心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年01月07日(木) 発達障害について(その6)

自閉症グループの子供は、驚くほど記憶力がよいことが知られています。

例えば子供の頃にお母さんに「お前なんかいらない」と言われると、大人になっても言われた日付まで含めてしっかり覚えていたりします。施設に預けられた子供が、そこでの職員との会話を忠実に再現したおかげで、施設スタッフの言葉の暴力が明らかになったという話もあります。
興味を持ったことは覚えるので、天気の週間予報を全部覚えていたり、ポケモンのキャラクターの名前を全部言えたりします。しかし、暗記が得意というわけではないようで、興味のないことに記憶力は発揮されないようです。

記憶力はすぐれているけれど、想像すること、応用することは苦手です。

標準誤信課題というテストがあります。

「A君はチョコレートを後で食べようと<机の中>にしまって遊びに出かけました。A君がいないあいだに、お母さんがそのチョコレートを<戸棚>にしまいました。その後で、A君が帰ってきました。A君はチョコがどこに入っていると思いますか?」

A君はお母さんの行動を知らないので、正解は<机の中>です。けれど、3歳児の多くは<戸棚>と答えてしまうのだそうです。人の気持ちよりも、事実に引きずられてしまうのです。これが4才になるとほとんどの子が正解できるようになります。

最初にチョコレートの箱を見せ「何が入っていると思う?」と聞くと、答えは「チョコ」です。でも開けてみせると中には鉛筆が入っています。そこで、「最初に見たとき、何が入っていると思った?」と聞くと、3歳児は「鉛筆」と答えてしまいます。過去の自分の気持ちより、現在の事実に引きずられてしまいます。
「他の子はこの箱を見て、何が入っていると思うかな?」と聞いても、やっぱり「鉛筆」と答えてしまいます。これが4才になると正解を答えられるようになります。

つまり健常な子は3才から4才になるあたりで、「人の気持ちを想像し理解する能力」や「過去と現在の自分の気持ちを区別する能力」を手に入れます。相手の気持ちを想像して嘘をつく能力も手に入れます。こうした能力を「心の理論」と呼びます。

いつも挨拶をする人が、今日は挨拶をしてくれない。あれ、なにか気分を害してしまっただろうか、と心配するのも「心の理論」が獲得されているからで、これがなければ極めてマイペースな人になります。

知能の遅れがあるダウン症児でも「心の理論」の獲得に問題がないことが分かっています。一方、自閉症児は心の理論の獲得がないことが知られています。

アスペルガーのような知能の遅れがない高機能群では、9〜10才ごろにこの課題をクリアすることが知られています(つまり普通の子の4〜5年遅れ)。しかし普通の人のように直感的に相手の気持ちを読むのではなく、推論を重ねて人の気持ちを理解していることが確かめられています(つまり心の理論そのものの獲得ではない)。
例えば、相手のほほの筋肉が動かず低い声でしゃべっていれば「不機嫌」、目が大きく開かれ口の角があがっていれば「喜んでいる」。おそらく、持ち前の記憶力の良さが発揮され、状況ごとに辞書が作られていくのでしょう。やはり新しい状況は苦手なようです。

このように「心の理論」の獲得がないために、人の気持ちをおもんぱかる、場の雰囲気を読んで正しい行動を選択する、ということが苦手になってしまうのです。

(続きますよ)


2010年01月06日(水) 発達障害について(その5)

自閉症の特徴の一つは、情報の選択ができないことです。
人間の五感には様々な情報が流れ込んできますが、必要な情報を注意選択する機能があります。例えば赤ちゃんは目の前の扇風機の音がうるさくても、その向こうから聞こえてくるお母さんの声に注意を固定します。ところが自閉症の場合には、この注意選択の機能が働かないため、情報の洪水の中で立ち往生してしまいます。

成長するにつれ注意を固定することができるようになりますが、それには意識的な集中が必要なため、しばしば過剰な選択が働いてしまい、必要な情報がすっぽり抜け落ちてしまう、ということが起こります。

こうした情報の洪水に対抗するために、自閉症児は自分で一定のリズムを持った刺激を作り出して、外からの不快な情報を遮断します。目の前で手のひらをひらひら振る、座りながら体を前後左右に振り子のように振る、目も回さずにくるくる回る、など。

また成長すると「解離」を使うことで、外からの情報を遮断するテクニックを使う人もいるそうです。

知覚の過敏性もあります。
普通の赤ちゃんはだっこやおんぶを喜びますが、自閉症児を抱きしめようとするとパニックになり、おんぶすれば母親の背中から離れようとのけぞります。これは皮膚の感覚が過敏なため「触られると痛い」からです。シャワーも痛がって嫌がる子が多く、入浴が嫌いになったりします。服が肌を刺激することを好まないため、服を着たがらず、靴を履いたり帽子をかぶるのがひどく苦手な子もいます。音に対しても敏感で、音楽などの大きな音を嫌がります。

こうした過敏性がある一方で、やけどや怪我の痛みには鈍感だったりします。寒さに対して鈍感であると(服への過敏性もあいまって)他の人が厚着をするようになっても、薄着で寒がらないこともあります。

知覚過敏と過剰選択があるため、例えば手を握りながら話しかけると、握られた手の感覚で頭がいっぱいになってしまい、話が無視されてしまいます。このため、後述するアスペルガーの人も含めてPDDの人に話かけるとき、話の中身に注意を向けてもらいたければ、こちらの顔の表情を変えず、声のイントネーションも抑えて平板に話すことが必要になります。

蛍光灯の細かなチカチカが気になる、白地に黒い字の印刷ではコントラストが強すぎるなどとも書かれていました。

(つづく)


2010年01月05日(火) 発達障害について(その4)

さて話は、知的障害から広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)に移ります。

広汎性発達障害(PDD)には、旧来の自閉症(カナー自閉症)、アスペルガー症候群、レット障害、小児崩壊性障害、非定型自閉症(PDDNOS)の5つが含まれます。これが一つのくくりになっているのは、以下の三つの基本症状がどれにも共通して存在するからです。

 ・社会性の障害
 ・言語とコミュニケーションの障害
 ・想像力の障害と、それに基づく行動の傷害

この三つの症状は知的なハンディキャップについて何も述べていません。PDDであっても知的障害を伴わない人たちがいるわけで、IQ70以上を「高機能広汎性発達障害」と呼びます。アスペルガーがその典型です。その多くは既述の通り境界知能ですが、中には高いIQを示す人もいます。しかしIQが高いながらも、言語理解に対する得点が低くなるのが特徴です(つまり頭は良くても言語の障害がある)。

いろいろと話を広げる前に、まずカナーの自閉症から始めます。

赤ちゃんに近づくと、赤ちゃんはじっとこちらを見つめるので、お互い視線が合います。お母さんの顔を見れば微笑み、お母さんが離れると後を追おうとします(後追い行動)。自閉症児の場合、こうした愛着行動がずいぶん遅れ、歩けるようになると興味の対象(換気扇など)に向かって勝手に走ってしまうので簡単に迷子になってしまいます。

人と感情を共有することが苦手なのがPDD全体の特徴で、自閉症児ではお母さんと一緒に何かを見てきゃっきゃっと笑うことが少なく、かわりに自分の興味に没頭します。(人に興味がないと言われる)。

杉山先生の本を読むと、自閉症の社会的障害は「自分の体験と人の体験が重なり合う前提が成り立たない」とまとめてあります。引き合いに出されているのが「逆転バイバイ」です。

普通の赤ちゃんは0才の後半になると、大人のまねをして「バイバイ」と手を振ってくれます。このとき赤ちゃんの手のひらは、こちらを向いていますから、赤ちゃんには自分の手の甲が見えているはずです。
自閉症の子供もバイバイをするようになるますが、このとき自分に手のひらを向けてバイバイとやります。これが逆転バイバイです。大人がしてくれるバイバイをそのまま再現してしまうのです。

では普通の赤ちゃんは、なぜ相手に手のひらを向けてバイバイができるのか。それは自分の体験と人の体験が重なるという前提があるために、相手からどう見えるかが論理を使って考えなくても分かるからです。しかし自閉症の場合にはここに障害があるため、見たものを視覚的にそのまま再現するわけです。

健常な子供が1才前後で言葉を発し始めるのに対し、自閉症児ではこれが遅れます(アスペルガーの場合には遅れない)。言葉が出始めるとオウム返しをします。お母さんが「ジュースが欲しいの?」と聞くと、「ジュースが欲しいの?」と疑問文で返します。そっくりコピーしてしまうところは前述の逆転バイバイと同じです。つまり、自閉症の言語の障害には、社会性の障害が乗っかっています。

このほか偏食やこだわり行動、目の前で手を振るなどの自己刺激行動、トイレや服の身辺自立の困難、眠らないなどで、お母さんが子育てに悩み、「病気かも」と思って受診して自閉症の診断が行われることが多いようです。

(もちろん続く)


2010年01月04日(月) あれ?

月曜から勤務日だと思い、9時前に出勤し(といっても部屋を移動するだけ)、パソコンでタイムカードを打刻しました。タイムカードは本社サーバーのグループウェア上にあって、VPNで接続しています。そしていつもどおりネット上の予定表を確認すると「年始休暇」の赤い文字が記されており、所在表を見ると同僚は誰も出勤していません。
どうやら仕事は火曜日からだったようです。

男性に比べて女性のアルコホーリックの回復は遅いのか? という話が一部でちらほら出ていました。少なくとも、ビッグブックのやり方でステップをやっている女性たちを見る限り、男性より時間がかかっているとは思えません。つまり、12ステップの効き目に性差はないと思われます。

けれど、僕がAAにつながった頃から、女性の回復は遅いという話をときどき聞きます。それはどういう尺度で測っているのか? おそらく社会性をなにかの目安で計っているのでしょう。しかし、そもそも女性と男性で社会的役割に違いがあるわけですから、いくらAAも男社会だからといって、男性用の物差しで女性の回復を計る(もしくはその逆)こと自体がナンセンスだと思うのです。

女性の社会進出を例に考えても、仕事のキャリアを中断せず、家のこと子どものことを完璧にこなす、なんてことができるのは一部のスーパーウーマンだけです。同じことはアルコホリズムの回復の分野にも言えて、家族の世話と自分の回復、おまけにパートで金を稼ぐことまでそつなくこなさなければ回復ではない、なんて価値観になったら、回復したと言われる女性はほんの一握りになってしまうでしょう。

さて話は変わり、正月にTSUTAYAへいったら、本棚に発達障害の本が二十冊ぐらい並んでいました。ちょっとしたブームになっているのでしょうか。発達障害について書くに当たって、まず知能について書いたのは、境界知能(IQ70〜84)を取り上げたかったからです。知的障害を持たない発達障害を、軽度発達障害と総称します。この軽度発達障害に境界知能が多いのです。

そして境界知能では、知能を構成する各要素で得手・不得手の差が大きく(分野ごとに凹凸がある)、それが総合点であるIQの数字を引き下げています。例えば水を貯めるダムの堰堤に凸凹があることを想像してみてください。ダムの貯水は堰堤の凹の一番低いところまでしか貯まりません。同じように、他の能力は並以上だったとしても、不得手な能力が社会適応の足を引っ張るのです。

したがって何が苦手なのかを特定し、それをどうやって補完していくか考えることが大切です。補完は決して恥ずかしいことではありません。例えばAAミーティングで年配の人が本を読むのに老眼鏡を使って衰えた視力を補完しています。それを恥ずかしいと思って老眼鏡を使わなければ、本から得られるはずのものを失ってしまいます。それと同じです。

年賀状はようやく3日の晩に郵便局に持ち込みました。大掃除やら帰省やらそれなりにこなせば忙しいものだと実感した年末年始でした。


2009年12月31日(木) 今年もお世話になりました

自前のアクセス解析が止まっているので、Webalizerの出力データを。

今年一年の統計データ
送出バイト数 75.8Gbytes
訪問者数 74万8千
リクエストページ数 483万
リクエストファイル数 614万
リクエスト数 727万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。
ログの解析結果を見て気が付いたのですが、5月にアクセス数が減って以後そのままです。たぶん、引っ越しをして雑記を書くのをサボっていたせいでしょう。

今年は芸能人が覚醒剤や合成麻薬で逮捕されるという事件があり、テレビや雑誌を賑わしました。薬物事犯は再犯率が高いことを指摘するコメンテーターもいましたが、その再犯をどうやって防ぐかという話はあまり出てきませんでした。それは、依存症という病気の再発をどうやって防ぐかが注目されなかったということです。

それでも薬物のリハビリ施設が各種メディアで紹介され、当事者や家族からの問い合わせも増えてスタッフの人は忙しかったそうです。

自助グループをやっているだけの僕でさえ、「あー面倒くさい」と思うことがあるのですから、毎日施設に常駐して対応しているスタッフであれば、悩む人の多さと再発の多さに心底うんざりしてしまうこともあるのでしょう。

しかし、そんな話を聞くたびに僕はビッグブックのドクター・ボブのストーリーを思い出します。彼はなぜ回復を伝えることに時間を費やしているのか、四つの理由を挙げています。

 一、義務感。
 二、楽しみだから。
 三、そうするなかで、自分にこれを分け与えてくれた人への借りを返すことになるから。
 四、そうするたびに、再飲酒に対する保険を少しずつ増やしていることになるから。

僕がAAや家路を続けていることは、まず何よりそれが楽しいからであり、人生を楽しむことは僕の義務だからです。

人生にはちゃんと意味があり、生きることは素晴らしい。アプリオリに分かっていたはずのことを、僕はどこかで忘れてしまい、飲んでいた頃は「何のために生きているのか、人生の意味が分からない」と嘆いていました。それは酒をやめただけではなかなか変わらなかったのも本当です。今は、それほど人にうらやまれるような生活をしているわけではないのに、生きることは楽しいと感じています。

人はいろいろな理由で回復のプログラムをやるようですが、僕の場合にはもっと楽しく生きたいという動機が一番重要でした。幸福とは困難がないことではなく、困難を乗り越えていける手応えのようなものだと思っています。

もっと人生を楽しんでほしい、というのがこれを読んでくれる人に僕が伝えたいことです。ただ夏休みの宿題は最初に片づけてしまった方が、あとをゆっくり楽しめるとは思います。いつまで「家路」が続くかわかりませんが、ともかく来年も続けてみようと思っています。

もうすぐ今年も終わります。今年一年ありがとうございました。良いお年をお迎えください。


2009年12月29日(火) 発達障害について(その3)

知能指数と学業成績は比例するのか?
知能指数に比べて学業成績が良い人を over achiver、悪い人を under achiver と呼びますが、この用語自体が、知能指数と学業成績の間に正の相関があることを示しています。

さて前回、IQ70未満を知的障害、その中で適応障害(社会障害)を起こす人が精神遅滞という話でした。その上のIQ85〜70を正常知能と知的障害の境界という意味で、境界知能と呼びます。おそらく正規分布から計算した数字でしょうが、約14%の人がここに入るとされています。

前回は、知能そのものが不適合の原因になるわけではない、という話でしたが、境界知能についてもそれは同じで、知能が境界域でも、大学を出て働いている、という人だって珍しくないはずです。境界知能でも(というかおそらく他の発達障害でも)問題になるのは、情緒的なこじれ、被害的な対人関係です。

「お前はこんなことも分からないのか」と親に責められながら、勉強を強いられる。努力を続けても成果が上がらない、常に人に後れを取る、となると、人間は豊かな情緒を発達させることが難しいようです。出来の良い他のきょうだいと比較され続けるのも同様です。「どうせ僕のことなんか誰も認めてくれないんだ」という極度の自信喪失の状態に陥るのもうなずける話です。

小学校教師の力量も大いに関係するそうで、良い教師にあたって9才の壁を乗り越えられた子は、やがて他の子に追いついて正常知能に達し、スーパー教師に恵まれなかった子は次第に後れを取って、やがて知的障害のレベルへと下がっていく。これがごく単純化されたモデルです。今始まっている特殊支援教育によって、学習の遅れが目立つ子への個別対応が可能になれば、解消していくことなのかもしれません。

つまり知能というのは固定的なものではなく、適切な補いによって発達させることが可能なわけです。

境界知能が注目されているのは、虐待を受けた子のほとんどが境界知能に属すること、それから非行の子も同じく知能が境界域になることです。それから、アスペルガーなど知的障害を伴わない軽度発達障害が注目されていて、その中でも境界知能が多いからです。

そもそも知能とは、様々な能力の組み合わせです。それぞれが数値化されたものを、強引に一つのIQという数字にまとめています。境界域の知能では、個々の能力がバランス良く低いのではなく、能力によってばらつきが大きい(発達に凹凸がある)ことがわかっています。つまり何か苦手な能力があるために、それに引きずられて全体の能力が下がっているということです。

虐待と境界知能の問題を、ものすごく単純にモデル化すれば、こんなふうかもしれません。
まず何か軽度の発達障害を抱えた子がいて、こういう子には育てにくさ(身辺自立が遅れる、親の言うことを聞かないなど)があり、それを補おうとした厳しいしつけがやがて虐待に発達して境界知能の原因となり、児童期には反抗挑戦性障害、思春期には不登校、非行を現し、成人後は何らかの適応障害(ひきこもり・アルコールや薬物の依存症・反社会性人格障害や境界例人格障害など)となり、子をなすとそれを虐待する、そんな構図ではないでしょうか。

戦後日本では、ほぼ一貫してアルコールの消費量が増えています。消費量が増えればアル中も増え、アル中の家には虐待がつきものと指摘されていますから、この悪循環に引きずり込まれていった家族も増えているのでしょう。

そう言う意味では、「どこかで誰かがちゃんと対応していれば、こうはならなかったはずなのに」という情緒的こじれを抱えた人たちが、依存症の問題を抱えて続々と自助グループにやってきているのが現状ではないでしょうか。抱えている問題それぞれは(例えば虐待の深刻さとか)は重篤でなくても、それぞれが掛け算で響いてくるだけに難しいわけです。そして自助グループでも方向が変わらなかった人たちが、着実に次の世代を生み出していく。陰惨な図です。

面倒ごとを押しつけてきやがって、という恨み節が出てこなくもありません。

農林業など第一次産業では状況判断がゆっくりで良いし、製造業など第二次産業でもわりと定型業務が多いものです。ところがサービス業(第三次産業)では、ハンバーガー屋やコンビニのアルバイト店員にまで短時間の状況判断能力が求められます。そうした産業界の需要に応えるために、学校や親が成績(間接的には知能)に振り回され、子供がみじめな思いをするはめになっています。
社会が高度化し豊かになって、ある種の障害者には助けが多くなって暮らしやすくなったと言えます。けれど一方では、社会の変化によって障害が顕わになり、苦労を強いられた人たちも生まれてきたわけです。


2009年12月27日(日) 発達障害について(その2)

知能検査の結果(IQの数字)は正規分布になります。
統計を取り扱う人間には常識以前のことでしょうが、正規分布の場合±1σ以下の範囲に約7割が入り、中央から±2σ以上外れるのは4%ほどに過ぎません。
IQのσ(標準偏差)は16だそうです(田中ビネー方式の場合)。

知的障害とはIQ70未満をさします。人口の2.1%だそうですから、上の計算と合っています。僕が子供のころに学校に存在した養護学級には、主に身体障害と知的障害の子たちが学んでいました。

知的障害のうちIQが50〜70を「軽度」と呼びます。軽度であれば、本人も周囲も障害の存在に気づかずに社会生活を送っている場合も珍しくありません。IQが50あれば日常生活には大きな不都合がないと言います。IQ50とは暦年齢の半分ぐらいの知能ということですから、成人の場合には約9才、小学校中学年ぐらいです。

小学校中学年の子がどんな暮らしをしているでしょうか。新聞記事を読んでも理解はおぼろげでしょうが、テレビ欄を見て好きな番組を探すことはできます。買い物をすることも、家計簿をつけることもできます(足し算さえできればいいんだから)。それなりの文章も書けます。私たちの日常生活では、小学生ぐらいの知能しか使っていないのです。

さすがにIQがあまり低くなってしまうと(健康的な問題を抱えがちなこともあって)、施設で暮らさざるを得ませんが、知的障害の約9割を占める軽度(IQ50〜70)の人は、社会参加に問題がなく、比較的単純な作業なら工場などで労働も十分に可能です。なんとか高校を卒業し、運転免許を持ち、働いて結婚して子供を持っている人もたくさんいます。療育手帳の取得率も1割未満です。

知的障害と精神遅滞は同義語ではなく、知的な障害を原因として社会的な適応障害が起きたケースのみを精神遅滞としています。精神遅滞は知的障害の約半分ですが、その約8割は「軽度」であり、適応障害がないはずの人たちです。

では何が問題なのか。それは情緒の発達にトラブルを抱えるからです。

純粋な知的障害の場合は、情緒の発達は普通の子と変わらず、すくすくと成長すれば安定した情緒を持った大人になります。しかし、知的な能力が低いほど、情緒も不安定になりやすいことも分かっています。

親の期待が過大だと、子供は大変苦しいわけで、「お前はこんなこともできないのか」と責められ続ければ、情緒がこじれてしまうのもうなずける話です。良く聞くのは、本来であれば特殊支援学級(昔の養護学級)に入れるべき子供を、親が頑張って普通学級に入れてしまう話です。親として子供のためを思ってのことでしょうが、子供はいずれ授業について行けなくなります。

小学校の先生から「9才の壁」という話を聞きました。小学校3〜4年生あたりでカリキュラムに抽象的な概念を扱う課題が出てきます。算数であれば分数や小数。国語であれば接続詞などです。この先5年生、6年生と進むと最小公倍数や文章題の解題などさらに難しさを増していきます。
そして、この3〜4年生でつまずく子供が多いのだそうです。(もちろんつまずく理由は知的障害に限りませんが)。母親が宿題を見てあげられなくなるのも一つの原因だそうです。そして知的な問題を抱えた子供は、抽象的な概念を把握する能力の発達が遅れるため、このあたりで授業について行けなくなるのだそうです。
またこの頃は子供が大人に対して秘密を持ち始める時期でもあり、それもハードルを作るわけです。

話を戻します。考えても見てください。自分がさっぱり理解できない外国語で行われる会議に毎日出席し、資料の意味は分からず、なのに時折質問を受けて答えなければならない日々を。理解できない授業に出続けるとは、そういうことです。さらに、暗号のような宿題を持って帰り、親には「お前はこんなこともできないのか」と言われる。これですくすくと情緒が延びるわけがありません。不登校やひきこもりにならない方が不思議で、もし高校卒業まで授業に静かに座っていられるのなら、並はずれた忍耐力の持ち主と言えます。

情緒のこじれが原因の適応障害は、知的障害に限らず発達障害全般に言えることです。情緒が未発達なゆえに衝動の制御が効かない状態で社会と接すれば、アルコールやギャンブルの問題が深刻化しやすいようです。それを依存症とひとくくりにするのではなく、精神遅滞の問題であるのか、依存症の問題であるのか、鑑別が必要だと思います。

社会適応がよい人たちにも依存症は過酷です。障害ががない人でも、いったん依存症で職を失うと再就職が大変です。ハンディキャップを抱えた人が、なんとか学校や最初の就職というハードルを乗り越え、安定した社会的地位を保てていたとして、病気のせいでそこから落ちてしまうと、今度は依存症とハンディキャップの両方が足し合わさった高さのハードルを越えなければならない困難があります。

依存症の人に知的障害(後で述べるIQ70〜84の境界知能も含めて)が多いのかどうか。それはおそらくこれからデータが出てくるだろうと思います。

僕が感じた一つの例を挙げてみたいと思います。
AAのミーティング・ハンドブックには、アルコホーリクを「足をなくした人間」にたとえているところがあります。切断した足が生えてこないのと、正常飲酒する能力を失ったことを同じとみなしているわけです。
これはどちらも「障害」という概念に一致します。障害という概念は、症状が固定して治癒不能になった意味です(法律やそのための診断の概念では別ですが)。トカゲの尻尾と違って人間の足は切れば生えてこない。アル中も正常飲酒できるようにはならない。どちらも症状の固定です。
この「足をなくした人間」という表現に対して拒否反応を起こす人がいて、それは自分が一生酒が飲めなくなったことに対する嫌悪の感情の表れであり、酒を飲めないことを(知識としてだけでなく)心情の上でも受け入れられるようになれば、自然に消失していきます。
しかし、中にはこの表現にいつまでもこだわる人がいて、不思議に思ったのです。

9才の壁のところでも書きましたが、知的障害を抱えた人は、抽象的な概念を把握するのが困難です。切った足が生えてこないのも理解できる。二度と酒が飲めないことも納得した。けれど、症状の固定は理解できない。なぜならそれは抽象的な概念だからです。そうやって枝葉にとらわれて幹を見なければ、本筋が流れていきません。

ビッグブックでは、アルコホリズムを身体の病気と精神の病気に分けて表現しています(その分類は医学的なものとは違います)。この twofold disease (二つの病気の組み合わせ)を理解することがステップ1の無力を理解するために大事なポイントになってきます。ところが、この二つの概念の把握に苦労する人がいます。どうも良くないのです。

ステップは小難しい抽象概念を操作しないとできないことなのか。おそらくそんなことはなくて、本質はもっとシンプルなものだと思います。AAから出版するわけにはいかないでしょうが、もっと分かりやすいステップの翻案書が出てもいいと思います。また、スポンサーやAAメンバーは、あまり些末な議論に入り込まずに本筋に導く努力が欠かせないのでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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