心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年08月06日(金) 依存症と日本の宗教

神戸の話ですが、すこし脇に逸れます。

初日、信田さよ子先生の講演のあとの質疑応答で、「日本ではなぜアメリカのように自助グループが流行らないのか?」という会場からの質問に対し、先生は「日本では宗教が活躍しているから」と答えていました。その答えを意外に思った人もいるのでしょうが、かなり真実を突いていると思います。

日本の宗教人は依存症の問題にわりと熱心です。AAで会場を借りているカトリック教会の部屋の壁には、教区のアルコール問題研修会の告知が貼りだしてあります(単に古いのが剥がされてないだけですけど)。2月にRDPのワークショップで利用した天理教の施設にも、依存症問題研修のポスターがが張ってありました。信者あるいは信者候補の抱える問題の一つとして、依存症問題を理解しようという機運が少なからずあるようです。

日本人の宗教に対する感じ方として「悩みを抱えた人の心に入り込んでくる」というのがあります。それは日本の宗教がそういう布教スタイルを取ってきたからであり、それが「宗教に取り込まれるのは心の弱い人だ」という偏見を形作る原因にもなっています。その是非はともかく、その悩みの中に依存症問題も含まれており、宗教人が依存症問題の最初の相談を引き受けることも良くあります。

信心してみたけれど酒は止まらなかった、という話はいくらでも聞きます(それぐらい宗教を試してみる人は多い)。宗教では酒が止まらなかったからこそ、医療や自助グループにやってくるわけです。一方で、ブッシュ前大統領のように宗教によって依存症から救われた人もいるはずです(けれどその人たちは自助グループには来ないでしょう)。

じゃあ海の向こうのアメリカはどうなのかというと、宗教から見捨てられた(酔っぱらいは迷惑だから)人たちが自助グループで助かっているという構図のようです。

僕は長い間、向こうでは教会でAAミーティングをやっているところも多いし、AAと宗教というのは暗黙の協力関係というか、良い関係にあるのじゃないかと思っていたのです。何年か前の Slaying the Dragon の邦訳記念講演のときに、著者のホワイト先生にそのことを質問している人がいました。

教会でミーティングをやっていると言っても、それはあくまで教会の一室を貸してくれているにすぎないのであって、信徒の人が酒をやめてもなかなか「正門から入って聖堂に入れてもらう」というわけにはいかない。ちゃんとした信徒として扱ってもらえるようになるには、長い時間がかかるのだとか。

recovery church という話を聞いて驚いたのですが、そうやって教会にマトモに相手にしてもらえない人たちが集まって、自分たちの教会を造っているのだそうです。

なんとなく「宗教が相手にしてくれているうちに宗教で助かるのが上等な人で、見捨てられて自助グループまで行ってしまうのは下等な人」というニュアンスを感じさせる話でありました。(そういった社会の偏見を取り除こうとしているのが、回復擁護運動なのですけど)。

こうした日米の違いは、それぞれの社会における宗教の立場の違いから来ているのでしょう。

ともあれ、日本では(とくに田舎のほうでは)宗教が依存症の問題の引き受け手になっており、それは市井の宗教人たちが人の悩みに偏見なく向き合おうとした結果だろうと僕は考えています。しかし、依存症の問題は経験も知識もない人たちにとっては手に余ってしまうことも、想像できます。

僕はまずいったん宗教を頼ってみることを否定的に捉えていません。もちろんそこで助かる可能性もあるからです。そこで助からないにしても、いろんな手段を試してみて、何をやってもダメだったからAAに来た、というほうが話が早いからです。


2010年08月05日(木) 睡眠薬と風邪薬

夏風邪をひいてしまい、ここ数日市販の風邪薬を飲んでいました。一昨日あたりから痰が出てくるようになり(良くなってきた証拠)、昨夜から飲むのをやめました。おそらくそのせいでしょう。寝付きが悪く、眠ったのは布団に入って電気を消した1時間後ぐらい。眠りも浅くなり、朝起きるたら睡眠不足特有の頭痛がしました。

市販の風邪薬には、咳止めとしてリン酸ジヒドロコデインが、また気管支拡張のためにdl-塩酸メチルエフェドリンが入っています。

リン酸ジヒドロコデインは咳止め薬の「ブロン」の主成分でもあります。コデインはモルヒネと同じアヘンアルカロイドの一種で、モルヒネほどの依存性はないものの、ブロン中毒になる人たちはコデインの陶酔感を期待しています。

塩酸エフェドリンは、マオウのアルカロイドで覚醒剤の原材料として規制されています。スポーツ選手に乱用があることでドーピング規制の対象になっています。風邪薬に使われているのは安全化が図られたもの(頭に「dl-塩酸」がついている)。

どちらも風邪薬に入っているのは微量であり、通常は問題になりません。(薬の乱用をする人たちは、効果を強くするために風邪薬を20錠、30錠、あるいはひとビン丸ごと飲んでしまいます)。けれど、昨夜僕がよく眠れなかったのは、コデインとエフェドリンの離脱症状で間違いないでしょう。依存症者として、鎮静系や覚醒系の薬物に対して過敏に反応する体質を抱えているのだと思います。

僕はうつのおかげで薬を使わないと眠れない時期が長く続きました。最初はいわゆる睡眠薬です。次に睡眠薬はやめにしたものの、他の用途の薬で眠気を催す薬(ある種の抗うつ剤やマイナートランキライザー)を寝る前に飲むことで睡眠薬代わりにしていました。中でもワイパックス(ロラゼパム)には長く世話になりました。ワイパックスには筋肉をほぐす効果があるので、緊張型頭痛と肩こりを抱えている僕には非常にありがたい薬でもありました。

そうやって薬を飲み続けていると、「僕の睡眠中枢は完全に壊れてしまっていて、一生寝るための薬が手放せないのではないか」という気分になってきます。けれど、医者と相談しながらそういった薬を少しずつ量を減らし、効果の軽い薬に切り替えて、長い時間をかけてやめていきました。(これは同時にうつ症状の軽減があったからこそできたことでしょうけれど)。いきなり全部やめる人もいますが、僕の場合にはそれはうまくいきませんでした。それができるのなら、一度にやめた方が良いでしょうね、きっと。

薬を減らすと、よく眠れなくなります。広い意味での離脱症状でしょう(退薬症状)。けれど、早ければ2〜3日、遅くとも2〜3週間の間には、必ず減らした量で眠れるようになっていきました。

一時期、アタラックスP2(塩酸ヒドロキシジン)というじんましんの薬(かゆみ止め)を使っていました。別に皮膚の疾患があったわけではなく、精神の鎮静作用があるので眠気を催す薬として使っていたのです。これを中断したときには、軽い不眠とともに「皮膚が猛烈にかゆくなる」という副作用が4週間ほど続きました。アタラックスを飲み始める前はそんなことはなかったので、明らかにリバウンド現象です。主治医も初めての経験だったそうで、曰く「アタラックスよ、お前もか!、って感じ」だそうです。

いまでは眠るために薬は要りません。夜遅くなってくると自然に眠くなってきます。薬を使って寝ていた頃は(薬を飲まなければ)夜遅くまで元気に?活動することもできたのに、今はそれができないのが少々残念です。

それほどぐっすりよく眠れているわけではありません。最初に書いたように、風邪薬程度に簡単に振り回されてしまいます。けれど、不思議なのは「よく眠れないことがそれほど気にならない」のです。人間生きていれば、眠れないときだってあるさ、という程度です。

逆に言えば、精神的に調子が悪かった時代は、なんであんなに「眠れないことが気になり、辛かった」のか? それはおそらく精神的に調子が悪かったからでしょう。(不眠は精神的不調の症状であり、原因ではないということ)。


2010年08月04日(水) ノンアルコールビールとCBT

依存症の認知行動療法(CBT)ってどういうことをするのか?

例えばこれを見て下さい。

久里浜アルコール症センター:アルコール依存症の認知行動療法について
http://www.hosp.go.jp/~kurihama/ninti.htm

CBTとは「今までの出来事や物事に対する認知(=見方や考え方、価値観、こだわり)を自分自身で検討し、その認知を変えることで、これからの行動や生活を改善しようとする治療法」とあります。

CBTの実装は様々ですが、たまたま他のものを探しているときに、こんなものを見つけました。
ギャンブル依存症からの自由を目指して 自己管理ワークブック
http://www.adp.ca.gov/opg/pdf/JP_Final%20Workbook_WEB.pdf

こちらはギャンブル依存症のワークブックですが、依存の対象が違うだけで基本はアルコールと同じです。この中の第III章では「ギャンブルの衝動を生じさせる誘因」を自己分析しています。誘因は内部誘因(気持ち)と外部誘因(状況)に分けられますが、外部誘因というのは以前のギャンブル体験を思い出させる状況です。ワークブックでは、ギャンブルがしたくなった状況を自分で思い出す作業が組まれています。

さて、なぜノンアルコールビールが売れているかと言えば、それは酒の代用品だからです。酒を飲むわけにはいかないが、酒のかわりに「あたかも酒を飲んでいるかのような雰囲気」を作り出してくれる小道具であるからこそ、普通のジュースより高価であるにもかかわらず売れているのです。

コンビニでは清涼飲料水のコーナーではなく酒のコーナーに置かれ、高速道路のSA・PAでは「飲酒を誘発する恐れがあるので未成年には売らない」とされています。

断酒後に宴席に出たことのある人なら経験があるかもしれませんが、皆でわいわい騒いでいると「酒を飲んでいないのに少し酔ったような気分」を味わうことがあります。以前酒を飲んでいたのと同じ環境に置かれると、脳は飲酒下の状況を再現するようで、そのことは酒に限らずいろんなことに当てはまります。

ノンアルコールビールも、アル中さんたちにとっては、過去の飲酒状況の再現に他ならず、飲酒の衝動を生じさせる誘因となるものです。それは脳がそういう仕組みになっているのですから仕方のないことですし、逆にその仕組みを逆手にとってCBTという療法が編み出されているわけです。

「ノンアルコールビールを飲んでも飲酒欲求が沸かなかった」という話をする人もいますが、その姿は「断酒後には宴席に出るなというが、出ても再飲酒にはつながらなかった」と言っている人と同じです。なだいなだの「アルコール問答」という本にこんな話があります。

昔は山道を車で走っていると「路肩注意」という標識を多く見かけました。道路が十分整備されていなかった時代は、路肩が崩れていることがあり、注意を喚起するためのものです。普通の危機感覚を持った人ならば、「路肩注意」の標識を見れば道の端に寄らず真ん中を走ろうと心がけます。

「断酒後に宴会に出たけど酒を飲みたくならなかった」と言っている人は、路肩注意の看板があるのに路肩を走っても大丈夫だったと言っているようなものです。一度や二度なら大丈夫かも知れませんが、それを続けていけば、いつかは路肩が崩れた部分を踏んで谷底に真っ逆さまということになります。ノンアルコールビールや宴会も同じことです。

断酒後に楽しみがないので、飲まない人で集まってカラオケに行って楽しむのはいいのだけれど、昔カラオケをやりながら酒を飲んでいた人は飲みたくなるので参加しない方が良い、という話を断酒会の方から聞いたことがあります。CBTという名前は付けなくても、認知と行動の修正によって酒を遠ざけるのは、以前から経験的に行われてきたわけです。

おそらく、ビールが嫌いでウィスキーばっかり飲んでいたという人が、ノンアルコールビールを飲んでも飲酒衝動にはつながらないと思います(状況があまりに違うから)。ノンアルコールビールを飲みたがるのはビールを飲んでいた連中なので、「ノンアルコールビールは危険」という表現でオッケーでしょう。

ノンアルコールビールを飲んでも大丈夫だったという発言は、自らの愚かさ(少なくとも無知)を露呈しており、恥をさらしているだけです。しかし認知(こだわり)が修正できないからこそ、くりかえし失敗できるのだとも言えます。


2010年08月02日(月) アルコール依存症者全体の自閉症スペクトラム指数...

アルコール依存症者全体の自閉症スペクトラム指数(AQ)

操作的診断基準の影響回復施設の抱える困難 の続きです。

神戸のアルコール関連問題学会のネタがしばらく続くかも知れません。

ポスターセッションでもう一つ注目したのが、大阪の小杉クリニックの片桐さんというスタッフの方が発表されていた「アルコール依存症における自閉症傾向の検討」というテーマです。

なぜそれに注目したかというと、僕は昨年から発達障害に興味を持つと同時に、各種の依存症のグループの中で「回復が遅い」とか「回復しない」と言われている人たちの特性は依存症由来のものではなく、別の病気なり障害が原因ではないか、というコンセプトを持っているからです。そして、その一つが発達障害、特に自閉症圏なのだろうと考えているのです。

ポスターセッションのこのテーマは、小杉クリニックを半年間の間に新規受診したアルコール依存症者145人のうち、同意が得られ治療導入に至った103人に対して、解毒が終わった時点で自閉症スペクトラム指数(AQ)スクリーニングテストを実施したものです。

AQ指数については過去に取り上げました。
自閉症スペクトラム指数(AQ)日本語版
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20100218

これは50問の質問に答えるもので、点数は0〜50点の幅をとります。点数が高いほど、自閉症傾向が高まることを意味します。AQ日本語版を作成した若林氏によれば、健常な社会人194人の平均点は18.5点、ρは6.21。またスクリーニングのカットオフ点は33点。

健常群では33点以上となるのは3%弱。高機能自閉症・アスペルガー群では約9割が33点以上となります。

さて、小杉クリニックのデータはどうなっているかというと、アルコール依存症者の平均点は23.9点となり、健常群の18.5に対して明らかに高くなっています(ρは6.8)。また33点以上となったのは全体の12.6%と、健常群の2.6%にくらべて多くなっています。

ここまでがポスターセッションの話。以下は僕の解釈です。

このデータから読み取るとすると、アルコール依存症になる人は、そもそも健常人より自閉症傾向が強いと考えられます。自閉症傾向とは何かというと、AQスクリーニングテストの項目から言うと、社会的スキルが低く、物事の細部へのこだわりが強いかわりに、注意の切り替えがなかなかできず、人とのコミュニケーションが苦手で、想像力に難点があるということです。

高機能自閉症・アスペルガーの人は学童期にイジメの対象になりやすいことが知られています。これはコミュニケーションの能力の低さと、物事への独特のこだわりが、奇異な印象を周囲に与えるからでしょう。実は依存症の人には学童期、成人後を問わずイジメられ体験を持つ人が少なくありません(この傾向は薬物依存の人に顕著です)。

また、自閉症の子供は親による虐待を招きやすいのですが、依存症の人も不適切な養育を受けている人が少なくありません。

おそらく、依存症になる人たちは、もともと普通の人より自閉症傾向を強く持っていて、そのために社会的なスキルが低く、対人関係が苦手になっているのでしょう。それによるストレスによってうつになったり、アルコールの大量使用が依存症の発端になったというわけです。

ワンデーポートの中村さんの
発達障害とアディクションとの共通点、背景の相違点
という文章を載せました(許可もいただかずに載せてすみません)。

同じ症状が出ていたとしても、それがアディクション(依存症)由来のものか、発達障害由来のものか、一見して区別はできません。当人にとっても、どちらも同じ「生きづらさ」としか感じられないはずです。

アディクションのケア(たとえば12ステップとか断酒例会)によって、アディクション由来の部分は(時間はかかるものの)修正されていくでしょう。しかし、発達障害由来の部分はアディクションのケアでは修正がききません。おそらく、依存症の人の症状には、アディクション的な要素と発達障害由来の要素が入り交じっているはずで、その中で発達障害の割合が多い人たちが、グループの中で「回復が遅い」とか「何年経っても回復しない」というレッテルを貼られている、とするならずいぶんとヒドい話です。

仮に、アディクションを扱う側が、発達障害の問題を区別できたとしても、成人の発達障害への取り組みは始まったばかりで使える社会資源が少ない、という問題があります。

ポスターセッションの発表の後に質疑応答の時間があったので尋ねてみました。テストを行った本人に結果は知らせたそうですが、点数が高い人にも発達障害の診断は行っていないというのです。大人の発達障害の診断を行える機関が近くにないこと。診断には育成歴を調査する必要があるのにすでに親が亡くなっている単身者が多いこと。さらには、診断がついても発達障害のケアができる施設が近隣にないというのも、その理由だそうです。

社会全体で発達障害が増えているのか、それは別に書くとして、依存症という人の中に、問題のほとんどが発達障害由来である人がたくさんいるはずです。また、中には依存症ではないのに、発達障害とアディクションの症状の類似性から、依存症と診断されてしまった人もいるはずです。それは、アルコールやギャンブルの乱用を症状だけ見て、操作的診断基準に当てはめて診断した結果でしょう。

とはいうものの、依存症と発達障害の関連については、まだまだ知見が少なく、確定的なことが言えない状況です。


2010年07月28日(水) 回復施設の抱える困難

操作的診断基準の影響 の話の続きです。

「ひとつの病名の中に、いろいろな病気の人が混じっているのが今の時代の特徴」であり、それはうつ病にしても、依存症にしても言えることです。

昔から重複障害(Double Disorder=DD)というものはありました。これは依存症の他に別の病気も抱えていることです。例えばアルコール依存症と統合失調症の両方という意味で、通例「別の病気」には身体疾患は入れません。

紛らわしいのは「合併症」です。アルコールを飲むとうつになるのですが、このうつは合併症であって重複障害ではありません。アルコール依存症患者の41%にうつがみられるものの、27%はアルコールの二次障害なのだそうです。

話は逸れるのですが、これはつまり「アル中さんのうつの2/3は酒をやめれば治る」ということです。酒と無関係なうつの人は15%ほど。これは一般のうつの有病率と比較すると確かに多いのですが、残りの85%はうつとは無関係に依存症になっていることを考えると、「うつの人が(極端に)依存症になりやすい」とは言えないと思います。

そして通常のうつの8割は半年以内に治ることを考えると、ちゃんと断酒してうつの治療もすれば、半年後にうつを患っている人は全体の数%程度にまで減るはずです。しかしネットを見ているとうつを抱えたアル中さんが多く感じられるのは、断酒かうつの治療のどちらか(あるいは両方)が順調にいかないからなのでしょう。

さて、話を元に戻します。

知り合いの回復施設のスタッフのグチを聞いていました。その人は「今の仕事は依存症の施設の範囲を超えている」と言うのです。それもむべなるかな。その施設には依存症だけの人は少なく、重複障害を持った人のほうが多いわけです。抱えている「依存症以外の問題」は人それぞれなのでしょうが、それだけにスタッフは個別の対応を迫られています。

神戸で開かれたアルコール関連問題学会のポスターセッションの中に、依存症の回復施設の抱えている様々な問題を取り上げた研究がありました。その中に入所者の重複障害のことも取り上げられていました。

例えば高齢の人の認知症。あるいは統合失調症(圏)の人。これについてはそちらの専門の施設が充実しているので、うまく連携を取っていけば回復施設の負担は減ります。(話は逸れますが認知症のアル中さんの断酒維持率は決して悪くないのだとか。それは認知症の進行に伴って酒を飲むことそのものを忘れてしまうのだそうです。定年アル中の断酒率が高いのもこれと関係があると言っている人もいました)。

他の施設の人とも話をしていたのですが、どうやら回復施設には重複障害を抱えた人が集まりやすい傾向があるようです。例えば統合失調のグループホームでは、アル中の面倒は見きれません。なにぶんそちらの施設は依存症のケアができるところではないのですから。なので、そういう人たちが回復施設に回されて難しいケースが集中している可能性はあります。

そして忘れてはならないのが発達障害です。アスペルガーやADHD、知的障害があると、やはり回復は他の人より時間がかかります。なかでも障害が重くて、なかなか回復しない手のかかる人たちが、自助グループや病院では面倒を見きれなくなって施設に送られている、という図式があるのはほぼ間違いないことだと思っています。これについては大人の発達障害をケアできる施設がないので、回復施設も連携する先がないのが困ったことなのです。

実際に施設の中で行われている支援を聞いても、それは炊事や洗濯、買い物、金銭管理のやり方を教える生活指導であり、人間関係の構築の練習です。それは精神障害、発達障害へのケアを手探りで長年やってきた成果なのでしょう。しかもスタッフは自分たちが何をしているか意識せず、重症?に見える依存症の人たちを回復させようと懸命にやってきた結果です。その大変さにはまさに頭が下がる思いです。

しかし相対的にステップなどの依存症治療の比重が下がったことは否めません。回復施設の専門性が、依存症分野にではなく、重複障害のほうに発揮されてしまうのは、手放しで喜べないことです。というのも、重複障害を抱えた人たちは場合によっては何年も施設にとどまります。結果として施設がそういう人たちであふれてしまい、上に書いたようなスタッフの疲弊を招いています。

施設から回復者が次々と生み出されれば、世の中に回復者が増えることで回復を容易にする様々な相乗効果が期待できます。しかし施設の回転率が落ちてしまえばそれも期待できません。もとより、施設の専門性が「依存症以外の分野」に発揮されることで、依存症に対する誤解を増やす恐れすらあります。(依存症以外の問題が依存症の問題だと誤解される)。

なにがこうした事態を招いてしまったのか考えてみます。
まず第一は、重複障害という難しい問題は、医療機関が責任を持って面倒を見るべきことなのに、それが回復施設に任されてしまっていることです。医療機関で対応することが難しければ、公的に専門の機関が作られるべきです。

また、回復施設の経営上の都合もあるのでしょう。一ヶ月や三ヶ月という短期でプログラムを終えて退所させていくと、施設の稼働率を気にしなければならなくなります。退所者のぶんだけ、新規顧客を獲得する努力が必要になります。その点、生活保護なり自立支援法という資金の出所がある長期入所者の存在は、施設の経営を安定させるメリットがあります。ただし、これについては、回復施設の経営戦略を責めるのではなく、施設の経営基盤の脆弱さが放置されていることを社会の問題にすべきでしょう。

重複障害を抱えた人が存在する以上、誰かがそれに対処する必要があります。
しかし回復施設という社会資源のかなりの部分が、そのために費やされているのは望ましいことではありません。

しかも、それが重複障害ならともかく(その一つには依存症が含まれるのでいい)、依存症とは言えない人たちまで引き受けることになっているケースも見受けられます。そうなってくると、ますます何の施設なのか分からなくなってきます。

学会の信田さよ子先生の講演の中に、1970年代、80年代の医者たちは、依存症治療という難しい分野を開拓していこうという気概があったものが、90年代から風向きが変わりだし、病院を辞めてクリニックを開業して回復の容易な中年サラリーマンアル中のデイケアばっかりやっているという批判がありました。そうした変化も、この状況を招いた一因と言えなくないでしょうか。


2010年07月22日(木) スポンサーとの対話

隣県のAAメンバーが亡くなったと連絡を受けました。
その文章には彼を知る人に伝えて欲しいとあったのですが、ここ数年病に伏せていたようであり、最近の仲間は彼を知らず、伝えるべき人はそう多くはありませんでした。

僕の最初のスポンサーには電話で知らせました(メールを使わない人なので)。
はて、電話するのも何年ぶりなのか。
受話器を取った奥様(この方もAAの人だった)と挨拶もそこそこにスポンサーに替わってもらいました。毎度電話するたびに奥様ともう少し話をすれば良かったと後悔します。一度スポンサーに替わってしまうと、もう一度奥様に替わってもらえたことは一度もないのですから。

スポンサーの反応は意外でした。
「彼はもう何年も前に亡くなったんじゃなかったかな?」
「いえ、それはたぶん別の人です。彼も倒れたけど生き延びていたのです」
「おおそうか、病院に見舞いに行ったのと、葬式に行ったのを勘違いしていたよ」
こんなふうにAAメンバーというのは、しばらく顔を見せないと殺されてしまうのです。

それからしばらく話をしました。スポンサーの近況のこと。すでに車を運転しなくなり、いろいろ人の世話を受け、病院には奥さんの運転で行っていること。どれだけ年数が経とうと、無力を認めるステップ1の難しさなど。

そして「今の若い人たちに伝えてくれ」とこう言われました。

一つは、「こうやって人の世話になるようになって思うことは、もっと働いておけば良かったということ」。

この場合の「働く」は金を稼ぐ仕事という意味です。彼は若い頃はヤのつく自由業だったし(エンコがない)、年を取ってからは健康に優れずなかなか働けませんでした。長野の田舎では生活保護というわけにもいきませんが、昔は公的扶助もそれなりに充実していたのです。僕は彼から、金銭という対価のない仕事にもちゃんと意味があることを教えてもらったと思っています。それでも彼は、何らかの形で人の役に立って対価として金銭を得ることの大切さを感じているというのです。

もう一つは、「薬に頼るなよ」ということ。

彼のことを「医者の出した薬で壊された人」と表現する人もいます。処方乱用がひどくなって、睡眠薬や安定剤はおろか、多くの抗うつ剤も使えなくなってしまいました。うつがひどくなっても薬も飲めずに寝伏せっている状態が続いた時期もありました。「医者の出した薬だから」と言い訳を自分にして、飲めなくなってから乱用を後悔したのでは遅いぞ、という彼の言葉には重みがあります。

電話を切った後で、やっぱり奥様に替わってもらえなかったことに気づきました。次こそは、と思ったものの、果たして次はいつでしょう(誰が死んだときか、という意味)。これが最後の電話にならないことを祈るばかりです。

彼は今でも僕のスポンサーなのか?
何年のバースディのときだったか、こう言われました。「あなたに伝えることはもう何もない。もうオレは出がらしだ」。だから彼はもう僕のスポンサーじゃないのかもしれません。おかげでそれからの僕は、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、うろうろして、いろんなものを掴んで今の僕があるわけです。

けれどスポンサーの言葉は今でもずっしり重い。スポンサーというのは生きているだけでスポンサーなのかも知れんね。


2010年07月20日(火) 操作的診断基準の影響

今回の話は結構長くなるかも知れません。
・・・すると途中で書くのに飽きてやめてしまうということもあります(途中で終わっている発達障害の話のように)。
けれど、ともかく書いてみるか。

さて、どこから話を始めたものでしょう。

僕はアルコール依存症であるほかに、うつ病でもあります。単極性、メランコリー型。うつ病には見えないと言われますが、それでも再発には気をつけなければいけません。

なので、ときおり依存症とうつの二つを抱えた人から相談を受けることがあります。ところが、話を聞いていると「どうもこの人はうつ病っぽくないな」とか「うつ病ではあり得ない」と感じることがままあるのです。

なぜそんなことが起こるのか、いろいろ考えたり、調べたり、人の話を聞いてみました。ひとつの可能性は、正しい病名が告知されていない場合です。つまり、本人に知らされた病名と、カルテに書かれた病名が違っているわけです。ある種の病気には世間の偏見がべったり張り付いています。正しい病名を告知することで、本人や家族がショックを受け、治療の拒絶・中断を招いてしまっては元も子もありませんから、より受け入れやすい「うつ病」という病名をとりあえず知らせておくというのです。患者の利益を考えれば、インフォームド・コンセントより優先されるわけです。

しかし、それに当てはまらない場合もあります。この場合には医者の診断と本人の知っている病名が同じです。にもかかわらず、うつ病っぽくないのです。これはどうしたことか。医者の診断が間違っているのか?

そんなことを調べていくうちに、操作的診断基準の抱える問題というのに突き当たりました。

操作的診断基準というのは、最近のDSM-IVのことを指します。それが流行る前に使われていた手法は「伝統的な診断」と言われ、病因論に基づいていました。病因というのは病気の原因で、例えばうつ病は内分泌系の異常です。同じように気分が沈んでも、原因が違えばうつ病とは違う病気です。病気ごとにある種のモデルが考えられ、そのモデルに当てはまるかどうかで診断を下します。そのモデルは必ずしも言語化できるものとは限らず、医者が経験によって作り上げるものであるかもしれません(病像)。

例えば統合失調症の人には、言葉では表現しづらいある種の雰囲気があります(硬さみたいなもの)。それはプレコックス感なのかもしれません。そして、その雰囲気の有無が手がかりの一つだと言われれば納得できます。

「ここにいない人の声が聞こえる」という症状があったとします。統合失調の妄想、解離性障害で別人格の声が聞こえている、薬物中毒の離脱症状、広汎性発達障害の妄想や思いこみと、いろいろな可能性が考えられます。症状だけでなく、その背景にある病気の仕組みを考えることは、素人目にも自然に思えます。

しかし、病因や病像を使うことには問題もあります。病気の仕組みは簡単には分からないし、議論の対象にもなります。病像という曖昧なものを頼りにすると、医者が違えば診断が違ってしまう可能性があります(実際プレコックス感を一度も感じたことがないという医者もいる)。

そこで、病因ではなく症状に注目し、診断の基準を明確にしたのが操作的診断基準です。例えば、抑うつ気分が二週間継続していて、明らかに他の病気でなければ、それはDSM-IVの「大うつ病性障害」に当てはまります。そして、大うつ病性障害のことを一般にうつ病と呼んでいるわけです。

こうして考えてみると、伝統的な診断による「うつ病」と、操作的診断基準による「大うつ病性障害」は全く異なる概念だということが分かります。それが一緒くたにされて「うつ病」と呼ばれていることが混乱の原因でしょう。

今の時代、うつ病とされている人の中には、昔のうつ病の概念に当てはまらない人がたくさん含まれています。その人たちに、服薬と休息という伝統的な治療を行っても良くなるとは限りません。

ひとつの病名の中に、いろいろな病気の人が混じっているのが今の時代の特徴

というわけです。

そしてそれはうつ病だけに限った話ではなく、依存症についても同じです。今日の雑記は、

依存症だという診断を受けても、実は依存症じゃない人が結構たくさんいる。

ということを書くための前フリというわけです。そして依存症じゃない人たち(アディクション概念に当てはまらない人たち)が依存症の治療を受けていることが、何らかの歪みを作り出しつつある・・・そういう話を書いていこうと思います。

(ヒマをみつつ続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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