心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2014年06月03日(火) 打たれ弱さ

久しぶりの雑記更新です。「心の家路」のアクセス数は昨年の半分ぐらいに落ち込んでいますが、雑記を更新しないのがその原因でしょう。なかなか雑記を書く時間が取れない、というのがその理由であります。

僕は精神病院からAAに戻ってきて、ひと月も経たないうちにスポンサーから「新しいAAグループを作れ」と言われ、東奔西走して(といっても市内だけだけど)なんとか会場を確保してAAグループを始めました。その時、県内のAAグループ全部と、近隣の断酒会を回り「新入りが新しいグループを始めますよ」と挨拶に回りました。

それ以降、10年以上に渡って、AA以外のグループにはほとんど出席したことがありませんでした。いわばAA純粋培養のソブラエティだったわけです。ところがある時引き受けたスポンシーが、毎日ミーティングに通わねばいつスリップするか分からないほど不安定な状態でした。田舎では通える範囲で毎晩AAミーティングがあるとは限りません。そこで、スポンシーにはAAのない晩は断酒会に通ってもらうことにしました。まず二人で断酒例会に参加して、「これから毎週この人が例会に参加しますので面倒みてやってください」と頭を下げたわけです。

頼み事をしておいて、頼みっぱなしというわけにもいきません。そこで時々は僕も断酒会の例会に参加しました。そして、薬物のスポンシーができればNAに、ギャンブルのスポンシーができればGAに、といろいろなグループのミーティングに行く機会が増えました。

そうやってAA以外のグループに参加してみると、比較することで、AAの長所も短所も見えてきます。今回の雑記ははAAの短所の一つについてです。

断酒会は夫婦での参加が基本だとされています。旦那さんがアルコール依存症というペアが多いでしょうが、独身の人の場合には母親と息子というパターンも珍しくないようです。「断酒例会は体験談に終始する」とありますが、体験を分かち合うのは依存症本人だけでなく、家族の人も話をします。家族の人は、本人の行いによって、迷惑を被り、悩まされ、傷つけられてきたわけですから、家族の体験談は「傷つけられた、悩まされた」という話題が多くなります。

迷惑をかけ、悩まし、傷つけてきた依存症者本人にしてみれば、家族の話は被害者の糾弾の声のように聞こえますから、罪悪感や自責の念を呼び起こすことになります。もちろん家族は本人を苦しめようと話をしているわけではなく、家族は自分自身のために話をしているわけです。

それに、酒を止めているアルコホーリクは「落ち着きがなく、イライラが強く、不機嫌である」というのはAA、断酒会の別を問わない共通認識ですから、あまり本人の罪悪感を刺激して酒を飲まれてしまったら元も子もありません。だから、家族としても気を使いつつ抑制した話しかしてないわけです。

飲んでいた頃や、やめた後の言動について、例え批判的なことを言われたとしても、ぶち切れたり、椅子を蹴って出ていったりするわけにもいきますまい。断酒の初期からそうした環境に置かれた断酒会員の人は、批判を受け止める力もつくし、自己評価と他者からの評価が食い違うことにも慣れます。いわば「打たれ強い」回復をしていきます。

AAは本人だけの集まりです。オープンミーティングは本人だけとは限りませんが、多くのオープンミーティングは家族の参加はゼロであるか、いたとしてもわずかです。だから、AAではアルコホーリクの言動によって「傷つけられた、悩まされた」という話をする家族はほとんどいない、とみなしてかまいません。

本人だけの集まりになってしまうと、どうしても「傷の舐めあい」的要素が混じってくるのは避けられません。人間の自尊心(セルフ・エスティーム)はその人自身の行いと連動します。良い行いをする人の自尊心は高く保たれ、悪い行いばかりしている人の自尊心は低くなります。アルコホーリクが自分のことをどう感じていたとしても、その人は飲んでやってきたことが悪いことだったと自覚していますから、自尊感情は低くなっています。

そういう新しい人をグループ受け止めるには「傷の舐めあい」的要素も実は結構役に立ちます。自尊感情が低くなっている人は、自分が非難される場所に通いたいとは思いません。非難されないことで、AAがその人にとって「安全な場所」と受け止められるのでしょう。

AAは自省を大事にします。「自分に正直になれ」と言われますし、ミーティングでは正直な話をしろと言われます。それは他者から指摘されるのではなく、自分で自分の欠点を見つけていくことを大事にしているからです。しかし、自分で自分を評価するのは、他者に評価されるのに比べて、甘い評価になるものです。人間誰しもそうで、アル中も例外ではありません。

わざわざ自分に罪悪感や自責の念を強く呼び起こすような考えを持とうとする人はいません。だから、過去のトラブルについて、自分のやったことは責任を軽く、相手が自分にしたことは責任を重く評価してしまうものです。そもそも悪いことは思い出さないでおくにこしたことはない、という戦略も使います。

そのままだと、多責的で、批判に弱く、自分と違った意見を許容できない、という飲んでいた頃そのままの性格が残ってしまいます。だからこそAAはスポンサーシップを大切にします。「スポンサーが厳しい」と言う人が多いのですが、それはスポンサーはその人の欠点を指摘する役割だからです。ステップ4・5の棚卸しを通じて、過去の行動がどのように他者を傷つけ、悩ませてきたか指摘する役割をスポンサーが担っています。12ステップを経験することで、バランスの取れた自己評価と、批判や自分と違った意見を受け止める力を身につけていけます。

AAメンバーの約半数はスポンサーを持っていませんし、持っていたとしても「悩んだときの相談役」ぐらいにしか捉えておらずスポンサーを活用していない人もいます。だから「打たれ弱い」回復をする人も少なくありません。打たれ弱いとは、批判を受けると強く落ち込んだり、批判を回避しようと大事なことを放棄してしまう傾向があるということです。AA内でサービスの役割に就いたり、何かのイベントの実行委員長に就いたとき、成功の基準が「批判や非難を受けないこと」だったりするわけです。価値基準が歪んでますよね。

AAのミーティングは「言いっぱなし、聞きっぱなし」とされ、対話やクロストークを排除しています。このことは分かちあいが非難の応報になるのを避ける点では都合がよく、参加者に「この場所が安全だ」と感じさせる利点があります。しかしながら世間は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではありません。休職が終わって復職したり、あらたに就職したりして、責任を負うようになると、注意や警告を受けたり、些細な失敗を指摘されることは避けられません。そのたびに激しく落ち込んでしまったり、興奮してしまうようでは、社会の中で生きていくのは大変です。

AAでミーティング中心で回復している人の中には、何年たっても「AAミーティングだけが安全な場所」だと感じている人もいます。その人にとっては職場も(ひょっとしたら家庭も)危険な場所なのでしょうか。人間には確かに安全な場所が必要です。それは荒海を航海する船にとっての港のようなものです。朝、家庭という港から出港し、職場という港に着く。夕方になればその港を出て、AAミーティングという港に行き、そしてそこを出て家庭という港に戻る。このように、港から港へと航行する人生は充実して幸せでしょう。しかし、AAミーティングという港しか持たない人にとっては、家庭や職場は批判という嵐が荒れ狂う海なのでしょうか。そうなってしまったのは、環境のせいではなく、自分を変えてこなかったからなんですけどね。

こんな感じで、本人だけの集まりであるAAでは、打たれ弱い回復になってしまいがちです。それを避けるためには厳しく回復をサポートしてくれるスポンサーの存在が欠かせないでしょう。

もちろん、AAでもオープンミーティングに家族がたくさん参加しているグループでは断酒会みたいな力関係が働きますし、断酒会でも本人中心の会だとAAみたいな感じになっちゃったりするでしょうから、AAでは、断酒会では、と単純化できるものではないですね。

ともあれ、AAというのはミーティングとスポンサーシップの組み合わせが必須のものだと思いますし、本人だけで「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングをやっているだけでは、足腰の強い回復を生み出すことは難しいのじゃないかと思うわけです。


2014年04月01日(火) しゃべりまくるんだ・・何を?

ごめんねエイプリル・フールのネタじゃなくて真面目な話で・・・。

12ステップを伝えるときに、まずステップ1で必ず取り上げなければならないことが二つあります。

その一つは、ビッグブックの「医師の意見」の文章を書いたシルクワース医師が「身体のアレルギー」と呼んだものです。彼はアルコホーリク(つまりアルコール依存症の人)は、アルコールに対してアレルギー体質である、と述べています。

少しでも医学知識を持つ人は、これを聞いて疑問を持つに違いありません。現在ではアレルギーとは「免疫反応が特定の抗原に対して過剰に起こること」を指します。依存症は免疫の病気ではありません。彼は医師なのに、医学的にとんちんかんな主張をしている、と思われるでしょう。

しかし医学用語ではなく、アレルギーという言葉が一般的な英語としてどんな意味を持っているかを調べてみましょう。それには英英辞典を使うのがよろしい。手元にあるオックスフォードのワードパワー英英辞典を引いてみると、allergy の項にはこうあります。

a medical condition that makes you ill when you eat, touch or breathe sth that dones not normally make other people ill

つまり、他の人々にとっては問題がない何かを、ある人がそれを食べたり、触れたり、吸ったりすると具合の悪い状態がもたらされることです。

花粉症の人が花粉を吸うと具合の悪い状態がもたらされる。その害は、鼻水やくしゃみや目のかゆみです。しかし、花粉症じゃない人々にとっては、花粉は何ら問題にはなりません。これがアレルギーです。

同様に、アルコホーリクが酒を飲むと具合の悪い状態がもたらされる。しかし、アルコホーリクでは無い人にとっては、アルコールは何ら問題にはなりません。シルクワース医師はこれを指してアレルギーと呼びました。

では、その具合の悪い状態とは何か? 彼はそれを渇望と呼びました。アルコホーリクが酒を一杯飲むと、次の一杯が飲みたくなる「渇望」が沸き上がります。それによって二杯目を飲むと、どうしても三杯目が飲みたくなる・・・。こうしてアルコホーリクは酒の量をコントロールできずに飲み過ぎてしまいます。この渇望は意志の力で打ち勝つのが難しいほど強いのです。

しかしこの病気に理解のない世間一般は、アルコホーリクが酒を「飲み過ぎる」ことについて、こう思っています。アルコホーリクは、我慢しようという意志が弱い、快楽主義で心地よさを求めすぎている、酒に逃避している・・・。そういう面がないわけではないが、しかしそう思ってしまうのは病気への無理解ゆえ。誤解と偏見です。

シルクワース医師は、それはアレルギー同様の生理的現象だと述べています。花粉症の人が、鼻水やくしゃみが出るのは、意志が弱いからでしょうか? 快楽主義だからでしょうか? そんなことはありませんね。生理的現象に意志の力で打ち勝つのは難しいのです。例えば「下痢」という生理現象に意志の力で打ち勝てるでしょうか? しばらくは我慢できるかもしれませんが、いつかは堪えきれずに悲惨な結末を迎えます(意志の力で我慢しようとせずに早くトイレに行った方が良い)。

同様に意志の力で酒をコントロールする(節酒する)ことをアルコホーリクに求めるのは無理なことです。そのことを理解すると、それまでなんとか酒をコントロールして飲もうと努力してきた人も、飲酒を諦めて完全に酒を止めるしかない、と思うようになります。

もしアルコホーリクが、もう二度と酒を飲まないと決意して、それを一生続けることができたら、すばらしいことです。しかし多くのアルコホーリクが、二度と飲まないと誓い、周りの人にもそれを公言したにもかかわらず、再飲酒してしまいます。

多くの人たちが「ついうっかり」とか「魔が差した」などと表現しますが、飲み出せばいずれは渇望によって元の飲んだくれに戻ってしまうと分かっていながら、最初の一杯に手を出すのを避けられないわけです。その瞬間、私たちアルコホーリクの心は、正常な判断ができないほど不健康な状態に陥っています。つまり、狂気の瞬間が訪れてしまうわけです。

シルクワース医師はこれを指して「精神的強迫」あるいは「精神の強迫観念」と呼びました。しかしビッグブックが出版された時点ではその用語は確定していなかったようで、ビッグブックでは「最初の一杯の狂気」と呼んでいます。

普段は「もう二度と飲まない」という正常な判断ができている人なのに、長い人生のどこかで「飲む」という狂った判断をしてしまう。それを意志の力で防ぐことができない。それがこの依存症という病気の核心的な部分だというわけです。

それを理解できれば、その人は自分の力だけで酒を止めていくことを諦め、助けを求めるようになるでしょう。

身体のアレルギーと精神の強迫観念。この二つを認めることによって、その人は「アルコールに対して自分が無力である」ことを理解するのです。

アメリカでAAができて20年後に、『AA成年に達する』という本が出版されました。その中でビル・WはAAの初期を振り返ってこう書いています。

> ニューヨークでの初期のころを振り返ると、しばしばその情景の中心に、酒飲みを愛した温和な小柄な医師、ウィリアム・ダンカン・シルクワースの姿が見られる。彼は当時、ニューヨークのチャールズ・B・タウンズ病院の主任医師だったが、AAをまさに基礎づけてくれた人だと言える。私たちは彼からこの病気の本性を学んだ。彼は、アルコホーリクの頑固な自我(エゴ)をパンクさせるための道具を私たちに与えてくれた。それは、私たちの病気の特徴を述べた、あの衝撃的な文句である。飲まずにいられなくなる精神的強迫と、狂気か死を運命づける身体的アレルギーという……。これは絶対に必要なキーワードである。シルクワース博士は、希望のない暗黒の土地をどう耕すかを教えてくれた。まさにこの絶望の土地から、私たちのフェローシップのあらゆるスピリチュアル(霊的)な目覚めが花開いた。(『AA成年に達する』p.21)

二カ所の強調は原文のままです。身体的アレルギーと精神的強迫、このふたつは「絶対に欠かせない」とビルは述べています。この二つのキーワードからAA共同体が成長してきたのです。

最近かなり不安に思うのは、日本のAAはこの二つの概念を新しい人たちに伝えることがちゃんとできているのだろうか? という疑問です。その点が曖昧だと、新しくAAに来た人たちがステップ1に中途半端にしか取り組めなくなってしまいます。

もちろん、小難しい言葉を使って説明する必要はありません。先日も都内のあるミーティングで、年配のメンバーが難しい言葉を使わずに精神的強迫を説明しきってくれたことに、僕は舌を巻きました。けれど、意志の力で酒を止めていけるとか、AAという仲間の中にいれば酒を飲まずにいられる、と考えてしまっている人も少なくないのではないか・・・だとするなら、日本のAAから「絶対に欠かせないもの」が徐々に失われているのではないか・・まあ、あんまり心配するのは止めましょう。

まあ、もし減っているのならそれを補うように努めれば良いわけですが。

さて、AAのメッセージを運ぶというのは「12ステップを伝えていくことだ」というのは、そのとおりです。

しかし、物事には順番があることを忘れてはいけません。12ステップによる自分の回復が嬉しかったあまりに、いきなり棚卸しや埋め合わせの話をしてしまう人もいます。しかし、それはうまくいきません。世の中のいろんなことが順番を間違えたためにうまくいかなくなります。ステップも同じです。

まず、ステップ1のことを伝えることから始めなくてはなりません。ビル・Wもその順番を間違えて失敗ばかりしていたので、シルクワース医師に以下のようにたしなめられています。

> 君がまずしなければならないのは、彼らの自信をはがすことだ。医学的な事実を知らせることだ。とことん手加滅せずに。飲まずにはいられなくなる強迫観念について、飲み続けていたら気が狂うか命を落とすことになる肉体的過敏性、または身体的アレルギーについて、しゃべりまくるんだ。一人のアルコホーリクから受け継いだことを次のアルコホーリクに話す。恐らくそうすることで、そういうやっかいな自我(エゴ)が激しく打ち破られていくだろう。そうなって初めて、君の薬を試すことができるんだ。あのオックスフォード・グループから学んだ倫理的な原理をね。(『AA成年に達する』p.102)

最初に「精神の強迫観念と身体のアレルギーについて、新しい人にしゃべりまくる」ことが大切だと言っています。ビルはこのアドバイスに従って、ドクター・ボブに会ったときに、この二つのことを実に6時間に渡ってしゃべりまくったのです。その知識がボブの心を動かし、そうしてAAが始まったのです。もし、ビルがアドバイスを受け付けずに霊的な原理のことばかりしゃべっていたら、AAは始まらなかったに違いありません。

だから私たちは、「絶対に欠かせない」この二つのことをちゃんと理解する必要があります。その上で、新しくAAに来た人や、病院で会った患者さんたちに、このことを「しゃべりまくる」必要があります。そうすることによって、私たちは新しい人たちの回復への「意欲をかき立てる」ことができます。

ではあるものの・・・実はこの二つを伝えても、自分がそれに当てはまると素直に認める人は少数派です。否認の態度でこう言われることのほうが多いでしょう。

「教えてくれてありがとう。でも私はあなたたちとは違うし、私にAAの助けは要りません」

こんな時に、苛立って対決的な直面化技法なんて持ち出さない方が良いです。このふたつの事実がその人にちゃんと伝わっていたなら、いずれ変化が起きるはずです。

> 一人のアルコホーリクの心に、もう一人のアルコホーリクがその病気の本質を植えつけたなら、その人はもう以前と同じではありえない。それ以後、飲むたびにその人はこう考えるだろう。「ひょっとすると、あのAAの連中の言う通りかも」。そしてこういう経験を何回か繰り返し、最悪の状態になる何年も前に、納得して私たちのところに戻って来る。(『12&12』p.33)

精神の強迫観念と身体のアレルギーという「この病気の本質」がその人に伝わっていることが大切です。その人は、酒を飲み過ぎるたびに「これはAAの連中が言っていた身体的アレルギーというやつのせいなのかも」と思うでしょう。さらに、酒を断ったのに再飲酒してしまった時には「これが精神の強迫観念というやつか」と思い至るかもしれません。やがては自分の意志の力で問題を解決できないことを認めるでしょう。そうやって底つきの底を浅くすることができます。

これがAAの伝統的なインタベーション技法だというわけですね。

(AAメンバーとしてではないけれど)先日横浜でステップ1の話をいろんな依存症の20人ほど相手に100分以上させてもらいました。もちろん話をするだけでなく、参加者の人たちが身体のアレルギーと精神の強迫観念について把握できるような工夫も入れ込みました。随時質問を受け付けながらやったのですが、途中である人が「じゃあ、どうやったら解決できるのですか。私はどうすればいいのですか?」と尋ねてきました。

ジョー・マキューの緑本の46ページに書かれているようなことが実際に起きたので、驚いてしまいました。その人は自分の問題を把握し、解決するための意欲を持ったということでしょう。

20人のうち一人だけ? まあそうです。あまりに少ないかもしれませんが、僕にとってはそんな体験は初めてだったのですから。僕が繰り返し取り組んで技量を向上させていけば、打率は上がる可能性はあります。何も全員を納得させる必要はない。野球だって3割打てば名選手なのですから。しかもこいつは遅発性信管みたいなもので、後でその人の中で効果が生まれる仕組みでもあります。

ビルがボブにしゃべりまくったように、私たちもしゃべりまくって行こうではありませんか。身体のアレルギーと精神の強迫観念について。それはAAには絶対に欠かせないものなのですから。


2014年03月03日(月) ACという概念について

回復は上り坂だ・・・というエントリを書こうとしたら、すでに書いてあったので、別のネタを書かねばなりません。

というわけで、「AC概念の拡大とミスマッチ」というネタで書きます。

最近あっちこっち行くと、「ブログ読んでます」と専門職の人に言われることがあり、この雑記は素人として書いているとはいえ、あまりいい加減なことは書いちゃならない、と思ったりすると、何か書くたびに資料を調べたりして、手間がかかるようになりました。

しかし、別に論文書いているわけじゃないんだから、論拠なんかできる範囲で提示するだけでいいんじゃないか、と思い直して、書きたいことを雑記で書いていくことにします。

「共依存」という言葉が登場することは少なくありません。しかし、最近は共依存という概念があまりに拡大されてしまったせいで、人によって何を指して共依存と呼んでいるのか違っていたりします。それを確認せずに話を進めると、話が噛み合わないこともしばしばです。

共依存という概念は、ACという概念と同時に誕生したのだそうです。「アルコール依存症の家族にはアルコール依存症本人と同様の傾向が見られるのではないか」ということが、1970年代のアメリカの援助職の中で言われるようになりました。

本人と家族の両方に共通した傾向とは何か? それは「自己中心性」だとされます。

AAの基本テキスト(ビッグブック)には、自己中心性には二種類の現れ方があるとされています(p.88)。

ひとつは、「意地悪で、利己主義的で、わがままで、不正直」というパターンです。これは傍目にも分かりやすい自己中心性です。demanding つまり、自分本位の要求をたくさんするタイプです。

もう一つは、「親切で、思慮深く、忍耐強く、寛大で、節度があり、献身的」というパターンです。こちらは自己犠牲的で望ましいことじゃないか、と思われるかもしれません。しかし、献身的である背後には、人や物事を自分の思い通りに操りたいという自己中心性が隠されています。親切タイプの自己中心性というやつですが、実は策略家です。

一人の人間の中には、この二種類の自己中心性が同居しており、状況に応じてどちらかが出てくるわけです。虐待的な環境にある人は、後者のパターンを多く身につけるとされます。

想像してみてください。ある家にアルコホーリクの男がいたとします。彼は日中は働いているが、夜は家で大酒を飲み、不機嫌になれば家族に嫌みを言い、時に暴れ、飲み過ぎて仕事を休んでしまうこともある。だが、そんな人に収入を頼って生活を続けていかなければならないとしたら、他の家族(彼の奥さんや子供たち)はどんな対応をするでしょうか。

ともかく彼に仕事を続けてもらい、家の中もなるべく平穏にしたいと思うのなら、なるべく穏便に、彼には気持ちよく酒を飲んでもらい、気持ちよく寝てもらい、翌日は気持ちよく仕事に行って欲しい。そのために、忍耐強く、献身的、自己犠牲的な対応を身につけたとしても不思議じゃありません。

このようにして、酒を飲み続けるアルコホーリクと、その人に頼りつつも飲む生活を支える家族の関係が出来上がっていきます。この両者は一見対照的でありながら、実は同一の自己中心性を備えています。

家族は大酒を飲んでいるわけではありませんが、大酒飲みと暮らすうちに本人と同様の性質を身につけてしまう。本人の病気は alcoholism ですが、酒を飲んでいないのに、大酒飲みと同様になってしまった家族を指して、para-alcoholism あるいは co-alcoholism という言葉を当てはめました。

para という接頭語には「側」という意味があります。アルコホーリクの側にいることで(大酒を飲んでいないのに)アルコホーリク同様になった家族という意味です。co という接頭語には「共同の」とか「相互の」という意味があります。アルコホーリクと共同生活を送るうちに、相互に影響し合ってアルコホーリク同様になったということです。

同様のことはアルコール依存の家族だけでなく、薬物の家族にも当てはまりますが、それにはパラ・アルコホリズムとか、コ・アルコホリズムという言葉は相応しくないので、依存を現す dependency という言葉に置き換えて、co-dependecy と言う言葉に変化しました。これが日本語に翻訳されて「共依存」という言葉になったわけです。

ここまで説明してきたとおり、共依存とアルコール依存に共通するのは、自己中心性です。12ステップはこの自己中心性を減らし、「他者との真の協力関係を築き上げる能力」を身につけていくためのものです。他者との衝突を繰り返し、自分の中に不快感を溜めていけば、やがてその不快を解消しようと酒に手を出すことでしょう。再飲酒を防ぐには、自己中心性を減らしていく必要があるのです。

そして、アルコホーリクの回復に12ステップが役立つのなら、同じ自己中心性を備えた共依存者にも12ステップが役立つはずだ、と考えられます。このように、依存症の家族グループ(○○ノンと呼ばれるもの)は、どうやって依存症本人に酒や薬を止めさせるかを学ぶ場所ではなく、家族自身が回復していく場所と位置づけられます。もちろんそんなことは、1970年代に援助職が発見するまでもなく、1950年代にはアラノンが始まっていたわけですが・・・。

このように見てくると、共依存が本来何を指していたかが分かります。それ以外の意味があるとすれば、それは後からくっついたものです。アルコール依存と共依存は、12ステップがテーマにしている自己中心性というものを共通項にしていますが、だからといって「同じ病気」だと言っているわけでもないし、「依存症の人が酒や薬をやめないのは、家族の共依存が原因だ」と言っているわけでもありません。にも関わらず、「同じ病気」とか「共依存原因論」みたいな単純で分かりやすい話に飛びついた人が多かった時代もあり、今でもその残滓があちこちに見られます。

さて、アルコール依存の問題がある家庭では、子供たちが親からの影響を受けながら育っていきます。その子供たちは、大人になっても子供のころに身につけたパターンを捨てられずにいることがあります。それはつまり「親切で、思慮深く、忍耐強く、寛大で、節度があり、献身的」に相手に尽くせば、相手は自分の願いどおりになってくれる、という思い込みを持っているということです。

これに対して、Adult Children of Alcoholics(ACoA)という名前を付けました。AC(アダルト・チルドレン)です。彼らの特徴は over achiever であることです。achieve とは「成し遂げる」こと。つまり、求められる以上に成し遂げる人です。

彼らの多くは社会的に成功しており、仕事に対して献身的で(つまり仕事依存的で)、家族に対しても献身的です。しかし、自分自身の望みというのはハッキリせず、むしろ他者や状況が自分の願い通りになってくれたときに喜びを感じます。もちろん(どんなに命令的になっても、他者を思い通りに操れないのと同様に)、どんなに献身的になったところで、物事を自分の思い通りに動かすことはできません。ACの生き方はどこかで行き詰まる運命です。

ACの本質は共依存です。共依存⊃ACですから、ACの人は全員共依存のはずで、「私はACだけど共依存ではありません」という人は本来存在しないはずです。

本来的な意味でのAC(つまりover achiever)の人の回復の話を聞けば、どのようにしてそうした自己中心性を減らし、自分自身の望みや他者と協力関係を築く能力を身につけていったか、という話になっています。

親がアルコール依存の人の中に看護職や援助職に就く人が目立つのも、ACとは何かを考えれば頷ける話ではないでしょうか。

さて、共依存の概念が拡大していったように、ACの概念も拡大されていきました。具体的には、「機能不全の家庭」で育った人に対してです。そして、本来のACとは異なった概念へと変貌を遂げていきました。

拡大されたACの概念に含まれる人たちは、(本来のAC概念とは対照的に)under-achiever であることが多いようです。彼らはあまり社会的には成功していない。学校に通っている間に不登校や引きこもりになってしまったとか、学校は無事卒業して就職したものの、その仕事が長く続かず、その後はあまり定職に就いていないとか。その過程で、何らかの依存症になる人もいれば、ならない人もいます。

そして、こうした社会不適合の原因として「機能不全家庭に育ったから」という理由が当てはめられており、ひらたく言えば親の育て方が悪かった、ということなのでしょうか。彼らには献身的な自己犠牲の姿はあまり見られず、むしろ社会に適合できないことへの苦労が前面に出てきます。

おそらくこうした不適合には、何らかの精神疾患や人格障害や発達障害が絡んでいるのだと思います。発達障害が専門の杉山登志郎先生によると、虐待のある環境で育つと発達障害類似の状態になるそうですから、それも関係あるのかもしれません。

さて、もともとの共依存は、アルコホーリクと同様の自己中心性に的を当てた概念でした。だから共依存に12ステップが効果があるのは自然でした。けれど、後々になって共依存の概念が勝手に拡大され、「旦那さんが酒を止めないのは奥さんが共依存だからです」という主張が行われるようになったとき、奥さんが12ステップをやれば旦那が酒を止めることにつながったのでしょうか? そんなことが実績として評価されたことはなかったわけです。

拡大された概念に対して12ステップが有効だとは限りません。(だからこそ、ジョンソン式介入やCRAFTなどの、12ステップとは別の手段があるわけですし)。

そして、もともとはACすなわち共依存だったわけです。ですから、ACの回復に12ステップが役立つのは自然な考えでした。しかし、拡大されたAC概念(不適合群)に対して12ステップがはたして有効なのでしょうか。

12ステップは、アルコホリズム以外の様々な分野に広がっていきました。どの分野においても、自分たちがアルコホーリクと同様の性質を持っていることを認めた上で、だからこそ12ステップが効果があることになっています。例えばACA(日本ではACoA)では、ACが自らをパラ・アルコホーリクと呼んでいます。アルコホーリクと同じだからこそ、同じ12ステップが効果を持つわけです。自分はアルコホーリクとは違う、と思っているACに12ステップが効かなかったとしても不思議じゃないぞ、と。

まあ、いろいろ書きましたが、拡大してしまった共依存やACの概念をいまさら縮小することはできないでしょう。みんな自分の好きに共依存やACの概念を使っていくでしょう。けれど、拡大した概念に対して12ステップが有効かどうか、それはわかりません。

今回の雑記はさすがに調査不足で少々精度が低かったかもしれません。ただ、あまり正確さを気にかけすぎると、雑記というかたちになる前に崩れていってしまうアイデアも多いので、未消化な部分が残っていたとしてもかたちにしてみることにしました。


2014年01月25日(土) ステップやりました、と言われる戸惑い

信州から関東に越して3週間たらず。埼玉県内から都内の新しい職場への通勤にもだんだん慣れてました。まだ、引っ越しの後片付けに追われていますが、長野にいた頃に比べて、依存症の人と会う機会は飛躍的に増えています。

その中で、少々気になる言葉を何度か耳にしました。それは、

「私はステップをやりました」

というものです。12ステップに取り組む人が増えているのは、とても良いことだと思っています。ビッグブックに書かれた12ステップや、ジョー・マキューなどのステップの取り組み方に関心が高まるのも良いことだと思っています。12ステップを構造化し、視覚化することで、多くの人がステップの恩恵を得ることができるのようになったのも狙い通りです。

だがその一方で、「本質が伝わってない」という焦りも感じるようになってきました。(じゃ、お前は本質が分かってるのかよ、というツッコミはスルーするとして)。

「私はステップをやりました」という言葉は、「でも今はやっていない」ということを暗に意味していることが多いように思います。つまり、「私は以前12ステップに取り組んだことがある」という過去の経験を意味する言葉として発せられているわけです。英文法の過去完了みたいなもんですかね。

確かに、ステップ4・5の棚卸しとか、ステップ8・9の埋め合わせをやっている時点では「私はステップに取り組んでいる」という実感があるでしょう。ステップ4〜9の6つのステップが人生を大きく変えてくれるのも事実です。

でも、その先にはステップ10があるじゃないですか。

ステップ10は、ステップ4〜9を日々繰り返していくことです。ステップ4〜9を部屋の大掃除に例えるとするなら、ステップ10は毎日のこまめな掃除に例えられます。大掃除を熱心にやっても、その後の毎日の掃除をさぼっていたら、部屋はふたたびゴミであふれる元の状態に戻ってしまうでしょう。そうなってしまっては、せっかく大掃除(ステップ4〜9)に取り組んだ苦労も水の泡です。

むしろ大掃除は多少手抜きでもかまわない。その後の日々の掃除の中で、見過ごしていたゴミを片づけ、気がついた汚れを拭き取っていけば、部屋は徐々にキレイになっていきます。同じように、ステップ10を続けていけば、私たちの回復や成長も継続していきます。

自動車の運転免許を合宿で取るコースがあります。短期間で免許証を手に入れられるので、それなりの人気があると聞きます。それは結構なことなのですが、合宿で運転免許を取得した人が、その後、自動車を運転しなかったら、その人はペーパードライバーになってしまいます。ライセンスは持っているけれど、技術を伴っていないわけです。そういう人に車を運転させて、自分はその助手席に座りたいと思う人は少ないはずです。

12ステップはライセンスではありません。12ステップは「生き方」であり、実践されるべきものです。

だから、「私は12ステップをやった」という意識で、さらに「だから回復しているはずだ」と考える人が出てきている人がいるとするなら、それは12ステップの本質が伝わっていない、ということなりはしないか。だとするなら、憂うべき事態です。

まあもちろん、「私は12ステップをやった」という言葉が、過去の経験のみを示すとは限らないし、文脈次第だと思うので、あまり過敏に反応しても仕方ないのですが・・・。ともあれ、12ステップというのは「やった」という過去になるべきものではなくて、ずっと続けていくものだってことは忘れずに伝えておかなくちゃならないことです。


2013年12月31日(火) AAの中のロールモデル

今年も1年ありがとうございました。

Webalizerの出力データ(12/31 22:20現在)。

今年一年の統計データ
送出バイト数 1642.1Gbytes
訪問者数 172万7千
リクエストページ数 4238万
リクエストファイル数 3801万
リクエスト数 4675万
(FC2ブログはカウンターを設置していないので不明)。

今年も本当に多くの皆さんに訪問していただいて、ありがとうございました。

今年は2月に沖縄、6月にアメリカ、7月に福岡、そして11月に香港と、あちこちに行かせてもらいました。その中でも特にアメリカと香港での経験から考えたことを、雑記に書き残しておきたいと思います。

それはAAは「ロールモデル」によって動くところだ、という考えです。

ロールモデルというのは比較的新しい言葉です。

> 具体的な行動技術や行動事例を模倣・学習する対象となる人材。
> 多くの人々は無意識のうちにロールモデルを選び、その影響を受けている。「○○のようになりたい」という憧れは誰しもが持った経験があるだろう。
kotobank.jp - ロールモデル

> ロールモデルとは、自身の行動の規範となる(お手本となる)存在のこと。
> 人は誰でも、ロールモデルを選び、その影響を受けている。
exBuzzwords - ロールモデル

role は役割、model は規範もしくは鑑(かがみ)という意味です。

ずいぶん前ですが、AAのコンベンション開催のガイドラインを読んでいて、すこし引っかかっていたことがありました。

http://www.aa.org/en_pdfs/mg-04_conferenceandconv.pdf (日本語訳はオフィスから手に入ります)。

この中に、ほとんどのコンベンションでは、域外からAAメンバーをスピーカーとしてフィーチャーしている、と書かれています(p.4)。僕はそれを読んで、AAメンバーをフィーチャーするとはどういう意味なのか、と疑問を持っていました。

feature とは「呼び物にする」とか「主演させる」という意味です。つまり、海外のAAには、AAイベントの呼び物となり主役的扱いを受けるメンバーが存在する、ということなのでしょうか。

AAはすべてのメンバーを等しく扱い、差をつけないところだ、と僕は考えていたので、そのように特別な扱いを受けるメンバーは存在するはずがないし、英文の読解力不足が原因で自分がヘンなことを考えたのではないか、と思っていました。

その考えが少しずつ変わり始めたのは、ジョー・アンド・チャーリーの情報に触れたからです。生前の彼らは、週末になると全米各地へ出かけていって12ステップのワークショップを行っていました。1980年代には、ほとんど毎週末と言っても良いぐらいの頻度でした。いったいその旅費はどうしていたのでしょうか。自己負担だとすれば、年間で何百万円相当になるではありませんか。二人はそんなお金持ちでもなかったはずですが・・・。

実はその費用は主催者側の負担だったそうです。多くの場合に主催は、各地のAA地区委員会であり、彼ら二人の旅費は(上記ガイドラインに従って)委員会が負担していたのだそうです。その額は何万円相当(時にはもっと)になりますから、それを参加人数で頭割りして、参加費に上乗せするわけです。主催者側は、ジョーとチャーリーを「呼び物」にすることによって、参加者を集めていた、ということなんでしょう。

だとすれば、コンベンションのガイドラインの記述も頷けます。ハワイで行われたコンベンションに参加した日本人メンバーによると、そのコンベンションにはアメリカ本土から招かれたAAメンバーがスピーカーとしてフィーチャーされていたそうです。また他のメンバーからの話でも、アメリカ本土でのAAイベントでは、州外からのスピーカーの名がチラシにクレジットされていたそうです。

僕が今年参加した香港のコンベンションでも、3人のメンバーがフィーチャーされていました。二人はアメリカから招かれたメンバーでした。僕はその一人の話を聞くために、香港まで行きました(彼の名前が載っていなかったら行かなかったことでしょう)。

香港のコンベンションの内容がふるっていて、3日間のうち、僕らがホームグループでやっているような普通のミーティング(参加者がそれぞれ経験を話すタイプ)は、わずか1時間だけでした。他の時間は、話し手が12ステップや伝統についての個人的経験を話すのをひたすら聞くものであったり、パワーポイントのスライドを使ったステップの解説であったり、あるいは実際にステップに取り組むワークショップであったりしました。多くの参加者にとって、コンベンションは「話す」機会ではなく、もっぱら「見て聞く」ための機会になっていました。

香港のコンベンションの内容がやや偏っている可能性はありますが、ともあれ、AAの中にフィーチャーを受ける(つまり呼び物にされ、メインのプログラムを担当する)メンバーがいる、という現実はよく分かりました。

最初にロールモデルについて取り上げましたが、そういう人たちは皆の「ロールモデル」なのでしょう。ロールモデルとなったメンバーたちは、おそらく素晴らしい回復者のはずです。しかし、実際に彼らが回復しているかどうかは、それほど重要ではない、と僕は思います。

むしろ、その他大勢のメンバーが、ロールモデルとなったメンバーをお手本とし、彼らの12ステップの解釈を聞き、「あの人のようになりたい」と思いながら自分がどう行動するか学んでいこうとしていること。それが大事だと思うのです。AAは role model method (ロールモデル法)によって回復を伝えていく場だったのだ、というのが今年の気づきでした。

人は誰でもロールモデルを持っています。それは職場の先輩だったり、AAだとスポンサーだったり、あるいは憧れの著名人だったりするのかもしれません。あなただって、誰かをロールモデルにしているでしょうし、ひょっとしたら誰かのロールモデルになっているのかもしれません。

しかし、「あの人の話を聞くためになら、みんなで旅費を負担しても良いじゃないか」と多くの人に思わせるような「みんなの」ロールモデルになる人は、どうやって選ばれるのでしょうか。おそらく、本人がなりたいと思ってもなれるものではなく、自然に選ばれていくものなのでしょう。

みんなのロールモデルになった人は、どんな気分なのか。想像するに、それなりの楽しみもあるでしょうが、決して楽(らく)ではない。むしろ苦労の方が多いような気がします。

はてさて、AAメンバーは平等であるけれど、等しく扱われるわけではない。無名の集まりですから famous(有名な)メンバーはいないけれど、well-known(よく知られた)メンバーはいる。皆の規範になる役割を神によって割り当てられてしまったメンバーもいるわけです。

僕は日本のAAメンバーなので、当然日本のAA共同体の影響を受けます。日本のAA共同体では、メンバーを等しく扱うのが良いとされ、「選ばれた」メンバーはあるべきではない、という考えが主流だと思います。だからこそ、僕も事情を知らなかった頃は、ガイドラインの英文を読んで、これは自分の解釈ミスではないかと疑ったわけです。

しかし、少なくとも英語圏のAAでは、共有可能なロールモデルを作り上げ、そのロールモデルを積極的に活用していく、というやり方をしている、ということが分かりました。それは、実際に行ってみなければ分からなかったことです。

年が変わっちゃうので、この話はこれぐらいにしておきましょう。


2013年11月06日(水) お湯を貯める

「節酒薬」ナルメフェンは日本では大塚製薬から発売になる、と発表がありました。

大塚製薬とルンドベック社 減酒薬「nalmefene」(ナルメフェン)の日本における共同開発・商業化を合意
http://www.otsuka.co.jp/company/release/2013/1031_01.html
来年(2014年)には国内でも治験が始まる、とあります。

完全断酒が好ましいのは言うまでもありませんが、ハードルが高いゆえに治療の中断を招きやすい・・・いや、そもそも治療に入ろうともしない人たちが多いわけです。だったら、いったん「節酒」へと誘導して最終的な断酒へと導くのが良いとか、あるいは仮に断酒できなくてもハーム・リダクション(害の低減)にはなるだろう、という意図でしょうね。

ところで、ハーム・リダクションって、日本語的に4文字に略すと「ハムリダ」ですかね?

アルコール症を取り巻く環境がどんなに変わろうとも、AAは「永続的な断酒の手段」を提供する、いわばラグビーのフルバック的なポジションを保っていけば良いと思います。

さて、我が家の風呂は循環式ではなく、ボイラーで沸かしたお湯を貯める方式です。風呂に入りたければ、お湯の蛇口をひねって、浴槽にお湯を貯めます。数分経ってから、服を脱いで浴室に入れば、程良くお湯が貯まっている、という具合です。

ところが僕はときどき間抜けなことをやらかします。お風呂の栓をしっかりはめなかったせいで、お湯がすき間から漏れてしまっていることがあるのです。全裸で、底から数センチしか貯まっていないお湯を眺めるのは、かなり情けない体験です。

こんな話をするのも、もちろん意図があります。

伝統9(長文のもの)によれば、AAの理事会は「AA全体の広報活動を行う権限」をグループから託されています。理事会や評議会、各地の委員会などのAAのサービス活動において、AAの広報活動が主要なテーマになっているのは間違いありません。

つまりAAの広報は、サービス活動の中の主役と言っても過言ではありません。

なぜ広報が必要なのか、と言うと、広報活動をしないとAAが秘密結社になってしまうからです。誰もAAのことを知らず、どこにあるのかも分からないのでは困ります。また、AAグループは、AAのメッセージを運ぶために存在しているのですから、新しい人がAAのことを知るチャンスが増えるようにしなければ、目的が達成できません。

AAを愛する人たちは、たくさんの人がAAにやってきて、AAが成長することを望んでいます。回復の歓びをその人たちにも感じて欲しいからです。

「がんばって広報活動をして、たくさんの人がAAにやってくれば、AAは成長していく」

その考えに間違いはありません。しかし、落とし穴があります。一生懸命広報活動をやっているわりには、なかなかAAは成長していきません。AAメンバー数の正確な統計なんてありませんが、最近の日本国内の印象はせいぜい「微増傾向」ぐらいです。20世紀における成長と比べたら「停滞」と呼びたいぐらいだし、そのうち「減少」が始まりやしないかと心配です。

なぜ成長が滞ったのか? 広報活動が足りないのか? もっと頑張って広報活動をしなくちゃならないのでしょうか? ・・・確かにそういう面もあるでしょう。けれど、見落としていることがあるように思います。

実際には、たくさんの人がAAにやってきています。ところが、その中で、1年、2年、5年、10年とAAに残ってミーティングに出続ける人は少ないのです。だから増えない。

先ほどのお風呂を例に使えば、蛇口からお湯が注がれているのに、栓が抜けているものだから、どんどんお湯が漏れてしまっている。「広報活動をもっと頑張れば良い」という考えは、「ものすごい勢いでお湯を注げば(例え栓が抜けていても)次第にお湯が貯まっていくはずだ」という考えに似ています。そんなことをしていたら、水道代もガス代も大変なことになっちゃいます。要するに非効率なんです。

10年前、20年前と比べて、間違いなくAAの知名度は上がっています。一般社会への浸透はともかく、アルコール医療関係者や援助職の人でAAの名前を知らない人はまずいないと言ってもいいぐらいです。もちろん、AAの名を知っているからといって、信頼を寄せてくれているとは限らないし、(AAと同じで)職業家の世界にも毎年毎年新しい人が入ってくるので、広報活動は常に続けていかなくちゃなりません。

つまり、AAが成長しない、メンバー数が増えない理由は、広報活動が足りないからじゃないのです。栓が抜けているから。定着率が悪いからです。

もちろん、新しくAAに来た人が全員メンバーとなって定着するなんて考えられません。ビル・Wが書き残した文章によれば、順調にAAが成長を続けていた1940年代ですら、「5人のうち3人か4人は短い間にAAを離れていく」とあります(The American Journal of Psychiatry, 1949 Nov, 370)。AAへの定着率は当時でも2〜4割だったのです。それでも3割ぐらいの定着率だったら凄いことです。

もし日本のAAが3割の定着率を達成していたら、今頃は何万人というメンバーを抱えていたことでしょう。メンバーが増えないのは広報不足だからではなく、ミーティングやAAそのものに「惹きつける魅力」が足りないからです。

(ちなみに、すぐにAAを去って行った6~8割はその後どうなったのか。ビル・Wはビッグブックの第2版の序文で、彼らの「約三分の二は、後になって戻ってきた」と書いています。今の日本のAAで「来なくなってしまった人」がAAに戻ってくる比率はどれぐらいでしょうか? 戻ってこないのは、AAに戻るだけの魅力を感じないからかもしれませんね)

では、どうやったら「魅力」を備えることができるのか。個別に議論するのはまたの機会にするとして、全般的な話をするならば、「新しいこと」をやらなくちゃなりません。今までもAAメンバーはメッセージを運ぶ努力を続けてきました。頑張ってミーティングも維持してきたわけです。しかし、今までのやり方でうまくいかなかったのですから、何かを変えていく必要があります。それはつまり、何らかの「新しいこと」をやるということです。

AAは同調性の強い団体です。新しいことをやろうとすると、すぐに反発が生まれ、「それはAAのやり方じゃない」とか「私が聞いたやり方と違う」という批判が登場してきます。しかし、そうした意見の根拠を聞いてみると、なんだかあやふやなものでしかないことが多いのです。

結局、そうした「新しいこと」への拒否感が、AAの成長を妨げている最大の要因だと思うのです。根拠のあやふやな「述べ伝え」や古い因習に囚われることなく、どんどん新しいチャレンジをやって欲しいと思います。ミーティングのやり方にしても、スポンサーシップにしても、変えてみることが大切です。

もちろん、新しいチャレンジが成功するとは限りません。数限りない失敗が生まれるでしょう。でも、チャレンジなくして成功はありません。特に年齢的にも、ソーバーの期間も短い人たちの「無謀」とも言える挑戦を応援したいと思います。また、AAにおける「ヤング」とは身体的な若さだけでなく、young heartを持った人ならどんな年齢でもヤングなのだと言います。僕も常に変化を求め、AAの中で物議を醸していきたい。

「またあいつが何か変なこと始めたぞ」と言われるのは、とても名誉なことだと思っていますよ。

世の中に存在するすべてのものは、成長を続けているか、朽ちつつあるかのどちらです。何も変えなければ現状維持できるなんて考えは幻想です。ドアを開けて世界を見渡してみればそれが分かるはずです。変化を伴わない回復、変化を伴わない成長はあり得ません。

「変えられるものを変えていく」ための勇気を求めて欲しい・・・てゆーか、お風呂の栓はちゃんとしめようよ。ガス代もったいないから。


2013年10月31日(木) 依存と乱用の分離と統合

「心の家路」のサイトも解説から十数年経ち、掲載してある情報も古くなってきました。他の分野に比べれば緩やかなものですが、アディクションの世界にも進歩や変化があります。常に学び、新しいものを取り入れていく必要があるのでしょう。

「家路」をリニューアルするために集めた情報は、こちらの雑記でざっくり紹介していこうと思っています。今回もそんな情報の一つです。

この雑記では「アルコホリズム」という言葉を使っています。この病気を示す言葉として alcoholism が最も一般的な言葉でしょうが、日本でカタカナの「アルコホリズム」という言葉を使っているのはおそらくAAだけです。

スウェーデンの医師マグヌス・フスが Alcoholismus Chronicus (慢性アルコーリスム)という本を書いて発表したのが1849年のことでした。これがアルコホリズムという言葉の起源だそうです。ただ、フスが記録したのはアルコールによる身体の合併症であって、今の依存症の概念とは違っていたようです。また、アルコホリズムという言葉は(少なくとも英語圏では)すぐに広まらず、dispomania や inebriety という言葉が使われ続けました。

アルコホリズムという言葉が広く使われ出すのは1930年代以降、つまりAAの誕生以降です。それまで単なる悪癖と思われていたアルコホリズムを疾患として医学に認めさせたのは、多くの研究者の努力によるものですが、その背景にAAが大量の回復者を生み出したからこそでもあります。

APA(アメリカ精神医学会)では、DSM(精神障害の診断と統計の手引き)という診断基準を定めていますが、1952年のDSM-Iにはアルコホリズムというカテゴリが含まれています。WHO(世界保健機構)のICDでは、1967年発表のICD-8にアルコホリズムが加えられました。ただし、どちらもパーソナリティ障害のサブカテゴリになっています。

その後、DSMもICDも改版されていき、現在使われている版にはアルコホリズムという項目はありません。なぜアルコホリズムが消えてしまったのか?

そもそも診断基準とは何でしょう。いったいそれは何が目的なのか?

精神疾患は(一部を除けば)原因やメカニズムがよく分かっていません。仕組みがよく分からなくても誰かが何とかしなくちゃならない分野はいろいろあります(気象予報とか農学とか)。精神医学もそのひとつなのでしょう。おかげで、病気の仕組みについて様々な概念や仮説が提唱され、それぞれに信奉者が生まれます。放っておくと、それぞれに診断システムが作られ、病気であるかないか、病気だとすればどの病気か、病状は改善しているのか悪化しているのか・・・バラバラの基準ができてしまいます。

そうなると、保険金の負担や支払いが不公平になったり、ある治療法と別の治療法のどちらが優れているか比較ができなくなったり、いろいろ困ったことになります。そこで、「症状を頼りに」精神疾患を診断し、分類する統一基準が作られてきたわけです。

そして、新しい知見が加わると、それにあわせて診断基準も改版されていく・・・診断基準とは常に変更され続けるものなのです。

さて、1950年代にWHOの専門家委員会で、「嗜癖(addiction)と習慣(habituation)をどう区別するか」という議論が行われました。それまで区別なく使われていたこの二つを、委員会はこう定義しました。すわなち・・・

「嗜癖」とは、ヘロインのように連用すれば「誰もが」ハマってしまい、強迫的欲求が生まれ、耐性が生じ、離脱症状があり、個人の生活にも社会全体にも重大な影響があるもの。

「習慣」とは、ニコチン(タバコ)のように、強迫的欲求や離脱症状がなく、その薬理作用を好ましいと思った一部の人だけが進んで摂取するもので、影響があったとしても個人的なものに限られるもの。

嗜癖と習慣の違いは、薬物の違いによるものであるから、嗜癖を生じる薬物は国際的に規制すべきだとしました。ところが、この区別はあまりうまくいきませんでした。理由の一つは、次々に新しい薬物が登場してきて、それを分類する手間が必要だったこと。もうひとつは、アルコールのように両者の中間タイプが存在して、厳密な区分けが難しくなったことです。

(アルコールには一部の人たちしかハマらないけれど、ハマった結果は「嗜癖」です)。

結局10年以上議論を続けた挙げ句、1964年に「これからは嗜癖や習慣という言葉を使うのは避け、区別せずに依存(dependence)と呼ぶのが良い」という声明を出して幕を引きました。これ以降、アディクションという言葉は、医学的には好んで使われなくなりました。

嗜癖(アディクション)と嗜癖でないもの、という区別に意味があるとすれば、依存という概念はその両者を包括していると考えられます。

アルコホリズムに話を戻すと、WHOのコンサルタントも勤めたE・M・ジェリネックは1960年に Disease Concept of Alcoholism という本を出版しますが、この中で彼はアルコホリズムを5種類に分類しました(α型〜ε型)。彼はこのうちのγ型とδ型の二つだけが嗜癖と呼べるとしました。

つまりジェリネックの分類によれば、アルコホリズムには嗜癖と嗜癖でないものの両方が含まれていることになります。

(ちなみに、ジェリネックはアルコホリズムの研究に生涯を捧げた人で、最後はスタンフォード大学の自分の机で絶命しているのが発見されたのだそうです)。

1970年代になると依存の研究が進み、依存の本質は強迫的欲求や耐性や離脱症状だと考えられるようになりました。これは嗜癖の概念とよく似ています。すると、それまでの診断基準(DSM-IIやICD-8)にあったアルコホリズムには、依存と依存でないもの両方が含まれる曖昧さが生じます。

そこで、1977年に発表されたICD-9、1980年のDSM-IIIでは、それまでのアルコホリズムが「アルコール依存」と「アルコール乱用」の二つに分割されました。(ICDでは乱用は「有害な使用」)。

(それまで日本では alcoholism を(慢性)アルコール中毒と訳し診断名にも使われていましたが、これを境に徐々にアルコール依存へと置き換えられていきました)。

これによってアルコホリズムには、「依存」と「依存ではない乱用(abuse)」の二つが含まれ、それを区別することが明確になりました。乱用は、依存の前段階(いずれ依存に発展する)かもしれないし、依存とは関係ない乱用もあり得るのかも知れず、そこら辺ははっきりしないのですが、「依存でないものも含めてアルコール問題全体を扱う」という意志は明確です。

依存症のことを知らない人たちは、大酒を飲んでいる人がいてもそれを病気だとは思わず、単なる悪癖だと信じています。知識がないからこその偏見です。

ところが、同じ人が依存症の知識を多少得ると、今度は大酒を飲んでいれば何でもかんでも「アルコール依存症」だと思ってしまいます。「依存ではない乱用」があり、それはひょっとしたらアディクションではないかもしれず、アディクションのケアが合わないという可能性を考えることが必要でしょう。

さて、AAはAA独自のアルコホリズムの疾病概念を持っています。それはDSMともICDとも違うものです。ビッグブックの「医師の意見」から第3章までを読むと、AAが「本物の」アルコホーリクと呼んで対象としているものは、DSMやICDのアルコール依存(症候群)に近いことが分かります。しかし、完全に一致しているわけではありません。

その一方で、AAはアルコールに問題を抱えた人なら誰にでも門戸を開いています。「依存ではない乱用」の人たちは、AAのメインターゲットではないけれど「いらっしゃりたければどうぞ」ということでしょう。

今年(2013年)に発表されたDSM-5では、アルコール依存と乱用が再び統合され「アルコール使用障害」という一つのカテゴリになりました。この中で一定数項目を満たすものを依存、それに満たないものを乱用と区分けしています。

これは些細な変更のように見えますが、「依存ではない乱用」があるという考え方から、両者を統合して扱う方向へ舵を切っています。おまけに今回は、物質関連だけでなくギャンブルもこのジャンルに含めています。

1964年のWHOの依存の概念は、嗜癖であるかどうかを問うていません。WHOが「アルコール関連問題」と呼ぶものには依存も乱用も含まれます。そもそもアルコホリズムという言葉は、主にアルコールの嗜癖を指しているものの、依存や嗜癖でないものも含んでいます。このように、問題全体を包括して扱おうとする動きがあります。

その逆に、嗜癖と習慣を分けたり、依存と乱用を分けたり、あるいは「本物の」アルコホーリクと大酒飲みを分けたり・・と、間に線引きをしようとする動きがあります。

これまでの動きを見ると、この二つの動きが押し合ってバランスを取り、時計の振り子が振れるように右へ左へと動いてきました。DSM-5を見る限り、今は包括概念のほうへと振り子が傾いているようです。ICD-11への改版作業は2015年まで続けられるそうですが、おそらくDSM-5から大きな影響を受けるでしょう。

これからは依存と乱用の区別が曖昧になり、物質依存(アルコールを含む薬物)とプロセス依存(ギャンブル)を統合して扱う時代に入る・・・というのが一つの予想です。


2013年10月22日(火) 自分は神ではない

ミネソタ多面的人格検査(MMPI)というのがあります。今はどれぐらい使われているのか知りませんが、僕が入院していた頃は、心理検査として使われることが多かったように思います。ただ、これは400個近い(フルセットだと550個の)質問に答えなくてはならないので、対象は限られていたかもしれません。

質問項目は「山林警備をする仕事をしてみたい」、「ときどきたまらなく家出したくなる」、「愛に失望している」、「出世するためなら誰でもウソをつくと思う」みたいな、ありがち?な質問から、「私の魂はときどき身体から抜け出している」とか、「ときどき悪霊に取り憑かれている」みたいな怪しい雰囲気の質問まで様々です。

その中に「私は神の使者である」とか「私は神である」という質問が数問混じっています。僕は検査する側ではなく、される側だったので、MMPIの詳しいことは知りませんが、MMPI経験者の共通の話題は「神関係の質問に全部<はい>と答えたらどんな結果になるんだろう?」というものでした。

自分のことを神だと思っている人は、かなり困ったちゃんです。ただ、アルコホーリクは、よく自分を神だと思っている困ったちゃんであるわけです。

赤ん坊は自分の欲求を自分で満たすことができません。そこでむずがったり、大声で泣きます。すると母親やその他の人がやってきて、ミルクをあげたり、おしめを替えたり、あやしたり、暑さ寒さを調整してあげたりして、赤ん坊のすべての必要を満たしてあげます。誰もが赤ん坊時代を経験しているにもかかわらず、その頃にどう感じていたか記憶している人はいません。だから、赤ん坊の心の中は想像するしかありませんが、自分の欲求を他者に満たしてもらうことが、赤ん坊にとって最大の関心事である事は疑いありません。

やがて成長するにつれ、自分で自分の欲求や必要を満たすように求められます。さらには、簡単には満たせない欲求があることや、どうやっても満たせないものもあること、他の人も自分と同じ欲求を抱えていて、調和して生きていく必要があることなどを次第に学んでいきます。それが成長であり、成熟です。ごく僅かですが、赤ん坊のような状態で生きざるをえない人たちがいて、重度の障害者施設に行けば世話を受けながら暮らしている彼らに会うことができます。彼らが幸せである事を願うばかりです。

他者は自分の欲求を満たすために存在していると考えるのは幼児的です。自分を不快や不愉快にさせる相手を悪だと考えるのも同様です。周りの人が自分の思い通りに動いてくれれば、自分が幸せになれると考えるのは、神の役を演じる生き方であり、自分は神だと考えていることなのです。

アルコホーリクには、幼児的に自分は神だと考えている人が多いわけです。それはひょっとしたら、ミルク代わりに酒ばっかり飲んできたからかも知れません。「周りの人を思い通りに動かしたがる」という表現を使うと、まるで酒を飲んで暴れるDV男のように、暴力や暴言や威圧的な態度で人に何かを強制するやり方を想定してしまうかもしれませんが、そればかりではないのです。

人間には様々な欲求があります。例えば、「人に良く思われたい(悪く思われたくない)」、他者から良い評価を得たいという欲求は誰にでもあります。Joe and Charlieの本能の表ではこれは共存本能の中の pride(プライド)という項目になっています。(一般的にプライドがどういう意味かではなく、彼らが承認欲求に対してプライドという名を与えたに過ぎません)。

例えば、相手に何かをプレゼントしたり、親切にするとき、あるいは忍耐強く、愛想良く接しているとき、「相手が幸せであるために」やっているのではなく、「そうしなかったら自分が悪く思われるから」という動機があるなら、それはこの欲に動かされているということでしょう。・・・これはきっとあなたにも経験があるでしょう。

人は欲を満たすために生きている。これは一つの真実であり、持っている欲を満たすのは悪いことではありません。この pride の欲があるからこそ、人間社会が円滑に動いている面もあります。承認の欲求は人間に欠かせません。

しかし、欲が強すぎるのも良くありません。今日は疲れているので早く帰って寝たいと思っている人が、「相手に悪く思われたくない」という理由で、相手の話につきあって帰宅が遅くなるのなら、それは暴走する承認欲求に振り回されていると言えます。そうして、その人は自分の必要を満たすことより、相手の欲求や必要を満たすことを優先してしまっています。度が過ぎれば辛い生き方にしかなりません。ずっと、その生き方を続けていれば、それが身に染みこんでしまい、「相手に悪く思われたくない」という動機からやっていることだとすら自覚できなくなるかも知れません。

共依存には4つのパターンがあると言いますが、服従のパターンはこうしてできあがるのです。支配的なパターンの人(人に何かを強制しようとする人)はエゴが強いとされます。では、服従のパターンの人はエゴが弱いのでしょうか? いや、そうではなく、支配的なパターンの人と同様に、強い欲望(強いエゴ)を持っているのです。

直接的に自分の欲求を他者に満たしてもらおうとするやり方に比べれば、他者の欲求を満たすことによって自分の欲求を満たそうとするのは、間接的で回りくどいやり方であるのですが、他者を利用して自分の欲望をかなえようとすることに変わりなく、どちらも同じようにエゴイスティックであると言えます。自己否認や自己評価の低さというパターンも同様です。

アルコホーリクだけでなく、ACや共依存の人たちも、同じように「他者は自分の欲求を満たすために存在している」という幼児的な生き方、自分を神と考える生き方に陥っているのです。アルコホーリクにも権勢的なタイプも入れば、追従的な人もいます。ACにも強迫的に自己実現しようとしている人もいれば、服従パターンの人もいます。

人は、支配タイプと服従タイプのどちらか一方ということはなく、たいてい両方の面を持っていて、場面ごとに使い分けています。外では服従的、家の中では支配的とか。AAの中では服従的な人が、ACのグループに行くと支配タイプに様変わりしたりして・・。家族のグループの中にも支配的な人はいっぱいいるし。限界まで我慢して爆発するタイプもいます。

服従タイプの人も、自らの強いエゴに支配され、神になっているのだ、という捉え方をすれば、生き方を変える突破口は見えてくるのじゃないでしょうか。

こうして見れば、12ステップというのは、人間に共通した問題(だけ)を扱っていることが見えてきます。だから僕は「○○向けの12ステップ」というバリエーションを作る必要は特に感じていないのです。

僕の考えでは、12ステップは必ずしも神を信じることを要求していません。ただ、自分が神でないということは認めなければならないし、神の役を演じる生き方は手放していかなければなりません。そうすれば、神という概念に対する拒否反応はなくなり、他者の持っている信仰にも寛容になれます。

12ステップが神という概念を使っていることがハードルを上げている、と考えている人もいるでしょうが、実際にステップに取り組む段になれば、そのことはなんら障害になりません。

ただ、どうしても神という概念を拒否する人たちもいます。でもなんと言うか、その人たちは宗教的概念を嫌っているのではなく、(それを口実に)自分が神の座に座り続けたいだけなんじゃないかという気がします。自分が生き方を変えるのではなく、周りの人が生き方を変えて自分の欲求をかなえてくれれば良いのだ、という考えなのではないかと。

その人たちでさえ、MMPIの「私は神である」という質問には「いいえ」と答えているのでしょうけど。


2013年10月15日(火) 12ステップの利点・欠点

「12ステップに欠点はないのか?」という質問を受けることがあります。自分のやっている手法の欠点を知ることはとても大切だと思います。

欠点の話をする前に、12ステップの優れた点にちょっと触れておきます。

12ステップの良いところは、手順が明確であることです。12ステップの手順は、AAのビッグブックという本に「正確に、詳しく、はっきりと」説明されています。だから、ビッグブックという手順書に従って行えば良いわけです。

ビッグブックは料理のレシピ本に例えられます。レシピに書かれたとおりの材料を集めて、手順通りに調理すれば、本に載っているのとだいたい同じ料理ができあがります。違った手順を踏めば、違ったものができあがります。例えば、沸騰したお湯で5分間煮ると書いてあるところを、その代わりに300℃に熱したサラダ油で15分間揚げたら違った料理ができあがります(たぶんそれは食べられないシロモノでしょう)。

12ステップをやっても良い結果が出ない場合には、たいていこれと同じ間違いを犯しています。ビッグブックという手順書を読みながらも、そこから外れたやり方をして、違った結果をもたらしてしまっているのです。

手順が明確に確立されている点が12ステップの良いところです。

ただ、このビッグブックという本が少々分かりづらい本なのです。今は世界的に出版不況と言われ、本を読む人が減っています。しかし、この本が書かれた1930年代には多くの人が本を読んでいました。ラジオ放送が始まってまだ10年あまり、テレビ放送はまだ始まっていない時代です。人々は娯楽のため、教養のため、情報を得るために良く本を読みました。ビッグブックでも引用されているウィリアム・ジェイムスの『宗教的体験の諸相』は、この時代のベストセラーなのだそうです。こんな小難しい本がベストセラーになるなんて! ですが、ビッグブックはそういう時代の本なのです。

洗練された文章を書くためには修辞が欠かせません。「修辞って何?」といういう人は
wikipedia.jp:修辞技法
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%AE%E8%BE%9E
三省堂:修辞法
http://www.sanseido.net/main/words/hyakka/rheto/03.aspx
あたりを読んでください。ビル・Wは大学で修辞学を学んだだけあって、彼の文章は修辞に満ちています。たとえば、p.38にある、

「足もとに並べられた簡単な霊的な道具一式を手に取るよりほかなかった」

という文章は、12ステップに取り組むほかなかったと言いたいだけなのですが、転義法(比喩)という手法が使われています。

修辞された文章を読み慣れた人ならともかく、そもそも本を読み慣れていない人がビッグブックを読むと「???」ということになってしまいます。比喩を読み解くのが苦手な人たちもいて、「12ステップを足下に並べるってどういう意味ですか?」なんて質問が出てきたりします。(まあ、そういう質問が出てくること時代は真面目に取り組んでいるからこそだと言えますが)。場合によっては1行、1行解題していく必要すらあります。現代文に訳さないと枕草子が読めないみたいなものでしょうか。

一般に、子供向けの絵本やジュブナイル小説では修辞を少なくし、大人向けの小説やエッセイでは修辞を多くして凝った文章になります。村上春樹が人気があるのも、彼の修辞がある種の人たちの心の琴線をかき鳴らすからでしょう?

AAを最初に作ったのは、禁酒法と大恐慌の時代に酒で身を持ち崩した白人男性たちでした。経済的にも社会的にも落ちぶれた彼らには自らが身につけた教養しか頼れるものがありませんでした。また当時は人種差別も、男女差別も激しい時代であり、彼らがターゲットにしたのは自分たちと同じような白人たちでした(だからビッグブックの初版には白人のストーリーしか掲載されていません)。やがて、彼らの見つけた12ステップという原理は、人種・性別・貧富・教養のあるなしに関係なく役に立つことが分かってきてAAが大きく発展するのですが、ともかくAAを始めた人たちは、その時点では「本を読み慣れていない人たちのために、平易な文章でビッグブックを書く必要がある」とは考えなかったようです。

ビッグブックの内容(あるいは12ステップ)を批判する人たちは、その内容よりも、ビル・Wの修辞に惑わされてしまっている場合が多いのです。そういう人たちでも、12ステップの本ではないけれど同じAAの本である『どうやって飲まないでいるか』ならば受け入れやすいと言います。こちらのほうが平易な文章で書かれているからでしょう。

じゃあ、ビッグブックがそんなに小難しいなら、易しい文章に書き直したらどうだ? と思うかも知れません。しかし、それは無理です。ビル・Wやドクター・ボブは特別な存在であり、彼らの代わりができるメンバーはAAにはいないからです。ビッグブックの読みづらさ、使いにくさはAAの中で意識されていますが、現実問題として当面それが解決される見込みはありません。

ビッグブックを教科書とするなら、参考書みたいな本はいくつもあります。ビル・W自身も十数年後に『12のステップと12の伝統』(12&12)を書きました。しかしこれは、ビッグブックを補う立場の本です(なので12&12だけでは12ステップは分からない)。

他にもAAメンバーが12ステップの参考書・解説書を書いてきました。古くは『リトル・レッド・ブック』、『スツールと酒ビン』、最近訳出されたジョー・マキューのものもそうです。これらに人気があるのは分かりやすいからです。しかし、これらの参考書は「ビッグブックを置き換えることを目的としない」としています。あくまでもビッグブックを補うもので、ビッグブックの代わりにはなりません。

そんなわけで、AAメンバーが12ステップに取り組むときは、どうしてもこの小難しいビッグブックを相手にせざるをえません。だからこそ、その人を一人でビッグブックを読んで陥る「???」という状態から救い、手順通りにことを進める手助けをしてくれる介助者が必要になります。それがスポンサーの役目ですね。

他にも、12ステップに取り組むには、少なくとも数週間から数ヶ月の期間は必要ですし、もっと長い時間が必要な人も確かにいます。労力も時間もかかります。

また相手をするスポンサーが必要です。12ステップの中には自己査定が含まれています。しかし、自分で自分を吟味するのは大甘な評価になりがちです。自分で吟味するより配偶者や親に吟味してもらった方が正しい評価がされるぐらいなんです。でも妻に棚卸しを聞いてもらおうという人はまずいませんから、「もう一人のアルコホーリク」が必要です。その人の労力や時間も必要になります。

こうしたように、12ステップに取り組むには、それなりの労力と時間がかかるのです。これが12ステップの欠点と言えると思います。

最近では断酒補助薬も発売されました。薬を飲むだけで断酒維持率が約10%向上したそうです。薬を飲むだけで、10%改善されるのです。素晴らしいことじゃありませんか。12ステップよりもずっと簡単で、労力も時間も少なくてすみます。だが、それでも100%ではない。いままでのどんなやり方でも100%のものはありません。

それを考えると「12ステップさえあれば良い」とは言えません。他のやり方も必要だし、時には組み合わせていく必要もあるでしょう。

12ステップは、手間も労力も必要ですが、奥深い変化をその人にもたらすことが可能です。それは12ステップの利点であり、断酒補助薬ではなかなかこうした変化は呼び起こせないと思います。また、ビッグブックに沿って12ステップを提供できるスポンサーが日本のAAにはまだ少ないことも問題です。

20世紀には、アメリカでも日本でも、AAがビッグブックから離れていきました。それはビッグブックの文章の小難しさと無関係ではありますまい。近年になってAAの原点に立ち返ろうとする運動が起きてきました。それらは例外なくビッグブックを重用しています。しかし、その運動が、ビッグブックを書いた人たちが求めた教養を皆に要求するような展開になっては良くありません。原点回帰運動のキモは、テキストの内容をいかに分かりやすく伝えるか、にかかっていると思います。

当然僕自身にとってもビッグブックは難しい本です。何年取り組んでも十分分かったとはまだ言えません。けれど、彼や最初のAAメンバーたちが今の僕らに伝えたかったことを読み解いていくのは心躍る冒険です。


2013年10月11日(金) AAはAA、断酒会は断酒会

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」というやり方でミーティングをやっています。AAに馴染みのない人には聞き慣れない言葉かも知れません。AAでやっているのは「ミーティング」といっても会議ではなく、他の人の発言に意見したり、批判したり、質問を挟んだりしません。人の話は黙って聞き、自分の順番が来たら話をする。このやり方を日本では「言いっぱなし、聞きっぱなし」と名付けています。

海外のAAでも、おおむねこのやり方だそうです。僕の数少ない経験からもそうですし、海外でAAに出席した人たちに聞いても同じです。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」を英語で何というのだ? と聞かれることもありますが、それに相当する言葉はないみたいですね。ポピュラーだからこそ名前が必要ないってことなのでしょう。ビル・ホワイトの『米国アディクション列伝』では、これを「crosstalkを排除した」やり方と呼んでいます。

あらかじめ話し手が決まっており、他の参加者はそれを聞くために参加するというミーティングを speaker meeting (スピーカー・ミーティング)と呼びます。そうではなく、参加者の中から適当に話し手が選ばれるのを discussion meeting と呼びます。ディスカッションと言っても議論(debate)ではなく、その中身は「言いっぱなし、聞きっぱなし」です。

いずれにせよ、AAのミーティングは対話を排したやり方が主流です。なぜそうなのか理由は分かりません。意外に思われるかも知れませんが、AAは特に「言いっぱなし、聞きっぱなし」のやり方をするとは決めていません。別のやり方をしても良いのだし、実際別のやり方をしているところもあります。

僕はアメリカに行ったときに、講師役のAAメンバーがホワイトボードに図を描きながら他のメンバーにステップを「教えて」いるミーティングに出ました。その会場はたくさんの参加者で溢れかえっていました。また、ビッグブックを少しずつ読み進めながら、1行1行の意味を読み解いていく形式もあるそうです。メンバーお手製のテキストを使っているところもあります。参加者が「その場で」ステップに取り組むワークショップもあります。共通しているのは、経験の深いメンバーに新しい人が導かれていくという形式になっていることです。「議論(ディベート)」を行うやり方をしているところは聞いたことがありません。

最近、断酒会の関係の人と話す機会がありました。(具体的に名前を挙げて良いのか分からないので伏せておきます)。近年断酒会はその人数を減らしています。なぜ減っているのかその理由はいろいろあるのでしょうが、(AAの影響を受けて)「言いっぱなし、聞きっぱなし」を望む声が増え、そのように運営される断酒例会が増えたことも一因だろうという話を聞きました。

本来、断酒例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないわけです。会員が順番に話をするという点ではAAの discussion meeting と同じですが、話をした後に、進行役である会長さんから、話の内容を褒められたり、逆に一くさり小言を頂戴したりします。あまり莫迦なことを言えば、他の「先輩」や家族からも批判を受けます。このようにして褒められたり、批判をされたりしながら、断酒会的な考え方と行動を身につけていくのが断酒会のやり方なのだそうです。

断酒例会を「言いっぱなし、聞きっぱなし」にしてしまうと、考え方や行動を修正する機会が失われ、回復が難しくなってしまう。それが会員の減らす原因(少なくともその一つ)になっているのだと。

では、AAはなぜ「言いっぱなし、聞きっぱなし」なのか。それは、AAにはミーティングの他にスポンサーシップという一対一の関係があるからです。メンバーシップ・サーヴェイという調査によれば、「スポンサーシップが弱体化した」という日本でもAAメンバーの半数はスポンサーを持っており、アメリカでは実に8割のメンバーがスポンサーを持っています。

スポンサーという言葉は日本では経済的な援助をする意味で使われますが、AAのスポンサーは本来の英語の意味(引受人の意)で使われます。AAの回復の原理は「12ステップ」に表されていますが、12ステップに取り組むのにスポンサーは欠かせないものです。AAに真面目に取り組む多くの人たちが、指導役たるスポンサーを持ち、一対一の関係の中でアルコホリズムから回復していきます。ただし、その関係は個人的なものであるだけに、公けに目立つことはありません。

このように「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけに着目するのは片手落ちです。AAにおいてはスポンサーシップが回復をリードする(lead = 導く)役割をしています。スポンサーというのはリードする者(指導者)です。どのようにリードするかはそれぞれのやり方があるでしょうが、導く者とそれについていく者という関係が確かにAAの中にあります。また、本来の断酒会の例会は「言いっぱなし、聞きっぱなし」ではないことによって、例会そのものが回復をリードする(導く)場になっています。

ところが「言いっぱなし、聞きっぱなし」さえあれば十分だという考えの人たちが、AAの中にも外にもいます。導かれたくない人もいるし、回復に導きは不要だと考える人もいます。「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけの場を作りたい人もいるし、実際それを作る人もいます。それはその人の自由でしょう。しかし、AAは「言いっぱなし、聞きっぱなしだけではない」ところです。

松村春繁が、高地で断酒会を始めたのは、下司孝麿医師にAAの存在を教えられたからだそうです。その後、彼は全国を回って断酒会を組織し、全日本断酒連盟の初代会長となります。彼は断酒会をAAの日本支部として認めるようにNYのGSOと交渉をしますが、GSO側ではAAの12のステップや12の伝統をそのまま採用することを求めました。それが日本人の気性に合わないと考え、断酒会はAAに合流することを諦めました。これが1960年代のことです。それ以降、断酒会とAAは別の道を歩むことになりました。日本で現在のAAが成立するのは1970年代になってからです。

断酒会がAAを参考にして作られたのは間違いありません。後に作られた「指針」と「規範」が、AAの12のステップと12の伝統の影響を受けているのも、その類似性からして明らかです。しかし、文化の移入がAA→断酒会の方向にだけ行われたと考えるのは誤りです。

断酒例会は「酒害」を語るところとされます。また「例会は体験発表に始まり体験発表に終わる」と松村語録にあります。「酒を飲んで酷いことをしてきた過去の自分」を語ることが推奨されます。しかし、本来AAではこの類の話はドランカローグとして避けられる傾向があります。AAのミーティングは「経験と力と希望」すわなち12ステップを伝える場であり、ステップの経験が望まれるところです。ところが、日本のAAではドランカローグ(飲酒譚)が好まれる傾向があります。これは、酒害や体験発表を軸とした断酒例会の影響を日本のAAが受けているため、と考えられます。

日本においてはAAは断酒会よりずっと後になって成立しました。AAグループが誕生するところでは、すでに断酒会が活動していることも珍しくありませんでした。AAのやり方をよく知らない人たちが、断酒会のやり方を取り入れ、それが「AAのやり方」として後の人たちに受け継がれていったことが少なからずあるはずです。

AAも断酒会も似ている部分があります。みんなで集まって順番に話をするところなど、そっくりです。しかし、どうやって回復を導くか、やり方はずいぶん違います。AAはAA、断酒会は断酒会です。似ている部分もありますが、違っているところも多い。違いは理由があって生じたものです。違っていなければ、別々に存在している意味がありません。

AAは「言いっぱなし、聞きっぱなし」だけでは成り立ちません。スポンサーシップがあればこそです。「言いっぱなし、聞きっぱなし」の部分だけに着目するのは、木を見て森を見ずです。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加