一橋的雑記所
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※ホントは090111.その2。 まさか容量オーヴァーにつき。 27日付の続き。
イメージに合わない。 送りますよ、なんていわれて呆然としているあたしをさっさと助手席に誘導するや、いかつい車をいとも軽やかに発車させた彼女に向けて思わず口にした一言に、あの子は薄い苦笑いを浮かべた。
「よく言われちゃいますけど、でも、体が少々ちっさくても運転するのには別に支障ないんですよ?」 「や、サイズの問題だけじゃなくってさ。おっきい車って運転、辛そうじゃん?」 「んー、今時はパワステ……ハンドル軽くする仕掛けなんてどんな車種にも普通についてますし、後は車両感覚っていうか」 「しゃりょうかんかく?」 「ええと、ちょっとカッコいい言い方すると、車体の輪郭を自分の体みたいに感じ取れるセンスといいましょうか」
えへへ、と照れ交じりに説明するあの子にミラー越しに何ソレ、な顔みせたら案の定、得意げな表情は瞬く間に恥ずかしげに朱に染まりながら崩れていった。
「あー……スミマセン、水樹の癖に調子に乗りました……」 「やだな、そこまで言ってないよ」 「ていうか、あの、真面目な話、」
慎重だけれども臆病という程じゃない穏かな運転を続けながら、あの子は少しだけ表情を改める。
「実は私も最初はもっとこぢんまりっていうか、身の丈にあった可愛い車にしようかなあって思ってたんですけど、うちの親が『最初に乗るのは、ぶつけられても大丈夫な頑丈で大きい奴にしときなさい』って」 「へえ……」 「確かにそうかもしれないけどでも、自分からぶつけたとき、相手に酷い事になりそうだから怖いっ
て言ったら、『自分からぶつける心配しなきゃなんないほど自信ないんだったら車なんて乗っちゃ駄目』って」
その時のことでも思い出しているのか、あの子は目元を緩ませて小さく笑い声を立てる。余りにもあの子らしいエピソードに何気なく相槌を打ってから、なんでだろ、胸の奥にさくっと差込む感じを覚
えて、あたしは目を伏せた。
「……あ、えーと、ゆかりさん? 気分でも悪いですか?」 「あ、ううん、平気」 「あの、安全には気をつけてるつもりなんですけど、乗り心地が良い運転かと言うとさすがにそこまでは自信ないんで……すみません」 「大丈夫、奈々ちゃん、上手だよ?」 「ホントですか?」 「うん、タクシー乗ってるより普通にずっと、良い感じ」
胸はまだ少し痛いけれど、それは決してあの子の運転のせいなんかじゃない。ちらっと一瞬だけこちらに向けられた視線にあたしは強く頷いて見せた。
「ほんとほんと。このままどっか遠くへ乗せてってもらいたいくらい」 「遠くへ、ですか?」 「うん。うーんと遠くへ」
何故だか繰り返してしまったあたしの言葉に、あの子の横顔がほんの少し真剣になる。あたしは慌てて顔を背け、窓に軽く額を預けた。緩い冷房に冷やされたガラスのひやりとした感触が気持ち良い。
「――それじゃ、ホントに行っちゃいます……?」 「え?」
思いも掛けないほど真面目な声が返ってきたことに驚いて、振り返る。けれども、声とは裏腹に彼女の表情はどことなく悪戯っぽく崩れて見えた。
「実はですね、ワタクシ、今からちょっとばかり遠くへ出掛ける予定だったりするんです」 「え? 何? 今から?」 「ええ。打ち合わせも早く終りましたし、明日は午後からしかお仕事入ってませんし。だもんで、準備万端、今日のお仕事にも車で来ちゃいました」
笑い混じりに続けられた言葉に思わず振り返った後ろ座席には、ぱっつんぱつんのお仕事鞄以外にも、膨らんだボストンバッグっぽいのがぼてっと積み込まれている。
「今回はさすがに急すぎて、友だちにも振られちゃったんで、けえたんだけ預かってもらって独りで行くことになっちゃったんですけど」 「急すぎ……って、奈々ちゃん、そんなにしょっちゅう旅行とか、友だち誘ったりとか」 「ええ、まあ」
少しも悪びれない様子に、呆れるのとはまたちょっと違う、何だか落ち着かない気持ちになる。
「私と同じで不規則な仕事してる友だちが一人いて、いつもはその子に付き合ってもらってるんです。高校時代からの付き合いなんで、まあ大体の無理はきいて貰ってるっていうか」
何で、だろう。 よどみの無い運転と共に続くあの子のいつもどおりの饒舌が、そのまとう雰囲気も口調もいつもとは少し違って聴こえるのは。 何で、だろう。 いつものようには、上手く茶化せない気がする。 何でなんで、と繰り返す内に。 不意に気づいた。 あたしは。 こんな風に。 あたしの見知らぬ誰かのことを話すあの子を。 今まで全く、知らなかったことに。
「……ゆかりさん? ホントに大丈夫ですか?」
赤信号で止まった瞬間、こちらを覗きこむように体ごと近づいてきたあの子に、あたしは思わずびくり、と肩を震わせた。
「もしかして、やっぱりどこか具合……」 「何でもないよ、大丈夫」
あたしのテンションが変わる度に、酷く心配そうにちょっと自信なさげに下がる眉尻も。 何か言いたげに小さく開いたり閉じたりを繰り返す唇も。 いつもの、あの子のものでしかないのに。 その手は、ハンドルから離れなくて。 当たり前なんだけど、信号が変わった途端、その瞳も顔も、見慣れたそれとはちょっと違うものになっちゃうんだなって。 そんな当たり前の事にさえ、なんだか、ひどく、どきどきしている自分が、おかしくて。 だから。
「……ホントに」 「え?」 「連れてって、くれる?」
気付いたら、するり、と。 そんな言葉が、唇から零れ落ちていた。
「奈々ちゃんが今からいくとこに、あたしも、連れてって」
明日の仕事は、とか、誰に連絡も無しで大丈夫ですか、とか、そもそも旅行の仕度どうするんですか、とか。 青に変わってしまった信号に慌てて前に向き直りながら、矢継ぎ早に言葉を繰り出すあの子に。 明日はあたしも半日オフだから、とか、連絡なんてしなくても平気、とか、仕度なんてなくても出先で買えばいいじゃん、とか、あたしも間髪いれずに淡々と答え続ける。
「でもあの、結構遠くまで行く予定なんですけど。着いたら多分、晩ご飯時で、お買い物する暇なんて……そもそも、そんな便利なお店がある場所かどうかも分かりませんし」 「だったらちゃんと支度するからゆかりんちに寄って。どうせ送ってくれるつもりだったんでしょ?」 「そ、それはそうですけど、でも、」 「てか、ホントはやっぱり、連れて行きたくないんでしょ、ゆかりのことなんて。だったら、」
だったらなんで、って続けそうになった瞬間、ずきり、と胸の奥が今度ははっきりと痛んだ。 さっきのは多分、まさかあたしが乗り気になるなんて思っていなかったからこその冗談で。 だから、あの子もこうまでしつこく食い下がられるとは夢にも思わなかったに違いなくて。 でも、調子が良いだけじゃなくって、どっか気持ちの優しいところのあるあの子は。 こんな風に言われちゃったら、きっと、断り切れなくて困っちゃうだろう。 そこまで分かっていて、どうして、あたしは、こんなこと。 ぐるぐると回る考えと一緒に、こめかみを締め付けている鈍痛が、熱に代わる。 脈打つたびに、何かを打ち込まれるみたいに鈍い痛みが熱と一緒に溢れ出して、胸の中まで達するみたいで、まともにあの子の顔をみることも出来なくなる。
真っ直ぐに座っている事も難しくなったあたしは、胸元を自分の掌で抑えるようにして俯いた。
「…………」
小さな、溜息みたいな声であの子が何かを呟いた、けれども、痛みに気を取られていたあたしにはそ
れは意味のある言葉としては、感じ取れない。 気まずい沈黙に満たされたまま、あの子の車はいつしか、あたしのお家の近くに辿り着いていた。
「……着きましたよ?」
緩やかに路肩に停車させた後、あの子の遠慮がちな声があたしの肩を叩く。 ありがと、ごめんね、困らせて。 冗談だってば、もう、本気にしちゃって、やだな。 言うべきそれらの言葉は実際には、あたしの引き結ばれた唇からはこれっぽっちも紡ぎだされることは無くて。 すくんだままの身体も、動かなくて。 どうしたら良いのか分からないままじっとしていたら、小さなため息があの子の口元からもう一度零れ落ちて、瞬間、ぎくりと身体を強張らせた。
「……ゆかり、さん、」
躊躇うような、一瞬の間を置いて。 あの子は、うー、と軽く唸った。
「15分で、、仕度、してきてください」
……15分? 一体、何を言われたのか咄嗟には分からなくて、思わず振りかえる。 視線の先、ハンドルを両手で握り締めたままフロントガラスの向こうを見据えていたあの子は、困ったように、項垂れた。
「やっぱり駄目だって思ったらそのまま降りてこなくて良いです、15分経ったら、私、このまま一人で行きますんで」 「……奈々ちゃん?」 「あ、15分じゃ短すぎでしたか! じゃ、ええと、」 「……十分だと思う、けど」 「そ、ですか。分かりました、それじゃ、」 「まって、奈々ちゃんは……っ」
何故だか、泣きそうな顔で笑って目を逸らしてしまったあの子に、あたしは焦って声を被せた。
「ホントに、待っててくれる? ゆかりのこと、置いてかない?」
吃驚したように、あの子が勢い良く振り返る。 大きく見開かれた瞳が一瞬、泳いだ気がしたけれども、次の瞬間、へにゃり、といつもの困ったよう
な笑顔がその顔全体に浮んだ。
「そんなに、信用ないですか、私」 「や、だって、迷惑かなあって、流石に」 「そんなこと、無いです」
区切るように力強く返ってきた声に、寧ろ却って不安になる。 この子の優しさに、あたしは、時々、すごく、怖くなる。 真っ直ぐに邪気なく近づいてきたと思ったら、微妙な距離を置いて、あたしの出方を探って、それから慎重に言葉を紡いだり、かと思うと、思いもかけない行動に出たりする。 そんな、酷く曖昧な、なのにどこか大人びた反応に気付くたびに、あたしの胸には怯えにも似た、痛みが走る。 黙ってしまったわたしに何を思ったのか、いっそう苦笑を深くしながらあの子は、シートベルトを外し、後ろの席へと腕を伸ばした。
「それじゃ、これ、預けます」
言葉と共に、とっさに広げてしまったあたしの掌に、ずしり、と重い感触。 ルームランプを反射して、きらきらと輝くシルバーのチェーンに繋がれた、変わった形の鍵らしきものが、二つ。
「なに……これ?」 「鍵ですけど、私の部屋の」
鍵なのは分かってる、けど。 なんで、こんなもの。 戸惑うあたしを振り向きもせず、フロントグラスの向こうを見据えたまま、彼女は口元を綻ばせた。
「やっぱり、15分縛りは無しにします。けど、もし、行く気がなくなっちゃったら、これだけ返しに来て下さい。それまでは待ってますから」 「え? え? 奈々ちゃん?」 「これでも、信じてもらえませんか?」
笑い含みの、でも何だか苦しげな声を呟いて伏せられたあの子の首筋が、ほんのりと色づいているのに気付いて、あたしは鍵ごと自分の掌をぎゅっと握り締めた。
「……奈々ちゃん、へんなドラマの人みたい」 「え?! へ、へんなドラマって?!」 「仕度、もしかしたら一時間くらい掛かっちゃうかも」 「え、あ、さすがに一時間は……って聞いてます、ゆかりさん?!」
あの子の焦った声を背中に聴きながら、あたしはさっさと車を降りる。 あの子は、優しい。 馬鹿みたいに。 でも、その優しさを向けられることを恐れ続けているあたしは、多分。 もっと馬鹿なんだろう。 けど。 預けられた鍵を、着替えを詰めたボストンバッグの底に押し込みながら。 あたしは、少しだけ、泣きたくなっていた。
ええと。 でっかい黒い車を運転するシーンを書きたかった模様。 続くかどうかは、やっぱり未定(えーえー)。
※ホントは、090111.
続くかどうかは、不明です(えー)。 例に拠って、良く似たお名前とお仕事をお持ちの二人のお話。 時間軸は、08年夏前。
理由なんて知らないし。 分からない。
ライヴまでは超タイトだったスケジュールが通常モードに戻ったお陰か。 いままでは後回しになってたこととか。 後は、ご飯を炊いたりお料理もどきなことをしちゃったり出来る位には。 余裕出てきたかなあとか思っていたりしていたのは、ほんの僅かな間で。 気付けばふと、独りきりの部屋のソファの上で。 膝を抱えて座り込んでいたりする。 スケジュールが通常に戻ったってことは。 あの子と逢える機会だって、少しは増えたってことでもあるのだ、けれども。 その事に思い当たるとなんだか余計に。 瞼が重くなって、何にも考えたく無くなってしまうのは。 どうしてなんだろう。
― Your melancholy. ―
いつまでも仏頂面をしていてもどうしようもないことなんて分かってる。 思えば随分と長い付き合いになるその人は、困ったような顔で笑いながら、でも、間違いなくどこかで高を括っている。 こういうの、見透かされてるっていうのかな。ちょっと腹立たしいけれども、でもホント、こればっかりは、仕方が無い。 いくらお仕事でもやってやれない事なら断固として拒否するけれども、やってやれない事じゃないって、もう分かってるし。 ただ、話が話だけに、避けて通れない部分があって、それが、あたしの気持ちを酷く重くしていた。
「今日は溜息多いですねー」 「お疲れなんですよ、ライヴ後だから」
事情を知らない筈は無いのに、いつもより少し広めのブースに集ったいつものメンバーが気遣うように、でも面白そうに声を掛けに来る。それも、次々と。 ホントに、もう。
「だめー、今日は何読んでも頭に入んないー」 「んじゃ、それで行きましょう今日は」 「……ゆかり、ほんっとーにそうするよ?」
良いですよ、と半笑いで台本にメモを書き込む作家さんの頭に、本気で自分の台本を投げたいなあなんて思ったのはここだけの内緒。自分が先に幸せ掴んだからって、浮かれちゃって。
「もーっ! ちょっときゅーけーいっ!」
とっくに打ち合わせ自体は済んでいたからわざわざ宣言する必要もなかったんだけども、そう叫んでから席を立つ。 足音を心持ち高く立てながら歩く。ろそろ今年は履き納めかなあと思う、頑丈な編み上げブーツがいつもより重く感じてまた溜息が零れる。こめかみに熱が集まる。体調はそれほど悪い訳じゃない。でも、ちょっと、イライラが酷い。 だからかな。
「あ。」 「あれっ?」
ベンダーコーナーに近づくまで、そこに佇む存在に全く気付けなかった。
「ゆかりさんっ」
真っ直ぐな笑顔で駆け寄ってくるあの子の足元も、踵の高い頑丈そうな皮ブーツ。だけどもその足取りは迷い無く軽やかで。
「おはようございます!」 「ん、おっはよー」
今日は取材関係のお仕事は無いのか、いつも以上にナチュラルっぽいメイク。相変らずきらっきらな笑顔はだから、ちょっとだけ幼く見えるのに何故かどこと無く落ち着いても見えた。 この年末年始に掛けて何かしらの山を越えちゃって、その上、次の山場が直ぐ近くに待ち構えているからなんだろうな……なんてことをぼんやりと思う。同時に、ずるい、とか思っちゃってる自分に気付いた瞬間、こめかみに蟠った熱が更に上がった気がした。 やれやれ。
「この時間に逢えるなんて、今日は早かったんですね」 「んー、ちょっとねー」
元気一杯な声をいつもどおりの調子で聞き流してみせながら、目の前の赤アンプの灯ったボタンを幾つか見比べた後、ミルクティーを選ぶ。いや、選んだつもりだった。
「……あちゃー……」
間違えた。
「あれ? ゆかりさん、いつから珈琲飲めるように?」 「……これ、要らない」
全く悪気の無いその顔目掛け紙コップを突き出すと、あの子は反射的に手を出しながら仰け反った。
「え? あ、ちょ、あの?」 「リベーンジーっ」
自分でも良く分からないまま叫びながらもう一度、今度は慎重にボタンを選んで、事無きを得る。あの子はと言うと、押し付けられたカップを両手で包み込んで小首を傾げたあと、何を思ったのかそれを近くのテーブルの上に置いて、肩から下げた鞄の中ををがさごそ探り始めた。
「あったあった。ええと、はい、これどうぞっ」
差し出されたのは、指先で摘める程度に薄くて平べったくて小さい、けれども綺麗な包装紙に包まれた何か。
「なに、これ?」 「フレーバーチョコです。ちっさいですけどすっごくフルーティーですっごく美味しいんですよー」 「へえ……」
笑顔に押されて反射的に出した手に乗せられたそれをまじまじと眺めた後、色んなチャームとか缶バッジとかついてて可愛いのに、中身詰め込まれ過ぎてぱつんぱつんになってるあの子の鞄へと視線を逸らす。
「四次元ポケット……」 「はい?」 「んーんなんでもない。ありがとー」
どうにも思ったことがそのまま口を付いて出るのはあの子の前でのいつもどおりなんだけど、われながら切れがないと溜息をつきながら、手近なベンチに腰を下す。ミルクティーをテーブルに置いて、両手を使ってゆっくりとチョコの包み紙を解く。途端に香る、甘くてほんの少し酸っぱい、ベリー系の香り。
「ホントだ、良い匂いがするー」 「でしょ? それはブルーベリーですね。他にも、ほら、」
思わず上げてしまった声に無邪気に微笑み返しながらちゃっかり隣に座ると、あの子は再度鞄を探り、目の前のテーブルの上に更に三枚、色も絵柄も違うチョコを並べてみせた。
「これはミントで、これはラズベリー、それからオレンジかな。ホントは他にも幾つかあったんですけど、すみません、食べちゃいました」
ぺロリ、と小さく舌を出すその仕草は相変らず小動物っぽい。
「で、残り全部ゆかりにくれるの? 相変らず太っ腹だねー」 「でしょ? ……なんちゃって。お裾分けです、実は、差し入れに頂いたんです」
差し入れ、と聞いて、口元へとチョコを運びかけていた指先が止まる。さっきあったあの人は何て言ってたっけ。
『奈々ちゃんも一緒やし、安心やろ?』
「……もしかして、みっしー?」 「あれ? 何で知ってるんですか、ゆかりさん」
しまった。 うっかり滑った舌を誤魔化すべく、チョコを口の中に放りこむ。 多分、この話はまだ、あの子には届いていない筈で。
「てか、DVDの打ち合わせとか、だったの? 今日は」 「あー、はい、私の方は。それと、夏のライヴの件とか……ゆかりさんは?」
間近な場所からきらっきらの眼差しで見上げてくるあの子を見返しながら、口の中のチョコをもごもごと咀嚼することで返事を保留にする。
「あ、もしかして、ゆかりさんもライヴDVDのお話だったとか?」
やっぱりまだ聞いていなかったらしいその様子にちょっとだけほっとして、「どうかなー」なんて呟きながらチョコを飲み下す。甘苦いチョコが舌に絡みつくのも、ベリーの香りが鼻の奥を強く刺激するのも、美味しいけれどもちょっとだけ苦しい。ちっさいのに自己主張激しいなんて、まるで誰かさんみたいだ、そんな事を考えながら、ミルクティに手を伸ばして冷めたそれを一気に飲み干した。
「……つか、DVDになんか出来るのかなーあれ」 「えー、私は是非、観たいです、ゆかりさんのライヴ」 「観せるだけのならあるけど。スタッフさんが撮ってくれてた奴、でも――」
出来ればそれもどうかな、と続けかけたのに、あ、それそれ、とあの子は大きな声を被せてくる。
「それも勿論、観せて頂く予定ですけど! やっぱり、ちゃんとした形になったの、みてみたいじゃないですかー」 「……ええと、なんでそっちが勿論なの?」
しまった、みたいな顔してあの子が口を噤んだ。あの野郎、いつか締めてやる、なんて物騒な事考えたあたしに気付いたのか、慌てて両手を振ってみせる。
「や、私が三嶋さんに頼んだんです。だって、ゆかりさん……呼んでくれなかったですし」
焦りの余りにか変形しそうなくらいカップを握り締めながら、あの子は困ったような顔になる。
「いえ、あの、ファンの人以外にチケット回すの嫌なんだろうなって……前々から思ってましたし、多分今回も駄目だろうな、ってわかってたんです、けど。でも、この前のラジオとかのお話聞いて、なんていうか、その、ちょっとショックだったっていうか……」 「ショックって、なにが?」
聞き返しながら、その理由は実は分かっている。 この前ラジオで、今回のライブにも誰も呼ばなかったとか、過去に何度かだけ事務所の後輩の子を招待したことがあった、なんて話をネタにした。あの話には、もうちょっと何ていうか、別の意図もあったりなかったりしたんだけど。てか、あの子があたしのラジオをこんなにちょくちょく聴いてるらしいこと自体、ホントは凄く、なんていうのか、嫌、っていうか、困る、みたい感じなんだけど。 けどでも、あの子はそんなあたしの内心なんてお構い無しに、続ける。
「今度のライヴだって、そりゃ、お仕事入ってましたけど、でももしも万が一にでも呼んで貰えてたなら、何が何でも駆けつけたと思いますし、」 「ちょっと待ってちょっと待って! さすがにそれは無理でしょ」
仕事の都合つけてまで、なんて、ホント、冗談でも勘弁して欲しい。 力一杯否定するあたしの突然の大声に、ぎょっとしたようにあの子が振り返る。驚いたようなその眼差しに向けて、あたしは考えるよりも早く、次の言葉を口にしていた。
「ていうか、ゆかり、奈々ちゃんだけは絶っ対、呼ばない」
言い切った、瞬間。 あの子の目が、物凄く大きく、見開かれた。 怖いくらいに。 だから、あたしも、怖くなった。 胸が変に、ドキドキして、止まらなくなった。
「……絶対……って……、」 「え、や、あの、DVDとかなら観てくれて良いよ勿論全然、でも、ライヴだけは絶対、無理」 「あ、あの……ゆかりさん、なんでそんなに……」 「なんででもっ」
被せるように叫ぶと、あたしは立ち上がった。 他の誰かに説明できるような理由なら。 幾らでも並べられる。 でも。 あの子に対してだけは。 言葉にして説明なんて、出来る気がしない。
「じゃ、ゆかりお仕事に戻るからっ」 「え? あ、ゆ、ゆかりさんっ!」
あたしに追いすがるようなあの子の声を振り切って。 あたしは駆け出した。 折角もらったチョコレートを置き去りにしてきたことに気付いたのは、ブース近くで足を止めた、そのずっと、後のこと。
今日はホントに、どうかしている。 結局、痛む頭と胸を抱えてぐだぐだ状態のまま収録は終わった。あたしのコンディションを分かっくれてるというか、勝手知ったるスタッフの皆は寧ろ、そんな状態を逆手に取るように盛り上げてくれたけど、なんていうか、だからこそ、余計に辛い。 ブースを出た後、反射的に電源を入れてしまった携帯がゆるゆると揺れる。開くまでもなく、あの子からだと分かってしまう。でも、確認する気にはなれなくてそのまま鞄に仕舞いこんだ。 今日はこれでお仕事終了。このまま、お家に帰ろう。 明日の午前休も、寝て過ごそう。 もう、何も考えたくない。 ぐちゃぐちゃだった。
「あっれー、もう上がり?」
定まらない気持ちのまま廊下を歩いていたら、かつーんと届く声に背中を叩かれ思わず振り返る。
「あー、ますみんかー」 「かーって何よ、かーって」
勢い良く駆け寄ってきたのは、これまた結構長い付き合いの同業者。 というか、多分、お友だちって呼んでも構わない相手だった。
「ライブおつかれーってこれもう言ったっけ?」 「んーん、聞いてない」 「良かったー。んじゃ、ライブお疲れさまっ」
傍若無人に見えて結構折り目正しいというか生真面目なところのある彼女は真顔で一礼すると、ん?と軽く眉根を寄せた。
「なんかホントに疲れてるっぽいけど。なんかあった?」 「別にー」 「うん、まあ、ゆかりんは基本、いつも疲れてる感じなんだけど、」
今日はちょっと違う感じ、とか言いながら首を捻っている。
「ライブ終ったから、ちょっとは元気になってるかと思ってたんだけどなー」
んんー?って分かり易く眉を顰めてみせる彼女に、あたしはなんと返したものか分からなくて曖昧に笑ってみせた。
ラジオとかでも日常でも、こんな感じである意味フリーダムな言動を隠すことの無い彼女だけども、その容量のおっきそうな頭脳は常に自動的に高速回転している、そんな気がしてならないから、裏も表も無くさらっと零されるその言葉に、あたしはいつものように動揺して曖昧に笑うしか出来なくなる。
「もしかして、なんか新しい仕事でも、決まった?」 「えっと、ま、そんなとこか、な」 「相変らず人使い荒いなーゆかりんとこ。稼ぎ頭だから、ま、しょうがないんだろけど」 「えー、ゆかり、そんな稼いでないよー。少なくとも、ますみんが喜ぶほどには」 「ははは、あたしはあたしの懐に入らないお金の事では別に喜ばないっ」
軽い笑い声を立て、冗談何だか本音何だか分からない感じでさらっと返すと、ふむ、と彼女は腕を組んだ。
「ま、ともあれ、体が資本だからねー。お仕事終わったんなら早く帰ってゆっくり休むと良いよ」
「ありがと、ますみんもね」 「やー、あたしはまだこれから打ち合わせだし。っつーか、毎週土曜夜生放送ってホント、きっついわー」
ははははは、と真っ直ぐな笑い声と共に零された愚痴に、あたしの胸が勝手にどきっと跳ねた。 8月最後の土曜日。 多分、首を縦に振るしか残されていない選択。
「あ、そうそう、」
じゃあ、って行きかけた彼女が、くるん、と器用に頭だけで、ぼんやりと佇んでたあたしを振り返った。
「なんかほっちゃんがね、この夏、おっきなお仕事することになりそうって言ってたよ。ほら、例の
愉快なバンド絡みらしいんだけど。詳細は本人に訊くと良いよ」
しかし忙しいのは結構な事だよね、なんて言って、じゃあねとさっさと背中を向けた彼女を見送るあたしは、その言葉を何度も反芻するうちに、さっきの比じゃない位の痛みを胸の奥に感じて。 息さえ忘れて、その場に立ち竦んでいた。
風邪かな、それとも目眩のせいかな。 自分でもどうしたものか分からないぐらぐらとした熱をこめかみから頭の天辺に掛けてのあちこちに感じながら、駅を目指す。 まだ早い時間だから、電車を乗り継いで帰ってもそんなに人ごみに揉まれる事もないだろう。そう思って表通りに面した交差点で信号待ちをしていた時だった。 直ぐ脇に停車した黒っぽい、ちょっとごつい輪郭の車が唐突に短くクラクションを鳴らしたものだから、どきっとする。思わず反射的に目を向けたら運転席の窓ガラスの上半分に濃い目のスモークが掛かっていて、それが何だかちょっと柄が悪そうで、慌てて視線を逸らした。 その瞬間、再び短いクラクションが鳴り響いて、更にびくっとした。 何が気に入らないのかな。 分からないから酷く不安で、早く信号が変わってさっさと走り出して欲しい、そう思った時、その車があたしの方へと車体をゆっくりと近づけてくるのがわかってぎょっとなる。正確には、路肩に路駐でもしようとしているのか、ウィンカーを二つともちかちかさせて、路肩に車体を寄せてきたのだった。 次の瞬間、待ち望んでいた青信号が、あたしの真正面で灯ったから、慌てて足を踏み出そうとしたその時。
「ゆかりさんっ」
その、一見柄の悪そうな車のドアが素早く開いて、聴き慣れた、でもちょっと慌てた感じのあの子の声がそこから飛んできて。 あたしは、ものすごく、間抜けな顔をそちらに向けたに、違いなかった。
まさかの容量オーヴァー(えーえー)。 翌日分に、続きます。
止まらない。 止まれない。
Our sadness and painfulness
一日が終って。 逸る気持ちを抑えて。 タクシーのシートに沈めた身体が今にも駆け出しそうで。 何が切っ掛けか何て、考えたくない程に。 今は只、あなたに逢いたくて。
チャイム鳴らして、魚眼レンズの向こうが少し暗くなるのを眺めながら。 頭の片隅、何かがカウントダウンを始めるのをぼんやりと感じて。 ゆっくりと開かれる重たい扉の向こう、ほんの少し身を屈めた彼女がそっと上目遣いで見上げてくるのを確認するのと同時に踏み込んだ。
「……っ!」
何か言い掛けた言葉を吐息ごと奪って。 胸元を、握り締めた拳が打ち付けるのも構わずに。 ほっそりとした背中に両腕を回して、精一杯、抱き締める。 身じろぎした彼女の首筋をなぞって形の良い頭の後ろに回した右の掌を、ゆっくりと上下する。 唇に感じる温かさに、泣きたくなる。
「……ちょっと、まって」
名残を惜しみながら解放した、その次の瞬間、彼女は大きく息を吐きながら声を漏らす。苦しげに伏せられた顔からは、表情が読み取れない。
「……ごめん、なさい」
反射的に謝った瞬間、彼女が顔を上げた。
「謝んな」
顰められた眉と、引き結ばれる唇。 ああ、また、間違えた。
「……大好きです」
正解なんて知らない。 だから、精一杯、気持ちを言葉に乗せてぶつけたら、彼女は困ったように眉根を下げた。
「ななちゃん、いきなり過ぎ」
ご尤もな言葉に、項垂れる。 自分でも掴みかねる感情をただぶつけるだけの行為だったと気付けば、こめかみがきんと冴える。
「……大丈夫、だよ?」
冷え切ったその場所に、彼女の掌が触れる。 目を上げれば、ふにゃり、と柔らかい彼女の笑顔。 ゆっくりと、その手が首の後ろに回されて、引き寄せられる。
「……ゆかりさん」 「うん」 「大好きです」
知ってる。 小さな声が、耳元を揺らした。
「誰にも、渡したくないんです」
うん、って頷く動きが肩先に触れる。
「ゆかりさんにとっての、特別で居たいんです」
うんうん、って彼女の額が、鎖骨の辺りに押し付けられる。 華奢な身体に回した腕に力を籠める。 壊してしまいそうで怖くて、でも手離せなくて。
「ごめんなさい……」 「……もう……」
困らせるのを分かっていて、でも。 ああ。 何処までも、自分本位で。 我侭で、泣きたくなる。
「……ななちゃん?」 「……はい」
ぺし、と、痛くない強さで彼女の掌が頬を打つ。
「謝らないで」 「……はい」 「ゆかりのこと、好き?」 「はい」 「だったら、それだけで良いじゃん」
背中に回された細い腕に、引き寄せられる。
「ゆかりは、ゆかりの事好きでいてくれるななちゃんのこと、好き」
ぎゅっと、引き寄せられる力に、胸が痛いほど、震えた。
「ありがと、ね」 「……っ!」
苦しくて、切なくて、幸せで。 言葉に出来なくて、縋りついた。 誰かに奪われる、その可能性に怯える気持ちが消えた訳じゃない、けどでも。 今は、今だけは、彼女はこの腕の中にいる事を選んでくれる。 その事が、堪らなく幸せで、切なくて、苦しかった。
願わくば。 この切なさが、苦しさが、幸せが。 出来得る限り、続きますように。 ただそれだけを願って。 私は、腕の中の彼女を、力いっぱい、抱き締めた。
幸せで、ありますように。 笑顔でありますように。 ひたすら、それだけを祈るように、願いつつ。
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