくれるハズだ。なんてことを本気で信じていたのですから、かなり重症です。
私、最近ココロを入れ替えました。生きているか死んでいるかわからないような人生を送って死ぬより、燃えるような激しい日々を生きて、そして死にます。
空想には別れを告げて、行動こそを重視する。
徹底的に死を追求する。死に向かってアグレッシブに行動する。 僕の最期は病死ではなく、老衰でもなく、事故死でもない。 自分の意思で死を選択して、それを実行したいと思っている。 この世に生を受けるか、受けないかの選択は出来なかった。だけど自分の意思で死を選ぶ自由は残されている。
願わくば、偶然や運命などではなく、確固たる己の意思によって僕がこの世界を去れますように。
リストカット症候群。
最近よくこの言葉を耳にする。どうやら一部の青少年や自殺予備軍の間で流行っているらしい。そういえば、妄想の果てに家族を惨殺した若いカップルも、リストカットしてその写真をホームページで公開していた。 かくいう僕の友人にも自分で何度も手首を切っている奴がいる。
どうやらリストカットというのは、自殺にいたるまでの通過地点のようなものだと考えてもよさそうだ。 僕はこれまで死について考えながらも、具体的な行動は何一つおこしてこなかった。怖い怖い怖い、としか思わず、それ以上の思考を放棄。結局は死ぬか生きるかの二者択一なんだと自分に言い聞かせ、その過程にあるものには わざと目をつむってきた。
なにが言いたいかというと、要するに自殺するのにも段階があるということだ。突発的に死を選ぶ人間もいるけど、それが出来ないのであれば、まずリストカットして少しづつ死に慣れていきましょうってわけだ。
でも正直いってリストカットだって十分怖いよ。
2004年08月21日(土) |
××さん。僕と一緒に死んでください |
あれは小学校の頃、クラスで女の子が酷いイジメにあっていた。
<助ける> 僕はそんな薄幸の少女を OR <助けない>
もちろん助けない。見てるだけ。だって助けちゃったら、ボクまでイジメられちゃうジャナイカ。 触らぬ神に祟りなし。臭い物には蓋。見ざる聞かざる言わざる。長いものには巻かれろ、寄らば大樹の陰。
小学校のときも、中学校に行っても、高校生になっても、社会人の今も現在進行形でずっーと傍観者。
たのむから俺だけはターゲットにしないでくれよ。ボクはそんなくだらないことに関わりたくないんだ。ガクガクブルブル。 ずっとそんな感じで生きてきました。
この世界に絶対的な正義は存在せず、神さえももう既に死んでいる。 もちろん僕の中にも正義なんてものは存在しない。
ゆえに僕は生きる価値を見出せない。
死 それは人生の終着点 それは苦痛からの解放 それは永遠への旅立ち
ダメです。どんなにプラス思考で「死」について考えてみてもやっぱり、怖いものは怖いです。自分を騙せるほど、僕は嘘が上手くないんですよね。 馬鹿正直というか何と言うか。
死ぬのは怖い。でも世の中苦しいこと、つらいことがすごく多くて、そりゃ楽しいこともあるけど、でもやっぱり僕が生きていくにはすごく無理をしなきゃいけないんですよ。 耐えて、耐えて、また耐えて。なんとかこの20数年を生きてきたんですけど、まだ普通にいったらあと50年はあるのですね。
生きるも地獄、死ぬも地獄、ならば生き抜いてその生をまっとうしようではないか。って思えたらいいのに。
死にたいと思ったことは何度もあるけど、それを実行にうつしたことはまだ一度もない。 包丁を持ってきて、自分の首にあてたり、天井からロープをたらして首を 吊ろうとしたことはあっても、それ以上のことは出来なかった。
だって怖いよ。 包丁で首切ったら痛いにきまってるじゃないか。 窒息死だって苦しくないはずがない。 睡眠薬は確実性が低いっていうし、もし生き残っちゃたら いたたまれないよ。 僕は自殺未遂をした困った子っていうレッテルを貼られて、みんな腫れ物 をさわるような、珍獣をみるような目で僕を見るんだ。
無理無理、自殺なんて絶対無理。
情けない。僕にはリストカットする勇気さえないよ。
最近死にたいと思うことが多いです。 いや、ほんとはかなり前から、自殺しようと考えていました。 高校の頃から、何度も死のう死のうと考えていて、結局もう23 になってしまいました。
自殺のニュースをみると、得体の知れない憧れと悲しさが混じった 複雑な気持ちになります。 自分で自分を殺すことが出来るなんて本当に凄いと思います。
臆病な僕にはとてもマネできそうにないです。
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