心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年12月12日(月) 愛という言葉を使わない

土曜日は高速バスで新宿に出て、その足で埼玉県川口に移動して、リビングライブラリーというイベントに参加しました。

これは人間を「生きている本」として貸し出す図書館という試みで、何らかの誤解や偏見を受ける可能性のある人たち、例えば障害者や性的少数派、ホームレスなどなどの人の語りを聞きます。講演会などと違うのは、聞き手がごく少人数であることと、話の途中で質問を挟んでも良いということです。社会に存在する無知や偏見をとても地道なやり方で取り除こうとする試み、と言えるでしょうか。

リビングライブラリー
http://living-library.jp/

今回は午前中1枠(30分)しか参加できなかったので、どの方の話を伺おうか迷ったのですが、買い物依存症の人のお話しを聞かせて頂きました。

受付でカンパを含めて500円払ってから財布の中を見ると、千円札1枚と硬貨少々しか入っていませんでした。しまった財布の中身を確かめずに出てきちゃった。これで昼食と夕食をまかない(帰りの切符はあるからいいけど)駐車場の料金も払わねばなりません。その日は何とかなったのですが、翌日AAの病院メッセージに行く途中で、スポンシーと会い、ガストでメニューを広げたところで、財布の中に全然金がないことに気がつきました。う〜む。

まさかスポンサーに昼食代貸してくれと言われるとは思わなかったでしょう。次の時に返しますね。

さて、全然関係ない話ですが、「ひいらぎさんは愛という言葉を使いませんね」と言われることがあります。

もちろんそれには理由があります。愛という言葉はアディクション領域で頻用するには危険すぎるからです。

例えば、依存症の家庭にはしばしばDV(ドメスティック・バイオレンス)があります。身体的暴力に限らず、精神的な暴力や言葉による暴力も含みます。DV夫たちは、妻に暴力をふるったのは「愛しているからこそ」だと主張します。いたらない妻、ダメな妻に「きちんとして欲しい」からこそだったと。身勝手な愛が暴力や強制を正当化してしまっています。

同じことは、親による子供の虐待にも言えます。しつけがエスカレートして虐待に発展する背景には、「この子がこのまま大人になったのでは将来困るだろう」という親の愛があります。

アディクションの領域でも、例えば覚醒剤での服役を終えて家に戻った息子に対して、親たちが「反省させるため」と称して暴力的懲罰を与えた話や、家族に借金の尻ぬぐいばかりさせるギャンブル依存症者を家から締め出した話など、いずれも愛すればこその行為です。

または愛情という言葉が、女性に対し、男性への盲目的な献身と自己犠牲を強制する装置として使われる、という批判はフェミニズム領域から繰り返し出されています。

(愛情そのものではなく)愛もしくは愛情という言葉は、暴力性を帯びる危険を常にはらんでします。愛という言葉によって、暴力や理不尽な強制が正当化されてしまうからです。

先日のギャンブル依存に関するテレビ番組では、家族を愛するがゆえに借金の尻ぬぐいを繰り返す過ちが紹介されていました。

愛は崇高なものだとされています。だからこそ、愛は正しく、その言葉に反論することは許されない、という雰囲気があります。虐待されても親に従えない子供は「親の愛情を感じ取れない子供」とされ、飲んでいるアル中夫に尽くせない妻は「夫を愛していない妻」とされてしまいます。

だからこそ、僕らは「愛」という言葉を使わずに語らねばなりません。

医療であれ、福祉であれ、行政であれ、愛という言葉は持ち出さないようにしているのにお気づきでしょうか。例えば介護の仕事はキツいわりには賃金は安くなっています。それが「愛」とか「献身」という言葉で待遇の悪さを覆い隠すようになったら、それはもう単なる労働搾取になってしまいます。

もちろんアガペーであれエロスであれ、愛そのものについて語るときは愛という言葉を使わざるを得ません。しかし、使わなくて良い時に、愛という言葉を持ち出す人は、何かしら別の目的を隠しているものです。愛ほど崇高でない、もっと現世的な利益を追求する人が「愛」という言葉を使いたがります。愛、愛と騒々しい人にはお気を付けあれ。愛情あふれる人であったためしがありません。(この文章にも愛という言葉はいっぱい出てくるのですが)。


2011年12月10日(土) ネットワークやらノットワークやら

最近ある相談機関からアディクション関係の事例について相談を受けています。公的機関は必ずしもアディクションに対応するノウハウを持っているとは限らないので(というか持っていないのが普通)、個々の事例についての助言を求めらています。もちろんそれによって収入が発生するわけでもなく、仕事の休み損ということになるのですが、こちらからもスポンシーを送って相談に乗ってもらったりしているので、お互い様です。

僕はアマチュア(非職業的)活動なので法的な守秘義務を課せられているわけではありませんが、それに準じたものはあると思っています。だから詳しく書けませんので、概略だけ。

ある方にアディクションの施設に入所していただく話が進んでいます。ダルクという名前を出しても構わないでしょう。施設長さんは受け入れオーケーだと言って下さっているし、ご本人も承諾済みです。でも、この話がずいぶん長く停滞したままで、入所に至っていません。

その理由は、施設を退所後の生活がデザインできていないからだそうです。退所後にどこに住み、およそどんな仕事をし、どんな生活をするか、そのために何をすれが良いか。その目処を付けずに、ただ施設に入所させるというのは無責任であり、そういうやり方はしたくない、とその機関の方はおっしゃります。なるほどプロフェッショナルだなと納得しました。

僕らはついつい「○○さえやれば良くなる」という考えに陥りがちなので、気をつけなければならないと思います。「12ステップさえやれば良くなる」とか「あそこの施設に入れば良くなる」とか。その考えは幻想に酔いたいだけですね(酔いたいという意味では全然治ってないわけだ)。もちろん12ステップは大事であり、そこから多くの人生が再スタートしていったのは事実です。でもそれはスタートにすぎない、という視点を失ってはいけないと思います。

前述とは別の施設長さんの話ですが、その方が10年余り前に施設を始めたときには、各地に同様の施設を作り全国展開する未来を思い描いていたそうです。アルコホーリクとしてその野心にはとても共感できます。それが実現すればきっと各地で多くの依存症者が助かることでしょう。素晴らしいことじゃありませんか。

でも、その構想は途中で諦めたのだそうです。それはなぜか。

入所してくる人の抱えている問題は、アディクションだけとは限りません。ほかの悩みも抱えているのが普通です。もちろんその困難の内容は人によって違いますから、すべてに対する解決を、ひとつの施設だけで提供できるわけがありません。他の機関や施設に協力を仰いでいくうちに、地域に根ざした回復資源のネットワークが出来上がりました。何年もかけて作り上げたネットワークこそが、その施設の強みだというのです。

この話を聞いたとき、選択と集中というビジネスの基本を思い出しました。強みを生かすためには全国展開より地域性。理にかなった戦略です。

僕の住む長野県には前述のダルクのみでアルコールの施設がありません。だからアルコールの人は県外の施設に入所することになります。県外の施設から戻ってきて、地元に無事に定着できた人は数えるほどしかいません。いずれも「力のある」人たちです。むしろ、施設終了後もその周辺にとどまった人のほうが、順調にやっている率が高いように見受けられます。東京や神奈川のAA会場に行って「長野から来ました」と発言すると、実は俺も長野出身なんだという告白をしばしば聞くことになります。

そうなる理由は、施設にとどまるうちにその人の困難をサポートするネットワークができて、施設周辺にとどまるメリットが大きいからでしょう。逆に地元に戻ってくると、AAこそあるものの、その他のサポート資源を失ってしまうために、回復の維持が難しくなってしまいます。地元でネットワークをコーディネートしてくれる支援も得にくいのが現状です。

AAスポンサーとしても、スポンシーにより多くのサポート機関を紹介できねばならないと思っています。そのためにはネットワークを構築しなければなりません。しかし信頼に基づいた関係を作るためには、前述の相談機関との関係のように、「お世話になってます」という顔の見える間柄を地道に何年もかけて作っていくしかないのだろうと感じています。営利企業のサラリーマンをやりつつ、空いた時間にそれをやるのはしんどくないと言えばウソになりますが。

田中康雄先生によれば、ネットワークではまだ弱く、ノットワークでなければならないとか。


2011年12月08日(木) 豊川一家殺傷事件について

この雑記ではあまり時事問題を取り上げませんが、今回は

豊川一家殺傷の長男に懲役30年 名古屋地裁支部判決
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2011120790151544.html

を取り上げます。

15年間ひきこもり状態だった30才の長男が、回線を解約されインターネットが使えなくなったことを恨んで両親や同居の弟一家を包丁で襲って殺傷、自宅に放火した事件です。とりわけ1才の姪まで殺害したことは凶悪とされ、地裁の判決は懲役30年でした。

長男(被告)はネットでの買い物の借金が200〜300万円あったとされています。ひきこもり状態で無職の被告になぜ多額の借金ができたのか。それは父親名義でクレジットカードを作って買い物をしていたからだそうです。また、ワイドショーでのレポートなので信憑性は不明ですが、父親の給料は長男が管理し、父親に5万円、母親に4万円渡し、残りを全額長男が使っていたとされています。

長男は中学卒業後、菓子製造会社に1年ほど勤めたものの退職。その後はひきこもり状態。他に新聞配達の次男が同居(事件時は外出していて無事)。さらに、事件の一年前には三男が派遣切りにあい、内縁の妻と1才の娘(長男にとっては姪)を連れて実家に戻ってきました。その頃からトラブルが急増。姪の夜泣きにキレた被告が怒鳴り声をあげ、男同士の口論が絶えなくなり、しばしば警察が呼ばれました。

ネットではアイドルの写真集やアニメのDVDを購入。さらにネットオークションで人に競り勝って落札することに熱中したといいます。手に入れたのは、壊れた家電製品や段ボール箱100個など無用のもので、家に届いてもほったらかしだったといいます。

事件の数日前には、長男が父親の身分証明書を使って銀行口座を開設しようとしたために、110番で自宅にパトカーが呼ばれていました。

父親は借金が増えるばかりで口座引き落としすらままならなくなり、ネット接続を解約しました。この判断が、相談を受けていた警察の助言によるものなのかどうか、そこは曖昧でハッキリしません(させたくないのかも)。

ネットという「ライフライン」が使えなくなったことに逆上した長男は、深夜に懐中電灯を片手に家族を包丁で刺して回り、放火、血まみれの姿で燃える自宅を眺めているところを逮捕されました。生き残った家族は検察求刑時のインタビューに「死刑にして欲しい」と答えています。

・・・

さて、この事件をどう読み解けばいいのでしょうか。

アディクション的な解釈では、長男はインターネット依存であり、買い物依存だということになります。そして、家族が長男に買い物を許してきたのは「イネイブリング」という間違った対応であり、それによって依存症が進行して深刻化、ついには家族が生活を防衛しようとネットを切断したことが最悪の結果を招いた、ということになるのでしょうか。

アルコール依存に対比させれば、家族が酒や金を与えたり、(自分で稼いで飲んでいるなら)その他のトラブルの尻ぬぐいをすることで、本人が自分問題を直視せずに飲み続けることを可能にしている、という「イネイブリング理論」です。家族が手助けを拒否することで、本人が問題に直面化できるという理屈です。

ところがこの事件にはこれが当てはまりません。捜査と裁判の中で、被告(長男)は発達障害であることが明らかになっています(自閉症と知的障害)。障害の詳しい内容は報道されていませんが、ネットへののめり込みには自閉的特性が関係していることは明らかです。また、買い物にブレーキをかける力の弱さは、知的な弱さが影響しているでしょう。こういう人をアディクションとして扱って、依存症治療の枠組みに入れてもなかなかうまくいかないという報告は最近あちこちからあります。

(間違ったやり方ではありましたが)家族が手助けしなければならないのには、本人の能力不足という理由があり、手助けすること自体を「イネイブリング」とはとうてい呼べません。

必要であれば入院治療を経た上で、自立支援の福祉施設で生活訓練を行い、生活自立を目指すことが正しい対応でしょう。おそらくは小学校・中学校時代は普通学級だったのでしょうが、特別支援学級のほうがふさわしかったのかもしれません。

第一審では、検察側が殺意と完全な責任能力を主張して無期懲役を求刑。弁護側は、けがをさせるつもりで殺意はなく、責任能力は限定的で心神耗弱状態だったと主張しました。判決では完全な責任能力を認める一方で、「誰にも障害に気付いてもらえず、支援を受けられなかった。家族の行為が結果的に被告を追い詰めた」という事情を酌み、無期懲役を選びませんでした。その量刑が相応しいかどうか、僕にはわかりません。

皮肉なことに、この長男は凄惨な事件を起こすことで、障害を見つけてもらい、支援を受ける見通しが立ちました。あまりにも遅すぎる発覚、遅すぎる支援ではありましたが。

アディクションの世界にいる僕らはこの事件からどんな教訓を読み取ればいいのでしょうか。

一つは、××にのめり込んでいれば××依存症、という単純な図式を捨てることです(例えばパチンコのめり込んでいればギャンブル依存症とか)。人が何かにハマるのには様々な理由があります。アディクションである場合もあれば、違うこともあります。そして違っているのに、アディクションの図式を当てはめた支援を行うと、本人のためにも、家族のためにもなりません。

もうひとつは、そろそろイネイブリング理論は有効性を疑われるべきだろうということです。少なくとも単純に手助けをやめれば良いとは言えなくなっているのではないでしょうか。最近の新しいアディクション治療では、周囲の関与を求める傾向になっています。

さらにもう一つ。家族にも支援が必要となる可能性です。両親の二十数万円の収入を長男が管理したと聞けば、暴力によって家族を支配していたのだろうと想像してしまいます。しかし実は両親が金銭管理が苦手で、数年前より長男に管理をまかせており、ATMを操作させるために父親が長男を銀行に連れて行くこともあったとされています。両親にも援助が必要だったわけです。

小学校時代の長男は学校ではしゃべらず、イジメやからかいの対象にされ、家庭での虐待やネグレクトをうかがわせるエピソードもあります。中学になるとゲームやパソコンに熱中。卒業後は菓子製造工場でパンを包装する単純作業を黙々とこなし、働きぶりを評価されたものの、1年後に後輩たちが入社してくると指導ができずに仕事を辞めてしまいました。その後見つけた仕事は、最初に30万円を支払うと仕事を紹介してくれるという詐欺に近いもの。それに失敗したことが、社会に背を向けてひきこもりを選ぶきっかけになりました。

どこかで支援が入っていれば事件は防げたように思います。もちろんその支援は、ネット依存症や買い物依存症という視点からのものではないはずです。


2011年12月06日(火) 趣味と回復

先週末土曜日は、関西アルコール関連問題学会の京都大会で「アディクションと発達障がい」という分科会に話題提供者として出席していました。なぜ僕ごときが呼ばれるかと言えば、アディクションと発達障害の関係について取り組んでいる人が全国的にまだまだ少ないからに他なりません。

質疑応答の時間に、子供の発達障害を扱っている人が質問をされていました。子供はアディクションにはなるとは思えないので、発達障害の情報を求めに来られたのでしょう。その「少しでも多くの情報が欲しい」という気持ちが、僕にも分かるようになってきました。

アディクションからの回復には様々な手段が提供されていますが、結局一つのことを目指しているように思われます。断酒会のひたすら酒害体験を話すことでも、AAの12ステップでも、アミティの手法でも、どれも自己洞察の深まりこそが回復という点は共通です。目指すことが一つならば、いろんな手段に手を出すより、一つのやり方に習熟するほうが明らかに良いです。

ところが発達障害というのは千差万別です。そりゃ診断名はアスペルガーだADHDだLDだと分かれていますが、抱えている特性(能力の凸凹)は人それぞれで、別個の対応をしなくてはなりません。個別対応、個別支援が合い言葉になります。目の前の人にどんな手段が合うかを考えるためには、たくさんの情報に触れる必要が生じてきます。

その分科会で リカバリースペース みーる の取り組みが紹介されていました。みーるはアディクションの人も、発達障害の人もいる通所型の施設です。興味深かったのは、「べてるの家」の当事者研究の手法を取り入れていることです。

当事者研究については活字でしか知らないので、あまり詳しく説明できないのですが、自分で自分のことを(つまり当事者が)研究するという手法です。自分の抱えている困難を自分で解明し、その困難(病気)に自分で名前を付け、ホワイトボードなどを使って自己開示し、どうやってその困難を乗り越えていくか仲間からの提案を受け話し合いながら、解決策を見いだしていく・・というやり方です。生活上の困難という問題に着目したとき、その人の医学的な病名(統合失調症とか発達障害とかアディクションとか)はもはや意味をなさなくなります。

そのみーるのスタッフの山崎さんという方との雑談の中で、「アスペルガーの人は、孤立を望んでいるように見えて、実は内面は淋しくて、人との関わりを望んでいるんですよね」という話ですこし盛り上がりました。人と触れ合いたいのに、触れ合うことが苦手でもあることが彼らのディレンマです。淋しさゆえに人の集まるところに出かけていき、でも人と一緒にいても触れ合った気がしない不全感があり、精神的に疲れて帰ってきて「もう二度と行きたくない」と後悔しつつ、でも淋しいからしばらくするとまた行きたくなる、というサイクルを繰り返しているように観察されるのです。

淋しくても一人でいることを選ぶ人もいるでしょう。疲れても人と関わることを望む人もいるでしょう。どの立ち位置を選ぶかは、その人の人生の選択と言えるのかも知れません。

ただ発達障害の人には一人で楽しめる趣味を持つことは役に立つと考えています。趣味の中には人数が集まらないとできないものもありますが、一人でできる趣味もたくさんあります。山へ登るのも、魚を釣るのも、写真や絵も、スポーツ観戦や観劇や映画鑑賞、ジムで体を動かすのも、泳ぐのも良しです。定型発達の人は人に気を遣い遣われることが心の疲れを癒しますが、発達障害の人は気を遣ったり遣われたりする場でかえって疲れしてしまうことが多いのです(特に自閉圏の人は)。一人で楽しめることを持つのが大切です。

とある施設にAAのメッセージ活動にお邪魔したとき、「趣味を持つことは断酒の役に立つか?」という質問が出されました。当然答えは「役に立ちません」でした。ことアディクションに限れば、この答えは真です。趣味を持つことに自己洞察の深まりは期待できませんから。趣味がいけないわけではありませんが、大事な時期には回復に時間を割いたほうがその後の人生が違ってきます。しかし発達障害の人だったら、趣味を持つことは断酒の維持に役立つと思います。(ただ趣味さえあればいいってもんでもありませんが)。

人は誰でも淋しさを抱えており、人と交わりたいと願っています。しかし、人と一緒にいても心が触れ合っている気がしない不全感が、アスペルガーをはじめとする自閉圏の発達障害の人の淋しさを際立たせています。どこへ行っても、自分はここの仲間に入れていないかも知れない、という不安に付きまとわれているように見受けられます。おそらくは情報選択能力の問題で、押し寄せる情報の中から「私はあなたを受け入れていますよ」という情報をすくい取ることが苦手なのだろうと解釈しています。

京都から東京に移動し、日曜日午前中は某12ステップ勉強会。午後は吉祥寺の成城大学で開かれたJDDネット(日本発達障害ネットワーク)の年次大会を聴きに行きました。お目当ては就労支援と高等教育の就学支援。その話はまた後ほど。


2011年12月01日(木) 司会者の心得・ブルーカード

Twitterのほうで、ちょこっとだけ話題になっていた件です。

僕のつながった頃のAAでは「司会者の心得」というリーフレットが使われていました。

紙の片側には「オープンミーティングの場合」とあり、司会者がミーティングの前に読み上げる形式でした。その内容をざっと紹介すると、「ここで話されたことはすべて個人の意見であって、AA全体を代表するものではないこと」、「ここで話されたこと、会った人のことは、この会場内にとどめておく」、「出席者のプライバシーを保護するために、写真撮影、テープ、メモはご遠慮下さい」というのが主旨です。

紙の反対側は「クローズドミーティングの場合」。こちらはミーティングの締めくくりに読むもので、「話されたことは、すべて個人の意見であって、AA全体を代表するものではない」というのと、「持ち帰りたいものだけを持ち帰り、それ以外はこの場に置いていって下さい」とあり、さらに「うわさ話や陰口が私たちの中に無いように」とあります。

なぜこの「司会者の心得」が使われるようになったのか。AAサービスの生き字引みたいな人に尋ねてみたところ、ずっと以前のAAで、プライバシーが守られない深刻なトラブルが起こり、注意喚起のために善意のメンバーたちが作ったリーフレットがやがて広まったものだ、と聞きました。まだ関東のセントラルオフィスができる前だったので、リーフレットはJSOで扱われるようになり、それがあたかもAAの共通認識であるかのような印象を与えたのであろう、ということでした。

そもそも、写真撮影、テープ、メモの禁止がAA共同体の意見として決まっていたわけではないし、自助グループとはそういうもの、という認識を広める意図があったわけでもありません。もちろん、AAのような個人的な事柄がシェアされる団体の中でプライバシーという人権を尊重することは大切で、AAの様々な出版物の中でもそのことは繰り返し強調されています。

ところが、AAの中でプライバシーのことばかり言っていられなくなった事情がありました。1990年代にはセクハラが社会問題として取り上げられるようになり、1999年には職場のセクハラ防止が法律で義務づけられました。社会全体がセクハラ・パワハラ防止に傾いている中で、AAも社会の動きと無縁ではいられませんでした。

当然ミーティング会場でセクハラを受けた人(主に女性)からは、被害の訴えがあちこちから出されてきました。AAは警察機構や懲罰制度を持ちませんから、できることと言えば、せいぜい皆で話し合って注意喚起するぐらいですが、それすらも満足にできない状態でした。というのも、「ミーティング場であったことは、外には持ち出せない」と言い張って、都合の悪いことを隠蔽する体質ができあがっていたからです。これでは話し合いすらできず、被害者は泣き寝入りするしかありません。

人は様々な権利を持っておりそれがバランス良く保護されねばなりませんが、どうやら当時のAAではプライバシーという人権だけが突出してしまい、その他の人権が軽視されるような事態になっていたのです。プライバシー偏重体質に「司会者の心得」も一役買っているのは明らかでした。

その頃、アメリカのAAでは、ミーティングの前に読むために「ブルーカード」という紙が作られている、という情報が入ってきました。これも1枚紙のリーフレットで、片側がオープンミーティング用、反対側がクローズドミーティング用となっています。ただ、その内容は日本の司会者の心得とは異なっています。

僕はアメリカのAAミーティングには出たことはありませんが、聞くところによれば、1970年以降AAには様々な「AA以外の」様々な考えが持ち込まれるようになったそうです。薬物依存やACの人たちが参加し始め、その人たちはアルコールとは違う問題について話し始めました。また解決手段も、ゲシュタルト療法やインナーチャイルドや承認欲求うんぬんという話が増えていきました。(とりわけアルコール依存と薬物依存を区別しない施設が、アルコホーリクでない人たちにAAを勧めることに批判がありました)。

結果として、AAにやってきた人が、ここはアルコールのグループなのかどうかとまどうようになり、12ステップに触れる機会も減っていきました。そして1990年代になるとメンバー数の減少が始まりました(アメリカの話)。AA全体が目標を見失って迷走を始めてしまったため、アルコホーリクがAAで助からなくなっていきました。そこで singleness of purpose(目的の単一性)といったスローガンが掲げられ、AAを本来の方向に戻す動きが始まりました。

ブルーカードもその目的に沿って作られたもの(1987年)で、「AAの目的は一つ」であることを強調した上で、オープンミーティングでは「アルコールの問題だけ」、クローズドミーティングでは「アルコホリズムにかかわることだけ」が分かち合われるようにAAメンバーに呼びかけています。

日本でも同じことが問題となっていました。日本で1975年に始まったAAは、当初順調にメンバー数を伸ばしていったものの、1990年代から明らかにその伸びが鈍化し、停滞が始まっていました。AAが本来の目的から逸れ、メンバーたちがアルコールの話や12ステップの話をすることが少なくなっていました。

日本の全国評議会の決議として、「司会者の心得」を廃し、ブルーカードの翻訳を採用することが決まったのが2003年のことです。こうしてブルーカードは司会者の心得に変わり、日本のAA共同体を代表する意見として採用されることとなったわけです。だからと言って「司会者の心得」の使用が禁じられたわけではありません。使い続けたいグループはどうぞご自由にという扱いになりました。単に「司会者の心得」の内容がそのグループにローカルな意見であり、AA全体を代表した意見ではなくなったということです。

話はこれだけで終わりません。

近年になって、アディクションフォーラムやアディクションセミナーという催しが全国各地で開かれるようになってきました。その内容は、講師を招いて講演をしてもらったり、様々なアディクションの当事者が体験を語るオープンスピーカーをやったり、自助グループや回復施設が模擬ミーティングを開いたりするのが一般的でしょうか。社会に向かってアディクションの情報を発信することで、無知や偏見を取り除き、新しい人が回復資源につながりやすくする効果を狙っています。

とはいえ、一般の人たちはなかなかアディクションには興味を持ってもらえません(身内に当事者でもいない限り)。わりと来てくれるのが、医療・看護・福祉の学生さんたちです。将来自分の仕事に役立つと思ってのことですし、理解のある人がそうした分野に増えることは歓迎すべきことです。ところが、その人たちは「学び」のために来ているわけなので、ノートにメモを取るのが当然だと思っています。

ところが、壇上で話をしている当事者のほうは、自分の話がメモを取られることにまったく慣れていません。さらには、新聞やテレビの取材もお断りだったりします。社会に向かって情報を発信するという目的と齟齬が生じています。

どうしてこうなってしまったのか。(AAには断酒会という先達はあったものの)、AA以外の様々なグループが「AAのやり方」を一つのモデルとして取り入れていったことは疑いもありません。その中の一つに「何が何でもメモは禁止」という誤解も含まれています。慣れ親しんだやり方を変えるのは誰にとっても簡単ではありません。この問題の解決は容易なことではないでしょう。

ずっと以前にAAメンバーたちが、自分たちの問題を解決するために作った一枚の紙が、アディクションの情報を発信するための足枷を作ってしまったわけです。プライバシーの保護と、情報の共有・発信とのバランスはどこに置けばいいのか。そのことを議論する(できる)人たちすらほんの一握りです。


2011年11月28日(月) ステップの「棚卸し」は癒しではない

12ステップのステップ4と5は「棚卸し」と呼ばれ、またステップ10にも日々の棚卸しという作業があります。「棚卸し」は12ステップのハイライトです。

棚卸しは癒しのために行うと考えている人もいますが、そうではありません(少なくとも僕はそう考えてはいません)。もちろん、ステップ4で棚卸し表を書き、ステップ5で誰かとその内容を話し合うことで、大きく癒されたと感じる人はたくさんいます。けれど、癒しで終わらせてしまうわけにはいきません。なぜなら、ステップ4・5は変化の始まりに過ぎないからです。癒されたという感じに満足して、そこでステップを止めてしまうと、結局その人は変化できないのです。

癒しとは何でしょうか。こんな例えを考えてみます。

小さな子供が転んで膝小僧をすりむいたとします。膝の傷を洗ってやり、消毒して、薬を塗る手当をします。それによって傷はきれいに治る。これが癒しです。

12ステップは違います。しょっちゅう転んで怪我をしている子供がいた場合に、「どうしてこの子はこう頻繁に転ぶんだろう」と原因を探って解決するのが12ステップです。

大人と違って子供は簡単なことで転びます。子育てしてみると分かりますが、子供は靴が少し大きくてブカブカしているだけでも転びます。足がどこか悪いのかも知れないし、目が悪いのかも知れません。平衡感覚に問題を抱えているのかも知れません。その子の転ぶ原因を見つけてあげることが大切です。

(僕自身も子供の頃はしょっちゅう転んで、田んぼの水路にハマっていました。片目の視力が悪いのが原因だと分かったのは、小学校入学時の身体検査時でした。もっと早く原因が突き止められていたら、視力向上の手段もあったのですが、すでに時遅し。医療水準の低かった当時の田舎では仕方のないことでした)

癒されることを求める人がいます。転んで膝をすりむけば、傷の手当ては必要です。でも対症療法を繰り返すだけでは解決にもならないことも多いのです。

生きづらさを抱えている人がいます。人生につまずいた人がいます。AAや他のグループに来て12ステップに取り組む人は、何らかの人生のつまずきを経験したからこそ、そこに来た人たちです。中には大きなつまずきが一度あったに過ぎない、と主張する人もいますが、実はその大きなつまずきは、それに先立つ小さなつまずきの繰り返しによってもたらされたものです。

アディクションやACの問題を抱える人は、言ってみれば「転んで怪我をしやすい子供」のようなものです。みんな傷ついて自助グループにやってきます(僕もそうでした)。けれど、その心の傷を癒して、低くなった自尊感情を持ち上げるだけでは、解決になりません。

生きづらさや人生のつまずきは、表面に現れただけのものです。問題の本質(原因)はもっと奧にあります。それを何と呼んでも良いのでしょうが、たまたま12ステップでは性格上の欠点とか短所と呼んでいます。他では違う言葉が使われているかもしれませんが、同じことを指しています。そうした原因が取り除かれれば、生きづらさやつまずきはずっと減ります。

転んで怪我をすれば痛い。転びやすい子供はやがて外で遊ぶのが怖くなり、家に閉じこもりがちになります。同じように、人生につまずき、生きづらさを感じている人は、不安が大きくなり、世の中の不条理をより感じやすくなります。「性格的欠点の多い人ほど傷つきやすい」という原則のとおりです。けれど、転ぶ原因が分かれば、その原因を取り除きたくなる人もいます(ならない人もいるけど)。原因が取り除かれ、転ばなくなればまた友だちと遊びたくなります。アディクトやACも、不条理な世の中を自信を持って泳ぎ渡っていけるようになります。(「自己評価の低さが私の生きづらさの原因」なんて言葉のナンセンスさが分かります)。

棚卸しでは、ひんぱんにつまずいてきた原因を分析します。そこから先のステップでは、その原因を取り除いていきます。

転ぶことが自分の個性、転びやすさが自分の個性だと思ってしまっている人がいます。卑屈になっているわけです。けれど、転びやすさを取り除くと、その人の本当の個性が現れます。それまでは、その人らしい個性は見えず、アディクションの問題、ACの問題に覆われてしまって見えません。本当の個性ではなく、アディクトであること、ACであることが、その人の個性代わりになってしまっているのです。周りの人も、その人のアディクションやACの問題が、その人の個性(人格)だと思いこんでしまっています。


2011年11月24日(木) 「これにしか使えない」の大切さ(その2)

前の雑記は、何らかの治療論・援助論があったとき、それがどの範囲に有効で、逆にどの範囲には有効でないかを示すことが大切であって、「何にでも使える」「これを使えばどんな人でも良くなる」という話ほど怪しいものはない、というお話しでした。

で、今回の話は、じゃあAAはどうよ、ということです。

AAは「どんなアルコホーリクでも回復可能」とは主張していません。AAが効くためには「自分に正直になる能力」が必要だったり、「プログラムに真剣に取り組む」ことが求められており、それができない人の回復率は平均以下だと堂々主張しています。

しかるに一方では「AAではどんな酷いアルコホーリクでも回復できる」という主張もあります。この「どんな酷いアル中でも」がどこから発生してきたのか。元をたどっていくと、日本でAAを始めたミニー神父の言葉にたどり着きます。彼は日本でAAを始めるに当たって、職業も家族もあるアル中は断酒会で助かっているのを見て、援助の手が届いていないドヤ街のアル中を対象とすることに決めました。そこが日本のAAとマック(メリノール・アルコール・センター)の出発点となりました。

さて、依存症者は自らを例外の立場に置きたがる傾向があります。医者に「あなたは依存症で、もうアルコールをコントロールして飲めない」と言われれば、他のアル中はそうかもしれないが、自分は節酒ができる(つまり自分は例外)と考えるのがアル中です。一人では酒はやめられないと聞けば、自分は一人で止められるとか。

そうやってずるずる酒がやめられないまま病気が進行すると、今度は「他のアル中は酒をやめられるかも知れないが、自分はダメだ、飲んで死ぬしかない」という今度は逆の例外化がされ、否定的な自己像がべったり張り付いてしまいます。ミニー神父の「どんな酷いアル中でも12ステップを使えば回復できる」という言葉は、そうしたスティグマや否定的感情を引っぺがして、ドヤ街まで落ちたアル中たちに回復への効力感を与えるのに効果的な言葉だったのでしょう。役に立つ言葉であったと思われます。

後年、AAとマックが分離された後も、この言葉はAAに残り、さらには回復を希望するどんなアルコホーリクも拒まないというAAの指針(12の伝統)によって、この言葉に正当性が与えられました。

「AAはこういう人に向き、こういう人には不向きです」という情報がAAから発せられることはありませんでした。また医療職・援助職の人たちも、ほぼ無批判にAAを勧め、患者を送り込んできました。僕は最初主治医に「あなたは独身だから断酒会よりAAに行きなさい」と言われたのですが、これは乱暴ではあるものの、最低限のアセスメント?に基づいた判断だったと言えなくもありません。それすらも行われずに、なぜこの人がAAに合わないのかを考える人はいませんでした。

AAで「どんな人でも回復できた」わけでなかったのはハッキリしています。AAが合わない人はどんな人か調べれば、どうやればもっと合うようにAAを変えていけるかとか、あるいはAA以外の受け皿を作るとか、対応策が打てたはずです。それが行われずに「AAは実はあんまり効果がないよね」という話になってしまっているのは、残念なことです。

最近では12ステップはアルコール以外の問題にも広く使われるようになってきました。12ステップを理解してくれる人が増えることは喜ばしいことですが、この広がりが本当に良いことなのかどうかは僕には分かりません。12ステップを引用した書籍はたくさん出ていますが、最近NYのGSOから許可を得た書籍には、このような注意書きが掲載されているのをご存じでしょうか。おそらく12ステップの引用許諾の条件として、GSO側から掲載を依頼している文章だと思われます。

A.A. is a program of recovery from alcoholism only -- use of these excerpts in connection with programs and activities which are patterned after A.A., but which address other problems, or in any other non-A.A. context, does not imply otherwise.

「AAはアルコホリズムからの回復にのみ使われるプログラムです。本書における(AA書籍からの)引用が、AAに準じアルコホリズム以外の問題に取り組んでいるプログラム及び活動に関連して使われている場合であっても、あるいはAAとは関係のない文脈のなかで使用されている場合でも、(AAプログラムがアルコホリズム以外の回復プログラムたりうることを)意味するわけではありません」

AAは自分たちが「アルコホリズム」と呼んでいる病気以外の問題解決に12ステップが有効である、という言質を取られないように、ずいぶん気を使うようになりました。

これについては、もう少し話が続くのですが、また別の機会に。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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