心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年12月08日(水) 底つきではなく「底入れ」のために

福島のカオルさんが
イネーブリング理論の功罪、底つき
http://powerless.cocolog-nifty.com/alcoholic/2010/12/post-fce0.html
というエントリを書かれているので、ぜひ読んでください。

これに関連して「底つき」について書いてみます。
「底つき」という言葉はビッグブックにはなく、12&12のステップ1にあります。

「AAのメンバーは、なぜ底をつく必要があるのか」(12&12 p.5)

底つきは元の文章では hit bottom です。「どん底のケース」は low-bottom 。どん底とはたくさんのものを失って「もっともひどい状態」にたどり着いてしまった人たちのことです。他のAAに関する本には、high-bottom という言葉も出てきます。底の浅い人たちという意味です。

「底つき」というと、まるで沼にずぶずぶ沈むものが最後に底に到着するように、アルコホーリクが社会の底辺に沈むような印象を与える言葉です。「資金が底を突く」と言えば、財布の中身がすっからかんになることです。

しかし辞書を引いてみると「底つき」には別の意味もあります。株の取引の用語で、底値になるという意味です。株価が底値になったら、あとは上昇するばかりです。hit bottom は景気を表現する言葉にも使われます。The economy has hit bottom は「景気が底入れした」という意味です。hit bottomは「底を打つ」「底入れする」と訳されます。(精神科医が「AAの用語には株式用語が多い」と指摘されたことがありますが、それはビル・Wの元の職業を考えれば当たり前かも知れません)。以前見たヘイゼルデンの資料には hit bottom を示すイラストにまさに株のチャートの底値の図が描いてありました。

「回復には底つきが必要だ」と言われますが、それはつまり「悪くなる一方の状況が止まり、反転することが必要だ」と言っているにすぎないことになります。

底つきとはつまり、「悪化するだけの状況が反転して回復に向かうこと」です。

底には低い底(low-bottom)もありますが、高い底(high-bottom)もあります。何も社会の底辺に落ちる必要はありません。「まだ元気で、家族もいて、仕事も失わず、そのうえガレージには車が二台もある」(12&12 p.32)という恵まれた状況でも、余裕で底を突くことはできるのです。

では底つきには何が必要なのでしょうか?

カオルさんのブログにもありますが、放置することは良くないことです。適切な関わりが必要です。また景気の話を持ち出しますが、政府が無策なら景気はどこまでも悪化していきます。有能な政府が良い経済政策を実施すれば、景気の底は浅くてすみます。悪い政策を実施すればかえって悪化します。依存症も同じことです。

しかし依存症者に関わろうとしても、本人に否認がありやる気も不足している状況で、まわりがどう関わればいいのでしょうか? それに対して明確な解答を用意したのが、ジョー・マキューのステップであり、同じく彼が施設プログラムとして開発したリカバリー・ダイナミクス(RD)です。

彼は回復が始まるため(つまり底を突くため)には、適切な情報が提供される必要があると説きます。ビッグブックのステップのやり方をやっている人は、ステップ1と2が「情報を得るステップ」だということを思い出して下さい。この二つのステップは、スポンサーからスポンシーへと情報が手渡されるステップです。

ステップ1では、何に対して、なぜ無力なのか。いかに状況は絶望的か、ということが伝えられます。依存症者に対して「いかに状況が絶望的か」ということは医者ですら伝えたがりません。「医師は、アルコホーリクの患者に真実のすべてを告げることを嫌うものだ。良いことは伝えられないのだから(p.134)」。しかし、解決策を示せるのならば別です。絶望はどんなに深くてもかまわないのです。

(ちなみに、「何に対して、なぜ無力なのか」という大事な情報は、12&12のステップ1にも、ミーティング・ハンドブックにもありません。この二種類の本だけを使う難点の一つです)。

しかし、絶望が深くても、それだけで人にやる気を出させることはできません。人は絶望が深かろうとも、そこからの出口がなければ、(つまり希望を持てなければ)、絶望的状況に対して「否認で対抗する」だけです。絶望が深ければ深いほど、より頑固な否認と抵抗に出会うだけです。

だから希望や解決を示す必要があります。解決はステップ2で示されます。深い絶望とそこからの出口が示されたとき、人はほぼ自動的に回復に向かって歩き出します。「おぼれる者が救命具にすがりつこうとする真剣さ」(12&12 p.31)というやつです。そこにステップを経験して回復した先ゆく仲間の姿が「生き証人」として存在していれば、なおのこと良いのです。

つまり、底つきは、事態の全貌について正しい情報を提供され、深く絶望し、そこへ示された希望に向かって歩きだすことで成し遂げられます。

底つきは、仲間からの手が差しのべられた環境で可能になる。

スポンサーの最初の役割は、スポンシーを底つきへと導くことにあります。1960年代後半以降AAは様々な力を失った、とジョーは緑の本で書いています(アメリカでの話)。例えば、AAが介入に関する技能を失ったがために、AA以外のところで専門家が「介入」について語り出したのです。介入やMATRIXなどの専門家たちの技法を、AAメンバーが否定的に捉える必要はありません。そこには学べるものがたくさんあります。しかし、まずAAメンバーとして取り組むべきことは、AAが本来持っていた能力を取り戻すことです。

RDの話になってしまいますが、RDのマニュアルの序文にジョーがこう書いています。

「施設の中には、自分の意思に反して入所させられた人や、自分が依存症だと受け入れられない人たちもいます。そういう人たちにどうやってプログラムを応用すればよいのでしょうか。(略)AAの回復の方法を彼らに提示することが何よりも重要、それが答えでした」(http://rdp2010.exblog.jp/9811894/

ビッグブックのやり方という話をすると、棚卸しや埋め合わせのやり方など先のほうのステップばかりが注目されます。しかしジョーが重視したのはステップ1と2でした。否認が強くやる気がない人たちを放置せず、どうやったら底つきや回復へと導けるか。ジョーが心を砕いたのはそこでした。その姿勢こそ、僕がジョーに心酔する理由です。また、それはAAを始めた人たちにとっての最大の関心事であったはずです。

スポンサーは、ステップ1と2を伝える能力こそ磨くべきです。

家族もまた底をつく必要があります。しかし、家族は本人との関係性の中では底をつくことができません。家族もまた事態の全貌について正しい情報を提供され、深く絶望し無力感を味わい、そこへ示された希望に向かって歩きだすことで底をつく必要があります。そのためには、家族には家族の仲間が必要です。

AAや12ステップ以外に、いろいろなやり方が作られ始まっています。AAのメンバーの中には、そうした自分たち以外のやり方を嫌い、否定的な見方をする人もいるでしょうが、決してそんなことをする必要はありません。また、そこから何かをAAに付け加える必要もありません。それよりも、AAや12ステップが本来持っていた力を取り戻す必要があることに目を向けましょう。


2010年12月06日(月) 発達障害とAC概念の混同

境界線の問題と発達障害について考えています。

境界線(バウンダリ)というのは、他者と自分の間の境界です。健全な境界線を保つことは、健全な人間関係に必要なことです。これがきちんとしていなければ、対人依存や共依存の問題を抱えることになります。また、他者が自分の心の中に土足に踏み込んできたり、不当な要求をされたときに、ちゃんと「ノー」と言えなければ、自分を犠牲者にすることになります。精神の健康のためにも、健全な境界線を保つことは必要です。

ビッグブックのステップ3のところ(p.89〜)に書かれている「何もかも仕切りたがる役者」の話も、基本的に境界線の問題なのでしょう。回復とは「常に自分の頭の上のハエを追う」作業なのですが、自分の問題から目を背けて、人の問題にクビをつっこみたがる傾向はなかなか拭えません。

境界線というと考えるのは「甘え」の問題です。ここで言う甘えとは「他者に対する不当な要求」です。

例えば僕はAAにつながったばかりの頃、人間関係が荒廃して寂しい状態でした。そんな僕のことを相手にしてくれるAAの「先ゆく仲間」の存在をとてもうれしく思い、毎晩のように電話してウザがられました。相手が迷惑している(自分が不当な要求をしている)ことに気づかなかったのです。健全な境界線を保つ方向に努力すれば、こうした形で人を傷つける(やがて自分も傷つく)ことは避けられます。

では境界線はどうやったら保つことができるのでしょうか?

(おそらく)健全な境界線を保っている人の多くは、「どうやったらそれができるか」なんて言語的に考えずに自動的に行っているのでしょう。つまり「場の空気を読む」というやつです。この場の空気を説明しみろと頼んでも、論理的にうまく説明してもらえるとは限りません。

前述の例で言えば、僕からの電話を相手が迷惑に感じていることが、相手の言葉やトーンから「それとなく」感じられれば、もうあんまり電話しない方が良いなと判断がつきます。

広汎性発達障害やADHDを抱えた人は、「空気を読む」「それとなく察する」ことが苦手です。人の気持ちを想像するという能力に障害を持っています。当人は自分がそれができない自覚を持っていません(空気は読めると思っている)。子どもの頃からの成長の過程で、周囲を観察し、ふさわしい行動を考えて導き出す訓練を積んでおり、それによってなんとか社会に適応しています。(彼らの「人と同じようにできる」の根拠はこれだ)。

しかし、それは「肌で感じる」ような自動的なものと違って気苦労も多いし、どんなに考えることに長けた人でも時に手痛い失敗をします。四輪駆動車が普通の車よりより困難な場所で立ち往生するのと同じで、能力の高い発達障害者ほど、より手痛いミスを犯します。結果として自己評価は下がり、自分はできない人だと落ち込むことになります(いやできないのは確かなのだが、だからとて人として劣っているわけではない)。

電話の例を続ければ、相手が迷惑がっていることに気づかずに電話を続けたとすると、やがて相手はやんわりと電話を断ってくるし、それにも気づかずに電話を続ければ、やがて怒り出します。その時になって初めて気がついたとすると、あんなに親切だった人がなぜ急に手のひらを返したように冷たくなったのか、と裏切られた気分になり、人間不信や自信喪失を味わうことになります。

発達障害の人は、自分の何が悪かったのかもわからないまま大変に傷つき、寂しい思いをし、自己評価を下げています。発達障害の問題を指摘し、納得してもらうことは、その人が子供の頃から持っていた「努力すれば人と同じようにできるはず」という偽りの完全性を突き崩すことになるので、一時的にはその人にマイナスです。しかし、やがてその人の自己評価を持ち上げ、自信を持つ結果へとつながるでしょう。

「場の空気をそれとなく読んで、ふさわしい行動を選択する」ことができないのは、何も発達障害の人に限りません。ふさわしい行動とは「見えないルール」のようなものです。人は育った家庭の中で、このルールを身につけていきます。しかし、原家族内のルールが世間一般と全く違っていたらどうでしょうか。育った家庭の中では通用したルールも、学校へ行き、やがて社会に出るようになると通用しなくなります。

アルコール依存症や薬物依存症の親がいる家庭では、世間とは違った「見えないルール」が適用されています。そこで育った子供たち(AC)が、社会に出たときに、いままでのルールが通用しないことでトラブルを起こ、人を傷つけ、自分も傷つきます。これは、

「ジャングルの中で育った人が、生活に必要なものだからとサバイバルナイフを片手に街角に立っているようなもの」

だと例えられます。ジャングル(原家族)で学んだルールではなく、街角(社会)でのルールを学びなおす必要があります。

こうして見直してみると、空気(見えないルール)が読めない人には二種類いることがわかります。ひとつは、発達障害に起因してもともとその能力を欠いている人。他方は、能力はあるのだけれど間違ったルールを覚え込んでしまったACです。適応障害という観点から見ているだけでは、この二つは区別がつきません。

こう考えてみると、AC概念に対して感じているモヤモヤ感が晴れます。つまり、自分をACだと言っている人の中には、実は原因が原家族(環境因)ではなく、発達障害(素因)による人がたくさん混じっていると考えられます。

クラウディア・ブラックの提唱したAC概念はスッキリしたものでした。ところが日本のAC論を読むとどうしても「霧が晴れない」印象をぬぐい去ることができません。この違いはどこから来たのでしょうか。おそらく、日本においてACの概念を、ACoA(アルコールや薬物依存の親を持つ人)から、ACoD(依存症でなくても機能不全の家庭で育った人)へと拡張された結果、症状が似ている発達障害の人たちがAC概念に飛びつき、問題をややこしくしてしまったのだと思います。

なにせACoAであるためには、親が依存症でなくてはなりません。そうでなければACoAにはなれません。ACoDの場合は、原家族が機能不全であればいいわけです。機能不全であるかどうかは(DVや虐待と同じく)外から観察することが難しく、性被害と同じで当事者の申告を重視せざるを得ません。「自分をACだと思えばACだ」との言葉の通り、発達障害の人がACを自認するにはなんの障害もありませんでした。

依存症の人の中に発達障害を抱えた人がかなりたくさんいます(実は依存症でなくて、発達障害の二次障害で乱用状態になっているだけの人も相当いるでしょう)。同じように、ACを自認する人の中に、実は別の問題=発達障害という人がたくさん混じっている、という印象を強く持っています。

境界線の問題は古くからあるものです(昔から人間は人間関係で悩んできたのですから)。それがACの概念を確立させる中で、ACの特徴の一つとして取り上げられました。境界線の問題についてのセミナーなども開かれています。しかし、本質が発達障害である人が、境界線のセミナーへ行ったり、本を読んでみても、得るものは少ないでしょう。それどころか、かえって傷ついてしまったり、トラブルを拡大する方向に行きかねません。本来のACである人は見えないルールを学び治すことができても、発達障害の人にとっては場所を変えて同じ間違いを繰り返すことになり、自己不全感を拡大するだけに終わるのですから。発達障害には発達障害に合わせた支援が必要です。

もちろん、ACoAの問題と発達障害の両方を抱えた人もいるし、さらに親ばかりでなく自分も依存症になってしまった人もいるので、話はややこしくなるばかりなのです(重ね着症候群という言葉を紹介しておきます)。

依存症、AC、発達障害の入り交じった問題を、きちんと整理しなおす必要があるのでしょう。ACの問題を取り扱おうという人は、ぜひ発達障害のことにも目を向けて欲しいのです。


2010年12月03日(金) 一緒に食事を

数年前、AAのサービスのある役割を任されていました。同じ役割を任された者同士、東京にほぼ月に1回のペースで集まって会議をやっていました。会議は午前と午後とほぼ一日続くので、途中に昼食を挟みます。この昼食をメンバーで一緒に食べようと言うことになりました。

それは、限られた時間の中でお互いのことを理解するには、一緒にご飯を食べるのが一番良い、という意見があったからです。

「AAそのものは決して組織化されない」とはいうものの、AAのサービス活動に組織はつきものです。サービス組織の意志決定をするのに、各グループの代表が集まる地域集会というのが年に数回開かれます。関東の集会では毎回丸一日費やしています。当然昼食が挟まるのですが、みんなが会場外へ三々五々食べに出ています。

あるメンバーがアメリカの同じような地域集会に出たところ、昼休みにはみんなで一緒に食事をしていたそうです。たくさんの人が集まれる会議室を用意するだけでも面倒なのに、みんなが一緒に食事できる手配をするのはもっと大変です。なぜそんな面倒なことをするのか? 短期間で親しくなって、自由に意見交換できる環境を整えるためだそうです。つまりは会議の成功のため、サービス活動の成功のためです。

東京で僕らの昼食は、お互い意見が違っていて喧喧がくがくでしたが、時間が経った今でも昼食を一緒にしたメンバーには親しみの感覚が保たれています。「同じ釜の飯を食う」ではありませんが、衣食住の一部でもともにした人とは仲間意識や親しみが芽生えるのでしょう。

僕はそれまでAAの仲間と一緒に食事をするタイプではありませんでした。僕がAAにつながった頃は、メンバー同士ミーティング以外では親しくしないのが普通でしたし(これはたぶんAA以外のグループの影響が大きかったのでしょう。ACブームの真っ最中でした)。けれど、それからの僕は、機会さえあればメンバーと一緒に飯を食うことにしています。

特にスポンシーとは努めて一緒に食事をする機会を作ることにしています。なんと言ってもスポンサーシップは特別な間柄だし、個人的なことをたくさん話し合うのですから、信頼関係を築くためにも親しさはあった方がよいでしょう。ミーティングが終わった後にグループのメンバーとアフターに行くのも好きですし、施設の人たちと一緒に屋外でバーベキューをする企画もあって楽しみにしています。

僕の最初のスポンサーとも(これは偶然なのですが)病院メッセージの前に同じ食堂で昼食を食べたことが何度かありました。二人のスポンサーシップがうまくいったのは、その偶然も寄与していたと思っています。

一緒に食事をすることは、スポンサーシップをうまく成立させるための隠れた秘訣だと思っています。


2010年12月02日(木) 抗酒剤

体内に吸収されたアルコールは、肝臓でアルコール→アセトアルデヒド→酢酸へと分解されていきます。アセトアルデヒドは人体には有毒です。住宅建材に使われたアセトアルデヒドが人体に入れば「シックハウス症候群」になります。また酒を飲む人が喉頭ガンや食道ガンになりやすいのは、アルコールが分解される過程で体内のアセトアルデヒド濃度が上がるからだとされています。

アセトアルデヒドを酢酸に分解するのが「アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)」というタンパク質です。日本人を含むアジア人種(モンゴロイド)には、このALDHの働きが鈍い人がいます。これはALDHを構成する517個のアミノ酸のうち一つが別のものに変わっているからで、遺伝による体質です。

アセトアルデヒドの代謝機能が通常の1/16の人がおよそ人口の半分ぐらい(酒が弱い人)、まったく代謝機能のない人が約5%います(完全なる下戸)。ところが、コーカソイド(白人)、ネグロイド(黒人)には、こういうタイプがまったくいません。おそらく人類がアフリカから全世界に広がっていく過程で、モンゴロイドの一部に生じた遺伝的欠損が伝搬したのでしょう。

下戸の人が酒を飲むと、体内にアセトアルデヒドが溜まります。顔が真っ赤になり、心臓がドキドキし、頭痛がし、血圧が降下します。場合によっては救急車を呼ぶ事態になります。

抗酒剤は、ALDHの働きを人為的に抑えることによって、下戸の状態を作り出すものです。酒を飲んでも気持ちよくならず、具合が悪くなるだけなら「酒を飲むことを思いとどまるだろう」と期待されます。つまり抗酒剤は体に効く薬というより、気持ちに効く薬だと言えます。

抗酒剤の一つシアナミド(商品名シアナマイド)は、日本で作られました。石灰窒素という肥料を作る工場で働いていた人たちに「酒が飲めなくなる」という症状が出ることがわかり、調べたところ石灰窒素に含まれるシアナミドにALDHの働きを抑える効果があることがわかったのです。そんなわけでシアナミドがアルコール依存症の治療補助薬として使われるようになりました。

ただし抗酒剤は使い方の難しい薬です。例えば断酒の意欲のない人に処方すると、平気で飲酒してしまい、救急車の世話になることがあります。これは救急医にとっては大変迷惑な話です。自業自得だし、だいたい反抗的で危険なアル中は救急の現場では嫌われ者です。そこで、抗酒剤を処方した精神科医に激しい苦情が行くことになります。精神科医としてもそれは避けたいので、断酒の意欲が薄そうな患者には処方を避けることになります。

それと、経験した人は分かるとおもうのですが、先に酒を飲んで酔っている状態で、後から抗酒剤を飲んでもあまり効果が出ません(つまり酒が飲める)。それがどういう機序なのかはわかりません。おそらく研究する人もいないのでしょう。

「私に抗酒剤は効かないので処方されていない」と言う人もいますが、その人が飲酒実験をしたときには、たいてい抗酒剤の前に酒を飲んでいます。その日は飲んでなくても、前の日に飲んだアルコールがまだ体内に残っている場合もあります。だから、いったんアルコールを完全に解毒して、肝臓もそこそこ機能を取り戻してから、抗酒剤を服用すれば今度はばっちり効いてくれます。しかし、しらふの状態で改めて抗酒剤を勧めても「私に抗酒剤は効かないから」と抵抗に遭います。こういう人に医者が抗酒剤を出さないのは、体質だからではなく、単に断酒の意欲が薄いのを見抜かれているだけです。

ではあるものの、抗酒剤が効きやすい人、効きにくい人というのがあるのは確かです。

抗酒剤が効きにくい人ってのはどんな体質なのでしょうか。ALDHが関与する前に、まずアルコールをアセトアルデヒドに分解する過程があります。これに関わるのがアルコール脱水素酵素(ADH)です。ADHにはいくつか型があり、ADH1B低活性型というタイプではアルコールの分解速度が遅く、酒を飲んだ翌日まで体内にアルコールが残って非常に息が酒臭くなります(こういう人っているよね)。長時間アルコールが残るために依存症になりやすく、アルコール依存症の3割がこのタイプとなっています(一般の日本人では7%程度しかいない)。

ADH1B低活性型の場合、アルコールの代謝速度が通常の1/40ととても低く、酒を飲んでも体内のアセトアルデヒドが増えてきません。だから抗酒剤も効きにくくなると考えられます。したがって、この場合には抗酒剤の分量を増やす必要があります。病院によっては退院前に「飲酒テスト」を行って、どれぐらいの服用量が適正なのか決めていますが、手間がかかるので通院治療ではほとんど行われていません。

上にも書きましたが、抗酒剤は体に効くというより、断酒意欲を支える心理的効果を狙ったものです。だから「私に抗酒剤は効かない」と言っている人を見ると、確かにそりゃそうだと思ってしまいます。体に効く効かないの問題ではなく、心に効いていないのは明らかですから。

抗酒剤を処方されるということは、医者にそこそこ信頼されているという証(あかし)です。


2010年11月29日(月) アマチュアリズムの大切さ

AAのスポンサーは、広い意味では依存症の「治療者」「援助者」です。ただし、AAのスポンサーはプロフェッショナルではなく、アマチュアです。

ただし、ここで使っている「アマチュア」という言葉は、技術や知識が専門的なレベルに達していない素人レベルという意味ではありません。最近スポンサーを始めたばかりで技量の低い人もいれば、長年経験を積んだ素晴らしい人もいるでしょう。技量の高低ではなく、それによって金を稼がない、非職業的であるということです。

AAに先立つこと40年、フロイトが精神分析という分野を開拓しました。この精神分析を世界に広めるのに活躍したのが lay therapist(レイ・セラピスト=素人療法家)という人たちです。彼らは医療や心理の専門的資格は持たず、精神分析のトレーニングを積んだだけの素人でしたが、それで患者を治療し実績を積んでいきました。これが、非資格的療法家の始まりです。

AAもこの非資格的療法家をスポンサーシップという形で取り入れました。
スポンサーになるためには何の資格も要りません。スポンサーになるためのワークショップや研修制度もないし、資格認定があるわけでもありません。スポンサーは資格ではなく、AAの霊的な価値観をどれだけ実現できているかで判断されます。スポンサーに必要なのは、自分が12ステップをやった経験、それを人に伝える技量、意欲、そしてそのことに割ける時間です。

AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、素人であることをレベルの低さの言い訳にするためではありません。12ステップを伝えるという高い専門性を、素人であるがために(つまりそれで金を稼いで暮らしていないだけに)無料で提供できるわけで、素人であることを誇りにしているのです。

ある医師が講演で「私たちは患者さんを診察時間内しか相手してあげられないけど、自助グループに任せればスポンサーさんが24時間態勢で面倒見てくれる」とおっしゃっていました。スポンサーというのは素人ですから、たいていはAA以外のことで仕事をして金を稼いでいます。そして仕事以外の時間帯、つまり本来だったら家族や趣味のための時間を割いてスポンシーの相手をしています。僕もソーバー1年目には、夜中の2時にスポンサーを電話でたたき起こしたことがありました。そこまでの対応をしてくれる人ばかりではないかもしれませんが、多かれ少なかれスポンサーは生活の時間を捧げてスポンサーシップをやっています。

もしスポンサーシップが有料で、スポンサーがそのことで収入を得て暮らしているとするなら、どんな料金がふさわしいのでしょうか。AAが有料で高価なものになったら、12ステップをどれだけの人が手にできるでしょう? AAが自分たちのことを「素人」だと言うのは、無料で提供することに誇りを持っているからです。

またAAはプロフェッショナルということを完全に否定しています。もし精神科医であるとか、心理の資格を持つ人がメンバーになったとしても、そのことはAAの中では捨てなければなりません。また、依存症関係の回復施設のスタッフは、たいていはどこかのグループのメンバーでもありますが、グループのメンバーとして活動しているときには職業のことは伏せなければなりません。これを「(職業家としての)帽子を脱ぐ」と表現します。AAは素人の集まりですから、回復の業界で仕事をしている人でも、AAに来るときは素人にならねばならないのです。まわりのメンバーも、その人の「素人性」を尊重します。

もちろん、AAのメンバーが施設で働いて、そこで12ステップを伝えることで金を稼いでもちっともかまいません。ステップを伝えることを職業にしてもよいのですが、その場合は職業人として活動するときは、逆にAAメンバーであることを完全に伏せなければなりません。(しかるに、施設スタッフであるのに、某グループのメンバーでもあることが露わなブログをやっている人がいて、そこはきちんとして欲しいと思っているんですけど、まあそれはともかく)。

数年前、某イベントでアメリカの回復施設の若いスタッフが「どうしてAAメンバーってこうなれなれしいんでしょう」と不満を漏らしているのを耳にしました。その人は、有名施設で働いている自分をAAメンバーが上座に奉ってくれないのが不満だったようですが、そうした不満を持つこと自体が霊的価値観を実現できていない証左であり、それにふさわしい扱いを受けただけのことだったと僕には思えます。

繰り返します。AAがアマチュアリズム(素人性)を大事にしているのは、素人であることを技量の低さの言い訳にしているわけではありません。スポンサー初心者は経験不足でしょうし、経験を積んでも技量がなかなか向上しない人もいるでしょう。けれど皆が良いスポンサーになろうと努めています。良いスポンサーとは、回復を伝えるために高い専門性を持つということです。

回復施設をもっと良く12ステップを伝えられるように改革していこうという動きが始まっています。それは必要なことですが、僕はそれだけでは足りないと思っています。施設を退所してきた人たちを受け入れる自助グループの側にも質が求められます。回復施設の改革と、自助グループの改革は、車輪の両輪です。

スポンサーをやる人たちは、高い専門性を無料で提供することに誇りを持って欲しいと思います。それを職業としてないことに引け目を感じる必要はまったくありません。むしろそのことが、霊的な価値観の実現に大きな意味があります。ただ同時に、そのプライドに見合っただけの技量を身につけるために自己研鑽を怠らないで欲しいです。僕も良いスポンサーになるための努力を続けたいと思います。


2010年11月26日(金) ドクター・ボブの言葉の真意

ビッグブックの初版が出版されるまで、12ステップは人から人へ(スポンサーからスポンシーへ)と口伝で伝えられていました。しかし、その方法ではAAはじれったいほどの遅いスピードでしか広がらなかったでしょう。その間にも酒をやめられないアルコホーリクは世界の各地で命を落とし続けることになります。

そこで、初期のAAの人たちは本を書き、それを媒介として、12ステップという「酒をやめる方法」を全世界に伝えることにしました。その時AAメンバーはまだ40人しかいませんでした(本を書いている間に100人に増えたのですが)。

AAというのは、この100人が全米、全世界に散って、各地でアルコホーリクを助けてAAグループを作っていった・・わけではありません。AAの評判を聞いて、ビッグブックを買い求めた人たちが、その本の中身通りにステップをやって回復し、各地でグループを始めていった、というのが正解です。つまり初期メンバーの意図通り、本がステップを伝える手段になってくれたのです。もちろん本を読んでも分からないことがあれば、ニューヨークのAAオフィスに問い合わせするほかはなく、そうした手紙にはビル・Wの女性秘書たちが一通一通丁寧な返事を書きました。ついでに言うと、AAの月刊誌「AAグレープバイン」を創刊したのも女性たちでした。AAが広がったのは、本による伝達と女性の力あってのことでした。

ビッグブックがステップを伝える能力を持っていることを再確認させたのは、1970年代から始まったステップの再興運動でした。ジョーとチャーリーのBig Book Studyによってステップのやり方を学んだ人もたくさんいます。

このように「本によってステップを伝える」というのは、AAがその最初期から持っている基本コンセプトの一つなのですが、それに異を唱える人たちもいます。「そこを否定してどうするんだよ」と思うのですが、その人たちによれば、ステップというのはスポンサーからスポンシーへ直に伝えられていく以外ないというのです。もちろんそう考えるのは自由なのですが、彼らが根拠にしているのがビッグブックに載っているドクター・ボブの体験談の<ある部分>だというのです。しかし、その根拠というのが誤解に基づいているものなので、どこかでその誤解を解くための文章を書いて置いた方が良い、と思っていました。この文章はそのためのものです。

飲んだくれの外科医ドクター・ボブは、ニューヨークから来た株式ブローカーであるビル・Wと会って話を聞き、彼と同じやり方をすることで酒をやめました。これがAAの始まりでした。

酒をやめるように他の人からもさんざん説得されても酒をやめなかったドクター・ボブが、なぜビルと会って酒をやめられたのか? その疑問に対して、ドクター・ボブはこう書いています。

読者の脳裏に自然と浮かぶ疑問は、「その彼は他の人と何か違ったことをしたのか、あるいは言ったのか」ということだろう。(p.252)

彼はアルコホリズムの情報を私にくれ、それが役立ったのは疑うべくもない。何より大切なのは、彼は自分自身の体験からアルコホリズムなるものが何なのかを身をもって知っていた、私が話した初めての人間だったことだ。言い換えれば、彼は私の考えを話した。彼はすべての答えを知っていたが、それは本から得た知識ではなかったのだ。(p.253)

ドクター・ボブは医者であり、それまでもアルコホリズム(依存症)に関する本をたくさん読んでいたと書いています。にもかかわらず酒がやめられたのは、本ではなく同じアルコホーリクであるビルと出会ったからである、というのです。

そのことには疑いがありません。しかし、これをもってして「ステップはスポンサーから渡してもらう他はなく、本から得た知識で行うのは無理である」と結論づけるのは早計であり、誤解を招くだけです。

ドクター・ボブは、ビルと出会う前に、「このビール実験のころ、私は、見るからに落ち着いて、健康で、幸せそうに見える人たちのところに顔を出すことになり、大いに興味を持った」と書いています。この見るからに幸せそうな人たちとは、AAの回復の原理の基礎となったオックスフォード・グループの人たちです。

ドクター・ボブはオックスフォード・グループのメンバーでした。またビルの物語に出てくるビルのスポンサー(ビルの友人エビー・T)も、オックスフォード・グループのメンバーでした。もちろんビル・Wも含め、ビッグブックを書いた40人のAAメンバーは全員がこのグループのメンバーでした。AAがオックスフォード・グループから独立するのはその後のことです。

12ステップの中で、ステップ3以降のすべてのステップは、オックスフォード・グループから受け継いだものです。

そしてドクター・ボブはその原理について「手当たり次第に、ありとあらゆるものを読み、それについて知っていると思われるあらゆる人々と話をした」(p.250)とあります。つまり、ドクター・ボブは回復をもたらす霊的原理についてはとても詳しかったわけです。また、彼はオックスフォード・グループのメンバーから、酒の問題を解決するには霊的手段しかないことも提案されていました(つまりステップ2です)。

にもかかわらず、ドクター・ボブは「毎晩酔っぱらっていた」とあります。彼の得た霊的原理には何かが不足していたのです。

欠けていたものとは何か? それはシルクワース博士が発見したアルコホリズム(依存症)の情報、アル中は酒に対してなぜ無力なのかという病気の知識です。つまりステップ1です。彼は医者であるにもかかわらず、自分の病気のことは知識がありませんでした。そして、その知識を得たとき、回復に必要なすべてのピースが揃い、彼は酒をやめることができ、AAが始まったのです。

つまり、ビル・Wがドクター・ボブに運んでいったものは、ステップ1だったのです。2以降のステップに関してはドクター・ボブはすでに知っていたのです。

ということからすると、ドクター・ボブの文章を根拠として言えることは、本からではなく同じアルコホーリクからしか受け取れないのは、12ステップ全体ではなく、ステップ1のみである、ということが正しい。p.253の文章を根拠として、本からステップを受け取った人のステップを本物でないと主張するのは、単なる勉強不足、経験不足の露呈です。

では、本当にステップ1だけは本から受け取ることは無理で、同じアルコホーリクから受け取るしかないのでしょうか。

僕の経験でもステップ1にはAAミーティングで話を聞く経験がとても必要でした。同じ依存症の人から経験を聞き、自分も同じだと思うことが必要だったのです。そういう意味では同じアルコホーリクの経験に触れることはどうしても必要だったと言えます。

しかし、これについてもビル・Wや初期のAAメンバーたちは解答を用意しています。僕の使っているビッグブックは文庫版で、巻末にはドクター・ボブの物語しか載っていません。しかし、分厚いハードカバー版には、同じアルコホーリクの経験談がたくさん載っています。もちろんその経験談は、読んだ人がAAミーティングに参加したのと同じ効果を得るのを狙って収録されているわけです(表紙カバーのビルの文章を参照)。

そして、その狙いはあたりました。そうでなかったら、AAは今のように全世界に広がってはいなかったのですから。ドクター・ボブがビルからステップ1を受け取る必要があったのは、その当時はビッグブックがまだ書かれていなかったからです。

12個のすべてのステップは、ビッグブックという本から受け取ることが可能です。スポンサーではなく、本から受け取ったステップを「本物ではない」と非難されたとしても、その非難は相手の誤解が原因として片づけておけばいいでしょう。

もちろんステップをやったスポンサーが近くにいるのなら、その人に「ステップを渡してくれ」と頼むのが一番楽です。なにもわざわざ苦難の道を選ぶことはありません。しかし、手近に適任者がいないのなら、ビッグブックを読んでそのとおりに実践すれば大丈夫です。その時にあなたに必要なのは、「意欲と、正直さと、開かれた心」(p.268)です。

もし、あなたがビッグブックだけで回復できなかったとするなら、それは意欲が足りなかったか、正直でなかったか、心が偏見に満ちていたかのいずれかです。その場合にはスポンサーに手伝ってもらうしかありません。


2010年11月24日(水) 現世利益

「AAにいる私たちは霊的原理に従っている。最初はやむを得ず、そして最終的にはそれに従うことによってもたらされる生きかたが好きだから従っている」(12&12 p.237)

12ステップは酒をやめるためにやるものです。しかしそれだけでなく、副次的にいろいろな効果をもたらします。ある人は、ステップをやった結果、奥さんとのセックスレスが解消したとうれしげに報告してくれました。また別の人は家族と別居状態だったのですが、戻ってきてくれと奥さんに頼まれたそうです。どちらも自己評価は上がりまくりで、「ステップやって良かった」という感想になるのもうなづけます。仕事でプラスに評価されるようになったとか、就職できたという話はいくらでも聞きます。

そうした即物的な報酬をあてにしてステップをやるのは間違っている、という意見もあるでしょう。確かにそのとおり。もしこの人たちがセックスレスの解消や、家族との同居を目指してステップをやったとしたら、このような結果に結びついたかどうかは疑問です。あくまで回復という本来の目的のためにステップをやった結果でしょう。

けれどステップをやっていると、しばしば現実的な成果を手にします。つまり、僕らの抱える「性格的欠点」というやつは、それほどまでに僕らが成果を手にするのを邪魔していたというわけです。だからそれが少しでも取り除かれたときに、僕らは成果を手に入れられるようになってきます。

努力に対して報酬が与えられると、人は努力を続ける動機(やる気)を得ます。そうしたフロー効果が起きているときは、ステップに対する理解やハイヤーパワーへの信頼は急速に深まっていくようです。

もちろん、成果を与えるかどうかは神さまが決めることですから、結果が出なくても自分の努力不足だと嘆く必要はないのでしょう。けれど、一生懸命やっているのに成果に乏しいときは、自分の方向性を見直してみたほうがいいかもしれません。

もちろんビッグブックには、ステップをやれば金持ちになれるとか、素晴らしい伴侶を手にできるとか、良い仕事に就けるとは書いてありません。酒がやめられると書いてあるだけです。けれど、その他にあんな良いことや、こんな良いこともあったという記述が、ビッグブック全体に散りばめられています。そこをあえて読み飛ばす必要はありません。

何の報酬も得られないのに努力を続けられる人はいません。「見返りを求めずに奉仕」と言ったって、それ以上のものが与えられるからこそ、即物的な見返りを期待しないだけの話です。

僕らは生活に便利な家電製品を手に入れると、「これは役に立つから気に入った」と思い、それが生活に必要なものだと思います。ステップも同じことです。ビル・Wは霊的であるということは、現実的であることだと言っています。

ステップによって僕らは利益を得ます。それは来世の利益ではなく、今この人生にもたらされる現世利益です。何よりも酒がとまるのです。アル中にとってこれ以上の現世利益があるでしょうか?


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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