心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年01月27日(金) 「心の家路」の10年間

このサイト「心の家路」を始めて10年を経過しました。

10年前の自分がどうだったのか、すこし振り返ってみたいと思います。

AAでは「12のステップ」が大事にされており、ステップによって回復することになっています。しかし、12ステップがどんなものなのか説明してくれる人は、当時の僕の周りにはいませんでした。もちろん、僕にもスポンサーがいて、その人には大変世話になりました。彼がいなかったら今の僕はなかったわけで、大変感謝しています。

AAでは当時でも今でも、最初の三つのステップがとりわけ大事だとされています。アルコールに対する無力を認めるステップ1、自分より偉大な何らかの存在が自分を救ってくれると信じるステップ2、その存在に自分の「意志と生き方」をゆだねる決心をするステップ3です。

この三つは「認めて・信じて・お任せ」という言葉でくくられて語られます。それはどういう意味かとスポンサーに尋ねたところ、「あなたは、アルコールに勝てないと感じたからこそAAミーティングに通っている。それは自分が無力だと認めたからだろう。それがステップ1だ」と教えられました。

同様に、AAが助けてくれると信じたからこそミーティングに通っているわけで、それがステップ2である。さらには、自分の生き方をAAにゆだねようとしているからこそ、ミーティングに通っているわけで、これがステップ3である。というわけで、ともかくAAミーティングに通い続けることが、ステップ1・2・3であるという話でした。

これはこれで、かなりシンプルで良い考え方だと今でも思っています。2〜3分の説明で済む利点もあり、ミーティングに通っていないとか、通い出して間もない人にはとりあえずこの説明で十分かもしれません。しかし、その先はどうするのか?

それでも僕は、ステップ4で長いストーリー形式の棚卸しを書き上げ、ステップ5で人にそれを話して聞いてもらいました。でもそこまでだったのです。ステップが階段を上ること(下ることでもいいけど)だとすれば、ステップ5まで行ったところで、次の一段がなく、ずっと長い広い踊り場が続いているようなものでした。ステップ5の時に自分の人生の長い話をして聞いてもらったことで得た開放感や高揚感は素晴らしかったものの、その効果は2〜3ヶ月しか続きませんでした。

12ステップは良いもののはずなのに、自分には効果が不十分だったし、効果を上げる別のやり方も手に入りそうにない・・。そう思うとAAがツマラナイものに思えてきました。かといって、完全にAAを離れると再飲酒が待っていそうで怖い。すぐに飲むわけじゃなくても、何年も離れているとヤバいみたいだ・・・。

そんなジレンマを抱えた状態で始めたのが、この「心の家路」です。しかし、ネットに突破口を求めるとか、そういう発想はなく、ただ単に手詰まりだったので、できることをやってみただけです。

やっぱりネットの中に突破口は見つからなかったのですが、変化のきっかけはネットが作ってくれました。僕のサイトはAAのなかで少しだけ知られるようになり、僕の文章を読んだAAメンバーと知り合いになりました。

当時の雑記を読むと、熱に浮かされたような文章を残しています。
仲間が増えない?
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20030828

1950年代のアメリカと現在の日本では状況が違い、多分アルコホリズムとされる病気の範囲も異なっているでしょう。でも、その違いを考慮に入れたとしても、今の日本のAAの有効性は低すぎやしないか。そういう話です。

僕が方向付けを得たのはこの頃だったのでしょう。自分は変化を続けていると思います。けれど、あの頃も現在も、目指すものは変わっていません。それは「一人でも多くのアルコホーリックが助かって欲しい」ということです。一人の人間が出来ることは微々たるものですが、AAという集団が成長すれば、より多くの人が助かるはずです。

あれからビッグブックのやり方で12ステップに取り組み、その経験から有効性を確信するようになりました。AAに対する信頼を取り戻したとでも言いましょうか。しかし一方で壁にぶち当たったこともあり、その頃に発達障害概念と出会いました。今では標準的なプログラムを提供することばかりではなく、一人ひとりの特性に合わせた支援が必要だと考えるようになっています。

僕の成長は常に人との出会いによって起きてきました。「心の家路」を始めた頃は、県内のAAメンバーを中心とした限られた人たちばかりでしたが、やがて県外のAAメンバー、そしてアルコール以外のアディクションや隣接分野の人たち、様々な施設の人、いろんな人から機会を与えられてきたと感じています。

慣れないことをすれば必ずつまずきや失敗が待っています。けれどそれを恐れていては成長も回復もありません。前へ進めば以前とは違った風景が見えてくるし、上へ登ればより広い範囲が見えてきます。その時に、以前の自分が持っていた考えは、狭い範囲にしか通用しないものだったことに気づかされます。

最近はなかなか忙しくなってしまって、雑記を毎日更新することも出来ていません。雑記を書けば、なにかしらレスポンスをもらえるのは嬉しいことです。いつまで続けるかなんて何も考えていませんが、続く限りおつきあい頂ければ幸いです。

本で読んだ知識ではなく、アディクションの現場に身を置いて考えること、そしてより多くの人が回復を手にして欲しいという願い。いままでもこのふたつの原則を大事にしてきたのですが、これからもその点は変わらずにありたいと思っています。


2012年01月24日(火) 共依存について(その7)

さて、ひさしぶりに長い連載?になりましたが、そろそろまとめに入りたいと思います。

元々は疑似アルコホリズム(パラ・アルコホリズム/コ・アルコホリズム)として、アルコール依存症者とその家族に限った病理を表していたものが、やがて共依存というアディクションに限らない社会学的な概念に発展する中で、実はアディクションのケアについての有効性を失っていったのではないか、という考えに至りました。

しかし、共依存概念そのものが無効なのか。ギデンズは共依存をこう定義しました。

> 共依存症者とは、生きる上での安心感を維持するために、自分が求めているものを明確にしてくれる相手を、一人ないし複数必要としている人間である。つまり、共依存症者は、相手の要求に一身を捧げていかなければ、みずからに自信を持つことができないのである。共依存的関係性は、同じような類の衝動的強迫性に活動が支配されている相手と、心理的に強く結び付いている間柄なのである。

この定義に沿って考えると、アディクションの家族は必ずしも共依存とは限らないし、共依存者が必ずしもアディクション関係者とは限らない、と考えたほうがまとまりがつくではないでしょうか。

つまり両者は独立の関係ではないか。共依存概念が「アディクションの家族に限る」という条件を捨てたときに、両者の関係を独立したものにしておけばよかったのに、共依存概念をアディクションの現場に逆輸入したのが良くなかったのじゃないかと思います。

こう考えれば、CoDAという「共依存の12ステップグループ」という、一見矛盾に満ちたグループも存在の意味が見えてくるのではないでしょうか。(うつや統合失調などアディクション以外の分野に12ステップを使う応用は結構あるから)。

結論としては、「共依存概念はアディクションとは無縁なものとして捉えたほうがスッキリするんです」というあたりでしょうか。

じゃあ、家族の回復はどうすりゃいいのか。ここで考えてみて欲しいのは、共依存概念が成立したのは1980年代です。それ以前にもアディクションの家族グループは存在しました。アラノンの成立は1951年です。実に30年以上も前から存在しています。僕の知る限り、アラノンは共依存という言葉は使っていません。であるのに、アラノンは共依存系のグループより数的に成功しています。これは家族として回復するときに、共依存概念は必ずしも必要ないってことじゃないでしょうか。そして、NAやGAなど本人のグループがAAをモデルにしてできていったように、様々な家族グループもアラノンをモデルとしていきました。

だから、共依存のステップ1を説明しろと言われたら、そりゃCoDAの扱いでしょう、ってことになるわけです。一方、依存症の家族にとってもステップ1って何ですかってことなら、とりあえず共依存という言葉は無視して、アラノンのステップを調べてみるべきだってことになります。

いろいろ長々と共依存について批判的に書いてきましたが、共依存というものはきちんと存在すると思っています。だが、共依存とアディクションの家族としての問題は分けて考えるべきだと思います。アメリカにおける一部の考え方を、無批判に翻訳紹介し、日本のアディクションの現場に放り込んだ人がいたおかげで、その後ずっと混乱が続いているように感じます。

共依存概念にこだわるよりも、むしろそれを捨てて、家族がどんな問題を抱えているか概念を再構築する時期に来ているのではないでしょうか。

少し視点を変えて、アメリカでは1980年代から、日本でも2000年を過ぎてから、ビッグブックを使った12ステップの原点回帰運動が起こりました。AAの12ステップの成立以降にいろいろ12ステップにくっついてしまった概念を脇に置き、元々12ステップがどんなものだったのかを探ることで、ステップの有効性を取り戻す動きです。これは本人側のグループの動きでした。

同じことが家族の12ステップにも必要とされているのじゃないでしょうか。つまり家族版原点回帰運動です。その中核を担えと言われても僕には荷が重いですけど。

「心の家路」10周年記念シリーズとしてはちょっとショボかったとは思いますが、ここ数年感じている共依存概念の混乱に対するアディクションの現場からの苛立ちを文章にまとめてみました。

この一連の雑記を書くにあたり、山口大学の鍋山祥子先生が公開されている論文、および葛西賢太先生の書籍『断酒が作り出す共同性』を参考にさせて頂きました。文末となりましたが感謝申し上げます。もちろんこの7回分の雑記の内容については僕の考えであり、お二人が責を負うべきものではありません。

共振〜resonance〜
http://ds0.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~nabeyama/
宗教と霊性の研究
http://ktkasai.cocolog-nifty.com/


2012年01月23日(月) 共依存について(その6)

共依存概念では、他者の世話をし、そこに喜びを見いだすことを病的であるとしました。

僕には、アルコール依存症者が飲んで吐いたゲロや、失禁した便を掃除することに家族が喜びを見いだしているとは到底思えません。生活を維持するために、嫌だけれどやむを得ずやっているとしか思えないのです。

酒を飲む以外のことができなくなった夫にかわって、妻が一家のことを取り仕切っていることはよくあります。ところが、夫が酒をやめ、家族が正常な常態に復していくなかで、夫が自己主張を始めると、当然そこには感情的ないざこざが発生します。こんな簡単な例でも分かるとおり、酒をやめたばかりの一家の中はある種の緊張状態にあります。

家族は本来より多くの責任や権限を任され続けています。だから、普通より指示的・支配的になるのも当然です。また酔っぱらいから理不尽な要求を突きつけられ、憤慨することも習慣づいています。だから、そんな人たちが集まった家族グループで、仲間同士の関係がぎくしゃくするのは当たり前で、衝突も起こるでしょう。そこは本人たちのグループと変わりありません。

そうなると、他者と関わることにうんざりし、人との関わりを拒否したくなるのも当然かもしれません。だから自分が自助グループを必要としていると感じても、グループの運営には関わりたくないし、関わるにしてもそこでの人間関係を最小限にし、トラブルを最小限に抑えたいという欲求が生じます。

自助グループ、少なくとも12ステップグループには二面性があります。一つはミーティングという公式の場面、もう一つはスポンサーシップや仲間づきあいという非公式な影の部分です。

当然スポンサーシップは、他者の世話をすることです。それ以外にもグループの様々な役割があり、コーヒーカップを洗うことであれ、ミーティングで使う本を管理する役目であれ、何らかの「他者への奉仕」なくして、グループは成り立たちません(そしてグループがなければ自分の回復もない)。

つまり、回復を進めるためには、他者の必要を満たす奉仕や世話焼きが欠かせないのが自助グループ(12ステップグループ)です。

しかるに、依存症本人ではない(共依存系の)グループでは、回復していない者が他者の世話をしたり、グループの役割を背負うことが共依存の症状や再発として忌避される雰囲気があるため、しばしばグループの維持すら困難になっていると聞きます。それどころか、みんな自分のこと(自分のインナーチャイルド)ばかり気にして、同じ会場にいる他者への関心すら失っているグループすらあるといいます。

そして、そうした他者への無関心と奉仕への拒絶感は、本人のグループにも確実に伝搬しています。しばらく前にAAで起きたスポンサーシップの荒廃は、こうした他者を世話することを悪とする共依存概念(もしくは共依存への誤解)の影響を受けているのではないでしょうか。

もともと12ステップには、他者や集団への奉仕を通じ他者に受容されることを願うのは、人間の根源的な欲求(本能)だとしています。つまり人が生きるために必要不可欠な行為です。

日本ではAAですら数千人という小所帯です。しかしアメリカでは、AA・NA・アラノンという大きな三つのグループがあります(いずれも数十万人規模)。この三つはいずれも、スポンサーシップが活発で、メンバー同士の交流も密です。一方、そうした他者への奉仕と接近に忌避感のある共依存系のグループは小規模なままです。対象者は共依存系のほうがずっと多いにもかかわらず(人口の97%が共依存者だというならなおさら)。

すこしうがった見方かも知れませんが、他者への世話焼きや集団への奉仕を忌避する流れが生じた背景には、それを行うだけのソーシャルスキル、ライフスキルの欠如があったのではないかと考えています。たとえば、家事の苦手な人が、家事行為の価値を貶めることによって、自分が家事に取り組まないことを正当化するように、人付き合いが苦手な人たちが、対人交流の価値を否定することを自尊心を守る手段にしたのではないかと思うのです。

(共依存概念に飛びつく人に限って、ソーシャルスキルの問題を抱えていたり、あるいは片付けがや金銭管理ができないなどの生活管理上の問題を抱えているように思うのは気のせいでしょうか?)

話を戻して、共依存概念を提唱した人たちは、社会が嗜癖している、社会が病んでいるとしました。そしてアディクションにはまる人は、そうした社会に適応したのだと捉えました。それは共依存についても同様です。だから、嗜癖的社会への過剰適応に抵抗する(他者への奉仕や対人交流の強制に対する抵抗)を身につけることによって、回復できると信じました。ただ、彼らがその手段として選んだ12ステップが、実は他者への奉仕や密な対人交流なしには維持できない文化だったことは、ある種の皮肉でもあります。


2012年01月22日(日) 共依存について(その5)

共依存概念がアディクションの問題(本人についても家族についても)の解決に役に立ってきたかどうか、さらに考えてみます。

近年SMARPPやTAMARPPという新しいアディクション治療が生まれています。これはアメリカのMATRIXをベースにしたもので、いままで僕らが慣れ親しんできたいくつかの概念を覆しています。

禁酒法が終わり、AAが始まった頃のアディクション治療施設では、家族は「回復の敵」だと見なされていました。なぜなら、施設においてアディクションの仲間と過ごしているときには回復を続けているのに、そこを退所して家に戻すとアルコールや薬が再発してしまうことが多かったからです。これを当時の人たちは、家族が悪いのだと考えました。家族にとってみれば、いわれのない非難であり屈辱ですが、これが後のイネイブリング理論へとつながっていきます。

僕は最近あちこちの施設のスタッフとおつきあいをさせて頂くようになり、多少なりとも現状を知るようになりました。施設入所中は、回復に専念できますし、つきあうのも同じアディクションの仲間だけです。しかし、家に戻ると、アディクションの問題を抱えていない一般の人との付き合いも生じますし、就労もしなければなりません。ところが、それを担うだけのソーシャルスキルやライフスキルが不足している場合が多いのです。すると生活や仕事がうまくいかず、つまずきから酒や薬へと再び走ることになります。

(こう考えると、イネイブリング理論は、施設側や治療者側が自分たちの支援不足を棚に上げて、失敗の原因を家族に押しつけるために編み出されたとも言えます)

そんなわけで、依存症者と家族を分離し、それぞれが別個に回復した後に、時間を経て家族を再統合するという手順が編み出されました。「お母さん、息子さんはうちの施設で預かって回復させます。だからその間、お母さんは○○ノンに通ってご自身の回復をしてください」みたいなセリフが吐かれるわけです。だが実際には家族を再統合するよりも、退所後も施設周辺に留まって生活するという環境調整が行われたほうが、再発防止の効果が高まります。そのほうが継続して支援を得やすいからです。

SMARPPについては講演を聴いたり資料に目を通したぐらいで、それほど詳しいわけではありませんが、これまで書いたような「家族との分離と再統合」戦略ではなく、むしろ断酒・断薬直後から積極的に家族に再発防止に関わってもらう戦略になっています。これは「家族は回復の足を引っ張る存在」という考えが否定されていると捉えて良いのではないでしょうか。

また、何度か書いているので詳しい繰り返しは避けますが、イネイブリングという手助けを止めることにより、本人がアディクションを続けられなくなり、現実に直面する「底つき」が起こり、そこから回復が始まる・・という底つき理論がありました。これも最近の新しい治療法では否定されています。

底つき理論では直面化が最も有効であり、直面することを避けているのは、本人の否認の態度だとされます。だから、イネイブリング行為をやめ、本人が問題に直面せざるを得ない環境を作り出せば、やがてその不快さが否認を上回ることを期待しています。しかし、現実にはそうならないケースが多く、深刻化しても援助を拒否し、さらに悪化していくケースがたくさんあります(むしろそのほうが多数か)。そして最後には一家離散や自殺が起こります。それを従来のやり方では、やむを得ない援助の失敗と捉えていました。

これについては、動機付け面接法(MI)が推奨されています。MIでは直面化や対決を避け、本人が問題に自ら気づくように誘導します。ここ数年MIがもてはやされているのは、過去の対決的な直面技法の有効性に多くの人が疑念を持つようになったからに他なりません。

そうなってくると、共依存概念を支えているイネイブリング、底つき、直面化の有効性も疑わしくなってきます。


2012年01月20日(金) 共依存について(その4)

共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みをさらに続けてみます。

共依存者がイネイブリングをやめれば、本人は依存を続けることができず、底つきを経て回復する。これがイネイブリング理論です。シェフはこの考えを男性優位社会に適用し、女性たちが支えているからこそ男性優位社会が存続しており、女性が支えることを拒否すれば、それは続かないと主張しました。

僕のような素人にはこれはフェミニズム的な思想に思えます。しかし、フェミニズム的観点からシェフの考えに反論も提起されています。

前にも書いたように、法律や社会制度という把握しやすい男女差別が減り、表面上の平等が実現されたいま、フェミニズムはむしろ目に見えにくい差別を扱うようになっています。そこを注意しないと表面的な議論に終わってしまいます。

フェミニズムは、何が何でも男女はまったく同じであると主張しているわけではありません。むしろ男女の性差を認めています。ただ、男と女に与えられた社会的役割(性的分業)は、前近代的な思想に汚染されているし、政治的な意図も含まれているわけで、「女性は自分を犠牲にして夫や子に尽くせ」という話を無批判に受け入れることは到底できないというわけです。

(男女の性差を認めず、画一的に性差を解体しようとするジェンダーフリー論は日本固有の一過的な政策にすぎなかったのに、しばしばフェミニズムと混同されます)。

女性は出産や育児を通じて「他者の世話をする」という歴史的な役割を負っており、それは「女性らしさ」の一部です。そしてフェミニズムは、この世話の与え手(care taker/care giver)としての女らしさを否定してはいません。(女らしさを発揮した職業が、男性職業より報酬が少なく低く扱われることは多いに問題にされる)。

しかるに共依存概念は、家族の世話をする「女性らしさ」が病気であると教え、飲んで行われた夫の暴力や虐待を免責してしまいます(夫の失態は、妻がイネイブリングを続けたからだと、責任を妻側に回してしまうから)。社会的な女性役割から離れられない家族に否定的な自己イメージをべったり貼り付けてしまいます。これはむしろ問題の解決を困難にしています。

さらには、共依存状態から脱して向かうべき正常な状態とは何か。それまで男性に支配されていた女性が、世話焼きを拒否することです。それによって一見自由を獲得するように見えますが、実は自らの女性性を否定して男性側つまり支配する側に回ることです。これは男性性こそ素晴らしいという男性優位社会を追認しているにすぎず、女性的価値や女性らしさをいっそう貶めています。

このように「世話焼き」をすることの価値観の否定は、それまでフェミニストが営々と築き上げてきた政治的成果を台無しにするものとして、批判の対象となりました。

こうしてみると、共依存概念は素人には一見フェミニズム的思想に沿ったもののように見えるのですが、それは勘違いで、むしろ反フェミニズムであることがわかります。

共依存概念は、精神科医(その多くは男性)が、治療失敗の責任を依存症者の妻(むろん女性)になすりつけるために使われたに過ぎない、という批判すら耳にします。男たちはそういうことを無邪気かつ無自覚にやってしまう、というわけです。

まだまだ続きます。


2012年01月19日(木) 共依存について(その3)

今回は共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。ただし、僕の関心の対象はアディクションのケアであり、社会学やフェミニズムに興味はありませんし、そんな立場から論じても恥ずかしいばかりです。したがって、共依存概念がアディクションのケアの役に立ってきたか、という一点から考えてみます。

ヘリコバクター・ピロリという菌が胃の中に住んでいると、胃潰瘍や胃ガンの原因になることが分かっています。ならば、ピロリ菌への感染が判明した段階で、抗生物質を飲んで除菌すれば胃ガンになる可能性を減らすことができます。けれど、日本ではピロリの除菌に健康保険は使えず、費用は全額自己負担になります。ピロリ菌の感染者があまりにも多いため(6割とか)、その全員の除菌費用を負担したら健康保険制度が破綻してしまうからです。

さて共依存の明確な定義はありませんが、それでもそれを病気として治療しようという試みはありました。アメリカのアディクション治療施設の中には、共依存の治療コースを設け、保険会社の支払いを取り付けたところも複数ありました。しかし、やがて保険会社が支払いを拒否するようになり、治療コースも閉じられてしまいました。その理由は前述のピロリと同じです。

なにかを病気として治療の対象にするには、それが少数に限られなくてはなりません。たとえば老眼鏡を保険で負担することはできません。

アメリカ人のクラウス(Sharon Wegscheider-Cruse)は、アルコホーリクの親や祖父母を持つ人や、結婚によってアルコホーリクと生活する人、これに加えて「感情障害的な家族に育てられた人」も含めた結果、実に人口の96%が共依存症者であるという認識を示しました。もし、人口の多くがその問題を抱えているとしたら、それを病気として保険で治療することはできません。

これは一つの大きな教訓を与えてくれます。1990年代のACブームの頃、日本人の多くはAC(アダルトチルドレン)であるという主張がなされました。それはクラウスの主張を受けてのことに違いありません。また、最近ドメスティック・バイオレンス(DV)が注目されるにあたって、「日本人の多くの家庭にDVがある」とか、「アディクションの家庭には必ずDVがある」という主張がかいま見られるようになりました。

問題が普遍的に存在しているという主張は、注目を集めるには相応しい戦略かも知れません。メディアに露出するにはセンセーショナルであるほうがいい。けれど、本当に支援や治療を必要としている人たちが、支援を得る妨げになる可能性も大です。したがって、そうした主張は厳に慎まなければならないと考えていますし、それは共依存についても言えることです。(僕はアルコール依存についても普遍的にたくさん存在するという主張はしないほうが良いと思います)。

ACブームが一過性に終わってしまったのも、この普遍化がいけなかったのだと考えています。「人は多かれ少なかれ皆ACである」ということにしてしまうと、ACは治療や回復の対象ではなくなってしまいます。こうして本当に回復を必要としているアダルト・チルドレンのための支援体制が作られないままにブームが過ぎてしまいました。それで得をしたのは、ACという言葉で注目を集めた一部の医者や支援者だけだったのではないかと思います。

共依存――この場合の共依存は社会に普遍的なものではなく、純粋にアディクションの家族の問題として――共依存は病気だと言いたいわけではありません。むしろ病気という概念は相応しくないでしょう。しかし、アディクションの問題を抱えた家族が何らかの支援を必要としていることは確かです。その支援体制を作るためには公的な資金が投入される必要があります。公的資金(たとえば税金)といえども無尽蔵にあるわけではありませんから、常に対象を限定しなければなりません。

共依存概念をアディクションの家族に限定せず、社会全体に拡大したことは、共依存を治療なり支援する対象から外す結果を生んでしまいました。共依存の社会学化の弊害とも言えます。社会の構造を論じることが、その中で病んだ個人をケアすることにつながっていません。

ただ僕は社会学が共依存を取り扱ったことが悪いとは言いません。拡大した共依存概念をアディクションの現場に無批判に逆輸入したのがいけなかったのだと言いたいのです。

さらに続きます。


2012年01月18日(水) 共依存について(その2)

さて、この文章は、疑似アルコホリズム概念が共依存概念に発展する様を追うことで、共依存を理解する試みです。論文的な論考をするのではなく、僕が学んでいく過程を少々の編集のみで垂れ流しているだけです。

アメリカではアディクションという言葉はアルコールと薬物のみを示すのだそうです。ギャンブル・買い物・セックスなどはアディクションのカテゴリに入れられていません。それはおそらく保険会社が、アルコール・薬物以外の依存症の治療に金を払いたがらないからでしょう。(アメリカの有名な依存症治療施設は一ヶ月百数十万円と高価ですが、保険でカバーできますし、逆に保険で払える人しか相手にしていないのだと思われます)。

しかし、金が絡む話を除けば、アディクション概念は着実にアルコール・薬物以外にも広がっていきました。(DSM-5ではギャンブル依存が採用され、ネット依存も候補に挙がっています)。

ここではアン・ウィルソン・シェフの『嗜癖する社会』という有名な本の内容を取り上げます。シェフはまずアディクションを2種類に分類しました。

・物質嗜癖(アルコール・ドラッグ・ニコチン・カフェイン・食べ物)
・プロセス嗜癖(お金を貯める・ギャンブル・セックス・仕事・宗教・心配)

さらにシェフは三番目のジャンルとして共依存を提唱していますが、前者二つと同列に論じてはいません。つまりアディクションを物質依存・プロセス依存・共依存(関係性依存)という三つに分類するのは、シェフの考えに従えば正しくないことになります。

共依存概念を学んでいくときにフェミニズムのことは避けて通れません。フェミニズムは女性に対する差別をなくし、抑圧されていた女性の権利を拡大していこうという思想・運動です。

まず最初に、19世紀から20世紀前半に、女性の投票権や財産権などの法的権利に関わる運動がありました。そう、昔は政治に参加できるのは男性だけで、女性は財産を持つことすら許されなかったのです。権利獲得が実現されてフェミニズムはいったん下火になるのですが、第二次大戦後になって女性が外で働く権利や男女の賃金格差など、単に「女性が参加する権利」だけではなく、男女格差の解消を求めた運動がありました。ウーマン・リブ運動を憶えている人もいるでしょうか。さらに1970年代以降は、例えば男女の昇進格差(ガラスの天井)のように目に見えにくい、意識しづらい男女格差の問題が取り上げられるようになり、運動が多様化して現在に至っています。

シェフは前著で白人男性システム・反応女性システムという概念を提唱しました。世の中(この場合はアメリカ社会)は白人男性システムによって支配されている。白人男性たちは名声と権力を求めてパワーゲームに耽り、他者を支配することに熱中している。彼らはその熱中によって自らの感情を抑圧した病的な状態に陥っている。また、そうした男性たちを支えることを自らの役目として喜びを感じる女性たちが反応女性システムを作っており、この相補的な二つのシステムによって病んだ社会が維持されている、というのです。

この状態を脱するには、まず女性たちが従属的な立場に甘んじず、男性を支えることを拒否すればいい。女性による支えを失ってしまえば、白人男性システムは維持できなくなり、男たちも本来の自分の人生について考えざるを得なくなる・・。という理屈です。

つまりカウンセラーだったシェフは、依存症に関するイネイブリング理論を、男性優位の社会とそれを支える女性たちの構図に当てはめて、女性たちが男性を支えることを止めることが社会の変革につながると主張しました。

さらに『嗜癖する社会』では、嗜癖システムという言葉を用い、嗜癖者(依存症者)の行動様式は、白人男性システムのそれと同じだと主張しています。つまり嗜癖システム=男性優位社会であり、嗜癖者の周りでは嗜癖行為を支えている共依存者(おもに女性)がイネイブリング行為を止めれば、依存症者は行き詰まって、本来の生き方に戻っていくはずだ、という理屈です。

シェフは依存症者と家族のイネイブラーの関係は、社会の縮図であると考えました。疑似アルコホリズムの時代には、依存症者本人が一次的に病んでおり、その影響を受けて家族が二次的に病むという構図でした。これが共依存概念になると、まず社会そのものが嗜癖的かつ共依存的であり(これが一次的)、その中に生きる人が影響を受けて物質嗜癖・プロセス嗜癖を二次的に発症する、というコペルニクス的発想転換が起きました。

また、それまで依存症者を抱える一家の病気としての概念だったアディクションが、社会全体の問題として社会学の対象となっていきました。そんなわけで、現在共依存という名目で出版される本を探すと、それを個人の問題としてではなく、社会の問題として論じているものが目立ってくるわけです。

さて、次回は、こうして成立した共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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