心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年08月06日(土) 自尊感情・自己評価について(その2)

自己評価が低いことは辛いことです。そこで私たちは手っ取り早く楽になろうと、酒や薬に頼ったり、ギャンブルやセックスにふけったり、他者を支配しコントロールすることに熱心になりました。なぜならそれは私たちに一時的な万能感を与えてくれ、自信を与えてくれ、自己評価が高まった「つもりになれた」からです。

依存対象を断つということは、そうした解決手段を失うことでもあります。そのままでは、再発しやすいし、別のジャンルの依存症に移行しやすいままです。

では、どうやったら自己評価を高めることができるのか。

ここまで自己評価という言葉を使ってきました。それは self-esteem に対してビッグブックの新訳が「自己評価」という訳語をあてているからです。しかし、評価という言葉は evaluate (価値を見極める)という意味と取り違えやすいので、ここからは「自尊感情」という言葉を使うことにします。



この図は、リンク集に載せている共依存おやじさんのブログの記事に掲載されていたものです。
元記事はこちら。
http://ranran-panda.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-02c1.html

自尊感情(自己評価)というのは、実は二階建てになっていると考えられます。(この考え方は心理学者の近藤卓という人のものだと思います)。

一階部分が「基本的自尊感情」(basic self-esteem)です。これは「自分には価値がある」とか「このままの自分でいい」とか「自分は大切な存在だ」という感情です。

二階部分が「社会的自尊感情」(social self-esteem)です。これは「自分にもできることがある」とか「人より優れている」という感情です。

二階部分は、人に褒められたり認められたりすることによって成長します。良い学校を出たとか、良い仕事をしているとか、有名であるとか、知り合いがたくさんいるとか・・これらは二階部分を膨らませてくれます。成功とか他者からのプラスの評価によって高まる部分です。

上の図では、一階部分をビールに、二階部分をビールの泡に例えています。(アル中相手の話でビールを例に使うのは好ましくないとすれば、一階部分がゴンドラ、二階部分が気球の例えもあります)。自尊感情の高い低いは人によって違いますが、それはビールの泡の表面の高さです。表面の高さが同じでも、中身はほとんどビールの人もいれば、泡ばっかりの人もおり、ビールと泡が半々という人もいるでしょう。

ところで、二階部分(ビールの泡の部分)は、失敗や挫折によって失われやすいものです。泡が吹き飛んでみたらビールが底のほうにちょっとあるだけだった・・というアル中さんも少なくありません。真面目な子供時代を過ごした人たちです。努力によって、他者から分かりやすいプラスの評価を獲得してきた人たちです。しかし、アルコールによる挫折によって社会的立場を失ってしまうと、もう一度努力して再獲得する気力が生まれてきません。なぜなら、その人に残されたのは底にあるちょっぴりのビールに似たわずかな基本的自尊感情だけだからです。厭世的な無気力や抑うつに支配されており、「今さら努力して何になるのだ」と言いたげです。

こういう人がやる気を出すと、手っ取り早く人に認められ、褒められることばかり目指してしまいます。(いるよね、自助グループにもそういう人)。12の伝統の言う無名性の良いところは、そうした誤った自尊心の回復手段をいさめてくれることです。

逆に、ビールが多く、泡が少ない人は、今の自分に満足しすぎているので、努力できません。進歩がない人です。やはり、一階と二階部分のバランスが取れていることが大切です。

よく学校教育で、できの悪い子供でも「その子の良いところを見つけて褒めてあげる」と良いと言います。これによって伸びるのは二階部分です。もともと学校における情緒教育が社会的自尊感情を延ばすことを目的としているから、当然のことだとされます。

「褒めて伸ばす」というやり方が基本的自尊感情を育てないことに注目しなければなりません。高機能自閉症者テンプル・グランディンの本に、最近の学校の先生は生徒を褒めすぎるし、会社の上司は部下を褒めすぎると指摘していました。結果として

「褒められなければ動けない」

という人たちが増えてしまったと。褒めることは二階部分を伸ばすけれど、それはビールの泡のように吹き飛びやすい。結果として、常に褒められなければ落ち込みやすい努力できない人になってしまうわけです。いつも褒めて、大事に扱ってやらないと仕事しない部下ばっかりになってしまったら、面倒すぎてやってられません。やはり、世間から評価されようとされまいと、こつこつ努力できる人でなければ。

というわけで、二階部分は努力して他者からの評価を得ることで伸ばすことができることがわかりました。でも、一階部分(基本的自尊感情)の話は出てきていません。

逆境にあってめげず、自分の努力が実を結ばず無視されても腐ることなく続けていける強さは、いったいどこから手に入るのでしょうか。

(つづく)


2011年08月04日(木) 自尊感情・自己評価について(その1)

esteem という英単語は「尊重する、高く評価する」という意味です。

the esteem of our friends and business associates は「友人や同僚からの信用」と訳されています(12&12 p.120)。

セルフ・エスティーム(self-esteem)は、自分で自分をどう捉えているかです。ビッグブックのピーター訳版では「自尊心」と訳されていますが、新訳では「自己評価」となっているので、いまビッグブックのやり方をしている人たちは、もっぱら「自己評価」という言葉を使っています。

自己評価の低さは「自信のなさ」と言っても良いでしょう。ただし、それがいつも自信のない態度として表れるとは限りません。自己評価の低い人は異性と付き合おうとしないし、せっかく異性から誘われても断ってしまいます(自分に自信がないから)。

しかし、性的に活発な人の自己評価が高いとも言えません。浮気ばかりするダンナは、自己評価が低い(特に男性性に自信がない)からこそ、異性交遊によって手っ取り早く自己評価を高めようとしているだけだったりします。このように自信満々である人の自己評価が高いとは限らず、その態度は自信のなさの裏返しであったりします。(虚勢を張るというヤツで、しばしば依存症者はこれをやる)。

自分自身のことを正確に捉えるのは難しいことです。時には高く捉えすぎて自信過剰になり、また低く捉えて自己憐憫にはまります。表面で意識される自己評価がどうであれ、奥深いところでは人間は正直なものであり、それがその人の感じ方や行動様式として表れてきます。

もしあなたが、自分のことを傷つきやすい繊細なタイプだと感じていたり、日常生活の中でイライラさせられることが多いのなら、自己評価が低いと思って間違いがありません。

自己評価の低い人は、恨みや恐れを抱きやすい人であり、罪悪感や自己憐憫に支配されやすい人です(人との境界線が曖昧になりやすい人と言っても良い)。自己評価の低い人は自ら行動する人ではなく、他者の言葉や行動に「反応する」人です。ステップ4では、自分の自己評価が傷つけられたとき、私たちがどのように反応したかを過去のパターンを分析します。

ステップ5で私たちは、自己評価が自分で意識していたより低いことを知ります。その自己評価が何らかの外因によってさらに脅かされたとき、私たちは激しく反応し、恨みや恐れに支配されて行動し、それが自分の首を絞める結果につながりました。(もちろん脅かされるのは自己評価に限りません、財産だったり人間関係だったりいろいろですが)。こんなことを続けていたら、私たちはまた飲んでしまうでしょう。依存症の再発は死につながります。

飲まない生活を続けたければ、私たちはこの反応パターン(行動様式)を変えねばなりません。それがステップ6から先です。

スポンシーに対して「ここであなたが怒ったのは、相手の言葉で自己評価が傷ついたからでしょう」と言うのは簡単です。自分の怒りは自己評価が傷つけられたからという理由が示されるだけで、行動様式を変えられる人もいます。しかし、皆がそうではないし、変えられる人であっても、自己評価は低いままです。だとすれば、その人は相変わらず恨みや恐れを抱きやすい人であり、それを防ぐために大きなエネルギーを費やしていかねばなりません。

やはり「回復」と言うからには、自己評価そのものが高まっていくことも必要です。実は、ビッグブックにも12&12にも「こうやれば自己評価は高まる」ということは直接的には書かれていません。

どうやったら自己評価を高めることができるのか、それが問題です。

自己評価が高まった「つもりになる」ことは簡単です。それは自信過剰への道です。自信過剰の後には必ず自己憐憫が待っています。やはり「つもりになる」だけではダメで、本当に高まらねばなりません。

(つづく)


2011年08月01日(月) イライラ3年、ぼちぼち5年

AAの僕のホームグループは、週に一回しかミーティングをやっていません。そこで月の奇数週はクローズド、偶数週はオープンのミーティングにしています。年に何回かひと月に同じ曜日が5回ありますが、このやり方だと第5週はクローズドになります。

うちのグループは、池袋の某グループのやり方をかなり真似ているのですが、そこのグループでは第5週は「お楽しみミーティング」と称して外部から人を呼んで話をしてもらっているそうです。面白そうだから、うちでもそれをやってみよう・・ということで、7月末から「お楽しみミーティング」を始めることにしました。

第1回は誰を呼ぼう・・・田舎だからそんなにアテがあるわけでもなく、近隣の断酒会の設立者で長年会長を務められたTさんご夫妻をお招きすることになりました。

Tさんは、断酒の始めの頃は別の断酒会に属していたのだそうです。しかしそこの会長が再三再飲酒し、責任を取って会長を辞任すると言っては、やがて前言撤回して会長の座に留まる・・歯を食いしばって酒をやめている新人会員もいるのにと腹立たしい思いをしたTさんは、「会長が辞めないなら俺がやめる」と言って2年経ったときに断酒会を退会してしまったのだそうです。

しかし、一人で酒をやめ続けることはできないことも分かっていたので、周囲の勧めもあって今の断酒会を設立。元の断酒会とは絶縁状態での始まりだったので、やっかみから「3ヶ月も続かない」と揶揄されたそうですが、苦労の甲斐もあって会は隆盛し、Tさんは県断連の役員を長く努められました。

AAに「彼は恨みとコーヒーポットを抱いて出ていった」という言葉があります。病気の人間の集まりであるのはAAも同じです。時にはメンバー同士のいざこざが深刻な対立に発展することもあります。一方が袂を分かって出て行ってしまうこともあります。しかし、出ていった者が自分に正直であれば、飲まないで生きていくためには仲間が必要であることに気づくでしょう。そうして新しいグループが誕生します。

アメリカでAAが始まった頃、しばしばそうやって新しいグループが誕生し、AAが増えていったのだそうです。オフィスを構えたばかりのビル・Wの元に届く手紙は、そうしたグループ同士の仲裁を依頼する内容ばかりだったとか。

Tさんの話も興味深い者でしたが、もっと関心を集めたのは奥様のお話でした。

「イライラ3年、ぼちぼち5年」という言葉が印象に残りました。

酒をやめた当人は3年ぐらいはひたすらイライラしています(本人側にその自覚はないけどね)。それがぼちぼち取れてくるのが5年ぐらい。離婚しなくて良かったかなと思えるようになるのが、およそ10年だとか。飲まれていた頃は、死んだって決してダンナと同じ墓に入るものか。自分の灰は山にでも川にでも撒いてくれればいい・・と思っていたのが、このごろは「そこまで意地を張らなくても良いかも」と思うようになってきたそうです(Tさんは断酒24年)。

以前ホワイト先生の講演で、どれぐらい酒をやめていれば回復と言えるかという会場からの質問に対し、「最低でも5年、できれば10年」というのが先生の答えでした。10年というのはここでも一つの目安になっています。(まあもちろんその間に薬物乱用とかナシで願いたいけど)。

AAでも最近は最初の年から週に一回しかミーティングに行かない人が増えていますが、断酒会はどうかとTさんにお尋ねしたら、断酒会も昨今は週に一回だけの人が増えたことを憂慮されていました。せめて週に3〜4回と出て、自分の会だけでなく、他の会のやり方を知ることで、「断酒会はこういうものだ」ということが分かっていく、それが大切だそうです。

奥様は、夫婦揃って例会に出席することの大切さという話をされていました。ダンナさんだけが出てきて回復している人もいるが、奥さんとしては「せっかく酒をやめたのに毎晩いない。週末は断酒会の催しで一泊二日で金ばかり使って・・」という不満が出てくる。それで旦那さんが断酒会に出づらくなり、やがて退会、再飲酒となりがちですが、一緒に動いていればそうはならないと。

小さい子供がいれば、その子に留守番させて夫婦で夜の例会に出るのはためらわれるかもしれません。しかし、奥様はこうおっしゃいました。子供にとっての幸せは、とうちゃん・かあちゃんの仲がいいことだ。夫婦揃って家にいても中が悪けりゃ子供は不幸せだ。だから二人で例会に行くことが大切で、少なくとも私はそう教えられたと・・そして、「あんまり小さいなら一緒に連れておいで」とも。

一時間半のお話しの内容は、とてもすべてここには書ききれません。Tさんは、抗ガン剤治療の疲れも感じさせないお達者ぶりでした。本人だけの集まりであるAAは、普段なかなか家族側の話を聞く機会がないだけに奥様の話は新鮮でした。

それにしても「イライラ3年、ぼちぼち5年」とは良い表現ですね。

さて次は9月にも第5週があります・・次は誰をお呼びしようか。


2011年07月28日(木) 治癒はないが回復はある。では回復とは?

アルコール依存症における治癒(cure)とは、飲酒がコントロールできるようになることを意味するのでしょう。ホワイト先生の『米国アディクション列伝』という本を読むと、アメリカではこの治癒を実現する様々な治療法が編み出されましたが、すべて歴史の中に消えていきました。数少ない事例ではうまくいっても、その手段が公表され多数に試されると、とたんにその有効性が失われてしまう・・・まるで競馬の必勝法のようなものです。結果として、今のところ依存症を治癒させる方法はない、という考え方がコンセンサスを得ています。

「唯一の解決法は、まったく飲まないことしかないと言わざるをえない」(AA, p.xxxviii)

「治癒(cure)はないが、回復(recovery)することはできる」という言葉を使い出したのは、AAの創始者の一人ドクター・ボブと一緒に活動した看護婦シスター・イグナシアだそうです。

アルコール依存症者が正常な飲酒に戻れる(つまり治癒可能)というのは、当時根強く残っていた偏見です。この偏見は現在もあります。この偏見を解かなければ、依存症者は正常な飲酒に戻ろうと再飲酒を繰り返してしまいます。「治癒は不可能だが、回復は可能」というのは、偏見を脱学習させるために彼女が考え出した表現ということです。それが世界中に広がり、現在でも使われています。

では、その「回復」とは何でしょうか?

思い出して頂きたいのは、ドクター・ボブやシスター・イグナシアが入院患者に施していたのは「12ステップ」という治療法だったことです。つまり彼らの言う「回復」とは、12ステップによって霊的な経験を経た結果、再飲酒の可能性を心配しなくて良くなった状態を指しています。

「再飲酒に対する心配をしなくて良い状態」という話をすると長くなりますから、AAのA類常任理事をされた大河原先生が書いた文章があるので、そちらを参考にしてください。
http://aajso.web.infoseek.co.jp/newsletter/n141.pdf

アル中が酒をやめていても、例えばこんなことをしたらその人が再飲酒してしまうのではないか・・飲まれてしまうと後々いろいろと面倒だから、それを避けるために周囲の人がいろいろと配慮を積み重ねる必要があるならば、それはまだ「回復」とか「酒がやめられた状態」とは言いにくいものです。

AAを始めた人たちは、その状態が霊的な経験を経ることによってもたらされると考えていました。ただし、霊的経験を得る手段が12ステップしかないとは言いませんでしたが。(しかしながら、なぜに12ステップが良いのか、という話はまた別の機会に)。

さらには、その「回復」は一度実現すれば自動的に一生保たれるものではありません。メンテナンスが必要であり、それを怠れば回復は衰えていき、しまいには再飲酒が起こりえます。

そんなふうに、AAの人たちが「回復」という言葉を使い出したときには、その意味はかなり限定されたものでした。しかし、時代を経るとその言葉の意味も拡散していきました。もはや回復とは何か、すべてを包括して定義することなどできなくなっています。AAにはAAの回復の定義がありますが、例えば一人で断酒している人にはその人なりの回復の定義があるのでしょう。

そうなると、回復とは「何でもあり」であり、自分が回復したと言えば回復したことになってしまうわけです。それはそれで構わないのかも知れません。しかし、アルコール依存症のケアに長くたずさわっている人たは、「回復とは何か」について言語化しづらい何らかのイメージ(回復像とでも言うもの)を持っており、それは人に寄らずある程度共通していると言えます。それに合致しているかどうかで、回復している・していないが判断されるのも確かなことです。

結局のところ、回復とは何かを知るためには、自分が回復してみるのが一番であるし、また自分が依存症でなくても依存症の人の回復に長く付き合えば自然と分かってくるものだと思います。


2011年07月20日(水) 三種類の酒飲み

ビッグブックのp.31〜33では、酒飲みを3種類に分類しています。

・ほどほどの酒飲み(moderate drinkers)
・大酒飲み(hard drinker)
・本物のアルコホーリク(real alcoholic)

酒を飲む人の9割は「ほどほどの酒飲み」で、酒に関して問題はありません。

「大酒飲み」は、「徐々に身体も心もむしばまれていくような、たちの悪い飲み方をする」とあります。そのせいで寿命が縮んでしまうこともあるが、重大な危機に直面すれば、まだ酒をやめるか控えることもできる人たちです。もちろん、そのために医療を受ける必要がある人もいます。中には精神病院に入院するはめになった人もいるでしょう。

最後の「本物のアルコホーリク」というのが、AAが対象としている人たちです。AAは、本物のアルコホーリクは病気であり、意志の力で酒をやめることはできず、回復するためには霊的な体験をする必要があると言っています。そして、その体験を得るための手段はいろいろあるでしょうが、その一つが12のステップです。

ここで気をつけなければならないのは、「アルコール依存症」の人が全員「本物のアルコホーリク」とは限らないということです。「アルコール依存症」というのは医療が付ける病名です。一方で、AAは「本物のアルコホーリク」という別の概念を使っています。だから、この両者の間にズレが生じることもあります。

医者は医者の基準で「アルコール依存症」という診断を下します。だから、その中には「本物のアルコホーリク」ではない、単なる「大酒飲み」も含まれていることでしょう。そういう人たちもAAにやってきます。AAは「酒をやめたいという願望」を持った人であればウェルカムであり、医者の診断すら必要ではありません。そうなると、AAの中に「大酒飲み」と「本物のアルコホーリク」が混在することになります。

「大酒飲み」の人たちは12ステップをやらなくても酒をやめていけます。彼らは「仲間の支え」などによって安定して酒をやめていくでしょう。意志の力でやめることもできるかもしれません。一方、「本物」の人たちはステップを経験しなければ、待っているのは再飲酒だけです。AAの中には真面目にミーティングに来ているのにしょっちゅう再飲酒を繰り返す人もいれば、大した努力もしていないのに安定して酒をやめ続ける人もいます。この違いにも関係しているかも知れません。

本物と大酒飲みの間には体験にズレがあるため、共有できるものが少なくなります。だから、AAをやっていても喜びが少なく、何年かすればAAから去っていってしまいます。しかもそれで飲まないでいることもできます。だが皆がAAから去るとは限らないようです。

「私はステップをちゃんとやっていなくても、私は○年間飲まずにいるのだから、私は回復しているはずだ」という人がいます。

単なる「大酒飲み」であっても医者に依存症と言われたのなら酒はやめねばならないわけで、酒をやめていることは喜ばしいことですが、残念なことにAAの目的からはずれているのです。

大酒飲みには大酒飲みの酒のやめ方があります。しかし、そのやめ方では本物のアルコホーリクは回復できません。AAに通っていても酒がやめられないという人の場合、AAにいる「大酒飲み」の言葉を真に受けて、そのやり方に染まっているケースがあります。

「大酒飲みの言葉を聞いていたらアル中は死んじまう」

と言った人がいましたが、重大な真実を含んだ言葉だと思います。スポンシーがそうした誤学習をしているばあい、まずそれを脱学習することから始めねばなりません。ビッグブックの読み合わせをしている場合には、このp.31〜33のところで、その話をするようにしています。自分が単なる「大酒飲み」なのか、それとも「本物のアルコホーリク」なのかは自分で決めなければならないことです。

AAには「本物のアルコホーリク」ではない人たちもおり、彼らは12ステップや霊的な経験なしに酒をやめ続けています。彼らも酒をやめたいという願望を持つ限りAAの仲間には違いありません。だが、あなたが「自分は本物のアルコホーリクだ」と思うのであれば、誰の言葉に耳を傾けるべきか、おのずと分かることでしょう。


2011年07月12日(火) アンビバレンス

地元に「てくてく」という精神障害者の共同作業所を運営するNPO法人があって熱心に活動されています。そこのニューズレターに Wikipedia からの抜粋が載せられており、先日の号では「アンビバレンス」が取り上げられていました。同じように Wikipedia から抜き書きしましょう。

・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9

アンビバレンスとは、ある対象に対して、相反する感情を同時に持ったり、相反する態度を同時に示すことである。 例えば、ある人に対して、愛情と憎悪を同時に持つこと(「愛憎こもごも」)。あるいは尊敬と軽蔑の感情を同時にもつこと。
(略)
心理学の教科書などでは、アンビバレンスと「スプリッティング」を対置して、「人は幼児期には往々にして両親についてスプリッティングな見方をするが、成長するにしたがってアンビバレントな見方をするようになる」といったような説明をしていることもある。ここで言う「スプリッティング」とは、「ママが大好きだから、パパは大嫌い」というような精神状態。対象ごとにひとつの感情だけが割り振られている状態。何かの拍子に母親の事を嫌いになると、今度は「ママは大嫌いだから、パパが大好き」といった精神状態に切り替わるような状態。そのような精神状態が、年齢を重ね、精神が成長するとともにアンビバレントな状態になると、しているのである。すなわち大人になると一般的に「ママには好ましいところもあるけれど、好ましくないところもある。パパにも、好ましいところがあるけれど、同時に好ましくないところもある」という見方をするようになる、という説明である。

・・・

これを読んでアル中の回復(とか成長)というのを思い描きました。

よく「アル中の白黒思考」と言いますが、アル中というのは物事を「良い」「悪い」のどちらかに決めたがります。良いものはとことん良く、ダメなものはとことんダメという価値判断なのです。

例えば同じアル中の人に対しても、「あの人は回復した素晴らしい人」であるか、またはその逆の「回復していないダメなヤツ」であるかのどちらかです。自分のやり方を理解し共感してくれる人は「素晴らしき理解者」であり味方だとみなし、異論を挟む相手は「自分に悪意を持っている人」すなわち敵だと見なします。

しかも、この白と黒はしばしば入れ替わります。昨日まで素晴らしい理解者として尊敬と理想化の対象だった人が、ちょっとした小さな出来事がきっかけに、とんでもないこき下ろしの対象になることもあります。

Wikipedia を元にすれば、回復していないアル中は「スプリッティング」なとらえ方しかできないわけです。例えば Wikipedia に対しても、百科事典とはいえ素人が編集しているものだから信用できない価値のないものだと見なします。ダメな記事もあれば良い記事もあるというアンビバレントな見方を(Wikipedia相手にさえ)できないでいるのが、回復していないアル中の姿です。

しかし回復が進んでいけば、物事の多くは白と黒の中間のグレーゾーンにあることを捉えられるようになっていきます。

完全に回復した人などはおらず、どんな長い人でもどこかしら回復していない部分を抱えています。まったく回復していなさそうな人でも回復の萌芽を備えています。すべてにおいて自分の味方になってくれる人などいないし、自分の意見に何もかも反対する人もいません。

正しいと同時に間違っている、間違っていると同時に正しい・・そうした見方ができるようになっていくのが回復でしょう。

こうした白黒思考は依存症に限った話ではないようで、例えば境界性人格障害や自閉圏の症状としても取り上げられています。人が精神を病んだとき、あるいは何かの退行が起こったときに、アンビバレントなとらえ方をする能力が失われ、スプリッティングな白黒思考に陥ってしまうのではないか、と考えています。


2011年07月11日(月) 幼稚園で学ぶこと

テンプル・グランディンの本に、人が幼い頃に(たとえば幼稚園とか保育園で)同じ世代の子供たちと接しながら身につける社会的スキルが大切なのだと書かれていました。

例を一つあげれば「限られたものを皆で分かち合う」こと。一つしかないおもちゃは、それがどんなに魅力的であっても独り占めしてはダメで、皆で順番に遊ばなくてはなりません。

もう一つ、「自分の遊びに付き合って欲しかったら、相手の遊びにも付き合わなくてはならない」というのもありました。一人で遊ぶのはつまらない。一緒に遊んでくれたらうれしい。でも、自分の遊び方を相手に押しつけてばかりでは、誰も遊んでくれなくなってしまいます。相手の遊びがつまらなく思えても、それに付き合ってこそ、相手も自分の遊びに付き合ってくれるわけです。

これらは子供の頃だけに通用することではなく、大人の人間関係にも適用されることです。どんなに自分の意見が正しいと思っていても、その意見を押しつけすぎて相手の気分を害したり、相手を怒らせてしまったら、自分の正しさは相手に認めてもらえません。(自分にとっては間違った意見にしか思えなくても)相手の意見をある程度尊重しなければ、自分の意見は通らないのです。

普通の人が幼い頃に学んだスキルをほとんど無意識に使っているのに対し、自閉圏の人はそうしたスキルを幼い頃に学び損ねてしまっているケースが多く、社会適応の障害(=生きづらさ)につながっている、というのがグランディンの本の頭のほうに書かれていたことでした。

AAの12&12に

「おとなの人間のなかに加わっても安定した感情をもち続けたいと思うのなら、生きかたの基本を「ギブ・アンド・テイク」に置くべきだ」(12&12 p.153)

とステップ12のところに書かれています。自分の正しさばかり主張していたら、ギブ・アンド・テイクにはなりません。

幼い頃に社会的スキルを身につけ損ねたのか、それともいったんは身につけたものをアディクションのせいで失ってしまったのか・・・どちらかはともかく、回復成長のためには社会の要求する暗黙のルールを身につける必要があるわけです。

なんでそんなことを考えたかというと、「一人でAAグループを立ち上げたい」という相談を受けたからです。僕はいままで3回AAグループを立ち上げていて、そのうち2回は一人でグループを始めているので、そんな人間が言うのはおこがましいのですが、でもそんな経験から学んだことは、

「一人でAAグループを始めたいと思うのは、相当に病んだ考えだ」

ということです。その病み方が自閉的なのか、アル中的なのかはわかりませんが(似たようなものかも)。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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