心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年05月23日(月) 伝統に関する議論

掲示板で伝統7(AAの経済的自立)についてのスレッドが続いています。
スレッドの流れとは別にメモ的にちょっと書いておきます。

日本のAAのミーティング会場は、たいていキリスト教の教会の一室か、公民館のような市町村の施設の部屋を借りて開かれています。

AAが教会の部屋を借りている場合には教会に使用料を支払っています。使用料を支払うことによって、教会とAAグループが別の団体であることをハッキリさせる意図があります。使用料といっても名目上のものであることが多いでしょう。おそらく教会側としては献金として受け取っているのでしょうが、真面目な信徒の方が毎月献金する額にくらべたらわずかな額にすぎません。AAの支払う使用料は、教会の財政運営にはほとんど寄与できていないはずです。

(だから教会によっては無料で貸すと言ってくれるところもあるほどですが、それを断って純粋にAA側の都合で使用料を受け取ってもらっているわけです)

教会にとっては経済的なメリットがないにもかかわらず、なぜそのような善意の取り計らいをしてくれるのか。その事情については詳しくないのですが、おそらく教会が地域のコミュニティーセンターのような役割を担うべきだという思想があるのでしょう。昔のテレビドラマ「大草原の小さな家」をみると、村で何かが起こるたびに皆で教会に集まって話し合っています。公民館や公会堂のような役割がそこにはあるのでしょう。あるカトリックの教会ではAAミーティングをやっている間に、別の部屋では日系ブラジル人の人が茶話会をやったりコンサートの練習をしていたりします。

ではAA会場に市町村の公民館のような施設を借りている場合はどうでしょうか。そういうところでは、部屋の使用料や冷暖房費が決められていて、使った団体がそれを支払うことになっています。一方で、何らかの公的な意義のある団体の場合には、団体登録をして利用料減免申請書を出すと、部屋を無料で貸してもらえるという制度を設けている市町村がたくさんあります。これは、行政がそうした団体に便宜を図ることによって、運営を助けているわけです。本来支払うべき利用料を払わずに済むわけですから、間接的にはその団体に助成金を与えているに等しいことになります。

どういった種類の団体の利用料減免をするかは市町村ごとに規則が違いますが、例えば手話サークルのような福祉目的の団体であればたいていどこの市町村でも減免対象にしているようです。で、AAも(AA以外の自助グループも)この減免制度を利用しているケースがたくさんあります。

僕は数年前にAAサービスの役割を与えられていました(いまはサービス組織から離れてAAの隅っこにいるだけです)。その頃に「AAグループがこの減免制度を利用することは、伝統7の経済的自立を妨げているのではないか」という議論がありました。AAは外部から寄付金や助成金を受け取らずに、あくまでメンバーのお金で運営する・・・はずなのに、減免制度を利用すると、間接的に行政から助成金を受け取っているのと等しいことになるのではないか、というわけです。

AAは統治機構を持たないので、もしこれが「伝統に反する」ということになっても、やめさせる命令を出せるセクションはありません。けれどもし伝統違反ならば放置しておくことはよろしくないわけで、何らかの注意喚起はしなくてはなりません。だから、減免制度利用は伝統7に反するかどうか、という議論が続きました。

例を挙げると、わが家の一番近くのAA会場は市の公民館の会議室を借りています。30人入ってもまだ余裕の広さの会議室の夜間枠(4時間)の利用料は1,400円です。民間の会議室を借りればこの数倍必要でしょうから破格の値段ですが、それでも月に四回ミーティングをすれば6千円近くになります。この公民館では必要ありませんが冷暖房費を取るところもあります。もし減免制度を利用しなければ、毎月これだけの財政負担が生じることになります。少人数のグループが献金袋で集めるお金で、この負担に耐えられるでしょうか。また、グループの負担が増えたらオフィスの運営はどうなるでしょう。

減免制度利用に賛成の人も反対の人もいましたが、どちらの側の人も相手を納得させるだけの議論はできませんでした。そこでNYのGSOにメールを書いて経験を分けてもらうことになりました。各国のオフィスはそれ自体が権威を持っているわけではありませんが、各グループは自分たちの経験をオフィスに送ることで、他のグループがそれを利用できるようにしています。だから困ったことがあればオフィスに尋ねてみて、他のグループでの成功や失敗の体験を分けてもらうことができます。とりわけAAの歴史が長いアメリカのGSOに集積された経験は尊重されます。

GSOからの返事はこんな感じでした。ちょうどそれに当てはまる経験はないが、AAでコンベンションを開くためにホテルの部屋をたくさん予約すると、何部屋ぶんか料金を割引してくれる。割引してもらうことは、ホテルから(つまりAA外部から)寄付を受け取ることにならないか、という議論があったが、ホテル側がAAに特別な便宜を図っているのではなく、他の客に対するのと同じ割引をしているのであれば、AAが寄付を受け取っていると考えるのはふさわしくないということになった。

これには皆が納得しました。つまりAAが特別待遇を受けているかどうかが問題というわけです。誰もが受け取れるものであれば、私たちが拒否する必要もない。ところで、どんな団体を減免制度の対象にするかは、市町村によって大きく違っていることも分かってきました。減免制度の利用の有無という単純な線引きは適当ではなく、もっとケースバイケースであり個別の事情を聞かなければ判断のつけようがない問題だという認識が広まりました。グループの自律性にまかせるべきだということになって話が終わりました。

たった一つのことを判断するのに、皆が知恵を絞り、時間も手間も使いました。挙げ句に結論は「これだけじゃ判断できないよ」という曖昧なものでした。でも伝統を守っていくということは、そういうことだと思います。伝統は僕らに考えることを要求します。けれど、僕らは考えることを厭います。

もし「減免制度利用は伝統7違反」というルールみたいなものができたら、これは考える必要もありません。個別の事情も考えなくてかまいません。その市町村の減免制度を調べる手間も要りません。考える必要がないので楽でいいのですが、でも伝統は僕らにルールに頼らず、考えることを要求しているように思うのです。

12の伝統に関する議論に無駄はないと思います。一つの結論を出す必要もありません。皆が一つのテーマについて考え、自分とは違う考え方をする人がいることを知る。世界は自分の想像より常に広いことを知るわけです。


2011年05月20日(金) 自分に対する埋め合わせだって?

12ステップの、ステップ8と9で「傷つけた人に直接埋め合わせ」をします。

埋め合わせとは何か? 一つには謝罪です。あと借りたもの(例えば金)は返す約束をしろ、とビッグブックにはあります。人に迷惑をかけたり、損害を与えたならば、現状復帰が望ましいのですが、現実にはなかなかそれは難しく、結局のところ謝ることしかできない場合も多いものです(これはやってみればわかる)。

12ステップにはいろいろ誤解がつきまとっていますが、埋め合わせについても多くの誤解があります。その最大のものは、埋め合わせの目的です。「相手との悪化した関係を修復するため」だとか、「社会の一員としての責任を果たすため」だと考えるのは間違いです。確かに埋め合わせをしていけば、そうした効果が得られることもあるでしょう。しかし、12ステップ全体の目的が、回復するため、つまり酒をやめるためのもので、ステップ8・9もその一環です。埋め合わせは100%自分の回復のためであって、相手のためにすることではありません。

時には埋め合わせができないこともあります。例えば相手が面会を拒否するとか。せっかく会ったのに、「お前の顔なんか見たくない、とっとと帰れ」と言われるかも知れません。埋め合わせの目的が「相手との悪化した関係を修復するため」だとしたら、これは埋め合わせの失敗になってしまいます。けれど、ステップ8・9は100%自分の回復のための行動ですから、相手がどう反応するかは成功失敗とは関係ありません。実際にやってみればわかりますが、残念な結果になったとしても、回復の効果は自分の中に現れます。
将来、状況が変わればまた違った埋め合わせができるかも知れません。

埋め合わせには重要な条件が付いています。埋め合わせをすることによって、かえって相手を傷つけたり、他の人に迷惑をかけるようなら、やってはいけないのです。これは男女関係ではよくあることで、例えばあなたの過去の不倫の相手に家まで謝罪に来られても困るでしょう。回復中の仲間に対する埋め合わせも気を使います。相手の回復の妨げにならないように気を使わなければならないのですから。また、「直接」の埋め合わせなのですから、手紙やメール、あるいはネットの掲示板で埋め合わせをすることはふさわしくありません。「直接」の機会が与えられないなら、与えられるまで待てばよいことです。

また何をどのように埋め合わせするかも大事です。ステップ4・5の棚卸しで、どのように相手に迷惑をかけたかきちんと把握する必要があります。そうしないと、まるでトンチンカンな埋め合わせになってしまいます。また埋め合わせは他者に要求できるものでもありません(12&12 p.62~63)。

12ステップの質疑応答をやると、かなりの確率で出てくる質問が「自分に対する埋め合わせは必要ないのか?」というものです。理屈はこうです。自分は他者から傷つけられた(だから憤慨している)。しかし、その相手に埋め合わせを要求できないことは分かった。であれば、傷つく立場に自分を置いたのは自分自身だから、自分を傷つけたのも自分自身である。だから、自分に対して埋め合わせをしてはいけないのか? というのです。

頭で12ステップを考えていて、実際にやっていないからこそ、こうした考え方になってしまうのです。実際やってみれば、他者に対する埋め合わせこそが最も自分の傷を癒すことに気づくはずです。ステップ4・5がちゃんとできれば、埋め合わせをしたい、という気持ちになっているでしょうから。その気持ちを実行に移せばよいだけのことです。

12ステップというものは、きちんと考えられて設計されています。自分勝手に解釈してステップをやると、自分が回復できないばかりか、まわりの人にも迷惑をかけます。

埋め合わせをされる立場のほうからすれば、「いきなりやってきて、もごもご言って帰って行ったけど、ひょっとしてあれが埋め合わせってやつかなあ」ということになるかもしれません。どんなふうに埋め合わせをするかは埋め合わせをする側の問題なので、あなたが埋め合わせを受ける側ならそのことについて気にする必要はありません。


2011年05月19日(木) 発達障害について(その15)

すでに発達障害の診断をもらった人、あるいは診断はもらっていないものの発達障害の特性を持っていると自認している人も次第に増えてきました。その背景には発達障害ブームとも呼ぶべき社会現象があります。

そうしたブームによって、発達障害の存在が社会に認知されるのは大変良いことです。しかし、社会現象には必ず陰の部分もあるものです。

最近気になっていることは、発達障害概念の混乱です。ただ、その話をするには前説があったほうがいいかもしれません。

発達障害の中でも、精神遅滞や自閉症(カナータイプ)は古くから知られており、僕の子供のころには養護学級や自閉症の施設が存在していました。これらのタイプは知的障害があるという点で共通です。

時代が下ると、教育の現場で知的障害がない発達障害が取り上げられるようになってきました。最初(おそらく日本では1980年代)は「学習障害」(=LD)です。これは読む・書く・話す・聞くのどれかに障害を持っているものです。ただし知的障害を持たないというところがポイントで、アルバート・アインシュタインも識字障害(これは読むことの障害)を抱えていたと言われています。

1990年代になると、「注意欠陥多動症」(=ADHD)が注目されました。LDとADHDは医学的には違った障害なのですが、結果として学習の妨げになる点は共通していたので、教育の分野では「ADHDはLDのひとつ」と認識されてしまいました。それは現在も続いています。LDとADHDを併発する人が少なくなかったことも、この混乱に拍車をかけました。

21世紀になると「アスペルガー症候群」や「高機能自閉症」が注目されるようになりました。これは知的障害のない自閉症です。しかしアスペルガーの印象は決して良かったとは言えません。アスペルガーの少年が凶悪犯罪を起こしたことが大きなニュースになったことや、自閉症という言葉が知的障害を連想させるのもその原因なのかもしれません。(以下この領域を「自閉症スペクトラム障害(=ASD)」と呼びます)。

LDだけが認知されていた時代には、ADHDの人もLDだとされていたわけです。また、ADHDだけが認知されたいた時代には、アスペルガーなのにADHDだとされていた人もいました。そして、そうした混乱は今も続いています。

最も顕著なのは、自閉の問題を抱えている(ASD)なのに、自身をADHDだと認識している人です。


2011年05月17日(火) 顔写真

ちょっと前になりますが「BOX-916」の表紙に顔写真が載ってしまい、物議を醸したことがあります。これはAAになじみのない人には説明が必要でしょう。

BOX-916というのは日本AAの月刊の雑誌で、発行部数は多分3,000部ぐらい。一部300円でほとんどが有料購読です(AAオフィスの収入の大きな柱になっています)。一方、国際的な雑誌としては AA Grapevine があり、これはNYのAAグレープバイン社が発行し、部数は10万部ちょっとぐらい(中身は英語)です。中身は meeting in print(活字によるAAミーティング)と呼ばれメンバーの投稿による「経験の分かち合い」が行われています。

AAには12の伝統があり、その11番目には「AAメンバーとして名前や写真を、電波、映像、活字にのせるべきではない」ということになっています。これは外部の新聞やテレビについてのことですが、BOX-916でもGrapevineでも、顔写真やフルネームが掲載されることはありません。(ただし、会議の報告書などAAの内部資料には実名が掲載されていることは良くあり、あくまで実名や写真をAA外部に出してはいけないという話)。

実はBOX-916の表紙に出た顔写真はAAメンバーのものではありませんでした(写真素材集から取ったものらしい)。だから問題ないじゃないか、という意見もあったのです。けれど、BOX-916もAA Grapevineも、人の顔写真を載せることを注意深く避けてきました。その顔写真が、AAメンバーのものであろうとなかろうと。

なぜかというと、AA外部の人が見た場合、写っている人がAAメンバーかどうかは区別がつきませんから、AAは顔写真を出しても構わないところだと誤解されてしまっては困るからです。そんなふうに、注意深く配慮を積み重ねて「無名性」というものは守られています。

「心の家路」のリンク集でも、AA(あるいは他の12ステップグループ)のメンバーがやっているブログなどで、顔写真の掲載があるところはリンクしないように気を使っています。その顔写真がご本人(メンバー)のものであれ、その他の人のものであれ(例えば子供の写真とかでも)。

(12ステップグループではない、外部の施設や断酒会の人などはそれは関係ないわけです)。

もちろんあまり厳格にやるとリンクする先がなくなってしまうので、細かいことに目くじら立てないようにしています。12の伝統とは少しの逸脱も許されないルールではなく、配慮の積み重ねによって守られていくべきものだからです。

大切なことは、「結果として12の伝統というルール?が守られること」ではなく「伝統を尊重しようという個人個人の心のベクトル」なのだと思っています。

(注:メンバーの死後も名前と写真を伏せるかどうかは、本人の遺志と遺族の意向によります。ビル・Wが死んだときに、世界中のメディアに向けて初めてそのフルネームと顔写真が発信されました。なのでビルの顔写真やフルネームは結構気楽に使われています。けれど控えるべきだという意見もあります。)


2011年05月16日(月) 相談会をやって

この週末には、アディクションの相談会というのをやりました。
いろんなグループから人が集まって、アディクション関係で悩める人の相談に応じようという企画です。集まったのは、アルコールでは断酒会やAA、ギャンブルだとGAとギャマノン、薬物ではNA、ACではACAとACODA、あと摂食障害のグループの方。ひきこもりサポートのNPO法人の方を除けば、職業的専門家ではないアマチュアばかりです。

そんな素人が相談を受けても的確なアドバイスができるのか疑問を持たれるかもしれません。確かに専門的なトレーニングを受けていなければ、とんちんかんなこともあるかもしれません。しかし、当事者には一つ大きなアドバンテージがあります。それは同じ問題を乗り越えた経験です。

悩んでいる人というのは孤立している人でもあります(社会的に孤立しているという意味ではない)。悩みを人に言うことができずにいます。そりゃそうだ。「酒がやめられない」などと同僚や友人にこぼしてみたところで、「やめたければやめればいい」と言われるだけですから。だから、解決にたどり着くこともなく、厭世的な虚無感の中にあります。本人には「どうせ私はやめられない」という思いがあり、家族には「どうせこの人には無理だ」という思いがあります。

しかし問題を乗り越えた人と接することで、「やればできるかも」という思いを持つことができます。この効力感が何よりも大事であり、当事者はそれを提供できます。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、本人よりも家族の相談が圧倒的に多いものです。家族の苦悩の深さに圧倒されることもあります。自助(相互援助)グループというのは、問題を認識し、それを解決する意欲を(多かれ少なかれ)持っている人しか来ないところです。だから、AAの中だけにいると、アディクションの問題を甘く見るようになってしまい、過剰な自信が生まれます。

まだ解決の兆しの見えない家族の悩みに接したとき、自分に正直であれば、力不足を認めないわけにはいきません。そうやって相談を受ける側も、自分の問題を把握することができることがメリットです。中には激しく動揺してしまった人がいましたが、それは自分の正直であるからこそです。今回の経験を役に立てて欲しいと思います。

回復につながる前には「介入」が必要です。AAに来た後も、仲間による支えが必要であり、回復のためにはステップも必要です。さらにその人が社会復帰できないのなら、ソーシャルワークが求められているのでしょう。さらにはアディクションには予防や啓発という分野もあります。AAはアルコール問題全体のほんの一部を担っているに過ぎません(その限定こそが良いわけですが)。

回復というのは、それを必要とする人のためにあるわけではなく、求める人のためにあります。

回復を求める人が希望するならば、少々無理してもできうる限り時間を割いて接したいと思います。非才な僕でも経験を提供することだけはできます。足りないスキルを身につけようとも思います。その時、僕が相手を好きか嫌いかは関係がありません(僕の回復の相手をしてくれた人たちは、僕を好きだったとは限らないのですから)。無理な押しつけなどその時に生まれようもありません。

しかしその人が回復を求めていないのであれば、何を提供しようが押しつけだと思われるだけです。その時には上の理屈は脇に置いてかまわないでしょう。

とまれ、何でもやってみることは良いことでした。「やればできるじゃん」というのと「できたけど、これじゃまだ不十分」という二つの気分が同時にあるのは当たり前か。「私は回復した」というのと「でもまだまだなんだよね」という気分が同居するように。


2011年05月13日(金) 裏側

「心の家路」で一番アクセス数が多いのが掲示板で、次がブログ(ヤマアラシのジレンマ)です。
http://www.ieji.org/dilemma/
ケータイ用は http://www.ieji.org/mt/mt4i.cgi

長らく Movable Type 4 を使っていたのですが、ようやくMT5にバージョンアップしました。

僕の契約だと MySQL のデータベースは一つしか作れません。MySQL は 4 を使っていたのですが、MT5 は MySQL の 5 を要求するので、いったんデータベースをバックアップし、削除して MySQL 5.1 で新規作成して、インポートするという手順を踏む必要があります。

データベースの文字コードはEUCを使っていたのですが、ついでにUTF-8にすることにしました。MTが勝手にユニコードのデータを突っ込んでくれるので整合性を持たせておきたかったのです。・・がこれがつまずきの始まりでした。

新しいデータベースにインポートし、MT5で表示しようとすると、ブログエントリの中身が全部文字化けしちゃいました。・・・インポートの時に文字コードを自動変換してくれるんじゃないのか? バックアップデータの中身を覗いてみると、EUCのコードとUTF-8のコードが混在しているし。トホホ。

そこからの道のりの長かったこと。ともかくMT5は無事動き、ケータイでMTのブログを見るための mt4i も無事再インストールできました。

ついでにMTにメールで投稿できるプラグインを導入することにしました。

僕自身はたいていパソコンの使える場所にいるからいいのですが、「家路」以外にも面倒を任されているサイトがいくつかあり、そちらではケータイからのブログ投稿は歓迎されるでしょうから、個人用のサイトでテストしてみることにしました。

選んだのは MailPack というモジュール。
http://www.skyarc.co.jp/engineerblog/entry/4022.html

手動で run-periodic-tasks を走らせれば動くのですが、cronの動作がどうもヘンなのです。テストでときどき変な投稿があるかもしれませんが、気にされませんように。

「家路」をMTとmt4iを使って再構成しようか・・というアイデアもあります。「家路」もあと何ヶ月かで始まって10年になります。その10年の自分の進歩を反映させたサイトにさせていきたい、という気持ちは常にあります。でも環境整備するだけでも難儀している次第です。


2011年05月11日(水) ソブラエティを比較する

「ソブラエティは人と比べるものじゃない」と言う人がいます。比べるって、長さかしら、質かしら。長く酒をやめているから偉いってわけじゃない、というヒガミを言う人がいますが一理あります。相手がスリップ(再飲酒)しない限り追い抜けないものね。

比べるなと言われても、人は無意識のうちに比べてしまうものです。

例えばこんなシチュエーションを考えてみます。

「お宅の息子さんは良い高校に合格してうらやましいわ。いったいどこの塾に通わせたの?」という問いかけに対して、駅前のビルの2階にある塾、と返事があれば、じゃあウチの息子もその塾に通わせてみようかしら・・と考えるのが人間というものです。

「その服かっこいいね、どこで買ったの?」とか、「いつもかっこいいヘアスタイルだけど、いったいどこの美容室で切ってるの?」とか。

人がなにか魅力的なものを持っていれば、自分もそれを手に入れたい、と思うのが人間です。その背景には嫉妬心があります。嫉妬心は自己憐憫からやってきます。「あの人は良いものを手に入れて幸せになっている。でも自分は手に入れてないから不幸だ」というやつです。自己憐憫は気持ちのいい感情ではありませんが、正しく使えば役に立ちます。

つまり自己憐憫を「よし、自分もそれを手に入れよう」という方向に向かって使えば、自己憐憫を正しく使ったことになります。

昨年11月にIさんの結婚披露パーティに呼ばれました。多くの人がIさん夫妻に「どこで知り合ったんですか?」と質問していました。そう聞いている人たちはパートナーを欲しがっている人たちであり、自己憐憫を正しく使おうとしている人たちです。

ソブラエティについても同じです。「あなたのお酒のやめ方を見ていてうらやましくなります。どうやったら、そんな風になれるのですか?」と尋ねたくなるような誰かを探して質問してみればいいのです。もしその人が回復したAAメンバーならば「あなたにやる気があるのなら、教えてあげますよ」と言ってくれるに違いありません。あとは「スポンサーになって下さい」と頼めばいいだけです。

意識的にであれ、無意識にであれ、自分と相手のソブラエティの質は比較してしまうものです。比較するからこそ、自分より優れた相手を見いだし、自分が進歩するきっかけをもらえるのです。比較を回避していたら回復できません。

「あの人は良いソブラエティを手に入れて幸せになっている。でも自分は手に入れてない」。そう認めるのは楽しいことではありません。だから、相手の優位性を否定しようと躍起になる人もいます。人をこき下ろすのに熱心な人たちです。それは自己憐憫の悪い使い方をしている人たちでもあります。

「どんな塾にやってもウチの息子は勉強しっこない。どんな服を着て、どんなヘアスタイルにしてもオレは格好良くなれっこない。どうせオレは何をやってもダメなんだ」

まるで自分が不幸になるのは、他の人が努力したせいだ、とでも言わんばかりです。なんか、レインボーマンに出てきた死ね死ね団の歌を思い出しますね。エンディングに流れてたヤツ。

「暗い 暗い 暗い世界に 人を 人を 人を恨んで生きている 俺たちゃ悪魔だ死神だ〜♪」

歌詞違ったっけ?

ソブラエティ三十何年のBさんは、Gさん(おそらくソーバー数年)に頼んでビッグブックのステップを伝えてもらったのだそうです。なんて言って頼んだんでしょうかね。「あなたの持っているものを俺にくれ」とか? まあともかく、そう言えるからこそBさんは尊敬される人なのでしょう。「長く酒をやめているから偉いってわけじゃない」っていうセリフは、こういう人に言わせてこそ意味を持ちます。うかつに言えない言葉です。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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