心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年05月18日(火) 安定したおばさん

「AAメンバーは一生ミーティングに通い続ける必要があるのか?」

という質問を受けることがあります。僕の答えは、どうやらその必要がなさそうな人たちが相当数いる、というものです。

たぶんこのネタについてネットで書くのは初めてではないかな。

過去にAAミーティングに行っていたが、現在は滅多に行かない、けれど再飲酒のリスクはさほど高くなさそうな人たちが確かに存在します。そして、僕の知る限り、そのほとんどが女性です。条件だしをしましょう。

・年齢的にはおばさんからおばあさん。
・過去には熱心にAAに通っていた時期があった(けれど現在は滅多に行かない)。
・飲んでいない期間は長い(10年以上とか)。
・ダンナがいて、安定したトラブルの少ない結婚生活を継続している。
・家族親族、地域社会、職場などでそれなりに安定した人間関係が保たれている。
・人格障害や発達障害などの依存症以外の問題が存在しないか目立たない。

もちろん僕とこの人たちの接点は多くないわけです。表面上は平静でも、実は日常生活は波乱に満ちている・・という可能性がないわけではありませんが、たぶんそんなことはないでしょう。

この人たちの安定したソブラエティが高度な霊的進歩の結果なのかどうか、それは分かりません。どっちかっていうと「どこからみても普通のおばさん」です。この「どこから見てもふつうのおばさん」というところが大事なのでしょう。特異な感じ、特別な感じがないということです。

目立つ存在になることで自分の価値を周囲に認めさせよう、という欲求が薄れ、ベクトルが「平凡」に向かっているという感じ。こういう人たちはネット断酒とかやらないでしょうね(そもそもパソコンとかしなさそうだし)。

・・それに比べると男はダメですな。


2010年05月17日(月) アディクションセミナーに参加

横浜のアディクションセミナーに行ってきました。
もう20年以上続いている催し物ですが、僕は初めて参加しました。

中身について個々に書くことはできないので、印象に残ったり、思いついたことだけメモしておきます。

ギャンブル依存症で、例えば対象はポーカーゲーム賭博という人の場合。賭博には詳しくないのですが、賭博用のゲーム機ではなく、普通に風営法で許可を得た賭博の絡まないゲーム機を置いてある店もあるのだそうです。

で、ポーカーゲームをやっても「賭けなければいいんだろう」と、そういう(普通の)ゲーム機で遊ぶのだそうです。でも、もうその時点でスリップは始まっていて、やがて賭博店に出入りするようになってしまうのだとか。

ノンアルコールのビールなら大丈夫だろう・・・そう思っていると、やがて本物のビールを飲むようになってしまう、という話と同じ図式ですね。

午前中はオープンスピーカーズ、午後の分科会は前半は回復研に参加。後半は女性の回復施設か共依存のグループの分科会に参加しようと思ったのですが、行ってみると部屋の中が女性ばかりでとても入れる雰囲気じゃなかったので、すごすご退散してロビーで雑談して過ごしました。

前日の上映会で見た映画『アヒルの子』の監督&主演の小野さやかさんが、フォーラムの入り口で映画のパンフを配っていました。ちょっと感想をお話しして、「20才であんな映画が撮れるなんて、嫉ましいぐらいの才能だ」と言ったらグーでパンチされてしまいました。
映画も見ないでサインをもらったヤツは、ちゃんと見に行って欲しい。
http://ahiru-no-ko.com/
ご本人は「私そんな(サインを求められるような)じゃない」とご謙遜でしたが、いやそんなことはないはず。

内容はリンク先を見ていただければわかりますが、5歳の時に1年間親元を離れ、ヤマギシ会の幼年部に預けられた少女が、それを「親に捨てられた」と思い、二度と捨てられないためにその後ずっと「良い子」を演じてきた。そうやって自分を失った彼女が、自分を取り戻すために撮影カメラを携えて家族一人一人と対峙していくという話。

柳美里のような文章であれば主観でなんとでも描写できますが、映画の場合(編集が入るにせよ)カメラはすべてを映し出してしまいます。「アヒルの子」については、記憶が新鮮なうちにまた別のところ(たぶん「家出」)で書きたいと思います。前日の上映会の後にワークショップがあり、たぶんそこで映画の後の5年間の話を聞けたのが、僕にとって良かったのでしょう。

そのワークショップで芹沢俊介から2メートルのところに自分がいたとは、思い出してもちょっと信じられません。自分もあんなふうになれたらいいと思うのですが、まあ無理でしょう。

話をアディクションセミナーに戻して、ある人が「日本の自助グループは、いままで問題ばかりが分かち合われてきた」という話をしていました。同じ悩み、苦しみを抱えた人がミーティングに集まって「ほっ」とする。その「ほっ」とするところで終わっており、問題をどうやって解決していくかという話になかなかならなかった。それが昨今一歩進んで、解決方法とか、解決した結果どうなったか、という話が分かち合われるようになってきた、というわけです。

日本の自助グループが、いま転換点にさしかかっていて、いままでと考え方ややり方が変わっていくという意識がずいぶん共有されていると思います。ともかく僕は、その現場に立ち会って(というか巻き込まれて)いきたいのです。

帰ったらメーリングリストに同じ話が出ていました。

たぶん賢さとは、どのように状況に巻き込まれるかだと思うのです。


2010年05月14日(金) 表現形

用事があって、初めてGA(ギャンブラーズ・アノニマス)のミーティングに出席しました。クローズドだったのですが、「同じ12ステップグループの仲間だから」という理由で、中に入れて頂きました(僕は聞いているだけで経験はシェアしませんでしたけど)。

その日初めて人(ニューカマー)が来たということもあったのか、分かち合いの内容は「解決方法」よりも「問題」の分かち合いが多めでした。アルコールとギャンブル、対象は違っても、肉体のアレルギー(一度手をつけるとコントロールが効かなくなる)、精神的とらわれ(せっかくやめているのにまた手をつけてしまう)、という病気の本質は何も変わりません。

その点、アルコールは合法で、覚醒剤は違法だ、という区別は何の意味もありません。それは道徳や法律に関しての区別であって、病気の問題とは違います。合法・違法にこだわる人は、これが道徳の問題ではなく病気だ、という言葉の意味がつかめていないからこそ、そこにこだわれるわけです。

しかしビギナーにとって、依存の対象の違いは大きな違いです。覚醒剤で刑務所に入ったという話を聞いて、アルコールのビギナーが「俺はそこまでヒドくない」と否認に入ってしまうことは良くあるわけです。だから、依存の対象ごとにグループが分かれているのも、うなずける話です。(だからといって、ビールでアル中になった人と、ワインでアル中になった人を別ける必要はないと思いますけど)。

逆に、依存対象の違いが気にならなくなってくれば、それはビギナー卒業の時期が来たってことなのかもしれません(目安の一つにはなる、ぐらいの意味)。

話を聞いていると、ギャンブルの人は借金がすごい。そのかわり(肝臓が悪くならないせいか)ニューカマーでも顔色はそれほど悪くありません。

ただし、借金というのは病気の本質ではなく、表面に現れてきたものにすぎません。アルコールの人にとっての内臓の病気(肝臓の数値とか)、薬物の人にとっての刑務所や執行猶予と同じ、病気の表現形というわけです。

この週末は横浜のアディクションセミナーに行く予定です。


2010年05月13日(木) 数え方

「死んだ子の年を数える」という言葉があります。
いまさらどうしようもない過去のことを嘆く意味です。

死んでいなくて、生きている子供の年も数えます。
赤ん坊が生まれれば「生後何日」と数えます。
しばらくすれば何ヶ月と数え、細かい人だと何ヶ月と何日まで数えるかもしれません。
1年の誕生日には親戚を呼んで誕生会をやるぐらいうれしい。
1年を過ぎれば1年と何ヶ月と数えますが、2才3才となっていけば「何ヶ月」の部分が取り去られ「うちの子は何才です」という表現になり、中学生高校生になれば「お子さん何才ですか?」という質問に対して、とっさには答えられず学年や生年から計算しないと数が出てこなくなります。
なぜこのように最初は数を細かく数え、年数が経つと粗くなるのか?
それはおそらく、生まれた直後は子供がいることが新鮮な感動で、年を経ると子供が存在して当たり前の日常になっていくからでしょう。(刺激閾値の上昇?)

断酒後の日数の数え方も同じ感じです。
断酒直後は「断酒何日」と数え、やがて何ヶ月、もうすぐ1年、1年と何ヶ月・・という数え方になっていきます。3年、5年と経ってくると「何ヶ月」という端数はあまり重要ではなくなってきます。十年を超えてくると、「お酒をやめてどれくらいですか?」という質問に答えるのに簡単な計算が必要になってきます。その先はまだ経験がないからわかりません。

断酒9ヶ月の人が「あと3ヶ月で1年です」と言うのは自然なことだと思います。1年目前の人が「あと3日で1年です」というのと同じ。けれど、例えば3年経った人が「私の断酒歴は3年5ヶ月15日です」と表現するのはかなり変な感じです。それは「私の息子は3才と5ヶ月15日です」と同じで、「何でそんなに細かく数えるのか?」という疑問(違和感)を聞く側に与えます。普通は「息子は三才半です」ぐらいのものでしょう? (断酒千何日目ですというのも同じ類かも)。

なんでそんなに細かく数えるのか? ご本人の心の中まではわかりませんが、「死んだ子の年を数える」心理なのかもしれません。その人の中では、手放したお酒=死んだ子供になっている。我慢の断酒が続いている、ということなのではないかな、と。

自分のソーバー(断酒歴)の長さをどう表現するか。その年数をどれぐらい強調するか。そういったことは、その人のソーバーの質を計る一つの目安になると思うのです。

なんでこんな「人のソーバーの質を計る」という話をするかというと、スポンサーをやるためには、スポンシーのコンディションを把握するためのスキルやテクニックが必要になってくるからです。そのためには、なるべくいろいろな指標を使えた方が便利です。霊的であるということは実際的であるということだ、とビルも書いているしね。

また自分の状態を知る指標になることもあります。もう何年もやめているのに、「俺はソーバー何年だ」と強調したい気分になったときは、自分のソブラエティの質を表現するのに年数以外の手段を失っているのではないか? つまりコンディションが悪くなっているのではないか、と自分に問うことができます。


2010年05月12日(水) 適者生存

いろいろな人種が混じって住んでいるアメリカでは、白人の多いミーティングもあれば、黒人の多いミーティングもあるのだそうです。町の中心部の黒人居住地帯では、当然黒人ばっかりのミーティングになり、郊外の住宅地のミーティングでは白人ばかりになります。例えば白人の人の、たまたま一番近い会場が黒人の多い会場だったりすると、そこをホームグループにはせずに、ちょっと離れていても白人の多い会場に行くようになるのだとか。

人種以外にも、職業とか、AAプログラムの解釈によって、相性の良い人たちが集まってグループを作っているのだそうで、これを「適者生存」と呼びます。

適者生存とは、進化論で「その環境に適した形態を持ったものが生き残り繁栄していく」という考え方です。

ちょっと僕の周りを見渡してみても、いろいろなAAグループがあります。
例えば僕の属しているグループは「AAとして最もオーソドックスなところを目指す」とか言っちゃってビッグブックしか使いませんし、「仲間」も大事ではあるんだけど、それより「原理」を重視し、ミーティングでも神とかハイヤーパワーという言葉が普通に出てくるし、スポンサーシップを持たないなんてあり得ねえ、という態度です。

けれど、仲間の交流こそAAの原理だと解釈しているグループだってあります(そういうグループのミーティングでは神という言葉は刺身のツマみたいなもんです)。あるいは、ステップ!ステップ!とうるさいことを言わず、ミーティングでもアルコールの話はほとんど出てこなくて、ともかく毎週のミーティングに来て酒をやめ続けることが大事なんだという気楽なグループもあります。

広く見渡せば、生活保護の人ばっかりの会場もあれば、サラリーマンばかりのところもあります。男ばっかりで汗くさい(比喩的な意味で)会場もあれば、ほとんど女性ばっかりというグループもあります。

いろんな雰囲気、いろんな特性を持った会場やグループがあり、その環境に適した人がその会場に残って、ますますその雰囲気を強めていくわけです。だから、ビギナーには「なるべくあっちこっちへ行って、自分にあったところを見つけるように」というアドバイスが必要です。

当然僕は「自分のグループのやり方が最も正しい」と思っているからこそ、そういうグループのメンバーをやっているわけですが、その一方で「AAグループのこのバリエーションがAAの魅力のひとつであり、多様性がAAの永続性を保証してくれる」とも思っているわけです。生物学をかじったことのある人ならば、均一性が脆弱性を、多様性がロバスト性を意味することを理解して頂けるでしょう。

話は変わって、僕は先日出張で韓国に初めて行ったのですが、その経験を持ってして「韓国のことがすべて分かった」つもりになったら「単なるバカ」と思われるだけでしょう。たった数日の滞在でその国の全体像を把握することはできないのですから。だから、外国の土産話を聞く人たちは、その内容が局所的なことにすぎず、その国全体の話とは限らないことを、きちんと分かっていて聞くわけです。

けれど、これがAAとなると不思議な現象が起こります。わずか一つか二つの会場に数回出席しただけの人が、AAのことをすべて理解したかのように「AAとはこうである」と説明し、聞く方もそれをAAに関する普遍的な真実であるかのように解釈します。AAについては様々な誤解が存在していますが、その多くはこうした「AA土産話」が広がった結果です。群盲象をなんとやら、というやつです。

AAメンバーの中にも、この多様性が強さであると理解しない人たちがいるのは残念なことです。


2010年05月11日(火) この半年

11月
ミーティング 8
病院メッセージ 1
委員会 2
イベント 2
ステップを渡す 1

12月
ミーティング 7
ステップを渡す 2

1月
ミーティング 7
委員会 1
ステップを渡す 4

2月
ミーティング 6
委員会 1
イベント 1
ステップを渡す 3

3月
ミーティング 7
病院メッセージ 2
イベント 1
ステップを渡す 2
その他 1

4月
ミーティング 9
委員会 1


2010年05月10日(月) 近況

用事があって断酒会におじゃましました。
火事で三人が亡くなった事件のことが話題になっていました。依存症で最近退院された人だったのですが、焼けた家の中でご本人が、それとお墓の近くで燃えた車の中からご両親が発見されました。死因はそれぞれ一酸化炭素中毒と焼死。新聞やテレビで事件のニュースが流されましたが、依存症のことについてはひと言も触れられていません。
今日は「どうしてこのような悲劇が起きたのか、それを知らせねばならんのだ」という話を新聞記者にしてきた、と会長さん。

ここの断酒会は野菜の産地にあり、行くたびに野菜をおみやげに頂いてきます。今回も「ブロッコリーいらねえか?」と聞かれました。僕はブロッコリーが大好きなので「ぜひ頂きます」と答えたのですが、ブロッコリーはブロッコリーでも、ブロッコリーの苗でした。それを十数本もらってしまったのです。

「30センチ間隔で植えればいい。肥料は野菜用の三要素のやつでな」

三要素って窒素、リン酸、カリウムだっけか。

借家の狭い庭はすでにイチゴやらハーブで埋まっているのですが、なんとか隙間を見つけて数本植え付けました。それでもまだ半分あります。実家の田植えに行くついでに持って行って、カーネーションと一緒に母に渡せばいいや、と思っていたのですが、持って行くのを忘れてしまいました。「お前のやることはいつもそうだ」とは母の言葉です。

さて、どうしたもんだ。

庭を持っているスポンシーに「ブロッコリーの苗いらない?」と電話したところ、近くまで来てくれるというので、近所で待ち合わせしました・・・が、そこへも苗を忘れていってしまい、結局我が家に来てお茶を飲みながら少し話をしました。

彼がAAに来たのは5年前ですが、当時は彼が今のように「スッキリとなる」とは想像もつきませんでした。最初は再飲酒もあったし、その後2年間は酒は止まっていたものの、処方薬の多用が続いていました。そのスッキリしない状態でもミーティングに通い続けたからこそ、その後の彼があったのでしょう。スッキリしだしたのは、薬の乱用をもとにソーバーをリセットして断薬し、ステップをもう一度1からやり直してからでした。おそらく断薬とステップの相乗効果だったのでしょう。

あのころ彼が患っていた「うつ」が、本当の?うつ病だったのか、それともアルコール性のうつ症状(や安定剤の相反作用)だったのか、両者の混合だったのか。それは今の僕には判断がつきません。ともかくアル中の「うつ」は治りうるものなのだ、というひとつの証拠を示してくれます。

ブロッコリーは順調にいけば2ヶ月ほどで収穫できるそうです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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