心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年06月03日(木) その概念を他の依存に拡張する

昨日の続きです。

・渇望=アレルギー反応=身体の病気(の相)
・とらわれ=狂気=精神の病気(の相)

さて、この「渇望」と「とらわれ」というアディクション概念を理解すれば、対象をアルコール以外に広げることも可能です。アルコールをギャンブルや覚醒剤に置き換えてみても、まったく同じ図式が当てはまります。

だから、アルコールのためのAAのほかに、ギャンブルのためのGA、薬物のためのNAが存在するのは当たり前のことと言えます。AAのメンバーと、GA、NAのメンバーは「問題」を分かち合うことはできません。それぞれ依存の対象が違うからです。けれど、問題の「解決方法」=12ステップは同じなので、方法を分かち合うことは可能です。

(ビギナーは問題の違いに注目してしまい、解決方法の共通性に目が向きません。それが自分の問題から目をそらす原因となります。だから依存対象ごとにグループを分けるのは意味があると思います)

さて、ここからが本題です。これまでの話は、本題を理解するための前フリでした。

アルコール・薬物・ギャンブルの場合には、健康と病気の間の線引き(境界線)は明確です。アルコールなら酒を飲んでいる・飲んでいないの境目に線が引かれています。しかもその線引きは全員に共通で、僕だけ「一日缶ビール一本までなら断酒のうちね」ということはありません。断酒と飲酒の境界は全員共通です。

アルコールやギャンブルは完全にやめることができます。回復とは完全にやめ続けることです。コントロールを取り戻して、適度に楽しめるようになることではありません。

けれど、依存症によっては完全にやめることができないものもあります。例えば摂食障害の人は食べるのを完全にやめることはできません。買い物依存だからといって、一生買い物をしないわけにもいきません。

完全にやめることができない依存症の場合、コントロールを取り戻すことが回復なのでしょうか? そういう誤解が存在する気がします。僕もこのタイプの依存症に興味を持つまで、なんとなくコントロールを取り戻すのが回復だと誤解していました。

アルコール依存症の場合には、適度に飲める(節酒)ことはない。けれど、摂食障害の場合には適度に食べられるようになり、買い物依存なら適度な買い物が実現するのが回復です。それがあたかも失ったコントロールを取り戻したように見えてしまうわけです。

しかし、そうではありません。「完全にやめる」という点はすべての依存症に共通です。やめるというのは、健康と病気の境界線を踏み越えていかないということです。アルコールやギャンブルの場合は、その境界線が量がゼロのところに引かれているわけです。ゼロじゃないところに引かれている依存症の場合でも、線の向こう側に行っちゃダメという点は共通なのです。

さらに、線の引かれている場所が人によって違ったりするようです。例えば摂食障害は、最近は食べ物依存(food addiction)と呼ぶようですが、どこまでが健康な食事かは人によって違います。ある人は、砂糖を食べると過食おう吐が始まってしまうので、砂糖を使った料理は食べられないのだそうです。この場合砂糖を trigger food と言います。トリガーとは引き金という意味です。この人にとっての砂糖は、アル中にとっての最初の一杯の酒と同じです。カフェインがダメという人もいます。あるいは種類は関係なく量の問題で、御飯を茶碗2杯食べるとダメ。種類でも量でもなく食べる状況が問題だという人もいます。このように、境界線の位置は人によって違うのですが、その向こう側(例えば焼き肉食べ放題に行ってお腹一杯食べてくる)に行けないのは、共通だというわけです。

food plan とは、その人にとってどこまでが健康で安全な食事か示したものですが、これはスポンサーや施設のスタッフが決めてくれるのだそうです。食べ物依存からの回復にはぶり返しがつきものですが、これは境界線の場所が人によって違うために、food planの確定に試行錯誤が避けられないからではないかと思います(この部分は外野の勝手な想像)。

境界線、つまり food plan を守っていくことがアブスティネンス(アルコールで言うところのソーバー、薬で言うところのクリーン)であるわけです。

(ただし過食おう吐には stress coping の効果があり、何らかの精神的疾患、不調の症状として食べ吐きが起きている場合もあるはずです。その場合は、元の疾患が良くなれば食べ物に対する完全なコントロールが戻っても不思議ではありません)。

共依存の場合も同じです。人の世話を焼く行為を完全にやめてしまうことはできません。生きていく以上、人と何らかの関わりは持たねばならないからです。ここも同じように、健康な関わりと病的な関わりの間に線を引くことになり、しかもその線の位置は人によって違ってくるはずで、どこに線を引くかは(おそらく)スポンサーと相談しながら決めていくしかないのでしょう。

買い物依存でも、健康な買い物と病的な買い物の間に線を引くしかありません。

わかりにくいのは感情の問題です。感情に線引きは難しいですから。
例えばある人が、強い恨みの感情を持ち、その恨みを吐出することでストレスフルな環境に耐えていたとします。けれど、それをやるたびに鬱になり仕事を休んでいるとするなら、感情のアディクションを持っていると言えるでしょう。その場合は、健康な感情と病的な感情との間に線を引き、向こう側に行かないようにするしかありません。そして、砂糖が trigger food である人のように、(砂糖のような)一見無害な感情あるいは行動であっても、それがコントロール喪失を引き起こすトリガーになっているのなら、避けていくしかありません。もちろん、どこに線を引くか、何がトリガーになるかは人によって違うでしょう。

ひょっとすると、境界線がゼロ以外のところにあり、その場所が人によって違うのが、各種依存症では普通であり、境界線がゼロの位置になって全員共通であるアルコール・薬物・ギャンブルの依存症が例外的なのかも知れません。

人間関係の中でときどきブチ切れてみるとか、信頼できる友人に愚痴をこぼすという形で陰口を言うとか、そういうことが trigger action になっているなら、それを諦めるのは辛いことでしょう。けれど、アディクション概念に基づいて考えれば、

「普通の人ならできる何かを、病気である私たちは一生諦めねばならない」

ことは分かってもらえるはずです。諦める対象が、一杯の酒であれ、砂糖であれ、陰口であれ、その困難性は変わりありません。その難しさを「自分だけの力では(あるいは人間の力では)絶対にやめられない」と自覚したときに、無力が認められます。

この境界線の曖昧さが「コントロールを取り戻せる依存症もある」という誤解を生んでいるのかも知れない・・・と思い至りました。どこまでがアブスティネンスで、どこからがスリップか。どんな依存症でも、その境界はハッキリさせねばなりません。そうでないと、じくじくとスリップが続く陰気な状態が続いてしまいます。


2010年06月02日(水) アディクションの基礎概念

アディクション(依存症)には、いろいろな種類があります。アルコール、ギャンブル、覚醒剤・・・。それぞれに12ステップのグループがあり、共依存や感情の問題の12ステップグループもあります。

ここではまず、いろんな依存症に共通する概念を考えてみます。

アルコールを例に取ると、飲んでいる状態では「渇望現象」が起きます。強迫性とか、飲酒欲求と呼ばれるもので、もっと飲みたい、飲み続けたいという気持ちです。これによってコントロール喪失が起こり、酒のせいでいろいろなトラブルが起きます。

AAでは渇望現象を「身体のアレルギー」と呼びます。アレルギーとは何らかの物質が身体に入った時に起きる異常反応です。アルコールが身体に入ったとき、アルコール依存症者の身体には「渇望現象」という異常なアレルギー反応が起きる、と考えるわけです。花粉症を意志の力で克服できないように、この渇望を意志の力で乗り越えることはできません。体質によって花粉症になる人ならない人がいるように、依存症になるのも体質の問題です。

(花粉症は免疫系、渇望現象は脳内の報酬系の異常なので、科学的に正確な例えではありませんが、観察される現象は同じです)。

花粉症には抗ヒスタミン剤が有効です。ひょっとすると将来「渇望現象」を抑えて飲酒のコントロールを可能にする科学の進歩があるかもしれませんが、「今はまだできてはいない」わけです。

酒をやめるためには、まずこの渇望を乗り越えて酒を断たねばなりません。渇望が強烈な場合には断酒はなかなか難しくなりますが、最悪でも精神病院の保護室に拘禁して酒から隔離してしまえばいいので、解決可能な問題です。アメリカではアルコールの解毒(デトックス)を専門にやってくれる短期入所施設が増えているのだそうです。

この「渇望現象」は酒をやめ続けていれば消失していきます(ゼロにはならないかも)。飲酒欲求が消えれば問題は解決したと思う人が多いのですが、もしそうならデトックス施設さえあればアルコール依存症の治療は完璧ということになります。

現実には解毒だけでは依存の問題は解決しません。依存症者は渇望現象(飲酒欲求)が消えた後も再飲酒してしまうからです。人はストーブに触って火傷すれば、二度と熱いストーブに触ろうとはしなくなります。僕自身の経験を挙げると、一度古い生ガキにあたったらカキの匂いをかぐだけでも吐き気がするようになりました。これが人の正常な反応です。

ところが、アルコール依存症の人は、あれだけ酒で痛い目にあったのに、また酒に手を出してしまいます。心のどこかで「今度こそ大丈夫だきっと」と思って酒を飲む行為は、今度こそ火傷しないと思ってストーブに触るのと同じです。

これは明らかに自己防衛の本能が損なわれている状態で、何らかの精神の不健康(つまり狂気)が存在しています。「狂気」でなければ、何ヶ月、何年も酒をやめて渇望がなくなった人がまた飲んでしまうことが説明できません。AAではこれに「(精神的)とらわれ」という言葉を与えています。

この狂気を取り除き、精神的な健康を取り戻してくれるのが12のステップです。

つまり依存症には二つの相があります。一つは「渇望現象」に支配された身体的病気の相。AAはこれを治せません。節酒できるようにはしてくれません。もう一つは酒をやめている時期で、精神的とらわれがある精神的病気の相です。AA(あるいは12ステップ)はこちらを治すためのものです。

「酒をやめる」というのは、前者の問題だけでなく、後者の問題が解決されている状態を言うのでしょう。

(もちろんそのための手段が12ステップしかない、と言うつもりはありません)

では、このアディクション概念をアルコール以外の依存症に広げてみましょう。(続く)


2010年05月28日(金) 理解は跳躍する

掲示板にも書きましたが、理解というのは跳躍(leap)するものだと思います。
少なくとも僕の経験ではそうです。

いままで理解できなかったことが、ある日何かをきっかけに突然理解できるようになります。ゆっくり理解が進むこともあるのですが、たいていの場合にはいきなり理解できるようになります。それはたとえれば、川のこちら側から向こう岸にジャンプしたみたいに、突然反対側の岸にいる自分を発見します。途中の川の中をジャブジャブ歩いて渡った記憶はありません。

徐々に理解が進んだ場合でも、その「徐々に」を詳しく見てみると、小さな跳躍の繰り返しになっています。

おそらく理解というのはこういう仕組みになっているのでしょう。
まず理解するには情報が不可欠です。例えばステップ1には「アルコールに対して無力」とありますが、この短い文章だけでその意味が把握できる人はまずいないでしょう。「アルコールに対して無力」とはどういう意味なのか、詳しく知らなければ理解はできません。知識の収集に長けた人は、理解のこの部分は得意だと思います。

しかし理解するためには情報だけでは不十分で、得た知識を現実(例えば自分自身)に当てはめて考えなければなりません。その邪魔をしているのが否認や偏見です。

AAでは「気づき」という言葉を使います。人は自分がアルコールに対して無力であることに「気づく」のです。実は「気づき」とは、否認が解ける瞬間のことでしょう。あるいは、現実に向き合う勇気が出ただけのことかもしれません。ともあれ、気づきは、理解の瞬間でもあります。

努力と成果は正比例しないものですが、この「理解」についてもそれは言えると思います。例えば一回一回のAAミーティングで「小さいながらも確実に気づきが与えられる」ということはありません。出続けていても、さっぱり理解が進まないのが普通です。それでも続けていると、いつか理解の川の向こう岸にいる自分を発見します。

その時のミーティングには意味があった(他はくだらない)、気づくきっかけを与えてくれた人は素晴らしい人だ、というわけではなく、それまで積み重ねた自分の努力に意味があるのでしょう。貯まり続けたダムの水があふれる瞬間にだけ注目してはいけないのだと思います。

僕がビッグブックのやり方に切り替えた後の最初のスポンシーとは、ファミレスなどでよく話をしました。1時間以上そこで話をした後、帰りに駐車場で立ち話をしながら、先ほどの話を蒸し返してみると、実はちっとも分かってもらえてなかった、ということがよくありました。「ひいらぎの話は、ときどき禅問答みたいでよくわからない」と思っていたそうです。そんな彼も、いまではスポンシーを持って、「なんでこんなシンプルなことが分かってもらえないのだろう」と感じるそうです。


2010年05月27日(木) 黒人の少年たちへの言葉

お前には無理だよ、という人のいうことを聞いてはいけない。
もし自分で何かを成し遂げられなかったら、
他人のせいにせず自分のせいにしなさい。

多くの人が僕にもお前には無理だよと言った。
彼らは君に成功して欲しくないんだ。
なぜならば、彼らは成功できなかったから。
途中で諦めてしまったから、だから君にもその夢を諦めて欲しいんだ。
不幸な人は不幸な人を友達にしたいんだ。

決して諦めてはいけない。
自分の周りを、エネルギーであふれ、
しっかりした考えを持っている人で固めなさい。
近くに誰か憧れている人がいたら、その人にアドバイスを求めなさい。

君の人生を考える事ができるのは君だけだ。
君の夢がなんであれ、それに向かって行くんだ。

君は幸せになる為に生まれてきたんだ。

マジック・ジョンソン


A Message For Black Teenagers.

Don't let anyone tell you what you can't do.
If you don't succeed, let it be because of you.
Don't blame it on other people.

A lot of people doubted me, too.
Some people don't want you to make it,
because they're not going to make it.
They're give up, so they want you to give up, too.
As the saying goes, misery loves company.

Don't give up!
Surround yourself with people who are energetic and disciplined.
Surround yourselves with ambitious, positive people.
If there are adults you admire,
don't be afraid to ask them for help and advice.
You're the only one who can make the difference.
Whatever your dream is, go for it.

from "My Life", Earvin Magic Johnson.


2010年05月25日(火) AAとアラノンの関係

僕は海外でのAAミーティングに出たのは、台北のグループに行ったことがあるだけです。台湾はAAが盛んではなく、英語圏のAAメンバーが現地の人にAAを伝えている真っ最中で、グループも首都に一つ。地方に二つあるぐらい。ちょうど1970年代の日本のAAが、M神父とP神父の二人によって始まったばかり、という時代に似ています。

僕が参加したのは土曜日のミーティングでしたが、隣の部屋では家族の人たちがアラノンのミーティングをやっていました。それが終わると、本人も家族も一緒になって、近くの喫茶店でアフターミーティングを楽しんでいました。実際には喫煙室は本人たち、禁煙スペースは家族の人たちにほぼ分かれ、その間を小さな子供たちが行ったり来たり。

こうした光景は珍しいことではなく、世界中のAA(とアラノン)で行われています。ミーティングに一緒に出かけた夫婦が、一方がAAに、もう一方がアラノンに参加し、子供はグループがアルバイトで雇った child care に預けられ、ミーティングが終われば子供を引き取って帰って行く・・。それが当たり前であり、少々極論すれば、ある程度の大きさのAA共同体がある国で、それが実現していないのは日本だけと言ってもいいぐらいです(というか、グループが3つしかない台湾でさえ実現していることです)。

AAとアラノンは一緒にラウンドアップを開催したり、アラノンのオープンスピーカーズにAAメンバーが呼ばれてスピーチをすることも、当たり前のように行われています。

なぜ日本はこうなっていないのか。それは日本のAAとアラノンの仲が悪いからです。なぜ仲が悪くなったのかは、昔のことなので僕は詳しく知りません。僕がAAに来た頃は、もうすでにこの二つの団体は冷たい関係でした。

もちろんAAには12の伝統があり、その6番によって、他の団体と特別な関係になることを戒めています。つまり他の団体と提携したり、傘下に入ったり、傘下におさめたりということができません。けれど「アラノンだけは特別」なのです。それは、ビルとボブが作ったアルコホーリク本人の団体のAAと、ビルの妻のロイスが作った家族の団体という、密接な関係があり、同じ12のステップ、12の伝統という原理と価値観を共有しているからです。

もちろん伝統に従ってお互いの方針に口を挟んだりしないものの、このパートナーシップは世界的にも、歴史の上でも当然のこととされています。

AAにとってアラノンはunqiue(唯一無二)の相手だとされています(ガイドライン「AAとアラノンの関係」)。しかし日本のAAは、唯一無二のパートナーであるアラノンに対して、その他の多くの団体と同じ扱いをしてきました。例えてみれば、酒のせいで仲違いし別居している妻を、他人扱いしているダンナのようなものです。

例えば日本のAAは2000年に12ステップの文言の翻訳文を改定しました。これはビッグブックの翻訳改訂の一部として行われたことですが、日本に12ステップを広げたAAが、その文章を変えることは他の団体にも大きな影響を与えることでした。けれど、ゴーイング・マイ・ウェイな日本のAAは、そのことを外には相談しませんでした。だから「唯一無二の関係であるアラノンに対しても何の相談もなく、AAが勝手に物事を進めた」という悪い心証をアラノン側に与えたとしても不思議ではありません。

実は10年以上前になるのですが、アラノンが二つの団体に分裂してしまったことがあります。AAは家族からの問い合わせがあればアラノンの連絡先を伝えたり、AAの書籍にはアラノンのGSOの電話番号を載せていたわけです。けれど、アラノンが二つになったので困ってしまったのです。どちらか一方だけを選べば、他方を支持しないと表明したも同然。では両方掲載しようか、などと話し合ったあげく、結局AAの評議会で、どちらも掲載しないことになりました。

けれど何も載せないわけにはいきません。仕方なくアメリカのバージニア州にあるアラノンのWSOの連絡先を掲載してきました。日本の人に対して、バージニアの連絡先を教える・・・こんな不自然で不親切なことを、日本のAAは10年以上も続けてきてしまったのです。

しかし、時を経てアラノンは再び一つの団体に戻りました。騒ぎも過去のこととなり、AAの書籍にアラノンGSOの連絡先を掲載する、という議題が提出されたとき、この問題に関心があるメンバーは、議案はすんなり承認されるだろう、と予想しました。

・・がしかし、そうはなりませんでした。30人で協議する全国評議会では結論が出ずに、常任理事会に委ねられ、理事会では1回の議論であっさり否決されてしまいました。今後ともAAの書籍はバージニアのアラノンを紹介し続けていくことになったわけです。

なんだそれ?

僕は評議会には行っていませんし、理事会へは参加資格がありません。だからその場の議論の内容は知りませんが、報告書などでその話を探ると、どうやら(日本の)アラノンがアルコールだけでなく薬物の問題も扱っていることが問題にされたようです。つまり、AAはアルコールだけなのに、アラノンはアルコールと薬物となると、バランスが取れない。パートナーとしてふさわしくない、というわけだ。

確かにAAはアルコールだけという縛りがあります。各グループやメンバーがそこから逸脱するのは勝手ですが、団体としてはそれは守っていかねばなりません。けれど、アラノン側から「AAも薬物を扱ったらどうですか」と言ってきたわけではなく、それはアラノンの事情であってAAには無関係のことです。

そりゃ薬物うんぬんも大事ですが、それは相手のことです。それよりもっと大事なことは、自分たちがどうあるべきか、ということのはずです。

日本のAAメンバーにアラノンとの関係の話を振ってみても、そもそも「AAとアラノンの特別な関係」を知らず、AAにとってアラノンもその他大勢の団体の一つに過ぎないと思っている人が多いのです。これは長い不幸な歴史がそうさせてしまったのでしょう。一方、数は少ないものの、アラノンに関心のある人の口から出てくるのは「アラノンのここが気に入らない」という話です。それはわからなくもない。僕だってそういう気持ちになることもあります。けれど、関係改善を目指すのなら、そんなことを言っていても始まりません。

僕はスポンサーという立場になったり、ソーバーも少し長くなって「先ゆく仲間」として相談を受けることがあり、その中には夫婦仲が悪いという相談もあります。夫婦仲が悪いときは、ダンナの側は「妻の態度が悪い。妻のあそこがここが気に入らない」という話をするものです(逆も真ですけど)。僕も男なので、その立場に同調できなくもありません。けれど、相手の気に入らない点をあげつらって非難していたのでは、夫婦仲の改善が見込めないのは明らかです。相手をそういう態度にさせているのは、自分の態度が悪いからではないか、という観点で自分をチェックし、「自分の」落ち度を正していくしかありません。「自分の側の掃除をする」というのが、AAのステップなのですから。

これと同じことを、AAとアラノンの関係に当てはめてみれば、どうすればいいかは自ずと明らかです。「アラノンは薬物がうんぬん」とぶつぶつ言っているのは、AAの側のみっともない言い訳でしかありません。まずAAの側で、正すべきことがあるはずです。

「変えられるのは自分だけ」とか「自分の側を掃除する」という言葉は、AAにいれば耳タコで聞かされる話です。

どういう判断が下されるべきだったか、ステップを基盤に考えれば導かれる結論はひとつしかない。そう思うのですが・・・。


2010年05月21日(金) 持っているもの

先日ホームグループでバースデイ・ミーティングをやらせてもらいました。
そこで「ひいらぎさんて、好きなようにに生きているっていうか、好きなことばっかりやっているという感じがします」と言われました。

好きなように生きているのは確かですが、好きなことばかりやっているわけではありません。生きていれば、嫌なこと、やりたくないことだってしなくちゃなりません。だいたい、今僕がやっているいろんなことは、僕が手を伸ばして選んだことばかりじゃなく、いろんな事情があって僕に回ってきてやらざるを得なくなったことも少なくありません。

だからといって、「本当はやりたくなかったのに、貧乏くじを引かされた」とぶつぶつ文句を言っていたって、人生はちっとも楽しくなりません。

別に僕が上手にできなくたって、ちっとも構わないと思ってます。神さまじゃないんだから、全部の問題を解決できないのは当然だし、ミスや失敗があって当たり前です。それに、状況に逆らわずに流されることが大事な局面だって当然あるでしょ。

例えばこの雑記だって、間違ったことを書くこともあります。で、どうして間違えちゃいけないのか。神さまじゃないんだから、間違えることだってあります。これを読みに来る人だって、まさか「神の言葉」を期待している訳じゃないでしょう。ミスや失敗は僕の「人間らしさ」の証明だし、それで一番恥をかくのは僕ですからね。

楽しいこと、面白いことばかりやろうとすると、いつの間にかそれがつまらなく感じられてしまうものです。それよりも、たまたま自分のところへ回ってきたことを、なるべく楽しもうという姿勢が必要なんじゃないのかな。

大事なことは、自分を哀れな状況の犠牲者だと思わないこと。それと、何でも自分の思い通りにしようと思わないこと。それに、しっかりした考え方の人で自分の周りを固めること。

僕だって十何年か前には、AAミーティングで酒臭い息を吐きながら、「生きる意味が分からない。何のために生きているのか分からない」と泣き言を言ってたわけですよ。

「私たちは陰気な人間の集まりではない。新しい仲間が、私たちの生き方に何の喜びも楽しみも見つけられなければ、彼らは私たちのように生きることを望むはずがない。人生を大いに楽しむことを、私たちは全面的に強調したい」(p.192)

持っていないものは手渡せないので、金持ちになる方法とか、有名になる方法とかは教えてあげられません。僕が持っているのは人生を楽しむ方法(つまりステップ)で、それがうらやましいと思ってもらえたのなら、僕もうれしい。


2010年05月20日(木) 脱抑制

横浜のアディクションセミナーで「ひいらぎさん、忙しいんですね」と言われて、ああ、自分は忙しいのかと自覚した次第です。忙しさの自覚がないのも困ったもので、「なんてことだ、あれもできてないし、これも間に合ってない。自分はなんて能力不足なんだろう」と、自己肯定が低下しまくりなのです。けれど、能力不足が欠点なのではなく、能力以上に引き受けてしまうのが問題なのですな。
冷徹な判断力で「これ以上できません」と断ることができない。それはつまり「頭が悪い」とか「ステップできてない」ってことなのですが、それは認めたくないので実務能力不足という設定にしてしまうわけです。このように「自分の問題から目をそらす速度には自信がある」わけです。

さて「脱抑制」の話。
うつ病と自殺には関係があるのですが、うつが本当に重いときは自殺も起きません。これはうつで行動力・決断力が削がれているので、自殺という行動を起こすことすらできなくなっているわけです。うつが改善してくると、行動力・決断力も復元してくるので、「自殺ができる」ようになります。

ここで抑制という言葉を「こらえ」という言葉に置き換えてみると、多少分かりやすくなります。つまり脱抑制とは「こらえ」が効かなくなる状態。こらえるのは理性の健康な働きで、そのおかげで死にたくなっても死なずに済んでいるわけです。だから、うつが良くなってきたときに、自殺(企図)、自傷行為などの逸脱行動に気をつける必要があります。

脱抑制をネットで検索してみると、認知症のケアのページが見つかります。認知症でも脱抑制が起こるのは、それが部分的な脳の機能低下と考えれば分かりやすくなります。

・後先を考えずに行動する
・感情をむき出しにする
・場違いな言動
・肯定的な意見以外認めない
・冷静になるのに人の助けが必要

易怒性と並べて書かれていたりとか。
発達障害では、IQが低くなると情動も不安定になるんだそうで、これも抑制機能の低下というわけでしょう。

アルコールも脱抑制をもたらします。脳の高次機能としての抑制機能が酔いによって失われた結果、普段は理性がタガをはめてできなくしていることが、「できるようになってしまう」わけです。普段言いたくても言えなかったことが、言えてしまったりとか。その「酒による解放感」を繰り返し求めてしまうのは、酒が好きなのじゃなくて、酔いが好きなのです。なので、酒をやめただけだと、酔える対象を変えてアディクションが続いてしまいがちというわけ。

うつの薬は全般的に低下した脳の機能を賦活させる働きをするわけですが、決断・実行能力が先に回復して、抑制する能力が遅れると、結果として薬のせいで脱抑制が出現することがあります。(本人にはイライラすると感じられる)。

長年アルコールを使っていると、この脱抑制が脳から取れなくなってしまうようで、アル中は酒をやめた後も脱抑制・易怒性が目立ちます。(断酒板で逸脱行動が目立つのはそのせい)。失われた機能を回復させるには、時間も必要だし、リハビリもいるのでしょう。

脱抑制という言葉から見えてくるのは、「こらえる」能力というのは精神の健康の大事な要素だってことです。それは立つでも座るでもない「中腰で耐える能力」、白でも黒でもない曖昧なものを許容する能力、矛盾したものを引き受ける能力、などとつながっているのでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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