心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2012年09月20日(木) ロシアン・ルーレット

アルコール依存症の人には、二つの状態があります。一つは、「コントロールを失った飲酒」を続けている状態。もうひとつは、つまり酒をやめ続けている状態(「断酒」)です。

この両極端の中間もあります。飲酒のコントロールを取り戻した時期があった、という人もいますし、飲まない日々を続けているのに細かなスリップ(再飲酒)を繰り返す人もいます。けれど、長い年月の先には、「コントロールを失った飲酒」か「断酒」のどちらかに落ちついていくことになります。

何ヶ月、何年かAAミーティングに参加し続けて酒をやめたのに、その後、来なくなってしまう人たちがいます。その人たちは、その後どうなるのでしょうか?

酒を飲んでしまったがために、AAに顔を出しづらく感じ、来なくなってしまう人がいます。一方で、酒を飲まないままAAを離れていく人たちもいます。AAを離れても、人はすぐに酒を飲むわけではありません(そうであれば話は簡単なのですが)。再飲酒は、何ヶ月か、何年か、あるいは十年以上先かも知れません。中には一生飲まずに過ごす人もいるのかもしれませんが、その確率はずいぶん低そうです。

僕は十数年前に、精神病院のアルコール病棟を退院しました。同じ病棟に入院していた患者(いわば同期の仲間)は二十人近くいましたが、今でもなんとか無事にやっているのは断酒会かAAにいる人だけで、他は鬼籍に入るか、どこかの施設にいるか、飲んだくれを続けていると伝わってきます。それが、十数年という時の試練を経た結果です。

もちろんこれは、僕の周囲のローカルな結果に過ぎません。広い世間には別の傾向を出しているところもあるのかもしれません。依存症の研究の多くが、長くても数年の期間しか対象を追跡していないのが残念です。なぜなのか尋ねてみたら、調査にたずさわる医師が転職してしまうと、対象を追跡し続けることが出来なくなるからだと教えられました。確かに、開業でもしない限りは転職を繰り返すのが、今の日本の医師のありようかも知れません。

なだ・いなだは依存症を糖尿病と同じような「養生の病気」としました。一生養生を続けていかなければ再発が待っている病気という意味です。

上に書いたように、AAを長く続けていると、来なくなった人がその後どうなったかという話に触れる機会が増えます。「飲んでしまったなら、またAAに来れば良いのに」と思うのですが、そう簡単な話ではなさそうです。おそらく戻って来れなくないのには、罪悪感が関係しているのでしょう。僕自身、AAの最初の一年でスリップしたときに、ミーティング会場の敷居を高く感じたものでした。

「再飲酒したら、また断酒をやり直せば良い」という考え方があります。それは間違いではありません。飲んでしまったら、またやめればいい。

だが、「何度でもやりなおせる」という考えは間違いだ、ということはハッキリしています。それは「コントロールを失った飲酒」と「断酒」の間を自由に行ったり来たりできる、という考え方につながります。実際には、自由に行ったり来たりできません。そのことは、AAに戻って来れなくなった人たちの姿が明らかにしてくれます。彼らの中にも、もし飲んだらまたやり直そうと思っていた人がいるはずですが、いざ実際に飲んだときに、やり直すことはできなかったのです。

つまり、スリップ(再飲酒)というのはロシアン・ルーレットみたいなものなのです。シリンダーに何発実弾が入っているかは人それぞれ。たいていのスリップから素面に戻ってこれる人もいれば、次のスリップが命取りになる人もいるでしょう。でも、確率が高かろうが低かろうが、繰り返していれば、いつかは実弾を引き当ててしまいます。

「またやり直せば良い」はすでに飲んでしまった人にかける言葉です。素面のうちからそんなことを考えている人は、飲んだら自分の気持ちががらっと変わってしまうんだってことを忘れています(過去の経験から学べていない)。

次に酒を飲んだら、それっきり二度と酒をやめられず、一生そのままという可能性はゼロじゃない。ミーティングに通い続ければ、いろんなことが学べますが、長く通わないと見えてこないこともあります。これもその一つです。だからこそ、今回のソブラエティがいかに大切なものであるか。今しらふでいるからには、それを感じて欲しいと思います。粗末にして良いものではありません。

「再飲酒したら、また断酒をやり直せば良い」という考えを<自分自身に対して>思うのは、ある種の強迫観念(obsession)だろうと思います。(この場合の強迫観念とは、真実でない考えが頭を占めること)。


2012年09月12日(水) 研修と学会雑感

(AAメンバーとしてではありませんが)日本エイズ学会のシンポジウムで「12ステップの話」をしてくれという依頼が舞い込みました。その日は予定がすでに入っていたのでお断りしたのですが、なぜエイズ学会で12ステップなんだろう、という疑問が残りました。

後で依頼書を拝見して事情が分かりました。エイズとアディクションは関連が深く(特に薬物とセックス)、アディクションはエイズ治療の妨げになることもしばしばなのでしょう。そこで、エイズのケアに従事する人たちに、アディクションの基礎知識や、アディクトの心理、回復について話して欲しいという依頼だったようです。特に12ステップということではなかったみたい。

こんなふうに、人づての依頼は中身が不明瞭な場合も多く、当日会場に行ってみてビックリ、ということもあります。担当の方と事前に話をしておかなければ、とんでもない失礼になっちゃうかもしれません。今回は、僕より適任の方が見つかったようなので安心しています(と持ち上げておく)。

先日も、ある専門家の方から「AAから講演をしてくれるように頼まれたのだが、何の話をしたらいいのか分からない。尋ねても、何でも構わないと言われるばかりで」と話をうかがったので、依頼したAAの委員会の名前を聞いた上で、その委員会はこういう経緯でできたところなので、こんな話を望んでいるのじゃないか、とお伝えしておきました。

頼む方も、頼まれる方も、いろいろ難しいものです。僕も頼む側に回ることもあるので、最近は依頼するときには講演依頼書を書くようにしています。

さて、先月は有給休暇を一日もらって、県の精神保健福祉センター主催の、アルコール依存の技術研修に参加してきました。研修の対象は病院のワーカーや保健所の保健師さんなので、本当は当事者という資格では参加不可なのですが、そこはそれです。

午前中は専門医の先生による基礎知識の講演。午後は、複数の病院から事例の紹介があって、最後に数人のグループに分かれて事例の介入手法の検討でした。これは、介入のワークブックに掲載されている模擬的な事例そのままで、内科的な治療は受けているけれど、依存症の疑いが濃厚、でも精神科の受診を拒んでいる人をどうやって治療に結びつけるか、という話です。

「介入」という技法の基礎を作ったのは、ヴァーノン・E・ジョンソンです。彼はヘイゼルデンなどと一緒にミネソタ・モデルという治療モデルを作り上げました。介入の技法については、こちら
【明日こそ止めるさ】アルコール依存症回復への実践ガイド
http://www.ryukyu-gaia.jp/books.htm
の本に詳しくあります。本を読めば模範解答は出せるようになるはず。

援助職の人が、会いたがっていない本人に直接アクセスするのは難しく、家族の中のキーパースンに情報を提供・指導して説得に当たってもらう、というスタンスです。

家族の立場の人から「本人が酒をやめたがらないのが困る」という相談を受けるAAメンバーもいるでしょう。介入研修は日本中あちこちで行われていますし、本も上記以外にも出ているので、関心のある人はあたってみて下さい。(僕の受けた研修は県の機関のものなので無料でした)。

僕らAAメンバーは、依存症ケアの中で、再発(再飲酒)の予防という「最終段階」を担っていると言えると思います。自助グループの中にだけいると、この「最終段階」だけしか見えなくなってしまいますが、実はそこに至るにはいくつかの段階を経ます。

上に書いたように、まず精神科の門をくぐるまでが一苦労だし、依存症という病名がついても「俺の酒には問題がないのでやめる必要はない」と頑張る人もいます。入院治療を受けて退院しても、自力でやめ続けられると信じて再発を繰り返す人もいます。最初に誰かがアルコール依存症を疑ってから、最終的に回復に至るまでどんなに短くても数年、長ければ何十年かかってもたどり着かないこともあります。

そのステージごとに援助者の苦労があると言えます。精神科という名前のせいで敷居が高くなっちゃうから、アルコール科とか依存科だったら心理的抵抗が少ないのじゃないか・・とか。あるいは、医者が酒をやめろとか入院するように強く説得すると、次から受診しなくなって治療関係がなくなってしまうので、通院でやりたいと言う人にはそれを認めて、次に失敗したときに入院を勧める・・とか。

本人が問題を認めた上で、自力での解決にこだわる場合には、それを認めるという話は、ジョンソンの介入技法にも書かれていて、無理に治療的な枠組み(施設とか自助グループとか)を強いるのは愚策だとされています。そのかわり「次に失敗したら、このやり方に従ってもらう」という約束をきっちりして、どうせ自力解決はいずれ破綻するので、その時点で約束を実行してもらえば良いことです。

先週末は札幌での学会にお邪魔していたのですが、ポスターセッションでの発表の中に、アルコール依存症の入院患者の家族が持つ「(断酒ではなく)節酒させたい」という希望をどうするかという話がありました。家族が本人の節酒を希望するのは珍しいことではなく、「こんなにお酒が好きなのだから、やめさせたら可哀想だし、やめられるわけがない」という依存症への偏見があったり、やめているときの本人の不機嫌さに家族が耐えられなかったり、という事情があります。

この場合でも、無理に断酒へ意見を変えさせずに、退院後の節酒を認めさせると、やがては家族もアルコールをコントロールすることの難しさを目の当たりにして、やっぱり断酒しかないと理解するようになるとう話です。(納得するのに時間がかかる人がいるという話)。

動機付け面接では、人間の気持ちが変わるのに時間がかかるのは当たり前だとされます。スイッチが切り替わるみたいにすぐに気持ちが変わってくれれば良いのですが、そうならないことに対して「否認」という言葉を使って本人や家族の責任に差し戻してしまうのは、援助側の責任放棄です。(本人の気持ち次第というのなら、援助職なんて不要)。

話を戻して、一人のアルコホーリックが酒をやめるまでには、実に手間ヒマがかかるわけですが、AAの中にいるとそうした援助職・医療職の手間というのは見えなくなってしまいます。一方、援助・医療側も、酒をやめた後の人がどうなるかに関心をあまり持っていません。援助側と自助グループの間が断絶している感じです。

みんな、自分のやるべき事に一生懸命なのはいいのですが、本当に息の長い(一生続く)依存症のケアのなかで、自分がどの部分を担っているか(一部分を担っているに過ぎないことも)把握できてなくて、自分のやっていることが全てのような錯覚に陥っている気がします。少しだけ全体を鳥瞰する機会を与えられて、そう思いました。

アディクション関連の学会の大会とか研修とかに行くと、連携、連携と叫ばれてうるさいぐらいなのですが、そういう意味じゃ、ちっとも連携なんて取れちゃいないわけです。(だからこそ連携とうるさいのでしょうが)。全体を見通せる視野の広さを持ちたいものです。

それと、医療の人たちというのは、アル中本人に「AAに行きたくない、断酒会に行きたくない」と言われると、そこでメゲてしまって、それ以上なかなかできないものなんだな、とつくづく感じます。そこで出てくるのが「本人の気持ち次第」とか「行かなくても酒をやめられているか良いじゃないか」という言い訳です。それで酒を飲まれると、飲んだ本人が悪いみたいな扱いです。責任の感じ方が間違っているっちゅーの。依存症という病気にかかったのが不幸ならば、そんな病院を選んでしまうのはもっと不幸です。


2012年09月05日(水) AAの共同体とは(その4)

「日々雑記」というタイトルにしているのに、更新がせいぜい週に一回という体たらくで、名を「週一雑記」に変えた方が良いかも知れません。

不思議なもので、更新頻度が落ちているのに、日々のアクセス数が増えています。

さて、本題。

日本のAAは1975年に東京・蒲田でステップ・ミーティングを行ったのを始まりとしています。日本AAの最初の事務所は、マックという回復施設に間借りしていました。しかし、AAの「12の伝統」は、AAとAA以外のものを区別することを要求しているので、それに沿ってAAを施設から独立させることになり、1981年に信濃町のマンションの一室に「AA日本ゼネラルサービスオフィス」(AA JSO)が作られました。

1980年代は、日本のAAが海外のAAからいろんなやり方を学んだ時期でした。その中の一つがセントラルオフィス(CO)の設置でした。これは、全国を7つの地域に分割し、それぞれにAAメンバーの献金で支えられるオフィス(事務所)を設けようというアイデアでした。地域割りは、北海道・東北・関東甲信越・中部北陸・関西・中四国・九州沖縄です。

当時の日本AAの規模ならばオフィスはJSOひとつあれば十分だったでしょう。けれど、当時のAAメンバーたちは、あえて、ひとつのJSOに加え、7つのセントラルオフィスを設ける決断をしました。JSOには全国レベルの広報などのサービスとAA書籍類の出版の役目を与え、各セントラルオフィスには、本人や家族からの問い合わせに答えたり、グループに直接サービスを提供する役目を負わせました。

こうして数年かかって、次々とセントラルオフィスが作られていきました。一番最後にできたのは、関東甲信越のセントラルオフィスで1993年1月のことです。東京にはすでにJSOがあったため、わざわざ別にオフィスを作る必要はないという意見が多く、意見の調整に手間取って順番が最後になったと聞いています。

オフィスを維持するにはお金がかかります。スタッフに給料を払わねばなりませんし、家賃光熱費その他の費用もかかります。すべてを、AAグループからの献金や出版物の売り上げでまかなわねばなりません(AAは「12の伝統」で外部から助成金などを受け取ることを禁じているため)。

JSOは全国のAAグループが支えてくれます。そのJSOですら、しばしば金銭的に危機的な状況に陥ってきました。まして、もっと少ないグループ数で支えているセントラルオフィスは大変です。日本のAAグループの4割ぐらいは関東甲信越地域(というか東京都と近県)に集中しています。おかげで、関東のオフィスは比較的財政規模が大きいのですが、その他の6つのセントラルオフィスは年間予算が数百万円(しかもその下の方)で、これで全経費をまかなっていくのですから大変です。

日本のAAのメンバー数は数千人です。そのメンバー数に比べて、オフィス職員として給料をもらっている人数が多いと言われます(他の国のAAと比較しての話)。献金は任意で強制されることはありませんが、それでもメンバーの負担感は重く、オフィスのスタッフに対して「俺たちの献金で食べているんだから」と余計なプレッシャーがかかったりします。

北海道や東北では、いったん作ったオフィスを支えきれずに、いったんは閉鎖した経験もあります(その後再開しています)。

どうしてこのような過重な仕組みを作ったのか・・・。当時の決定に関わったメンバーに聞いた答えはこうです。過剰負担は重々承知していたのだが、AAが発展して、メンバーやグループの数が増えれば、遠くない未来には余裕で8つのオフィスを支えられる日が来るだろう、と予想しての決断だった、というものです。

残念ながら、その予想は甘すぎたと言わざるを得ません。AAの8つのオフィスは、いまでも個人的な犠牲と献身に寄りかからねば維持できない有り様です。(少なくとも、オフィススタッフの待遇は魅力的とは到底言えません)。

話を少し変えます。

日本のAAでは、1996年に「評議会」を開催しました。これは日本AAの意志決定機関(決議機関)で、全国のから選挙で選ばれた20人のAAメンバーが「評議員」として参加しました。以後毎年開かれています。

評議員はAAの中の重要な役割ですから、依存症からしっかり回復していて、AAのことに詳しく、AAのサービス活動に割ける金銭的・時間的・体力的な余裕がある人が望ましいわけです。しかも、そういう候補者を何人も立てて、選挙で選抜しよう考えでした。(任期は二年で再選不可なので、毎年10人ずつ必要)。

最初の頃は各地域から熱意に溢れる評議員が選挙されていました。しかし数年すると、立候補者が定数に足りないという現象が起きるようになりました。立候補者をたてるのに汲々とし、昨今ではいったん評議員を経験した人を「代理」として送ることが常態化しています(再選不可の形骸化)。

メンバーが評議員という役目を引き受けたがらない(評議員以外の様々な役目も同様)、という状況に対して、古いAAメンバーから「最近の人たちはAAへの感謝が足りない」という批判が出ることがあります。しかし僕は、そうした「自己犠牲が足りない」という批判は的外れだと思います。

評議員としてAAに自分を捧げられるメンバーは、AAの中にもともと多くはありません。評議員候補者というのは限られた資源なのです。最初に20人の評議員による評議会を作り、毎年毎年10人ずつ新しい評議員を必要とする仕組みは、日本のAAには過大すぎました。だから、早晩資源を使い果たし、可能な候補者全てを使っても足りないという事態を招いてしまったのです。

1995年頃に評議会システムを設計した人たちに話を聞くと、やはり作った仕組みが過大だったという反省はあるようです。でもその時も、将来AAが発展して、メンバーもグループ数も増え、評議員の役割を担う人々も次々出てくるだろう、という楽観的な予想があったと言います。

7つのセントラルオフィス、毎年10人ずつの評議員。どちらも、制度を設計した人たちは、それが大きすぎるのは重々承知の上で、将来AAが発展することを期待し、うすうす無理を承知しながらあえて大きな仕組みを作ったということが分かります。それは、子供が成長するのを見越して、大きめの服を買う親の心理に似ているのかも知れません。しかし、あまりにサイズが大きすぎ、しかも期待通りに成長してくれなかったので、今でも不釣り合いなほどブカブカの服を着ているのが日本のAAです。

制度を修正する必要があるのでしょう。AAが発展を続けるという過去のビジョンにしがみついている人たちからは大きな反発があるでしょうけれど。

日本のAAグループ数は550を越えました。グループ数は毎年増え続けています。しかし、メンバー数が増えているかは疑わしいものです。たぶん、グループ数が増える一方で、1グループあたりのメンバー数は減少し、結局総メンバー数は増えていないのじゃないかと思います。

増えていないという根拠のひとつは、オフィスへの献金が増えていないことです。それはおそらく、グループは増えたけれど、献金をするメンバーは増えていないということでしょう。また、BOX-916というAAの月刊誌の売り上げも、2004年をピークに減ったままです。

献金したり、BOX-916に親しんだり、というのは、AAプログラムに関心を持ち、AAプログラムに感謝を表す行動です。いわばAAプログラムの恩恵を得た人たちの行動です。グループが増え、会場が増え、ミーティングに参加する人たちは増えているのでしょう。自らをAAメンバーだと名乗る人の数も増えているのでしょう。しかし、AAプログラムの恩恵に浴した「中核的な」AAメンバーの数は増えていない、それが献金やBOXの売り上げ停滞・減少につながっていると思います。

ひとつ確かなことは、AAの中でプログラムが薄まっているということです。薄められたプログラムは効果を失い、やがてはメンバー数増加が停滞し、減少へ向かう、というのが先行するアメリカでの経験です。日本AAのメンバー数の増加ペースは鈍り、おそらくはすでに停滞しています。やがてメンバー数の減少が始まるでしょう。あちこちのグループが潰れ、ミーティング会場が閉鎖されていく・・そうなったときに、状況を反転させるだけの力は日本AAに残されていないだろうと予測します。

セントラルオフィスや評議員の数という切り口で見ると、仕組みを設計した人たちがAAの発展に対して楽観的過ぎたことがわかります。その過大な設計には、「量的拡大こそがAAにとって最善」という考えが伏在しているのは間違いありません。それは「AAの発展は量的拡大による」という考え方です。確かに、グループが増え、メンバーが増えていくことは、より多くのアルコホーリクが助かることですから、それがAAの発展そのものです。

しかし「質」という観点を見落としていたことも間違いありません。量を拡大するためには、質を保ち、質を向上させる努力がなければ、薄まる一方です。

AAを量的に拡大するために、医療や福祉や地域社会にAAの存在や魅力を発信する「広報活動」は熱心に行われています。しかし、AAを「質的に向上」させるための試みはされず、ないがしろにされたまま、結果AAのステップセミナーに行っても、ステップの話はほとんど聞けず、AAプログラムの恩恵を受ける人は増えていません。それではAAが発展したなんて言えません。

では質的向上にはどうすればいいか。この「AAの共同体とは」という一連の雑記のテーマもそこにあります。前回までの雑記で、そもそもAAは、ミーティングをやるための団体ではなく、12ステップをやるための団体だということが見えてきました。質的向上のためには、メンバー一人ひとりがより真剣に12ステップに取り組むこと、それ以上でもそれ以下でもありません。量的拡大と質的向上はバランスが取れていなければなりません。量的拡大への偏りを正す必要があります。

古いメンバーの話を聞くことも大事です。彼らは今の僕らにはない経験を持っています。しかし、古いAAメンバー達の欠点が、今のAAの欠点になっていることも忘れてはいけません。オールドタイマーの話を、ただありがたがって聞いているだけではダメです。彼らは日本のAAの礎を築いた人たちでありますが、同時に、今の日本のAAをこのようにしてしまった人たちでもあります。

先人の業績は、後から来るものによって否定されるものです。これはどの分野でも繰り返されてきたことで、AAもその例外ではありません。僕らが今取り組んでいることも、10年後、20年後には否定されているかもしれません。それで構いません。ともかく、今やらねばならないことをやる。それだけです。


2012年08月27日(月) AAの共同体とは(その3)

 自助グループというのは、「同じ問題」を抱えた人の集まりだとされます。問題はアディクションに限らず、SAD(社会不安障害)のグループには赤面症・あがり症・対人恐怖の人が集まりますし、自死遺族会には自殺で家族を失った人が集まります。

 自助グループの始祖はAAであると紹介されることがあります。この情報は誤りです。少なくとも、AA以前にも多くのグループが存在しました。ただ、そうした先駆者はAAのように長続きすることがなかったため、存在が忘れ去られました。そうしたグループには、同じアルコールの問題を抱えた人たちが集まっていましたが、メンバーに共通する解決方法を持たなかったり、あるいは解決の方法が有効でなかったために、消えていきました。

 AAが生き残ったのは、先達の欠点を克服したからです。AAの革新には様々な側面があり、その全てをここで紹介するのは省きますが、「共通の解決方法」を導入したのは大きな革新でした。

 自助グループの要件が「同じ問題」を抱える人の集まりであるならば、解決方法は会員それぞれに違っていて構いません。アルコール依存症の人の自助グループであれば、ある人はノンアルコールビールを代替に飲んで酒をやめ、別の人は山に登ってストレス解消をし、会員が集まる会合(ミーティング)では、それぞれに違った解決方法が紹介される・・という進め方でも構わないことになります。

 しかし、AAはそういうグループではないと明確にされています。再掲します。

 「同じ苦しみを味わったということは、私たちを結び合わせる強力な接着剤の一つではあるが、それだけでは、いまの私たちのようには決してなれなかっただろう」

 「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」

 この共通の解決方法は12ステップのことです。だから、当然私たちAAのミーティングでは12ステップについて分かち合うことが必要になってきます。

 AAメンバー一人ひとりの酒のやめ方が異なっていても良いのではないか? という疑問も出るかも知れません。しかし、AA以前の様々なグループが消えていったのは、彼らが有効な「共通の解決方法」を持っていなかったからだということを思い出していただきたい。AA以後にも、様々なアルコールのグループが誕生しましたが、世界的に見れば、存続期間・メンバー数の点で、AAほど成功しているグループは他にはありません。

 日本以外の国では多くのメンバーを獲得しているAAなのに、なぜ日本にはわずか四千人か五千人のAAメンバーしかいないのか、という疑問を持った人もいるでしょう。いろいろな理由を考える人がいますが、僕は「共通の解決方法」がミーティングで分かち合われていないことが最大の原因だと思います。

 現実のAA(少なくとも日本のAA)のミーティングは、AAという本(ビッグブック)に書かれた内容とはずいぶん違ってしまっています。ミーティングは12ステップによる「解決方法」の分かち合いから離れてしまっています。

 良く批判されるのが、AAミーティングで(心の)「荷物を降ろす」ことや、「感情のゴミ捨て場にする」ことです。これは簡単に言うと、ミーティング場でグチをこぼしてばかりいることです。

 酒を止めたばかりのアルコホーリクは、情緒不安定な状態です。これはアルコールの影響が脳から消えるのには何年もかかるので仕方ない面もあります。普通の人に取ってみれば何でもない出来事が、酒を止めたアルコホーリクにとっては大きなストレスになることがあります。

 例えば、職場で上司にちょっと叱責されたとか、家族が自分の意見を聞いてくれなかったとか、自分より後で酒を止めたヤツが自分より褒められているとか・・、ありがちな話ばかりですが、それが酒を止めたアルコホーリクを妙に腹立たしい気分にさせてくれます。

 人は自分の傷ついた感情や、腹立たしい気分を言葉にして、誰かに聞いてもらうことで、ホッと楽な気分になることができます。共感してもらえる。共感はしてもらえなくても理解はしてもらえる。そのことが人の精神的な安定に寄与します。

 これはアルコホーリクだけでない、おそらく誰でもやっていることです。グチを聞いてくれる相手がいるのは幸せなことです。配偶者を失った人が淋しさを感じるのは、グチの聞き手がいないことに気づいた時だとも聞きます。

 グチというものは、なにかのトラブルを、自分以外の誰かの責任にしたり、悪口を言ったりするものですから、あまり健全なものとは言えません。しかし、人間というのは100%健全にはなれませんから、必要なものなのかも知れません。

 ただ、AAミーティングでそうしたグチを展開して良いものなのでしょうか。12ステップは、他者の落ち度ではなく、自分の落ち度を追求することによってトラブルを乗り越えていく手段です。だから、グチばっかりの話はAAミーティングには相応しくないと言えます。

 ただ「ビギナーは仕方ない」と言われます。AAではビギナーはあらゆる点で多目に見てもらえます。ともかく彼らは酒を止め続ける必要があり、そのために、ミーティング場でグチをこぼして「心が楽に」なるなら、それもオッケーだろう、というわけです。

 しかし、何ヶ月も何年も経てば、ミーティングで「心の荷物を降ろして楽になる」以上の事が求められます。自分を変えていくことが必要になります。

 自分の話を黙って聞いてもらえることは、幸せなことです。酒を飲み続けているアルコホーリックは、トラブルばかり起こすし、恨みがましくなっていますから、徐々に人間関係を失い、クチを開けば逆に叱られるような関係ばかりが残っています。それが、自分の中のネガティブな感情を言葉に出しても、責められるわけでもなく受け止めてもらえる。これはビギナーには大きな安堵とカタルシスを与えます。

 ただ、この種のカタルシスは、ミーティングへの出席を続けるうちに徐々に薄れていきます。古いメンバー達の関心もより新しいメンバーに移っていきます。2〜3年もすればその人はマンネリ化し、ミーティングに魅力を感じなくなり、グループから離れていきます。もっと早く離れる人もいます。

 AAから離れても、すぐに酒を飲むわけではありません。多くの人は、数ヶ月か数年、あるいはもっと長く酒をやめ続けたあげくに、例の強迫観念によって最初の一杯を飲み、やがて飲んだくれに戻ります。その人は、過去に通ったAAのことを思い出すかもしれません。しかし、同時にこうも考えます。

 「AAは私には効果がなかった」

 この言葉を聞けば、真面目にやっているAAメンバーは怒るかも知れません。AAプログラム(12ステップ)を試すことなくAAを去ったのに、それに効果がないと言うなんて!

 けれどその人を責めるにはあたりません。悪いのはAAのほうです。せっかくその人がAAに何ヶ月か何年か通っていたのに、その間にAAプログラム(12ステップ)に触れ、取り組むチャンスを提供できなかった責任がAAにあります。

 なぜミーティングで共通の解決方法(12ステップ)の話をしなければならないのか? 新しい人を助けるため。AAをつぶさないためです。なぜ日本のAAはメンバーが増えないのか? それは、12ステップに取り組むことなくAAを離れる人が多く、AAが能書き通りの効果を発揮できていないからです。

 日本のAAは二人のメンバーによって始まりました。その一人、ミニー神父の言葉にこんなものがあります。

 「回復を望む人には、そのチャンスが与えられるべきだ」

 日本のAAは、回復を望む人にそのチャンスを提供できなくなっているのではないか? 創始メンバーの理念が失われているのではないか、と危惧しています。

(さらに続くよ)


2012年08月20日(月) AAの共同体とは(その2)

 前回の雑記では、アルコホーリックが集まる共同体の中から12ステップが生まれたのではなく、まず最初に12ステップ(の原型)が存在し、それを広めるためにAA共同体が誕生したという話をしました。ビッグブックのあちこちを参照しながら、ビル・Wの元に12ステップのパーツが揃っていく様をたどってみました。

 では、ドクター・ボブはどうだったのでしょう。

 彼の回復の物語は、ビッグブックの個人の物語のパートに『ドクター・ボブの悪夢』として掲載されています。そこにはビルとの出会いも書かれています。

 実はドクター・ボブは、ビルと出会うより前に、オックスフォード・グループに参加していました。p.250には、彼が「ビールなら飲んでも大丈夫という実験」を繰り返している頃に、「見るからに落ち着いて、健康で、幸せそうに見える人たちのところ」に顔を出している記述があります。その集団は「何かしら霊的なこと」だと分かり、興味を持ったのですが、酒は止められませんでした。この集団がオックスフォード・グループです。

 彼はその後の2年半オックスフォード・グループの原理を研究することで、ステップ3以降(相当部分)には相当通じていたでしょう。おそらくはステップ2についても同様だと思われます。つまりドクター・ボブは3つのパーツのうち、2つは手にしていました。彼は何度もこの手段を使っては失敗を繰り返していました(p.xxi(21))。

 だが、残る一つのパーツ(ステップ1)を手に入れていませんでした。彼は自身が医者であったにもかかわらず、自分の病気についてはその本質を知らなかったのです。

 そこへビルがやってきて、医者に対して「あなたの病気は・・・」と説明しました。それはp.251〜253に書かれています。そのおかげで、彼は「前には決して奮い起こせなかった意欲」を持って、オックスフォード・グループの原理を実践することができ、回復したのでした。これについては「再版にあたって」に書かれています。

 その後、このアル中の集団がオックスフォード・グループから独立するのにはまだ数年かかるのですが、それは別の話にしましょう。

 ビルもボブも、3つのパーツ(12ステップ全体)がすべて揃うことによって回復することができました。ここが大事なポイントです。

 エビーがビルに伝えたことも、ビルがドクター・ボブに伝えたことも、12ステップをやった自分の体験でした。

 AAは自助(セルフヘルプ)グループだと言われます。自助グループとは何か? 同じような苦しみや悲しみを経験したり、問題を抱えている人が、おたがいを理解し、助け合って問題を解決していくグループだとされます。

 自助グループの要件が「同じ問題を抱える人」だとするならば、AAも自助グループに違いありません。

 しかし、AAは同じ問題を分かち合うだけではありません。ビッグブックのp.26〜27には、こう書かれています。

 「同じ苦しみを味わったということは、私たちを結び合わせる強力な接着剤の一つではあるが、それだけでは、いまの私たちのようには決してなれなかっただろう」

 同じアルコホリズム(アルコール依存症)という苦しみを抱えた人が集まってもAAにはなりません。依存症者どうしの出会いは、現在の日本でもたくさん起きています。もし、アル中同志が出会うだけでAAが誕生するなら、日本の精神科病棟やデイケアで山ほどAAが生まれ、今ごろ日本はAAだらけになっているはずです。でも、そうはなっていません。それはなぜなのか?

 「私たち一人一人にとっての偉大な事実は、私たちが共通の解決方法を見つけたということにある」

 ここでいう共通の解決方法とは12ステップのことです。つまりAAは、皆がアルコールという同じ問題を抱えるばかりではなく、皆が同じ解決方法(12ステップ)を使う集まりだということです。アル中同志が出会っても、そこに12ステップがなければ、決してAAたりえないということです。

 ところが、現実のAA(少なくとも日本のAA)のミーティングは、この12ステップによる「解決方法」の分かち合いから離れてしまっています。

(続きます)


2012年08月16日(木) AAの共同体とは(その1)

 AAの12のステップは、3つのルーツを持っています。「12ステップは3つのパーツから成り立っている」と言ってもかまいません。

 その最初の一つは「ステップ1」です。これについては、ビッグブックの「医師の意見」の章に詳述されています。

 ドクター・ボブとの出会いの2年前、1933年にビル・Wはチャールズ・B・タウンズ病院に入院し、シルクワース医師からアルコホリズムの本質について教えられます。その場面は、第一章「ビルの物語」のp.10あたりに書かれています。

 そこに出てくる「全米でも名の知れた病院」とはタウンズ病院のこと、「親切な医者」はシルクワース医師のことを指しています。医師がビルに教えたことと同じことが「医師の意見」の章に書かれています。

 ただし、ステップ1だけを把握しただけではビルの酒は止まらず、彼はこの病院にその後さらに3回入退院を繰り返します。

 さて、この出会いよりしばらく前、ローランド・ハザードという人物が、チューリヒでカール・ユング医師の治療を受けていました。ローランドは、ロードアイランド州でも屈指の裕福な家に生まれ、この当時は銀行を経営していました。

 彼はお金持ちだったので治療にはいくらでも金をつぎ込めたのですが、酒を止めることはできなかったため、ヨーロッパに渡ってユング博士の治療を受け、治ったものと信じてアメリカに帰国しました。しかし、再飲酒してしまったのです。

 ふたたびユング博士のもとを訪れたローランドは、なぜ自分が酒を止められないのか尋ねました。ユングの答えは、尽くすべき手だてはすべて尽くしたこと、見込みがあるとすれば、それは「霊的な体験」による人格の変化しかない、と彼を突き放します。この下りはビッグブックの第二章、p39〜42に詳しく書かれています。

 ローランドはユングの勧めに従い、イギリスのオックスフォード・グループに参加し、帰国後アメリカのオックスフォード・グループで、カルバリー伝道所のサミュエル・シューメイカー師へとつながります。

 このアルコホリズムの解決には霊的体験が必要である、というのがステップ2の主旨であり、それはユング博士から、ひとまずローランドに伝えられました。

 オックスフォード・グループはルター派の牧師フランク・C・ブックマンが始めた霊的運動でした。20世紀のこの時期、アメリカでは非常に勢いがあったそうで、多くの人が参加していました。ただし、これはアルコホーリクのためのグループではなく、この世に生じる問題は、各人が霊的な変容を遂げることによって解決できると信じる人たちの集団でした。

 オックスフォード・グループの原理を、アルコホーリク向けに整理したのはシューメイカー師でした。彼はこれを6つのステップに集約しました。その2〜6番目が、現在のAAの12ステップのステップ3〜12に相当します。

 ローランドは、学生時代の友人エビー・サッチャーが飲んだくれているという噂を聞き、オックスフォード・グループの原理のひとつ(人を手助けする)に従ってエビーを訪れ、彼が酔っぱらって銃を撃った罪で投獄されそうだったところを助け出します。

 ローランドと同じように、オックスフォード・グループで酒をやめたエビーは、学生時代の友人ビル・Wが飲んだくれているという噂を聞きます。そして、1934年11月、ビルを訪問し、キッチンで彼に酒をどうやって止めたかを説明しました。その内容は、アルコホリズムからの回復には霊的体験が必要なこと(ステップ2に相当)、そしてエビーがそれを得るために何をしたか(ステップ3〜12に相当)でした。この部分は、ビッグブックの第一章、p.13〜19に書かれています。

 ビルはその話を聞かされてムカついたものの、結局自分が助かるためにはそれしかないだろうと受け入れ、タウンズ病院に最後の入院をして酒を切り、入院中にエビーの手助けでステップ3〜11に取り組み、回復しました。この下りはp.19〜21にあります。

 ここまでを振り返ってみると、ビルは3つのパーツを全て手にした最初の人物でした。ステップ1はシルクワース博士から、ステップ2はユング博士からローランドとエビーを経由して、そしてステップ3以降はオックスフォード・グループから。

 ビル・Wは12ステップ(の原型)を手にし、それを実践することによって回復しました。彼の霊的体験はp.21にはっきりと書かれています。そして、ビルは半年後にドクター・ボブと出会い、12ステップを伝えることで、AA共同体が誕生しました。

 ここで強調したいのは、まず12ステップがあり、それを伝えるために仲間の共同体が生まれたということです。逆の順番ではありません。

 ○12ステップ→グループ(共同体)の順
 ×グループ(共同体)→12ステップの順

 アルコホーリクが集まって、自分の体験を語り合って、その中から12ステップが誕生したのではありません。まず12ステップが存在し、それを伝えるためにアルコホーリクが集まった・・それがAAです。

(当然、続きます)


2012年08月05日(日) ステップQ&A: 全部 vs. 基本的に

重箱の隅を突くような話ですが、テクニカルな話は意外と人気があるので書いてみます。

ビッグブックの90ページに、こんな文章があります。ステップ3のところです。

「私たちの問題は実は全部自分で招いた結果なのである。私たちが自分で問題を起こしたのだ」

私たちは何かトラブルが起こると、相手が悪いとばかり思ってきたが、そうではない自分が悪いのだよ・・と言っているわけです。それも「全部」。何もかも、自分が悪いというのであります。

さらには、ステップ4のところで(p.98)、人のことはさておき、自分の過ちだけを見つめるとあります。「何もかもが自分だけのせいでそうなったのではないにしても、他人をまったく抜きにして考えてみる」とあります。

「全部自分が悪いのだ」と言われると、人は反発するもののようで、「いや、自分にまったく落ち度がない場合だってあるだろう」という議論になったりします。

この「全部自分で招いた結果」という部分の原文は basically of our own making です。ベーシカリィは「基本的に」だから、例外的なことだってあり得るわけで、「全部自分で招いた」というのは誤訳であると主張する人もいます。

今年の3月にジョー・マキューの弟子にして後継者のラリー氏が来たときに、この疑問をぶつけた人がいました。ラリーさんの答えは「<全部>という翻訳で正しいだろう」というものでした。

そう、全部なのです。字義的な意味では正確ではないかもしれませんが、ビッグブックの著者らの言いたいことを正確に捉えた翻訳になっていると思います。

でも、納得できないという人もいるでしょうから、すこし説明を加えてみます。

こういう話は極端な例を挙げた方が分かりやすいので、棚卸し表を書いているアルコホーリックが、子供の頃に大人から虐待を受けたり、性被害を被ったというケースを扱うとします。こういう場合に子供の側が悪かったということはあり得ません。なぜなら、子供の安全を確保するのは大人の責任だからです。

ほら、被害を受けた側は悪くないじゃないか。例外だ!

けれど、12ステップの棚卸しで扱うのは「恨み」という事柄です。ここで、恨みの性質についての話をしなければなりません。これはほぼジョー・アンド・チャーリーからの受け売りですが。

日常生活の中で「怒り」を感じることがあるでしょう。腹をたてて当然のことがあります。これはアルコホーリクであろうが、普通の人であろうが変わりありません。けれど、普通の人は、その時は腹を立てても、いつまでもそれに囚われておらずに、自分のいつもどおりの穏やかな生活に戻っていきます。

けれどアルコホーリクは違います。その時だけでなく、もっと後になってからでも、原因を作った相手のことを思い出すたびに、怒りの感情が再燃します。頭の中では、怒りを感じた場面を再現されています。それはまるでテレビのスポーツ番組で、リプレイのビデオが何度も繰り返されるようです。ビデオと違うのは、思い出すたびに、自分に都合が良く、相手を悪者にするように改変されていくことです。

せっかく良い気分で過ごしている時でも、恨んでいる相手が部屋に入ってきたり、原因となったことを思い出しただけで、私たちは腹立たしい気分を再現してしまいます。その気分は私たちの行動を支配します。つまり、私たちは恨むことで、相手に支配されてしまうのです。自由に生きたければ、恨みを手放すしかありません。

このように、何かが起きたときの怒りの感情と、あとになって繰り返し再現される恨みの感情を、分けて考える必要があります。

何かが起きたとき、自分にはまったく落ち度がない場合もあります。けれど、後になって何度も恨みを再現しているのは自分自身であり、もうその時は相手は関係ありません。相手の問題ではなく自分の問題になっているのですから、相手のことはさておき、自分の過ちだけを見つめることが出来ます。

では、子供時代の虐待や性被害の話に戻りましょう。その子供時代の被害について、自分の落ち度を追求するのはフェアじゃありません。でも、棚卸し表を書いているのは大人になった人です。大人として現在の自分の行動に責任を持つ必要があります。

子供時代の被害はたいていトラウマ(心的外傷)になっているもので、それがPTSDを引き起こしています。(PTSDの解離による場面の再現と、前述の恨みの再現は、区別した方が良いと思います。両者は地続きなのかもしれませんが、ここでは分けて考えた方が良いと思います)。恨みの表にこれを書く人は、PTSDを未治療のままにしているのがほとんどです。

なぜ治療しないのか。その理由の一つは、単に治療可能であることを知らない場合です。治らないと思っているケースです。さらに、別の理由として、自分が治療をしなければならないことに対して、腹立たしく思っているから、つまり恨みです。

こんなケースを考えてみてください。駐車場にとめておいた車に戻ってみたら、窓ガラスが割られ、中の荷物が盗まれていました。この場合、車を駐めておいたあなたに落ち度はなく、車上荒らしが悪いのです。けれど、あなたはやるべきことはやらねばなりません。警察に届け、車を修理し、必要なら保険の請求をするのはあなたです。

それを、「私には何も落ち度はないから、何もしなくて良いはずだし、元の状態の車を受け取る権利がある」と言って、何もしなかったら、車は壊れたままです。後で犯人が捕まれば、修理費や慰謝料を請求できるかも知れませんが、とりあえず車は修理しないといけません。それは自分がやるのです。

同じように、トラウマを抱えた人は、自分に落ち度がないからという理由で、自分を治す行動を取らず、壊れたままにしておく人が珍しくありません。そうして、援助を受ける機会があったとしても、それを拒み続けます。その原因は恨みです。アルコホーリクは助けづらい人たち(援助希求能力が低い人たち)だと言われますが、恨みは、他人も自分も信じなくさせ、援助を拒ませています。

12ステップはPTSDそのものにはあまり効果がないようですが、恨みの棚卸しがきちんとできた人は、(PTSDを含む)他の様々な問題の解決のために、必要な行動を取るようになっていきます。援助を求める能力を取り戻していきます。

日本にはPTSDの専門家はまだ少ないので、近くには見つからないかも知れません。けれど、近くにないからと諦めてしまってはもったいない。もしガンにかかったとき、近くの医者に「私には手術できない」と言われたらそれで諦めるでしょうか。遠くの手術できる医者まで出かけていくはずです。PTSDだって同じではないでしょうかね。最近はEMDRのような良い治療法もできているのですから。

恨みは許すことで消すことができると言う人がいます。それは「忘れよう」と言っているに等しいことですが、恨みの性質から言って忘れるのは難しいことです。それよりむしろ、恨みによって自分で自分を傷つけていることが棚卸しで分かれば、バカバカしくなって恨みを手放そうという気になれます。相手が来て謝罪してくれれば気分が晴れると言う人もいますが、謝罪するかどうかは相手次第です。相手が謝罪するまで気分が悪いままだというのなら、自分の気分・自分の幸せは相手次第だということになります。それは自分の幸せ・不幸せを相手にコントロールさせているということで、これまたバカバカしい話です。

少々極端な例を挙げて説明しましたが、恨みというものが自分に不利益をもたらす以上、恨みを大切に育ててきたのは<全部>自分の落ち度でしかない、ということが理解できると思います。だから、あの90ページの文章の訳は「全部自分で招いた結果」であっているのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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