心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2012年07月27日(金) ステップQ&A:ステップ1

12ステップは「勉強する」ものではない、と言う人もいます。ましてや「教える」なんてとんでもない、とも言われたりします。

教えてもらうことも、学ぶこともなしに、どうやって12ステップを身につけることができるのか?

モーツァルトは4才の時に、誰も教えていないのにヴァイオリンが弾けるようになったそうです。周囲の大人たちがヴァイオリンを演奏しているのを、見よう見まねで憶えたのだとか。だがそれは、モーツァルトが天才だったからこそ可能になったことで、普通の子供はヴァイオリン教室に通いながら、教えてもらうことで弾けるようになっていきます。

AAが12ステップを教えることも学ぶこともない場所だとするなら、天才しか回復できない場になってしまいます。僕はそんなAAは嫌だ。誰でも回復できる場所であって欲しい。その為には、AAに12ステップを教えたり、学んだりする仕組みが必要です。それがスポンサーシップだったり、集団でステップを学ぶ仕組みだったりします。

12ステップというのは「生き方」です。ところが生き方というのは、教えるのも身につけるのも、時間と手間がかかります。だから、人はその手間を嫌って、もっと楽なやり方ですまそうとします。その人は、もっと良い人生を送る能力があるのに、その能力を活かす方法を教えてもらおうとはしません。ステップは教えてもらうものではないと言いながら、古い考えにしがみつく方を選び続けるのです。

さて、「ステップ1ではアルコールに対する無力を認めれば良いのか?」という質問をもらいました。

ステップ1は、「私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」という文章になっています。

ステップ1が要求していることは、アルコールに対する無力を認めることです。他のものに対する無力を認めろとは言っていません。

私たちは、アディクションの対象(酒・薬・ギャンブルなど)に対して無力であるばかりでなく、他の様々なことに対しても無力です。しかし、ステップ1の段階では、他の色々なことに対して無力を認めろとは言っていません。アルコールだけです。それはなぜか。

第二章の先頭には、私たちAAメンバーが「出身地も、職業もさまざまなら、政治的、経済的、社会的、宗教的背景もいろいろで、ふつうなら出会うことさえもなかった者同士だ」とあります。あるAAミーティング会場に集まった人が、たまたま中年の日本人男性ばかり、ってこともあるかもしれません。でも、他の会場に行けば、若い人も年寄りもいるし、女性もいます。外国の人もいるし、宗教や職業もバラバラです。

すべてのAAメンバーに共通することは、アルコールの問題だけです。他には共通点がないと言ってもかまいません。AAは共通する問題を抱えた人たちの集まりです。(もっと言えば、AAは共通の問題ばかりでなく、共通の解決(12ステップ)を持つ人の集まりでもありますが、それはここでは脇に置いておきます)。

AAメンバーはアルコール以外のことに対しても無力かもしれません。しかし、人によってその中身は違います。例えば僕は車のエンジンが壊れたら自分で修理できません。つまり車の故障に対して無力です。だから、自分で解決したくても、どうにもなりません。「自分を越えた大きな力」であるところの自動車修理工場に頼んで、修理してもらうのが正しい選択です。

けれども、もしあなたの職業が自動車修理工なら、僕とは違ってエンジンを自分で修理できるでしょう。ならば、あなたは車の故障に対して無力ではありません。僕とあなたは共通ではない、ということになります。

12ステップはすべてのAAメンバーに共通する問題を扱っています。ステップ1だけでなく、12ステップ全体を通してそうなっています。もっと先のステップに進めば、アルコール以外にも私たち全員に共通する問題があることが見えてきますが、ステップ1の段階でそれを気にする必要はありません。

皆に共通する問題。アルコールに対して無力を認めれば十分です。

大事なことは、「思い通りに生きていけなくなっていた」ことです。そして、それがアルコールを飲んできた結果であると認めることです。アルコホーリックは、酒のせいで仕事や家族やお金や信用を失います。人によって、何をどれだけ失ってきたかは違いますが、酒の問題がなければ、もっと違った人生、違った結果があり得た、ということを認めなくてはなりません。

アルコールと、今の不本意な生活との間に因果関係が成り立っていることを認められれば、人はもう酒には手を出さないようにしたい、と思うものです。にもかかわらず、何週間か何ヶ月、あるいは何年か先には、また最初の一杯に手を出してしまうだろう。その再飲酒を自分の力では防げない、と認めることがステップ1です。


2012年07月24日(火) 回復している・していない

AAでは「回復している」とか「回復していない」という言い方をします。

「回復」は英語のリカバリー(recovery)を訳したものです。ではリカバリーとは何なのか。
リカバリーという言葉をアルコホリズムに対して使い出したのは、シスター・イグナチアだそうです。彼女は、AAの共同創始者の一人ドクター・ボブと一緒に、セント・トーマス病院にアルコール病棟を立ち上げ、アルコホーリックの治療にあたりました。

彼女は、アルコホリズムは病気であること、二度と正常に酒が飲めるようにはならない、つまり治癒(cure)はないが回復することは可能だと説きました。

この病棟では治療プログラムに12ステップを使っていましたから、当然それによる「回復」とは12ステップの目標である「霊的体験(霊的目覚め)」を達成することを示します。だから、「回復」という言葉の使われ始めにおいては、回復=霊的体験(霊的目覚め)でした。

しかし、その後、アルコホリズムが病気だと社会に受け入れられ、対策が進むにつれ、「回復」という言葉は霊的な事柄以外にも使われるようになっていきました。現在では、身体的、精神的、社会的な事柄についても「回復」が言われます。例えば、アルコールのせいで仕事ができなくなった人が再び仕事に就くことも「回復」であるし、飲み過ぎで胃が食べ物を受け付けなくなった人が、解毒が済んで固形食が食べられるようになるのも「回復」と呼んで良いのかもしれません。

それでも12ステップという面から見れば、「回復」とは霊的な次元での話でありましょう。

AAはアルコホリズムから回復するための団体なので、人が回復している・いないは関心の対象となります。では、回復している・していないを、どうやって判断したら良いのでしょうか。それは、霊的目覚めは、外から観察して分かるものなのかどうか、という話につながります。

『12のステップと12の伝統』のステップ12のところ(p.141/144)には、霊的目覚めが存在することに疑問の余地はなく、本物の霊的目覚めには共通性があると述べられています。この本にも、またビッグブックの巻末の付録の所にも、その変化は周囲から見て分かるものだと書かれています。

では、その人のどこを見れば分かるのか(もちろん、そんな判定法はAAの本にも書いてないのですが)。

少し前の雑記で、具合の悪い人は「気分が良いこと」にこだわる、という話を書きました。人間が生きていて気分が良いことばかりじゃない、むしろそんなことは少ないぐらいが普通なのですが、アディクションの人にはそうでないわけです。(酒や薬は、いつもその期待に応えてくれました。最初の頃だけですが)。

酒や薬を使っていない素面の時に、なぜそんなに「気分が良くないのか」を考えてみることは、あまりしないのです。

僕はいままで正義感を持たない人に会ったことはありません。皆が正しく生きようとしています。また、何かを手に入れるのに努力が必要であることも、人はちゃんとわかっているものです。

一方で、同じ人が、自分の「正しさ」がどこでも常に通用して当然だと思っていたり、努力には常にそれに見合った成果があるべきだと考えていたりします。その考えを点検してみることをしません。自分が間違っているとか、それほど努力をしていないのに過大な要求をしているとは思わないのです。

こんな状態では、努力するほど欲求不満が高まります(頑張るほどにヘンなものが手に入る)。憤慨し、人や世の中を恨んでみたり、努力を嫌い無気力、厭世的になったりします。

その人が気分良くなるためには、世の中がその人を中心に周らなくてはなりません。もちろん、そんなことは起こりえないのですが。

時には物事が順調に進むこともあります。回復していようが、いまいが、物事が順調な時には気分が良いものです。だから、順調さや気分の良さで回復は計れません。

回復が分かるのは、その人の思い通りに物事が動かない時です。「気分が良くなるため」に努力してきた人は、思惑通りに進まなくなったときに、恨みがましい行動に終始しがちです。自分が正しいと信じていることや努力の方向性を点検してみることはしないものです。

「私たちが自分で自分のみじめさを作り出したのははっきりしている」(p.141)

酒を飲んでトラブルを起こし、そのペナルティを食らったから惨めになったのではありません。アルコホーリックは素面の時にも自ら惨めさを作り出す生き方をしているのです。努力の方向性が、自分が「気分良くなるため」なのだから当たり前です。


2012年07月13日(金) ステップ4・5偏重主義

最近はゆっくりテレビを見ることが少なくなりました。(録画してもどうせ見ないし)。

以前たまに見ていた番組の一つが『プロフェッショナル 仕事の流儀』です。各分野のプロ中のプロの仕事のやり方、信念などをドキュメンタリー形式で紹介する番組です。

何年か前、その番組にある外科医が出演していました(名前は忘れました)。外科医という職業は手術の巧さを追求するもののようです。彼は若い頃、手術の巧さとは手術の手早さである、と信じていたそうです。アメリカでの修業時代、彼は同僚のアメリカ人医師より短時間で手術を終えることを内心誇りにしていました。しかし、赴任して時間が経つと、彼はあることに気がつきます。

同僚の手術した患者のほうが、彼の患者よりその後の入院期間が短く、早く退院していきます。しかも、術後のトラブルも少ない。彼は自分の誤りに気がつき、以後、手術の巧さとは早さではなく、その後の回復のスピード、順調さであると信念を変えることとなりました。

ぼんやりその番組を眺めながら、僕は「彼の教訓から自分が学べるものは何だろうか」と考えていました。

12ステップについて言えば、ステップ4から9は自分の中の「良くないもの」を取り除く作業ですから、「手術」に例えることもできるでしょう。取り除くのはステップ5では「自分の過ち」、ステップ6では「性格上の欠点」、ステップ7では「短所」と表現されていますが、これらはすべて同じことを示しています。(ビッグブックが書かれた当時は、そのような修辞法が流行っていたのだそうです)。

ステップ4と5の棚卸しは、メスで体を切り開いていくように、自分の内面の問題を探り当てていきます。おそらくここを丁寧に丹念に行うことが必要なのでしょう。

「私たちはおごりを捨て、どのような性格のゆがみにも、過ぎ去った過去の暗い裂け目にもくまなく光を当てていく」(p.108)

ビッグブックのやり方の棚卸しでは表を作ることになっています。僕は「恨みの表」「恐れの表」「性のふるまいの表」の三つを使います(さらに四つ目の表を使っている人たちもいます)。僕はスポンシーにまず「恨みの表」を書いてきてもらい、そのステップ5を聞きます。一回のセッションは数時間なので、恨みの表が一回では終わらず、何回かに分けることになるのが普通です。これが終わると、次に「恐れの表」を書いてきてもらいます。恨みの表と内容がかぶっているので、わりと早く終わります。性の表は人によって長かったり短かったりいろいろです。

こうやって丁寧にやると、問題点が明確に分かって良いのですが、難点もあります。棚卸しに日数が必要になりますが、連続何日も時間を割くことはお互いできませんから、どうしても日付が飛び飛びになります。スポンサー、スポンシーどちらかが忙しければ間隔が開いて、全体が何ヶ月にも渡ってしまうこともあります。間延びしてしまうわけです。

その間も、表で明らかになった問題点を意識の片隅に置いておければ良いのですが、日常の忙しさに紛れて失念してしまい、次に再開したときに「えーと、なんだっけ?」ということになりかねません。下手をすると、棚卸しの目的が「表を完成させること」になってしまいます。(棚卸しの目的は表の完成ではなく、自分の性格的欠点や傷つけた相手を把握すること。表は手段に過ぎない)。

最近自分が忙しくなってきて、この間延びの悪影響が目立ってきました。すこし考え直さないといけないと思っていたところです。

ジョー・マキューは12ステップを短期間で行うことを主張していました。例えば1ヶ月、あるいはもっと短い日数で12ステップ全体をこなします。そうなると、棚卸しにもそんなに時間はかけられないでしょう。

ラリーさんはジョー・マキューの弟子にして後継者ですが、数ヶ月前に来日した彼のスピーチを聴く機会に恵まれました。彼は一晩で3つの表を書き上げ、翌日の午後にジョーにステップ5を聞いてもらったそうです。詳しく確かめたわけではありませんが、おそらく表を書くこと・聞ことを合わせて「丸一日」ぐらいでしょう。僕の今までの考え方からすれば、ずいぶん短く感じます。

ジョーが作り、今はラリーさんが所長をやっている Serenity Park という施設では、12ステップを治療プログラムとしています。当然棚卸し(ステップ4・5)にも取り組みます。そのステップ5を聞くのは施設の職業カウンセラーの役目ではなく、外部のボランティアAAメンバーなのだそうです(あるいは入所者が選んだAAスポンサー)。その人たちは、ステップ5を聞くために施設のトレーニングを受けているものの、プロフェッショナルではありません。

なぜこんな面倒なことをしているのか。アメリカの職業カウンセラーには「通報義務」があり、児童虐待などの事実を把握した場合には当局に通報する義務があるのだそうです。通報の是非はともかくとして、自分が子供を虐待していることを明かしたら通報されると分かっているクライアントは、その事実を表に載せなかったり、打ち明けなかったりするかもしれません。そうなるとステップ5の効果は失われ、クライアントが回復できなくなってしまいます。

そうした事態を避けるために、あえて非プロの(通報義務のない)聞き手を採用しているのだそうです。(ちなみにヘイゼルデンでは、ステップ5の聞き手はカウンセラーではない牧師の資格のスタッフが務めるのだそうです)。

こうした外部協力者は、昼間は自分の仕事をしていて、夕方になると施設にやってきて、施設利用者のステップ5の聞き役を務めます。施設プログラムは30日で12ステップ全体をこなすので、ステップ5に費やせるのは長くてもせいぜい二晩か三晩、合計数時間でしょう。この時間で三つの表すべてをこなすわけです。

数時間程度のステップ5であっても、十分効果が出ているようです。(そうでなければ、施設があれだけの評判を取り存続し続けることができようはずがありません)。

だとすれば、ステップ4・5の他にも、その後の回復を左右する要素があることになります。それは何でしょうか。

自分自身や自分のスポンシーばかりでなく、周囲のいろんな事例を見てみると、きちんとした回復を成し遂げているのは、ステップ4・5ばかりでなく、その先の埋め合わせ(ステップ8・9)に意欲的に取り組み、ステップ10で日々の棚卸しを続けている人たちであることが分かります。

中にはステップ4・5の段階では顕著な効果が出なかったのに、埋め合わせや日々の棚卸しに地道に取り組むうちに、回復の見本として取り上げたくなるような変化を遂げた人もいます。一方で、時間をかけてステップ4・5に取り組んだものの、ステップ10に取り組まないおかげで、徐々に酒に近づいているような人もいます。

どうやら僕はステップ4・5を重視しすぎて12ステップ全体のバランスを欠いていたのではないか、というのが最近の気づきです。(気づいてみれば当たり前のことなのですが、気づきとは常にそういうものです)。

日本における旧来の12ステップのやり方では、ステップ4・5が非常に重要視されていました。回復施設マックにおいては、ステップ4・5を済ますことがプログラム修了・退所の条件だったこともあります。AAでもステップ4・5が「一人前のAAメンバー」になるための通過儀礼的な扱いになっていました。今の日本のAAでは棚卸しに取り組むメンバーが少ないのですが、その先のステップに取り組むメンバーは(今も昔も)さらに少ないのです。

そのようなステップ4・5を重視する日本のAA文化の中で、僕はソブラエティを得て、後にビッグブックのやり方に切り替えたものの、最初に身につけた考え方の影響は大きい・・と、つくづく思った次第です。スポンサー・スポンシーお互い時間があるのなら、じっくり棚卸しに取り組むのは良いことだと思います。ただ、限られた時間の中で成果を出さねばならない場合もあるわけです(仕事だと常にそうですが)。


2012年07月02日(月) 回復は上り坂

回復は上り坂であり、上り坂はしんどいものである、ということ。

最近はAAだけでなく、回復施設にもちょっとだけ関わっています。施設に入所するということは端から見ていて「大変そう」だし、実際入所中の人たちに聞いてみれば「結構しんどい」という答えが返ってきたりします。今回は、何がどう「大変」であり、どう「しんどい」のかという話です。

施設に入所すると、たいてい仕事を続けることはできなくなります(少なくともいったん休職は必要)。また家族と一緒に暮らすこともできなくなります。その期間は施設によって様々ですが、少なくとも数ヶ月、長ければ数年におよぶこともあります。仕事からも家族からも離れて、何をするかと言えば「回復」に専念するわけです。そして、この回復することが「大変」であり「しんどい」のです。そのことは、施設入所だけではなく、AAや他のグループにおける回復にも当てはまります。

病んでいる状態は本人にとっても気持ちの良いものではありません。だから病んでいる人は健康な状態に戻りたいという願いを持つはずです。

上とか下という話をします。「健康な状態」「機能している状態」のところに一本の線を引くとすると、病んでいる状態は、その線より上に位置しているのでしょうか、下に位置しているのでしょうか。イメージ的には、病んでいる状態は健康な状態より下にあるとしたほうが分かりやすいでしょうね。

「回復」てゃ病んだ状態から、健康で機能的な状態に戻ることですから、つまり上り坂を上ることです。平坦な道や下り坂より、上り坂がしんどいのは当然です。それが回復の「大変さ」であり「キツさ」です。回復を「成長」などと他の言葉に言い換えてみても、変わりません。

12ステップは楽しいかと問われれば「特に楽しくない」という答えになります。自分の抱える欠点をあぶり出す棚卸し作業や、自分が恨んでいた相手に謝罪に行く埋め合わせなど、誰だって楽しくはないでしょう。途中から自分が回復している手応え(効力感)を感じるようになるので、それを楽しいと表現する人もいますが、やるべきことそのものは楽しくはありません。

だから、AAに来る人はほぼ例外なく「もっとやさしい楽なやり方」を探してしまうわけですが、上り坂を上らずに上る手段はみつからないのです。

「私は回復しようとしているのに、なぜこんなに苦しいのでしょう?」と真顔で尋ねられることがあります。それは回復している最中だからであり、上り坂を上っているからです。平坦な道や下り坂を選べば楽かも知れませんが、それは現状維持、あるいは病気がより進行する方向へとつながっています。

3月にある先生の講演を聞きました。その中の独白的な部分だったので、名を挙げて紹介して良いか迷うので、伏せておきますが、先生曰く

「アディクションの人は、<気分が良いこと>にこだわる。人生を生きていて、そんなに良い気分でばかりいられないし、そうでないことが多くて当たり前なのに、なぜかアディクションの人は、いつも気分が良くなくちゃならないという思い込みがある」

そんな私たちを手っ取り早く<気分良く>させてくれたのが、アディクションの対象(アルコール・薬物・ギャンブルなど)でした。確かに気持ち良くさせてくれるのですが、乱用すればやがて効果が薄れ、量を増やさねばならず、メリットよりデメリットが大きくなってきます。

そして酒や薬を止めざるを得なくなったとき、その人が「回復」に対して描くイメージは、酒や薬がなくてもいつも<気分が良く>いられる状態が「回復」であり、12ステップが気持ちよさをもたらしてくれる道具である、という誤解です。(そうした誤解は12ステップ以外の手段に対してもしばしば起こります)。

そういう人は、回復を手助けしてくれる人(援助者)に対して、自分の気分を良くしてくれることを要求します。慰めてくれる人、あなたは悪くないと言ってくれる人を求めますが、そうした慰めの効果は酒や薬よりも短期間しか効果がありません。

<気分が良いこと>にこだわる人にとって、自分の気分を害してくる人は自分にとって悪者です。気分が良くなりたければ相手に態度を変えてもらわなくちゃなりません。しかし、たいてい相手は態度を変えてくれません。気分が相手次第になってしまいます。生きていれば不愉快な体験をせずにはいられませんから、「私の気分を害させる悪い人」は増えてくるし、どこへ行っても悪い人ばかりで安らぎがなく、閉塞感につつまれて生きる気力すら奪われてしまいます。

アディクションに限らず、精神的に具合の悪い人は(ACだろうがなんだろうが)、こういう悪循環に陥っている例が少なくないように思います。

生きていれば理不尽なことや不愉快な体験は避けられません。むしろ毎日がその連続です。そういった理不尽に巻き込まれずに、自分のやるべき事をやって人生を楽しめるというのが健康です。その健康に向かって上る手段の一つが12ステップです。上り坂はしんどいから、途中でちょっと休んだり、時にはちょっと下ってやりなおしたりもするのですが、基本的には自分で上り続けるしかないものです。

けれど、やはり上るのはしんどいので、上るエネルギーを補給してくれる存在とか、導いてくれる存在は必要です。12ステップであれ他の手段であれ、孤立した人がなかなか回復できないのには、そういう理由があるのではないかと考えています。


2012年06月29日(金) 発達障害ネタ

スポンシーさんとステップワークをやっていました。彼が持ってきた紙束の中から、棚卸し表を取り出そうとするのですが、なかなか見つかりません。「あれ、どこ行っちゃったかな。忘れちゃったかな」と言いながら数分探し続けたのですが見つかりません。こちらも、表がなかったら今日はどうしようかなどと考えながら待っていると、そのうち「あ、ここだ」と脇に置いてあった棚卸し表の束が見つかりました。

鞄から他のものを取り出すのに邪魔だったので、棚卸し表を取りのけて脇に置いたのを、すっかり忘れてしまっていた、という話でした。

実は彼は発達障害の疑いで専門医を受診しているのですが、医師によれば、そのように「ついさっき物をどこかに置いたことを忘れて探し回る」というのは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の典型的な症状なのだそうです。

・・・そんなんだったら、いくらでもある僕です。

実は先日の夜も、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし終え、メガネをかけようと周囲を探したのですが、メガネが見あたりません。普段だったら、ドライヤーをかける前にメガネを外してテーブルの上などに置くので、あちこち探したのですが見つかりません。埒があかないので家人にも手伝ってもらうのですが、それでも見つかりません。「風呂に置いてきたのではないか」「二階にあるのではないか」と言われ、自分の記憶はハッキリしてないのですが、普段どおりこの辺に置いたはずなので、風呂や二階という可能性はないはずでした(ええ、そうに違いありません)。

数分後、ふと気がついてお風呂を見に行ってみると、湯船の底にメガネが沈んでいました。メガネをタオルでぬぐいながら風呂から出てきたら、家人にはすっかり呆れられてしまいました。

こういうADHD的な僕が、アスペルガーとか自閉圏の多いIT業界で働いているので、結構気疲れするわけです(慣れますけどね)。

この雑記では以前、発達障害に関する連続記事を書いたことがありました。知的障害→自閉圏と話を進めて、次にADHD、最後に杉山先生が唱える「第四の発達障害」(虐待による発達障害)で締めくくる予定でしたが、ADHDの話の前で途切れてしまいました。

最近、雑談の中で聞いた話だったので、元ネタはどこか忘れましたが、発達障害と診断される人で、純粋なADHDの人はほとんどいない、という話でした。でも、実際にはADHDと診断される大人は結構いるわけです。それは、発達障害の診断に慣れていない医師が、心理検査の結果に頼りすぎて、目の前の患者の特性を見落としてしまった結果、ADHDという診断を下してしまうからではないか、という話がくっついていました。

国際的な診断基準では、ADHDと自閉圏の症状が重なっている場合には、自閉圏の診断を優先する決まりです。だから、アスペルガー症候群とか、高機能自閉症とか、PDDNOSとか、広汎性発達障害とかの診断名がつくはずのものが、ADHDという診断になってしまっている。実際にその人の社会適合を妨げているのは、ADHDの症状より自閉的な症状であるのに、それが無視される結果になっているわけです。

僕も、純粋なADHDの人で、発達障害の診断を受ける大人は珍しいのではないかと思っています。いるとすれば、余程症状の激しい人でしょう。以前テレビでADHDの女性の生活を放映していました。それは最初はキッチンで料理をしている場面で始まります。そこで宅急便が来て呼び鈴を鳴らすと、鍋を火にかけたままそれに応対しようと玄関に向かいます。戻ってくる途中で洗濯が終わっているのに気づき、洗濯機から取り出して干し始めます。そこへ電話がかかってきたので、話に夢中になり、やがて焦げ臭い匂いに気づき・・という流れでした。さすがにここまでの人は珍しいでしょう。

ADHDは子供の頃は顕著なものの、脳が成長する連れてバランスが取れて症状が治まっていき、成人する頃には目立たなくなるケースが多いわけです。(それが連続記事が途絶えた理由でもある)。むしろ自閉の社会性の障害のほうが、適応の障害になりがちです。

別の話ですが、病名のかっこよさ悪さってのはあると思います。

佐々木倫子の『おたんこナース』というマンガに、糖尿病という病気はかっこわるいという話が出てきます(病名に尿がついているから)。精神科の病名だと、統合失調症という病名は忌み嫌われるけれど、うつ病だったらオッケーという風潮があるように思います(昔だったら神経症とかはオッケーだった)。

発達障害というジャンルにも、似たような雰囲気があって、例えばアスペルガーっていうと「なんか頭がよさそうな感じ」とか(実際には自閉の症状がやや重度という意味)。自閉症よりADHDのほうがマシに感じられるとか・・・。

そういう雰囲気を背景に、自閉よりADHDのほうが本人も家族も受容しやすいというので、そちらを選んでしまう医師がいる・・・というのは雑談レベルの話なので、まともに取り合ってもらっちゃ困りますけどね。

ある場所で自分をADHDだと言っている人の話を聞いていたのですが、待ち合わせの予定に遅れるのがADHDの症状だと言っていました。確かに、待ち合わせの予定そのものを失念してしまうのは、ADHDの症状としてありがちなことです。でも、話の中身は、待ち合わせの予定から逆算して、何時に家を出れば間に合うか計画を立てる能力のことを言っていましたから、それは自閉の問題です。適切な支援策を受ければ、問題は緩和するはずなのですけどね。ADHDという診断がミスマッチを招いているわけです。

話はさらに飛んで、アメリカのAAはADHD的文化で、どんどん変えていくのを良しとし、日本のAAは自閉文化で、いつまでも変わらないことを良しとする、なんて言った人がいました。(日本人からすれば、そもそもアメリカという国全体がADHD的に感じますけど)。

日本のAAでは「先ゆく仲間からの述べ伝え」などと言って、先達から受け継いだやり方を変えないことが良いという雰囲気があります。たぶん始めたときにたまたまそうなっただけで、そうした意味は大してないのに、ともかく「変えてはいけない」という雰囲気が強いのです(自閉的こだわり)。

例えばバースディミーティングとかも、そのグループのやり方が「式次第」みたいに決まっていて、ちょっとでも変えると「違う!」とか指弾されちゃったりして。新しく司会進行役をする仲間が、オールドタイマーから何か言われやしないかと緊張しまくりとかね。(ADHD的な)僕に言わせれば、本質が保たれていればやり方なんてどうだって良いじゃねーかよ、と思うんですけどね。

えーと、何の話でしたっけ。


2012年06月18日(月) 12の伝統の解釈自由度

AAの12ステップは個人の自由な解釈の余地を大きく残しています。
だから、ある人のステップのやり方を「間違っている」と断ずることはなかなかできるものではありません。

ただやはり、12のステップには「本質」とでも言うべき事柄はあるように思います。それは二つ。一つは「棚卸し」(ステップ4・5)です。これは自分のどこが間違っていて、どこが悪かったのか、書き出して、他者から指摘を受けるステップです。もう一つは「埋め合わせ」(ステップ8・9)です。こちらは、自分の過去の過ちを相手に謝罪しに行くステップです。ステップ10はこの二つの繰り返しです。

だから、「棚卸し」と「埋め合わせ」の両方がそれなりにできていれば、ステップとして効果が出てくるだろう・・というのが僕の考えです。この二つが欠けてしまうと、いくら12ステップを自由に解釈して良いとは言え、効果が期待できなくなるんじゃないかと思います。

棚卸しのステップ5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」となっています。「もう一人の人」は自分以外の人です。誰だって自分の間違いを他の人に認めることはしたくありません。まして、その相手がもっと鋭いツッコミをしてくる可能性があれば、なおさら嫌です。だから、このステップ5を避けて通ろうとする人は少なくありません。

最近こんなことを聞き及びました。某所で、「この<もう一人の人>は、自分の中の<もう一人の人>ではいけないのでしょうか?」と聞かれた精神科医が、「それで良い」と答えてしまったという話です。たぶん、その先生は12ステップには詳しくなかったのでしょう(普通医者は12ステップには詳しくない)。

自分の中の<もう一人の人>というのは、例えば自分の良心などを指した言葉でしょう。それを<もう一人の人>にするわけにはいかないでしょうね。他者に評価してもらうのがステップ5の肝心なところです。先生は善意でアドバイスしてくださったのでしょうが、真に受けたメンバーがいたとしたらご愁傷様です。

さて、12のステップが個人の回復に関わるもので、12の伝統はAAグループに対する指針です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit.htm
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit2.htm

12の伝統も、12のステップと同じように、どのように解釈するかは各グループに大きな自由度を許しているのでしょう。であるのに、「伝統」が「ルール」であるかのように思い込んでしまう人もいます。

自分の12ステップの解釈を人に押しつけようとするメンバーは嫌われがちです。同じように、12の伝統の自分の解釈を人に押しつけようとすれば嫌われるでしょう。

伝統の11番には、AAの広報活動は「宣伝よりもひきつける魅力」に基づくべきだとあります。promotion ではなく attraction であるべき、という話です。日本のAAメンバーは、これはAAの宣伝をしてはいけないという意味だと解釈する人が多いようです。

しかし、海外ではテレビやラジオでAAのコマーシャルが流れており、YouTubeで探して見ることもできます。WSM報告書には、オーストラリアで駅にAAの広告を出したところ、ホームページのヒット数が激増したという報告が載っています。

海外のやり方が間違っているとも、日本の伝統の解釈が間違っているとも言いづらいものです。12の伝統の解釈がそれぞれに違っていて構わないということでしょう。例えば、国内で、あるAAグループはローカル新聞に広告をだして存在を世間に知らせ、別のグループはそうしたことはしない・・というのもありでしょう。

伝統の6番は、AAの外部に対してAAの名前を使うべきではない、とあります。AAメンバーが個人としてどんな活動に参加しようと自由だけれど、AAが団体として別の団体の傘下に入るのは良くないという趣旨です。

ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。

これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。

でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。

評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。

評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。


2012年06月04日(月) ジェネリクかジェリネクか

AAのミーティングでは「ミーティング・ハンドブック」と呼ばれる16ページの冊子を使っているところがほとんどだと思います。これは日本独自の習慣で、他の国のAAではビッグブックを使っているところが多いそうですが、ともかく日本ではこの簡便な70円の冊子が愛されています。

この冊子はもう何年も改訂されていないので、メンバーの中には、この冊子の内容は変更できないと思っている人もいるようですが、以前は内容がずいぶん現在とは違っていました。

こんな図も掲載されていました。
アルコール中毒の進行と回復


これは、「ジェリネク・チャート」とか「ジェリネク・カーブ」と呼ばれる図です。図を作ったジェリネク博士(E. Morton Jellinek, 1890-1963)は20世紀半ばのアルコホリズム(アルコール依存症)の研究者として大変有名な人で、彼の功績は現在の医療にも大きな影響を及ぼしています(良い影響か悪い影響かはともかく)。

極めて研究熱心な人だったようで、最後の勤務地スタンフォード大学の研究室のデスクで絶命したという逸話が残っています。WHOのアルコホリズムに関するコンサルタントでもありました。

初期の日本のAAでは、AA以外の文書の翻訳を頒布していました。その中の一冊が『アルコール中毒という病気』という小冊子です。これはWHOのニューズレターをアメリカ・カリフォルニア州政府がパンフレットにしたものをピーター神父が手に入れ、日本のAAメンバーに紹介しようと訳出したものだそうです。すでに手に入らないので、こちらに掲載しています。

アルコール中毒という病気――アルコホリズムにいたる警告のシグナル――
http://www.ieji.org/archive/warning-signals.html

これはジェリネク博士の論文が元になっています。読めばジェリネク博士が、アルコホリズムをどう捉えていたかがよく分かります。彼はこの病気を「アルコールのコントロール喪失」であり「失ったコントロールを取り戻すことはなく、節酒は不可能で」「進行性で死に至る病気」であり、有効な治療を受け入れるためには本人が「底をつく必要がある」としています。これは、AAの主張と重なります。

ジェリネク博士は著書 The Disease Concept of Alcoholism の中で、アルコホリズムを5種類に分類しています。

α(アルファ)型:肉体的・感情的な苦痛に対処するために、アルコールの効果に頼っている。飲酒のせいで社会的な問題が生じているのだが、一方で(飲酒の原因となる)社会的個人的問題を抱えてもいる。いわば「問題飲酒者」。ジェリネクによれば、コントロールを失っておらず、本気で願えば酒はやめられる。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

β(べーた)型:飲酒のせいで肝障害などの身体的な症状がある大量飲酒者。ほぼ毎日大量に飲酒する。しかし肉体的にも精神的にも依存しておらず、離脱症状もない。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

γ(ガンマ)型:アルコールに対する耐性を獲得し、身体的に依存し(離脱症状があり)、コントロールを失っている。いわゆる「AA型のコントロールを失ったアルコホーリック」。ジェリネクによれば、このタイプこそ「病気」であり、アメリカ国内およびAAの中で最も一般的な存在。

δ(デルタ)型:γ型に似ている。コントロール喪失はないが、離脱症状があり断酒の難しいタイプ。状況によっては節酒ができる。

ε(エプシロン)型:他のどのタイプとも違い、周期的に大酒を飲む時期以外はまったく飲酒しない。いわゆる「渇酒症」。γ型の再飲酒とは区別が必要。

ジェリネク博士の研究はエビデンスに基づいたものだったとは言え、批判もあります。アメリカにおけるアルコール依存の研究は1940〜1950年代に進歩を見せていますが、それにはAAが発展したことにより、酒を断ったたくさんのアルコホーリクと面接することが可能になったという背景があります。

ご存じの通り、酔っ払いと話すのは骨が折れます。飲み続けている人にインタビューをしても得るものは少ない。きちんと酒をやめられた人たちの集団を相手にしたかったら、AAしかなかった。という当時の事情もあります。彼は数千人のAAメンバーと面接する研究から、AA型のアルコホーリックこそ、アルコホリズムという病気の本質であると結論づけることになりました。

彼はこの分類をすることにより、アルコホリズムにも多様性があることや、アルコホリズムという疾病概念がいたずらに拡大されることを防ぐ意図があったようです。しかし、彼の意図に反して、アルコホリズムはすべてγ型であるという解釈を広める結果になりました。

翻ってAAは、アルコホリズムは一つのタイプしかないという主張をしています。酒のコントロールを失い、そのコントロールは一生取り戻すことはなく、解決は断酒しかない(断酒を続けるために12ステップをやる)。一方で、酒でトラブルを起こしている人が、全員アルコホーリックだとも言っていません。

ビッグブックのp.31では、「大酒飲み」と「本物のアルコホーリク」を分けています。大酒飲みの中には酒をやめるのが困難で医者の世話にならなければ止められない者もいる、とあります。ジェリネク博士の分類で言えば、γ型以外のアルコホーリックでしょう。一方「本物のアルコホーリク」は、霊的な手段がないと助からないとしています。そして「本物のアルコホーリク」とは、シルクワース博士の描き出した「渇望現象」を持つ人たちを示しています。

僕は以前から、アルコールを乱用している人すべてに「アルコール依存症」とか「アルコホーリック」というラベルを貼るのはやめたほうが良いと主張してきました。境界性人格障害や統合失調症の人が症状としてアルコール乱用をするのは、いわゆるアルコール依存症の人たちの問題とは違っています。

また、ここ数年ビッグブックのやり方で12ステップを行っていると、明確な渇望現象を持たないAAメンバーの存在に気づかされます。自らの渇望の経験を捉えることができないということは、基本中の基本となるステップ1を理解することが難しい人たちです。

こうした「本物ではないアルコホーリク」がAAに存在していることに以前から気がついていた人もいたはずです。

一つは、DSMのような操作的な診断基準に従って、アルコール乱用があればその原因を問わずに「アルコール依存症」の病名を与え、自助グループを薦める医療機関の問題。もう一つは、12の伝統に従って「酒をやめたい」のなら誰でもメンバーになれるというAAの姿勢です。

僕は日本を訪れているシカゴのAAメンバーと一緒に食事をしたとき、「シカゴのAAにも本物じゃない人たちはいるか?」と尋ねました。相手の答えは「もちろんだとも」でした。でも、そういう人たちはAAに長居はしない。せいぜい2〜3年もすれば消えてしまうよ。だって他のメンバーと話が合わないからね。という話でした。

AAはメンバーになる条件として「酒をやめたい」という気持ち以外は要求しません。そうやって否認を伴いがちなアルコホーリックを幅広く受け入れられるようにしています。一方で、ミーティングではアルコールの問題を分かち合うことで、対象外の人たちがふるい落とされる仕組みになっているというわけです。少なくとも海の向こうの地では、そのふるいが有効に働いているようです。日本ではどうなのでしょう。

AAは12ステップを使って酒をやめ続ける団体です。その原則は変えることはできません。僕は5年ほど前からビッグブックを使った12ステップのやり方でスポンサーシップを行っています。その経験から、本物のアルコホーリック(ジェリネク博士のγ型)に対して、12ステップは極めて有効だと考えています。

しかし、前述のようにAAには本物ではないタイプもいます。ハッキリした渇望の経験を持たなかったり、別の原因で酒を飲んできた人たちには、12ステップの効果はあやふやです。むしろ別の方法のほうが良いこともしばしばです。薬物やギャンブルについてもおそらく同じ事は言えるでしょう。

最近では「これが12ステップの限界なのだ」と考えています。12ステップは有効な治療法です。しかし、どんな薬だって対象の病気以外には効きません。風邪の人に、高血圧や糖尿の薬を出す医者はいないでしょう。むしろ、「この薬はどんな病気にも効きます」と言えば、怪しい話になってしまいます。

今の日本で、12ステップの効果は過小評価されていると思います。伝言ゲーム的な述べ伝えによってプログラムが歪曲され曖昧化したのが原因でしょう。しかし、それだけでなく、対象をむやみに広げすぎたのもいけなかったのではないかと考えています。ビッグブックというテキストに忠実に、対象を絞って適用していけば、高い効果が得られて評価も変えられると信じています。

AAはどうあるべきなのか。本物であるかどうかを問わず、酒の問題を抱えた人を広く受け入れる団体になるべきなのか。伝統では「酒をやめたい」という願望さえあればメンバーになれるとしています。ただ、AAに詳しい人なら感じているでしょうが、AAの主張にはしばしば矛盾めいたことが含まれています。同じ12の伝統で、AAはアルコホリズムに苦しむ人を対象にしていると言っており、AAがアルコホリズムと言っているものは、単なるアルコール乱用とは違うものです。

AAは、12ステップ以外のやり方も取り入れて、本物以外でも、アルコール乱用者であればどんなタイプにでも有効な団体になるべきでしょうか。僕はそうは思いません。むしろそれは、本物タイプ(γ型)にも、それ以外にも役に立たない団体になってしまうと思います。「靴屋よ、なんじの本分をはみ出すな」です。

他のタイプは、他のやり方をする団体に任せて応援していけば良いのです。ビル・Wも書いているように、どんな酒飲みであれ「AAに来なかったという理由で発狂したり、死んでしまったりしていいわけではない」のです。同じようにアルコールやアディクションの問題に取り組んでいる「友人」たちの存在に対して敬意を持つべきだと思います。

田舎に行くと「洋食屋」の看板を掲げながら、メニューにはカレーも寿司もラーメンもあるような店もあるけど、たいてい美味しくなくて、いつのまにか閉店しているものですよ。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加