心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年01月18日(火) 発達障害は増えたのか?

近年なぜ発達障害の問題が目立つようになってきたのか。
発達障害そのものが増えているという説もあります。その原因には、環境汚染や食品添加物、タバコ、女性の社会進出による乳幼児期の母子のふれあいの減少などなど、様々な理由が挙げられていますが、本当のところは確かめようがないのでしょう。

僕としては、社会構造の変化によって、障害の存在が目立つようになってきたという考え方を支持します。

僕の親の世代、田舎では農業や林業に従事する人が多数でした。自然相手では瞬時の判断を求められることはあまりなく、季節のゆっくりとした変化についていけば十分です。また一年の中で変化を持ちながらも、毎年ひたすら同じことの繰り返しでもあります。ということは、発達障害を抱えた人にも馴染みやすい仕事ということです。また、人付き合いが苦手でもやっていける仕事でもあります。

こうした農林水産業の包容力?によって、発達障害の要素を抱えた人でも、単に「気むずかしい人」とか「変わった人」と言われるだけで、地域共同体の中に普通に存在できたのでしょう。しかし、20世紀後半は、一次産業が衰退し、従事者が減っていった時代でした。

変わって隆盛したのが二次産業つまり工業です。日本は様々な工業製品を作って世界に売りまくり、GDPを一時期世界二位までに押し上げました。自動化が進む前の製造現場は、ひたすら同じ作業を繰り返す作業工の人たちの存在で成り立っていました。日本の製品の質の高さは、単純な仕事を真面目にこなす人たちの仕事で裏付けられていたのです。こうした仕事も、発達障害を抱えた人にもそれなりに馴染みやすく、臨機応変な対応や人付き合いが苦手でもかまわない分野でした。

1985年のプラザ合意によって急激に円高が進みました(1ドル260円→120円)。これによって日本の経済はさらに発展したものの、相対的に日本の工業製品が高価なものとなり、国際競争力を失いました。製造コストを下げるために人件費の抑制が目指され、ロボットなどによる作業工程の自動化が進みました。自動化されなかった仕事は工賃が安価な海外の工場に流失していきました。こうして単純作業工の人たちは仕事を失うか、派遣労働者として経済的に不安定な立場を強いられることになったのです。

この60年ほどの間に、第三次産業(サービス業)の従事者は3割強→7割弱と倍以上に増えました。第一次産業(農林水産業)、第二次産業(鉱工業)で仕事を失った人たちが、第三次産業に流れ込んで行かざるを得なかった結果です。

三次産業は人に接することが多い職業が多く、相手の気持ちを機敏に察したり、良い雰囲気を作ったり、臨機応変な対応を求められる機会が多くなっています。ファーストフード店やコンビニのアルバイトにさえ、極めて高い作業基準が求められているわりには、時給は最低賃金プラスα程度なのです。

さらにバブル景気崩壊以降、企業が生き残りのために効率化を求めた結果、職場からゆとりが失われていきました。(30年前、40年前であれば、職場で私語を楽しむ余裕が十分にあり、それが職場結婚を後押ししていた面もあったわけです)。

いまの日本である程度の生活水準を守ろうと思えば、いまの仕事を失わないために会社の要求する水準を満たそうと苦闘して「うつ」になってしまったり、いったん仕事を失ってしまえば再就職が困難な立場に追い込まれてしまいます。もちろん、定型発達の人にもそうしたことは起こりうるわけですが、発達障害という隠れたハンディキャップを抱えた人たちは、なおいっそうなのです。

以前の日本には、そうした人たちが無事に暮らしていける「ゆとり」がありました。そのゆとりが失われた結果、社会からはじき出された(あるいははじき出されそうになっている)人たちが増え、その人たちの抱える問題が何かと考えていった結果、発達障害が顕在化してきたのだと思います。

思い出して頂きたいのは、発達障害とは障害そのものを示す概念ではなく、それが社会適応の妨げとなったときに初めて「障害」と呼べるものです。元来この人たちは社会的弱者ではありませんでした。それが、社会構造の変化によって立場を変えられてしまった人たちです。

だから、発達障害というのは個人の問題ではなく、社会の問題です。障害が障害として目立たないようなゆとりある社会に変えていくのか、それともあくまで効率化を目指して行くにしても、そこからはみ出してしまった人たちを支援するコストを社会全体で負担していくように変えていかなければならないでしょう。

アディクションの世界も社会構造の変化と無縁ではいられません。依存症に発達障害を抱えた人が多い現状には、そうした背景があるものと思われます。


2011年01月17日(月) 第三ステップの祈りについての質問の答え

メールで質問を頂きました。通常はメールでの質問にはメールでお答えしているのですが、返信を出した後も、何度か同じ内容のメールを頂いているところを見ると、こちらからのメールが届いていないのかもしれません。
なので、雑記で返事を書かせて頂くことにします。
そうすると、頂いたメールの一部を公開せざるを得ません。
本来、私信の中身を相手の同意なく公開してはいけない、というのが社会常識でしょうが、メールが届かないという事情だけにお許し頂きたい。

質問の中身は、ビッグブックの91ページに「私の困難をどうか取り除いてください」と書かれているが、「私の願いを叶えてください」と祈ってはいけないとも教えられてきた。これはどういうことか、というものです。

91ページの第三ステップの祈りには、確かに「私の困難をどうか取り除いてください」という言葉があります。これは自分の利益をお願いしていることにならないか、というわけですね。

そこだけ取り出すと自分の利益を願っているように読めてしまいます。しかし元の英語の文章は、
「私の困難をどうか取り除いてください。その結果として、私の勝利が、あなたの力、あなたの愛、あなたにもらった生き方の証しとなりますように」
がひとつの文になっています。

私の困難が取り除かれるのは、困難に対する「私の勝利」です。
神さまの力、神さまの愛、神さまにもらった生き方があるからこそ、「私の勝利」があるわけで、つまりその勝利は神さまの力の証明となります。

祈る目的が、自分の勝利ではなく、神さまの愛が証明されるように・・・。
だから、これは自分のために祈っているわけではないのだと思います。


2011年01月16日(日) ステップのやり方

> ビッグブックのステップと12&12のステップは どこが違うんでしょうか?

僕は12ステップはビッグブックに書かれたやり方に従うのが良いと考えています。同じように考えている人は少しずつ増えています。ただし、間違えないでいただきたいのは、その人たちが全員まったく同じやり方をしているわけではありません。ビッグブックに基盤を置きながらも、その解釈にはある程度バリエーションがあります。

例えば僕はジョー・マキューという人の解釈を重視しているのですが、別の考え方をしている人もいます。そうしたバリエーションを一括して「ビッグブックのやり方」とか「ビッグブックのステップ」と呼ぶことも可能です。

一方、「12&12のステップ」については、それが何を指し示すのが、僕にはハッキリとわかっていません。人に聞いたところでは、「12&12のステップ」とはビッグブックのやり方が日本に登場する前に、日本国内のAAで大勢を占めていたステップのやり方を示すようです。現在でもそのやり方でステップをやっている人は沢山いると思います。

そのやり方は「ステップ1・2・3の繰り返し」という言葉だとか、今までの人生を振り返ってノートなどにそれを書き記す棚卸しのやり方に特徴づけられると思います。ステップ4は「表を作る」となっていますが、このやり方では表を作らず、自由記述式なのも特徴でしょう。

ステップ5では、スポンシーは書いたことを見ながら、過去を振り返る話をします。スポンサーは主に聞き役です。ただ聞くだけというスポンサーから、積極的にいろいろアドバイスをする人までいろいろです。(これはスポンサーとスポンシーが一緒に表の中身を検討するビッグブックのやり方と対照的です)。

ただし、こうしたやり方を「12&12のステップ」と呼ぶのは不適切だと思います。なぜなら、12&12つまり『12のステップと12の伝統』に、具体的にこのやり方をしなさいと書かれているわけではないからです。それを「12&12のステップ」と呼ぶのは誤解の元でしょう。

だから僕はとりあえずそれを「古くからのやり方」などと呼んでいます。ではこのやり方はどこから来たのか? それについては、アメリカ帰りのAAメンバーに、あちらでも人生をストーリー形式で振り返る棚卸しのやり方が存在すると聞きました。

AAはアメリカから日本に伝搬したものですから、AAと一緒にストーリー形式の棚卸しのやり方も伝わって、それが日本で広がったのだと考えられます。

こんなふうに、日本のAAの12ステップのやり方には、AAと一緒に伝わってきて日本で独自の発展を遂げたやり方と、遅れて日本に伝わったビッグブックのやり方、大きく分けてこの2種類があると考えて良いでしょう。

どちらのやり方であれ、すでに回復を得た人にとっては自分のやったやり方をもっとも好ましく思うものなのでしょう。


2011年01月15日(土) こだわりんぐ

月刊「実践障害児教育」の1月号の特集が発達障害による不登校の特集で、その先頭の齋藤万比古の記事から抜粋です。

>>>>
「PDDと不登校」
 PDDの子どもにとって、興味の中心は自己のこだわりの対象にあるという共通点があり、むしろ他者によりそれを妨害されることのほうが、孤立よりもつらいという面がある。思春期に至って他者の独白の心を認知できるようになり、仲間を求めるようになっても、一方でPDDの子どもは前述のような心性を色濃く維持している。
 加えて、思春期の仲間関係の盛り上がりは、PDDの子どもに対するからかいや攻撃をエスカレートさせる。そしてその仲間の攻撃に刺激されて幼い時代からの被虐待的体験やいじめられ体験の記憶が生々しくフラッシュバックし、恐れ、怒り、困惑といった感情が渦巻く混乱状態をPDDの子どもは生じやすいという事情がある。
 これらはPDDの子どもから学校にとどまる動機を奪い、他者に妨害されないひきこもり的な生活へと傾斜させる。
 以上の二点から、PDDはひきこもり状態に親和性が高く、そこから抜け出すことに動機をもちにくい傾向があると言えよう。
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PDDとは広汎性発達障害のことですが、この文章ではアスペルガーとか自閉症スペクトラムと読み替えても大丈夫です。また、これは子供についての文章ですが、「学校」を職場とかAAやGAと読み替えれば、そのまま大人に適用できます。

このこだわり(固着)の強さが障害の重さでもあります。どんなこだわりを持つかは人それぞれで、例えばネットの掲示板に書くことにこだわりがあったり、ブログのエントリの結びの言葉がいつも完全同一であったり・・・。

AAのバースディ・ミーティングだと、歌を唄ったりろうそくを吹き消したりするので、いつもと違ったミーティングの進行になるのですが、この「いつもと違う」ことに対して憤りを持つ人の姿を見ると、「ああ、なるほど」と思うわけです。(これはミーティングのやり方に対するこだわり)。

もちろん誰にだって多少のこだわりはあるわけで、こだわりそのものが悪というわけではありません。そのこだわりが本人の生き辛さとか、社会適応の障害になっているかどうか、という視点から見ないとならないのでしょう。


2011年01月14日(金) 働くということ

廣中直行著『やめたくてもやめられない脳』を再読しています。

なんのために読んでいるかというと、アルコールや薬物という「物質依存」と、ギャンブルや買い物のような「プロセス依存」について、脳の中で起きていることの違いを知りたいと思ったからです。

それについては、いつか書くとして、この本の中にこんな文章がありました。

<精神医学の考え方が変わってくるのと並行して精神的な成熟に対する社会の考えも変わった。私が学生生活を送っていた一九七〇年代後半まではまだ古い考えが残っていて、精神的な成熟とは、基本的には動物学的な概念だった。つまり成熟した人には食糧を手に入れる能力と繁殖能力がなければならなかった。食糧を手に入れる能力とはすなわち「世の中に出て」働く能力であり、もっと言えば官庁なり会社なりといった組織に属することのできる能力であった。繁殖能力とは「まっとうな」結婚をし、その生活を維持する能力だった>

その後、時代は変わり、人の価値観は多様化しました。成熟した人(=精神的に健全な人)であるために、組織に属して働いたり、家族を持つことが必ずしも求められなくなりました。人それぞれであっていいというわけです。

しかし、稼得能力+家族という価値観が圧倒的だっただけに、それにかわる強烈な価値観を一人ひとりが持つことは意外と難しいことです。

発達障害に関する文章を読むと、(特定子会社であれなんであれ)働けるようになったことが本人の自己評価に大きく寄与している様子をうかがうことができます。

断酒会の新年会に行った話はヨソで書きました。いろんな人といろんな話をしたのですが、気がついたことがありました。県内の断酒会は高齢の人が多いのです。AAが30〜50代が主力に対して、断酒会は60〜70代の人が多いのです。(都市部に行けば若い断酒会員も珍しくないのだそうですけど)。

この断酒会の人たちはすでに勤め人はリタイアして、仕事は田んぼだけという人も多いのですが、とまれ酒を飲みながらでも働き、やめた後はもちろん働いてきた人たちです。長く断酒会をやっている人たちも多いのですが、その人たちが会に来た頃は、酒さえやめれば、仕事も家族も失わず、失っても再獲得できる人が多かったのだと思います。つまり、それだけの能力を備えた人が多かったわけです。

だからこそ、仕事や家族を急いで求めずに、まず半年、1年、2年と断酒に専念しろというアドバイスが有効だったのでしょう。イネイブリングを止め、底つきを待つという戦略も有効だったのでしょう。

これからもそうした戦略が有効な層は存在し続けるでしょうが、違うニーズを持った人たちも増えている・・。

新年会でそんな話をしていました。


2011年01月11日(火) ステップを進める速度

スポンシーのステップ5「恐れのリスト」の分かち合いが終わりました。
まず簡単にストーリー形式の棚卸しをやって、さらに表形式で「恨みのリスト」→「恐れのリスト」と続けてきました。ここまで長くかかりました。今後「性のリスト」があって、お終いに「傷つけた人のリスト」が来るのですが、ここまで来ればあとは順調に流れるということは経験的に分かっています。

彼が棚卸しを書き始めたのは去年の5月だったそうなので、もう半年以上かかっています。この間、スポンサーとスポンシーの一対一でやるセッションは10回を越えているはずです(数えてないけど)。ビッグブックのステップのやり方をしている人だと、12ステップ全体にかける時間は数週間から数ヶ月程度でしょうか。だから、棚卸しだけで半年以上というのはずいぶん長くかかったことになります。

なぜそんなに長くかかったのか。それはステップを戻っていたからです。
彼が棚卸し表を書き上げて、さあステップ5だと意気込んで来たときに、僕は
「棚卸しを聞く前に、いったんいままでの復習をしよう。まずステップ1を僕に言葉で説明してくれ」と言ったのです。

彼は満足な説明ができませんでした。一生懸命棚卸し表を書いているうちに、ステップ1がどこかへいっていました。「ステップ1が抜ける」というやつです。それはステップ2、3についても同様でした。そこで「医師の意見」まで戻って、(最初の時ほど丹念ではないものの)もう一度ステップ1とは何かという分かち合いをしました。ステップ2、3も同様です。その時には赤本も使いました。

「私たちはいま、最後には自由な身となってくぐり抜ける凱旋門を築いている」(p.109)

ビッグブックでは12ステップを凱旋門を作る作業に例えています。ステップ1はその基礎、ステップ2は礎石(cornerstone)、ステップ3はかなめ石(keystone)です。どれか手抜きでも建物は倒れてしまいます。だから「基礎に流すセメントは足りなくはないか。砂を抜いたモルタルを作ろうとはしなかったか」というチェックをする勧めがあります。

スポンサーも、スポンシーも、ステップを自分で思い描いたスケジュール通りに進めたいという願望を持っています。しかし工期通りにできあがっても、欠陥建造物では回復は望めません。正しいタイミングというのは、スケジュール通りという意味とは違います。

言葉での説明を求めたのは、彼も将来はスポンサーを務めるわけで、その時に言葉で説明できなければ困るし、ステップミーティングで話ができなければ困るだろうからです。

そんなわけで、これからスポンサーに棚卸しを聞いてもらおうと意気込んできたスポンシーにとっては、すっかり出鼻をくじかれた格好になったのですが、それでやる気を失ってしまわないのが彼の一番良いところです。次からはきっちりと体勢を立て直してきました。

彼はぼくより若いので、将来的には僕よりたくさんの人を手助けし、結果を残す可能性は十分あります。ぜひそうなって欲しいものです。

掲示板とブログで案内をしましたが、今週末にビッグブックのステップのセミナーが板橋であります。ビッグブックのステップと言っても一様ではなくバリエーションがありますが、彼らについては紹介文にあるとおり「絆の強いスポンサーシップ」と「ビッグブックにより忠実」が特徴です。こんな雑記を読んでいるよりずっとたくさんのものが得られるでしょう。12ステップに興味のある方は、ぜひお出かけになってください。

http://www.ieji.org/dilemma/2010/11/116-aagg.html


2011年01月05日(水) fixed mindset と growth mindset

受験勉強を例に取ります。
頭の良い人は人は良い高校・大学に合格し、そうでない人はそれなりの所に合格する。
では、ある人が一生懸命勉強して、目標より1ランク、2ランク上の高校に合格したとします。その場合、その人は勉強の努力によって賢くなったのでしょうか?

「知能は人の土台をなすもので変えることはできない。新しいものごとを覚えることはできるが、賢さを変えることはできない」

そう考える人たちがいます。アメリカの心理学者キャロル・ドウェックは、こういう人たちを固定思考(fixed mindset)と呼びました。こう考える人たちは、失敗を避け、知的に見えるように振る舞うことで、スマートな自分を誇示しようとします。

この人たちは自分に対する否定的評価を恐れます。例えば失敗を隠そうとします。マイナスの評価は大きく自尊感情を傷つけてしまい、その評価を覆すのは容易ではないからです。また、自分より劣った者と比較して優位感を保ちます。人の間違いを指摘することを、自分の優秀の証と捉えるからです。

一方、努力によって賢さを伸ばせる(知能は変えられる)と考える人たちを成長思考(growth mindset)と呼びます。努力によって成長し続けられると考える人にとって、人生とは成長そのものです。失敗によって自分の価値が決まることはないので、失敗を恐れないし、それほど恥じることもありません。

参考リンク:自分の能力を固定的に考える人と成長し続けると考える人
http://d.hatena.ne.jp/himazublog/20060318/1142697735

僕はネットで雑記を書いているわけですが、当然完ぺきな人間ではないので雑記や掲示板では間違ったことも書いてしまいます。親切にその間違いを指摘してくれる人もいます。それは大変ありがたいことです。
中には間違いを指摘したのに、僕が思ったほど凹まないのを意外に思う人もいるようです。おそらくその人は fixed mindset の人で、皆の前で間違いを指摘されて落ち込んだ経験があり、僕が同じ反応を示さないことが気に入らないのでしょう。

その種の失敗を恐れていていて雑記は書けません。間違いを指摘されたから僕の価値が減じてしまうわけでもありません。逆に僕がより賢くしてもらえたのですから。つまり僕は growth mindset の人だと言いたいわけです。(だからといって、掲示板で自閉圏の固着に付き合いたいとは思いませんけど)。

では、この二つのタイプのどちらが12ステップに向いているでしょうか?
それは growth mindset の人ではないかと思います。fixed mindset の人は、あえて自分の欠点(つまり失敗)を探す表形式の棚卸しには心理的抵抗を示すからです。

ドウェック先生の話に戻します。この二つの違いは、人格の根本を成すものですが、あくまで考え方に過ぎないので変えることができます。スポンシーが fixed mindset を持っているようなら、growth mindset に変わるように導くことが必要なのでしょう。そのためのヒントは上のリンク、ドウェック先生の話の中にあります。

参考キーワード:実体理論、拡大理論

fixed mindset の人は自分より劣った者との比較を好みます。それは逆に自分より優れた人との比較を恐れ、回避することでもあります。「スポンサーとスポンシーは平等だ」と強調する人は、この fixed mindset のタイプなのでしょう。

そりゃもちろん、スポンサーだろうがスポンシーだろうが、人として平等なのは当然です。でも、それを言ったら教師と生徒も、医者と患者も、人としては平等です。でも、生徒は先生の、患者は医者に従わなければ勉強も治療も成りません。

「スポンシーってのはスポンサーのドレイだよ。反抗は許さん」と言い切っちゃう人もいます。こういう人が嫌われるかというと逆で、スポンサーとして大人気だったりします。人として平等だけれど、スポンシーはスポンサーの指示に従ってくれないとスポンサーシップにならないのであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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