心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2012年01月17日(火) 共依存について(その1)

こんな質問をいただきました。

「共依存のステップ1の無力って、どう説明すれば分かりやすいのでしょう?」

依存症の世界に首をつっこんで以来、共依存は依存症者の家族がなるものだと聞かされてきました。僕自身は依存症の本人で、本人用のAAというグループに属しているので、家族のことについては強い関心を持っていませんでした。もちろん相談を受けるなど家族への対応もしていますが、その回復過程については家族グループにお任せしていました。餅は餅屋であり、本人が家族のプログラムに手を出すのは避けたほうが良いという判断です(逆も同様)。

ところがひとたびAAを離れて、12ステップ全般の話になると、とたんに「家族の無力ってどういうことか」という質問が投げかけられてきます。その質問に答えられる人がたくさんいたら、僕のところにお鉢が回ってくるはずがありません。どうやら、日本では依存症の本人への支援はそれなりに充実してきたとしても、家族への支援はまだまだなのではないか、と思うようになりました。そうなると、僕も少しは勉強しておかなければなりません。

さて、この「分かりやすい説明」という表現には背景があります。

僕自身アルコホーリクとしてAAに来て、ミーティングに参加しながら「自分はアルコールに負けたな」という感じを抱いていました。アルコールに対して無力を感じていました。しかし、無力感を持っていることと無力を理解し認めていること、この二つの間には距離があります(雲泥の差と言っても良い)。ところが、アルコールに対する無力とは何かを、当時の僕に説明してくれるAAメンバーはいませんでした。

もちろんビッグブックには無力の説明がきちんとありますが、(残念なことに)ビッグブックは決して分かりやすい教科書ではありません。

その後ずいぶん経ってたどりついたのが、Joe & Charlieであり、この二人が書いた "A Program For You" というステップの解説本でした。最近になって日本語訳が出ています。

「プログラム・フォー・ユー」
http://www.ieji.org/bbs/bbs.cgi?mode=view&th=6202

この本には無力の説明がたくさんページを割いて書かれています。それを読んで僕は「これは自分に当てはまる」と納得しました。この「納得できる分かりやすい説明」が求められているわけです。ジョーの他の著作、緑本(「ビッグブックのスポンサーシップ」)はスポンサー向けの本なので無力についての説明は詳しくありませんし、赤本(「回復のステップ」)にいたってはその説明はざっくり省かれています。

本人の無力と家族の無力は構造が違うのかもしれません。そして家族向けの「分かりやすい説明」というか納得できる説明がないからこそ、質問が発せられるのでしょう。

共依存の無力について知るには、まず共依存とは何かを知らなくてはなりません。というわけで、それについて調べてみることにしました。

まず共依存概念が成立するより前に、イネーブラー概念がありました。イネーブラーとは「可能にする人」という意味です。アルコホーリクは酩酊するにも時間を費やしますし、そこから離脱する(酔いが抜ける)にも時間がかかります。酒に多くの時間を費やすために、本来取るべき責任を放り出しています。その責任を肩代わりしたり、また本人の起こしたトラブルを後始末してくれる家族をイネーブラーと呼びました。そして、イネーブラーの存在が、飲酒の継続を可能にし、本人が問題に「直面」する邪魔をしているという説です。

イネーブラーの存在が本人の回復の妨げになるのなら、やめるように家族を教育すれば良いわけです。ところが、アルコホーリクの奥さんが、飲みながら働き続けるダンナの収入を必要としているなら、手助けをやめれば一家が経済的に困窮してしまいます。また、イネイブリングをやめたとて、すぐに本人が回復できるわけでもありません。さらには、家族の行動の中で病的なイネイブリングと健康な家事労働を簡単に区別することもできません。このようにイネイブリング理論は実はアディクションの現場ではそれほど役に立ってくれません。少なくとも、アディクションの問題はイネイブリング理論一本槍で解決できるほど生やさしいものではないと言えます。

1970年代に、コ・アルコホリズムやパラ・アルコホリズムという概念が成立しました。これはアルコール依存症(アルコホリズム)にかかった人と一緒に暮らしているせいで、家族も依存症本人と同様の考え方や行動が身に付いてしまう、つまり疑似的な依存症になってしまう、という考え方です。アダルト・チルドレンという概念もここで同時に成立しました。

本人がアルコールという毒に中(あた)ってアルコール中毒(=依存症)になるのならば、家族も依存症者という毒に中って中毒の症状が出て不思議ではありません。さながら壊れた原発が放射能を振りまいて被曝した人を具合悪くしていくように、飲み続ける(あるいは断酒しても未回復の)本人の振りまく毒によって家族が病んでしまうのです。「家族が疑似アルコホリズムになって、当人同様の行動をする」というこの考えは、現在のACAのプログラムにそのまま受け継がれています(アルコホーリクのほうのACAね)。

このコ・アルコホリズム/パラ・アルコホリズムという概念が、1980年代に「コ・デペンデンシ=共依存」という概念に発展するのですが、その過程で本質的な変化がいろいろ起きています。共依存概念を理解するには、その部分を知る必要があるのじゃないか・・・というわけで、次回に続きます。


2012年01月10日(火) 薬物依存症者のアルコール摂取

アディクションという観点から見たとき、アルコールとその他の薬物に違いはありません。なにしろ、エタノール(エチル・アルコール)も「薬物」の一種なのですから。

ではなぜアルコール依存症のグループ(AAとか)と、薬物依存症のグループ(NAなど)が別になっているのか。

アメリカにおけるアディクション治療は、禁酒法(Prohibition Law、1919〜1933年)以降に発展しました。この時代は麻薬の取り締まりが強化、厳罰化されていった時代でもあります。麻薬が止められない患者が医師の管理の下に少量の麻薬を使用する「維持療法」というものがあり、当時これを支持する医師も多かったのですが、厳罰化のあおりをくらって禁止されてしまいました。麻薬中毒者は治療を受けられずに刑罰を受け、一方アルコールへの禁止は弱まりアル中は自由に飲んでいました。

アルコールは社会に受け入れられ、麻薬は禁止されていた。この違いがアルコール依存と麻薬依存を分けることになりました。

世界的に見ると、どの薬物が許容され、どの薬物が禁止されるかは、国によって違います。イスラム教文化圏では飲酒は悪とされています。日本では大麻(マリファナ)は禁止されていますが、公然と販売されている国もあります(これもイスラム圏では禁止されており厳罰の対象)。

法律で禁止されているかどうかは、実は大した違いではありません。「俺はヤク中とは違う」と言っているアル中さんも、もし日本でアルコールが禁じられ、ハシシュが許容されていたら、立派な薬物乱用者になっていたことでしょう。

アメリカの治療施設では、アルコールも薬物も区別していません。区別する必要がないからです。

しかしビギナーにとっては、この違いは大きな違いです。アルコールを摂取した経験談と、覚醒剤を摂取した経験談には、表面的が違いがずいぶんあります。この違いに注目してしまうと、共感を得ることができません。ビギナーがやってきて、会場にいる他の人と自分が同じ問題を抱える「仲間」であると感じられなければ、その人はグループに定着できず、助けを得られないでしょう。(表面上の違いにとらわれず、共通の本質に気づくためにはビギナーの域を脱している必要があります)。

アルコールと薬物のグループが別にできたのは、ビギナーのために良かったと言えます。

薬物のグループというとNA(Narcotics Anonymous)が有名です。この Narcotics という言葉は麻薬という意味です。つまりアヘンを元に作られるモルヒネ、ヘロイン、コデインのことです。これはアルコールと同じダウナー(鎮静効果のある薬)です。

日本では薬物のグループが事実上NAしかないので、様々な薬物の人がすべてNAに集まるのですが、非合法薬物の筆頭が覚醒剤であるために、日本のNAは覚醒剤のグループといっても良いぐらいです。つまりアッパー(覚醒効果のある薬)のグループです。

アメリカでは薬物の種類ごとにグループが分かれています。NAのほかに、コカインの人はコカイン・アノニマス(CA)、大麻の人はマリファナ・アノニマス(MA)、処方薬の人はピルズ・アノニマス(PA)といった具合です。当然の事ながら、「コカイン依存のグループだから、ヘロインやるのはオッケー」ということはありません。グループは分かれていても、薬物という点では共通性があります。

余談になりますが、アメリカのAAとNAの親和性が高いのは同じダウナーのグループだからであり、日本のAAとNAの雰囲気が違うのはダウナーとアッパーの違いだという説があります。

さてさて、日本においてアルコール依存症になった人が、酒をやめて他の薬物に手を出すことはあまり心配されていません。それはヘロインやマリファナや覚醒剤が法律で禁止されており、入手性も悪いからです。(処方薬依存の問題はちょっと脇に置きます)。

逆に、薬物依存症になった人が、薬はやめたもののアルコールに手を出すことはどうでしょうか。何といってもアルコールは合法薬物であり、コンビニで買えるほど入手性良好です。そして、この問題はほとんど啓発されていません。薬物乱用で学校を中退した若者を引き取った大人が、一緒になってがんがん仕事をさせ、一緒にがんがん酒を飲んだりします(そして薬物が再発したり、今度はアル中になったりする)。

薬物依存症者にとってのアルコールの危険性はもっと強調されねばなりません。

NAのパンフレット「だれが、なにを、なぜ、どのように」に、こんな記述があります。
http://www.na.org/?ID=ips-jp-index

> アルコールは薬物ではないという考えは、非常に多くのアディクトを逆戻りに至らしめた。NAに来るまで、多くの人たちはアルコールは別のものだと思っていた。しかし、これはまちがいである。アルコールも薬物なのだ。私たちはアディクションという病気をもつ人間であり、回復のためにはいかなる薬物からも遠ざかっていなければならないのである。

ダルクのような薬物の施設では、施設利用者(つまり薬物依存症者)にアルコールを飲ませないことは徹底しています。しかし、それ以外のところではどうでしょう。覚醒剤依存の息子や娘を持つ親が、アルコールなら良いではないかと酒を飲ませた話はいくらでも聞きます。アディクションの観点ではなく、合法・非合法で判断してしまうミスです。

僕には薬物のスポンシーもいます。僕は彼が薬物だけでなく、アルコールの問題も抱えるまで、彼を手助けすることができませんでした。なぜなら、アルコールと薬は違うと「僕も」思っていたために、彼の飲酒を制止できなかったからです。彼は酒を飲み始めると(時間は長短あるもの)やがて薬も再発するというパターンを繰り返しました。飲酒は薬物再発の前駆症状であり、飲酒した時点で薬物もスリップとするべきでした。今では彼も回復していますが、若い時期の数年間を無駄にしたのには、僕の未熟さにも原因があります。忸怩たる思いがします。

ベンゾジアゼピン系の抗不安剤が依存を形成しやすいことは以前に書きました。しかし、処方薬よりアルコールのほうがより危険な存在です。一つの薬物の依存症になった人は、別の薬物の依存症にもなりやすく、すぐに多剤依存症へと発展してしまいます。一般の人々にとってアルコールはそれほど危険がないにしても、薬物依存症者にとっては再発の対象です。薬物の種類ごとにグループが分かれているのは、「俺はAという薬物の依存症だから、Bという薬物ならオッケーだ」と言わせるためではありません。

「薬物依存症は病気である」、そう捉えるのなら、病気としてアルコールと薬物の共通性に気づいて下さい。決して合法・非合法の問題にすり替えることのないように願いたいものです。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは再発です。処方薬の取り扱いが難しいのは承知しています。なぜなら必要があって処方薬を飲んでいる人がいる以上、ゼロにすることはできないからです。しかし、酒を飲まなくても十分社会生活を送れることは、多くの回復したアル中が実証しています。その点、飲酒の可否について判断に悩む必要はありません。

もう一度ハッキリ言いましょう。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは薬物依存症の再発です。


2012年01月04日(水) 発達障害と発達凸凹(その2)

前の雑記では、人には能力の発達の凸凹が誰にでもあることを述べました。

その凸凹の特定のパターン(主に自閉圏とADHD)について、社会的な不適合が起きていればこれを「発達障害」と呼び、起きていなければそれは障害とは呼べず「発達の凸凹」というのが相応しいという話をしました。

では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?

それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

凸凹レベルであれば、社会生活を送る上での不適合がないので、何もしなくて良いことになります。しかし、凸凹が激しければ、そうとも限りません。何かの能力が弱いと、人は別の能力でそれを補おうとします。

例えば自閉傾向がある場合は「人の気持ちを読み取る」という能力が弱くなります。しかし、人の気持ちが読めないことと、他者への配慮が出来ないことは別のことです。人の気持ちを読みづらいぶん、逆に人の気持ちを気にかけるようになります。それが「人への思いやりと配慮に満ちた人」という評判につながることもあり得ます。

しかし、本来の能力を別の能力で補うのは、どうしても無理がかかります。例えば、人の気持ちに敏感になりすぎると、自分の気持ちが周囲の人の気分に左右されてしまいます。同僚が何かの理由で腹を立てて汚い言葉を口走っている場面を想像して下さい。その怒りの矛先が自分ではないことは分かっています。もちろん、隣に怒っている人が居るのは誰にとっても気分の良いものではありません。しかしながら、人の気持ちが気になりすぎて、自分の仕事が手に付かなくなってしまう、というのは誰にでもあることではありません。

他にも、自分としては他の人の気持ちを十分おもんぱかっているつもりでも、なぜか「人の気持ちの分からない人」という非難を受けてしまうとか。自分の行動や言葉が相手を傷つけてしまってないか、事後になって気になって仕方ないとか。

別の例として「二つのことが同時に出来ない」という例を挙げましょう。例えば、電話をしながら話の内容のメモが取れない、というやつです。話に集中するとメモが取れず、メモに集中すると相手の話を聞き逃すというパターンです。

同じことですが、仕事をしていて、別の仕事に割り込まれると、元やっていた仕事を忘れてしまう、というのもあります。この問題があるので、仕事をしているときに、電話がかかってきたり、上司に声をかけられると怒り出すこともあります。普通の職場では、作業中に上司に声をかけられたら作業を中断して上司と話をするものですが、発達障害の人を雇う特例子会社の職場では、作業中に声を掛ける上司のほうが悪いという理屈になります(環境調整の例)。

ADHDの場合には、整理整頓ができない症状が出ます。片づけや掃除が苦手なので部屋がぐちゃぐちゃになってしまいます。しかし逆に苦手だからこそ、強迫的にいつもきっちり片づけることもあります。こういう人がお母さんになると、子供が部屋を散らかすことにイライラします。小さい子供は散らかす存在であり、片づけない存在です。それを何とかしようと、親に過剰なしつけがしばしば虐待に発展していきます。

実行能力(遂行能力=executive functions)の問題もしばしば取り上げられます。これは、ある目標を与えられたとき、その期限から逆算していつ頃何をやるのか計画をたて、それを実行していく能力です。これは様々な能力の統合です。夕食にカレーを作るなら、何時頃買い物に出かけて、材料として何を買って、それを買うお金が足りないからまず銀行に寄って、という、計画し、そのとおり実行し、計画外のことが起きたら計画を修正しつつ目標を実現する能力です。この能力が弱いと、何月何日までに完成させろと仕事を与えられても、〆切の日に全然できてないってことが起きてしまいます。

代償的には、計画を細かく立てて、その通りに実現しようとします。計画通りに進めばいいのですが、計画外のことが起こるとパニックになったり、ストレスに感じられたりします。

いろいろな例を挙げましたが、発達障害のパターンは様々なので、ある能力の弱さとそれに対する補い方もこれ以外にたくさんあります。しかし、どれを見ても、なんだか負担が重そうで疲れそうですし、自分だけでなく周囲にその負担を押しつける結果にもなりがちです。その負担が「うつ症状」という形で出てきやすいのも想像できるでしょう。そうなれば、それは単なる凸凹ではなく「障害」ということになります。

では、発達凸凹の場合にはどうすればいいのか。

それは、自分が何を苦手としているか把握することです。無茶な適応戦略を採っているのなら、もっと自分にも周囲にも無理のない戦略に切り替えることが可能になります。杉山先生の本でも、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法を引いて説明しています。

もちろん、この場合難しいのは己を知ることです。例えば、人の気持ちを読み取る能力が弱い人に対して、それを指摘したとします。しかし、その人が無自覚のうちに能力の弱さを感じ取って、かわりに人の気持ちを推し量り配慮を効かせる代償戦略を採り、しかもそれにある程度成功していたとしましょう。この人は自分が「人の気持ちを読み取る能力が弱い」とは思っていないでしょう。むしろ、その能力が人より秀でている思っているに違いありません。

能力の弱さが認められなければ、別の戦略を採ることもなく、その人の生き辛さは解消されずに残ることになります。これが「己を知ること」の難しさです。

発達障害の支援をしている人たちで、センスの良い人たちは、当然「己を知る」ことにも長けるようになります。杉山先生はアスペルガー的傾向があることを認めてらっしゃるし、福島の星野先生はADHD傾向を認めた話を書かれています。もちろん不適合のない凸凹のレベルという話なのでしょうが。その他の沢山の人たちも同様です。

この雑記で発達障害の事を読み、それが部分的であれ自分に当てはまって不愉快な気分になる人もいることでしょう。

しかし考えてみて欲しいのです。人間とは不完全なものです。そして、大多数の人は自分が不完全な存在であることを受け入れ、納得しています。自分が完全な存在であることを期待するほうが、どこか病んでいるのです。

突然12ステップの話になってしまいますが、ステップ2で必要なのは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを知ること」です。こう言うと、自分が神でないことなど分かっていると反論される方がいます。自分は神でないと言いながら、一方で自分の完全無欠さを信じ、凸凹の存在から目を背けています。まさにそれこそが「神であること」です。

僕らは、アルコール(や薬物やギャンブル)をコントロールする「能力がない」と認めることが幸せにつながりました。もし「能力がある」ことにこだわっていたら、今ごろアディクションのせいで死んでいたでしょう。能力があることではなく、能力がないことを認めることが、人を幸せに導くのです。同じことは発達障害あるいは凸凹にも言えることです。

彼を知り己を知れば百戦危うからず。難しいのは己を知ることです。せっかく発達障害という分野にふれる機会を持ったのなら、自分がどんな凸凹を持っているか知り、どんな無理をしているか知るように努めるべきだと思います。


2012年01月02日(月) 発達障害と発達凸凹(その1)

「心の家路」の更新履歴を見ると、このサイトは2002年1月24日に初公開しています。(雑記はそれ以前から書いていますがそれは含めないとして)。1月の末になれば10周年というわけです。

2012年は政治の年です。アメリカ、ロシア、韓国で大統領選挙が行われ、中国でも党大会が開かれます。日本でもおそらく総選挙になるのでしょう。

今年の総選挙で、日本人が本当に原子力発電所の撤廃を望んでいるのかどうかがはっきりすると僕は考えています。表現を変えれば、日本人の多くは原発の撤廃を望んでいることは間違いないと思いますが、その思いが実際の投票行動にどれだけ影響するか。撤廃が重要なことだと思っていれば、それを約束する政党が大躍進するでしょうし、そうならないのなら、皆が放射能のことをそれほど深刻には捉えていないということになります。日本人が本当のところどう思っているか、それが分かると思うのです。

さて、杉山登志郎先生の『発達障害のいま』という本を、ようやく読了しました。ここ数年の発達障害に関する進歩がまとめられており、発達障害についてある程度の知識をすでに得ている人には「次に読む本」としてお勧めです。

ところで、「ひいらぎさんの雑記を読んでいたら、あの人もこの人も発達障害っていう気になってきた」という問いかけを受けました。

それについて書こうと思っていたのですが、実はさらりと説明するだけで済まない話題なので先延ばしになっていました。

杉山先生がどこか(たぶん「こころの科学」)に書いていた文章に、こんな話がありました。看護師が杉山先生のところに着任すると、仕事に必要なので発達障害について学び始めます。そして数ヶ月すると、外来に来た人が「あの人も、この人も、みんな発達障害」に見えてしまう、という訴えをするのだそうです。もちろん児童精神科医のところへ来る患者が全員発達障害のはずがありません。

発達障害の「障害」は、元は「障碍」という字を使っていました。ところが「碍」が当用漢字に入っていないので、同音の害の字を使っています。「碍」は妨げるという意味です。妨害という言葉も元は妨碍と書きました。(碍子は電気の導通を妨げる装置です)。

だから障碍(障害)とは、何らかの妨げによって、その人の能力に障りがあることを意味します。能力の発達が阻害されたのが発達障害です。

ところで、人は様々な能力を持っていますが、全ての能力が均等に発達することはあり得ません。例えば学校のテストで5教科すべてが同じ点数という生徒はまずいません(教科ごとの難易度の違いを差し引いても)。得意な科目もあれば不得意な科目もあるのが人間です。勉強以外の様々な能力についても同じことが言えます。

人は誰しも能力の凸凹を持ちます。それは能力の発達の凸凹です。前出の看護師は、その凸凹を敏感に感じ取ってしまったと言うわけです。

その凸凹が激しい人もいれば、あまり凸凹が目立たない人も居ます。そして、凸凹が激しい人のなかに、その凹の部分が足を引っ張って、社会的に不適合を起こしてしまう人が出てきます。その状態に発達障害という名前を付けているのです。

人はなぜ発達障害の診断を受けるのか。何も問題が起きていないのに、「いっちょ診断でも受けてみっか」と専門医を訪ねる人はいません。やはり何か問題が起きているからこそ医者にかかるのです。

だから、同じ程度の能力の凸凹を抱えていたとしても、社会的不適合を起こしていなければ(つまりその人も、周りの人も困っていなければ)発達の凸凹にすぎないわけで、不適合を起こすことで発達障害という診断に至ります。

その不適合とは、例えば仕事に就けないこと、学校に行けないこと、暴力を振るうこと、迷惑行為を繰り返すこと、依存症になること、うつ病などになることなどなどです。

というわけなので、僕が雑記で発達障害の様々な表現形について書いたことが、自分あるいは他の誰かに当てはまると思っても、その人に社会的不適合が生じていないというのなら、発達障害ではなく発達の凸凹と捉えてもらえばよいのです。言っておきますが、凸凹の無い人はいません。誰しも得手・不得手があり、人が人生につまずくときは、得意なこと(凸)でつまずくのではなく、苦手なこと(凹)でつまずくのです。

さて、発達障害にも様々な種類がありますが、目立つのは何と言っても「自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)=ASD」と「ADHD(注意欠陥多動性障害)」です。

僕の雑記の中に書かれた発達障害についての表現が、自分や他の誰かに当てはまると思うのならば、やはりそれは自閉圏(ASD)あるいはADHDの傾向を、いくぶんか持っているということでしょう。それが「障害」と呼べるレベルかどうか、それだけで判断してはいけません。

大切なことは、人は全能力が均等に発達した「真円」ではなく、様々な能力が凸凹に発達したいびつな存在であり、その不完全さこそが「人間らしさ」です。

はてさて、この雑記を書き起こしたのは、

「では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?」

ということを書きたかったからです。それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。

(続く)


2011年12月22日(木) 閑話二題

日本とアメリカの両方のAAミーティングに出た人の話です。

アメリカでは、AAのビギナーは1年間はミーティングで話をせず、他のメンバーの話に耳を傾けるように言われます。子供の頃から自己主張することを訓練されてきたアメリカ人は、AAミーティングで話をさせると自己主張するばっかりで他の人の話が耳に入ってこない。これでは回復できないから、まず1年間は人の話を聞いてもらう。

一方、日本のAAミーティングでは、ビギナーでもどんどん話をするように促されます。日本人は自己主張することが苦手で、特に中年以上の男性はそもそも主張するべき自分の意見すら持っておらず、社会の意見に流されているだけ。自我(self)を取り除くには、まず取り除かれるべき自我を育てなくちゃならない。

こうして見ると、日米の文化の違いが分かって面白い・・という話でした。僕はアメリカのAAには出たことがないので、「へえ〜」と言うばかりですが。

さて話は変わって、wired.jp にこんな記事が掲載されていました。

Facebookは「人間的なつながり」を壊すか
http://wired.jp/wv/2010/11/12/facebook%e3%81%af%e3%80%8c%e4%ba%ba%e9%96%93%e7%9a%84%e3%81%aa%e3%81%a4%e3%81%aa%e3%81%8c%e3%82%8a%e3%80%8d%e3%82%92%e5%a3%8a%e3%81%99%e3%81%8b/

通信手段が発達していなかった頃は、友人と連絡するためには直接会いに出かけるか、使者を遣わすしかありませんでした。やがて郵便が手紙を運んでくれるようになり、電報や電話が生まれ、さらには電子メール、TwitterやFacebookと、人と人を結ぶ技術は発展していきました。

これによって僕らは人間としての限界を突破し、常に多くの友人とつながっていられるようになりました。Facebookユーザーの平均「友だち」数は、世界平均が130人、日本では108人だというニュースがありました。もしコンピューターネットワークがなかったら、100人の友人を持てる人がどれだけいるでしょうか。

しかしJonah Lehrer氏の記事では、どんなに熱心なFacebookユーザーであったとしても、信頼を寄せる親しい友人の数は数人に限られ、これはFacebookがなかった時代とちっとも変わっていないことを指摘しています。

「情報伝送のコストが非常に低くなっているため、われわれはより多くの知人と接触するようになっている。しかしそれは、われわれがよりたくさんの友人を持っているということを意味するわけではない」

技術革新は(親密さを築く)人間の能力を拡大するには至っていない、ということなのでしょう。


2011年12月20日(火) 助けにくい人たち

あまり雑記を更新しないままだと叱られるので、軽いテーマで。

昨夜はステップミーティングでした。ステップ12。どうやって新しく来た人にAAのメッセージを運んだらいいか。もしそれが分からないのなら、自分がAAに来た頃に、どうやって「先ゆく仲間」から助けられたか思い出せばよいのです。たぶん忘れているでしょうけれど。

AAの序文はこういう文章で始まっています。

「アルコホーリクス・アノニマスは、経験と力と希望を分かち合って共通する問題を解決し・・・」

共通の問題とは何でしょう。ミーティングにやってくる人は、男もいれば女もいます。職業も学歴も家族構成も様々で、どこに共通点があるのか。

僕が初めてAAグループに属したとき、そこには3人のメンバーがいました。一人の男性は中卒のヤクザで両手の小指がありませんでした。彼はキレると、男が二人がかりでないと止められない「狂犬」と呼ばれた男でした(後に彼は僕のAAスポンサーになってくれた人であり、まさに恩人です)。もう一人の女性は、彼が精神病院入院中につかまえた奥さんで、やっぱりアル中でした。もう一人の男性は、高速道路のサービスエリアにおみやげ物のお菓子を補充して回る職業でした。年若く世間知らずだった僕は、そんな職業があることを初めて知りました。

そこに僕がやってきました。ビックブックには「私たちはふつうなら出会うことさえもなかった者同士だ」とありますが、まさにそんな感じでした。いったいこの4人にどんな共通点があったのでしょう。

彼らは「かつてどのようであったか」。つまり酒を飲んでいた頃はどのようだったかを話してくれました。僕もたいていの人と同じように、最初の頃は「自分はこの人たちほど重症じゃない」と思っていたものですが。

でも、何ヶ月か経った後に、「もう俺たちは気持ちの良い酒なんて飲めないんだぜ」と言われたときに、僕もその通りだと認めざるを得ませんでした。飲み始めの早い時期は気持ちの良い酒を飲めたのですが、飲んでいた最後の頃は、確かに酔っぱらいはするのですが、全然気持ちよくありませんでした。それでも酒がやめられませんでした。そして、いまは飲んでいなくても、やがて酒に手を出す可能性が高いことも認めざるを得ませんでした。

AAにやってくる人は「アルコールの問題」を抱えています。それが「共通の問題」です。ミーティングではそれを話さなくちゃなりません。

酒がやめられないと言う人もいるでしょう。また飲んでしまったという人もいるでしょう。そういう人をAAメンバーは叱ったり、説教したりしません。かわりに「私もあなたと同じだった」と言うのです。でもいまは飲んでいないことは相手にはわかるでしょう。すると相手は「どうやって問題を解決したのか」と疑問を持つようになります。アドバイスに効き目が出てくるのは、それからです。

AAミーティングは「自分の背中のほくろを見る作業」だと言われます。背中のほくろは直接見ることはできません。自分の顔だったら鏡を使えば簡単に見られます。けれど背中のほくろは鏡を使っても難しい。2枚使えば良いと言われるかもしれませんが、実際やってみるとこれが意外と難しいものです。

だから僕らは、ミーティングではつまらないプライドという服を脱ぎ捨てて、自分の背中を相手に見せるのです。つまり飲んでいた頃の過去の話をします。「ほら、俺の背中はこうなっているんだぜ」と。すると相手はこう思うかも知れません。「あいつの背中がこうなっているのなら、俺の背中も同じかも知れない」。

自分の抱えている問題というのは、それほどまでに直視するのが難しいものです。だから、こういった技法が必要になるのです。

9月に松本俊彦先生の講演を聞きました。依存症者は援助希求能力が低いという話でした。援助を求める能力が低い。助けてくれと言えない人たちです。

これから年末は町に酔っぱらいが増えます。酔っぱらいに「大丈夫か?」と尋ねてみれば、「らいじょうぶ、らいじょうぶ、れんれんらいじょうぶ」という答えが返ってくるでしょう。全然大丈夫じゃないのにね。でもこれは酔っているからだとお考えかもしれません。

じゃあ、酒をやめたばかりのアル中に、助けは要らないかと尋ねてみれば、どんな答えが返ってくるでしょう。「大丈夫です。酒は一人でやめられます」。これが援助希求能力の低さです。しらふになっても全然変わっていません。助けにくい、助けづらい人たちなのです。

(松本先生の話はこんな話じゃありませんでしたよ、念のため)。

AAメンバーである僕らも、酒はやめているとは言え、まだまだ幼稚で過敏なところは抜けきっていません。だから、相手が深刻なアルコールの問題を抱えているのに、それを軽く見ているのに出会うと、イライラしてしまいます。ついつい、それを指摘し、アドバイスし、時には説教をかましたくなります。でも、相手はそれを受け入れる状態にないってことを忘れてはいけません。

とは言うものの、時には具体的なアドバイスがなければ、前に進まないこともたくさんあります。僕らはアドバイスを与えるときは、スポンサーシップという一対一の関係を結びます。スポンサーはスポンシーのソブラエティの実現に積極的に関わっていきます。スポンサーをやってみるとわかりますが、スポンシーは酒を飲んでしまったり、AAをやめてしまったり、時には死んでしまうこともあります。

スポンシーが飲んだときに「もっと別のやり方をしていれば」と思ったり、死なれたときに「あいつの死には俺にも責任があるんじゃないだろうか」と悩まない人はいません。だからスポンサーは相手のことを真剣に考えてアドバイスをします。それは、イライラを解消するために、つい口をついて出てしまう皮肉とは180度反対のものです。

お分かりでしょうか。僕らは新しい人たちに「教え」たり「導い」たりしたくなってしまいます。けれど、相手の準備が整っていないうちに、そんなことをしても無駄なばかりか、時には有害です。それ以前に、相手に自分の背中を見せてあげなくちゃなりません。つまり「共通する問題」を分かち合うのです。

僕らはAAにやってきたときに、どのようにして仲間に助けられたか、しばしば忘れてしまいます。人というのは不思議なもので、ずっと昔から今の自分だったような気がしてしまうものです。でも、そうじゃなかったはずです。もっとヒドい状態だったはずです。それを忘れているから、新しい人に余計なことが言えるのです。

飲んでいた頃の話ができなくなったら、AAメンバーとして新しい人の手助けをする能力を失ったことを意味します。今日起きたことや、今週起きたことをミーティングで話している場合じゃありません。そういう人は自分にしか関心がありません。

僕らが相手にしているのは援助希求能力の低い人たち、助けにくい人たちであることを忘れてはいけません。僕ら自身がかつてはそうだったことを思い出しましょう。そんな僕らに対して、先ゆく仲間たちは、辛抱強く僕らが分かるまで、「共通の問題」について分かち合ってくれたのではありませんでしたか。それとも、もう忘れてしまいましたか。

かつては目の前の相手と同じだったという事実、それを分かち合う言葉こそが、医師にもカウンセラーにも持てない、当事者たる僕らにだけ与えられた特別な力であることを忘れないで。

だから僕らは、相手を手助けしようとするときに、飲んでいた頃の自分はどうだったか、という話をすることから始めるのです。12番目のステップとはそうやってやるものです。物事には順番があり、まず最初に問題について分かち合うのです。相手がいつ背中のほくろに気がついてくれるか。そのタイミングを知っているのは神様だけです。あなたが神様にかわってそのタイミングを決めてはいけません。

そういう説教臭い話をミーティングでしたのです。


2011年12月15日(木) Think Insights で「心の家路」を見る

2ちゃんねらーは「高齢で低学歴」 グーグル「Think Insights」に暴かれてしまった
http://news.livedoor.com/article/detail/6081001/

というニュースを読み、じゃあ 2ch.net じゃなくて、ieji.org(「心の家路」のドメイン)を入力したらどうなるか・・を調べてみました。

Google の doubleclick ad planner による推定

ドメイン:ieji.org

ユニーク ユーザー数(Cookie による推定値) 10K
ユニーク ユーザー数(ユーザー数) 7.1K
リーチ 0.0%
ページビュー数 53K
合計セッション数 14K
Cookie あたりの平均セッション数 1.4
サイトの平均滞在時間 5:20

年齢
 35-44才 48%
 45-54才 52%

性別
 男性 55%
 女性 45%

学歴
 高校卒業 34%
 大学卒業 66%

世帯年収
 3,000,000-4,999,999円 68%
 5,000,000-5,999,999円 32%

他の利用サイト
 wt.tiki.ne.jp 311.8x
 nsknet.or.jp 31.6x
 synapse.ne.jp 28.8x
 tiki.ne.jp 19.7x
 health.goo.ne.jp 7.6x
 mhlw.go.jp 5.2x

さすがに2ちゃんねるとはずいぶん違った結果になっています。

チキチキインターネットはたぶん二郎さんのサイトでしょう。あとはGooヘルスケアや厚生労働省のサイトが目立ちますが、ほかはわかりません。

Google経由で「心の家路」を訪問するユニークユーザーが一ヶ月に約1万人(推計)。

年齢層は中年、男女比はほぼ半々、大卒の人が多く、世帯年収は全平均よりやや低めかな・・というのが「心の家路」をご覧になっている方の平均的プロフィールでしょうか。

もっともこのGoogleによる推計がどれほど当たっているか、という問題は残りますが。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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