心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2010年01月05日(火) 発達障害について(その4)

さて話は、知的障害から広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)に移ります。

広汎性発達障害(PDD)には、旧来の自閉症(カナー自閉症)、アスペルガー症候群、レット障害、小児崩壊性障害、非定型自閉症(PDDNOS)の5つが含まれます。これが一つのくくりになっているのは、以下の三つの基本症状がどれにも共通して存在するからです。

 ・社会性の障害
 ・言語とコミュニケーションの障害
 ・想像力の障害と、それに基づく行動の傷害

この三つの症状は知的なハンディキャップについて何も述べていません。PDDであっても知的障害を伴わない人たちがいるわけで、IQ70以上を「高機能広汎性発達障害」と呼びます。アスペルガーがその典型です。その多くは既述の通り境界知能ですが、中には高いIQを示す人もいます。しかしIQが高いながらも、言語理解に対する得点が低くなるのが特徴です(つまり頭は良くても言語の障害がある)。

いろいろと話を広げる前に、まずカナーの自閉症から始めます。

赤ちゃんに近づくと、赤ちゃんはじっとこちらを見つめるので、お互い視線が合います。お母さんの顔を見れば微笑み、お母さんが離れると後を追おうとします(後追い行動)。自閉症児の場合、こうした愛着行動がずいぶん遅れ、歩けるようになると興味の対象(換気扇など)に向かって勝手に走ってしまうので簡単に迷子になってしまいます。

人と感情を共有することが苦手なのがPDD全体の特徴で、自閉症児ではお母さんと一緒に何かを見てきゃっきゃっと笑うことが少なく、かわりに自分の興味に没頭します。(人に興味がないと言われる)。

杉山先生の本を読むと、自閉症の社会的障害は「自分の体験と人の体験が重なり合う前提が成り立たない」とまとめてあります。引き合いに出されているのが「逆転バイバイ」です。

普通の赤ちゃんは0才の後半になると、大人のまねをして「バイバイ」と手を振ってくれます。このとき赤ちゃんの手のひらは、こちらを向いていますから、赤ちゃんには自分の手の甲が見えているはずです。
自閉症の子供もバイバイをするようになるますが、このとき自分に手のひらを向けてバイバイとやります。これが逆転バイバイです。大人がしてくれるバイバイをそのまま再現してしまうのです。

では普通の赤ちゃんは、なぜ相手に手のひらを向けてバイバイができるのか。それは自分の体験と人の体験が重なるという前提があるために、相手からどう見えるかが論理を使って考えなくても分かるからです。しかし自閉症の場合にはここに障害があるため、見たものを視覚的にそのまま再現するわけです。

健常な子供が1才前後で言葉を発し始めるのに対し、自閉症児ではこれが遅れます(アスペルガーの場合には遅れない)。言葉が出始めるとオウム返しをします。お母さんが「ジュースが欲しいの?」と聞くと、「ジュースが欲しいの?」と疑問文で返します。そっくりコピーしてしまうところは前述の逆転バイバイと同じです。つまり、自閉症の言語の障害には、社会性の障害が乗っかっています。

このほか偏食やこだわり行動、目の前で手を振るなどの自己刺激行動、トイレや服の身辺自立の困難、眠らないなどで、お母さんが子育てに悩み、「病気かも」と思って受診して自閉症の診断が行われることが多いようです。

(もちろん続く)


2010年01月04日(月) あれ?

月曜から勤務日だと思い、9時前に出勤し(といっても部屋を移動するだけ)、パソコンでタイムカードを打刻しました。タイムカードは本社サーバーのグループウェア上にあって、VPNで接続しています。そしていつもどおりネット上の予定表を確認すると「年始休暇」の赤い文字が記されており、所在表を見ると同僚は誰も出勤していません。
どうやら仕事は火曜日からだったようです。

男性に比べて女性のアルコホーリックの回復は遅いのか? という話が一部でちらほら出ていました。少なくとも、ビッグブックのやり方でステップをやっている女性たちを見る限り、男性より時間がかかっているとは思えません。つまり、12ステップの効き目に性差はないと思われます。

けれど、僕がAAにつながった頃から、女性の回復は遅いという話をときどき聞きます。それはどういう尺度で測っているのか? おそらく社会性をなにかの目安で計っているのでしょう。しかし、そもそも女性と男性で社会的役割に違いがあるわけですから、いくらAAも男社会だからといって、男性用の物差しで女性の回復を計る(もしくはその逆)こと自体がナンセンスだと思うのです。

女性の社会進出を例に考えても、仕事のキャリアを中断せず、家のこと子どものことを完璧にこなす、なんてことができるのは一部のスーパーウーマンだけです。同じことはアルコホリズムの回復の分野にも言えて、家族の世話と自分の回復、おまけにパートで金を稼ぐことまでそつなくこなさなければ回復ではない、なんて価値観になったら、回復したと言われる女性はほんの一握りになってしまうでしょう。

さて話は変わり、正月にTSUTAYAへいったら、本棚に発達障害の本が二十冊ぐらい並んでいました。ちょっとしたブームになっているのでしょうか。発達障害について書くに当たって、まず知能について書いたのは、境界知能(IQ70〜84)を取り上げたかったからです。知的障害を持たない発達障害を、軽度発達障害と総称します。この軽度発達障害に境界知能が多いのです。

そして境界知能では、知能を構成する各要素で得手・不得手の差が大きく(分野ごとに凹凸がある)、それが総合点であるIQの数字を引き下げています。例えば水を貯めるダムの堰堤に凸凹があることを想像してみてください。ダムの貯水は堰堤の凹の一番低いところまでしか貯まりません。同じように、他の能力は並以上だったとしても、不得手な能力が社会適応の足を引っ張るのです。

したがって何が苦手なのかを特定し、それをどうやって補完していくか考えることが大切です。補完は決して恥ずかしいことではありません。例えばAAミーティングで年配の人が本を読むのに老眼鏡を使って衰えた視力を補完しています。それを恥ずかしいと思って老眼鏡を使わなければ、本から得られるはずのものを失ってしまいます。それと同じです。

年賀状はようやく3日の晩に郵便局に持ち込みました。大掃除やら帰省やらそれなりにこなせば忙しいものだと実感した年末年始でした。


2009年12月31日(木) 今年もお世話になりました

自前のアクセス解析が止まっているので、Webalizerの出力データを。

今年一年の統計データ
送出バイト数 75.8Gbytes
訪問者数 74万8千
リクエストページ数 483万
リクエストファイル数 614万
リクエスト数 727万

今年も多くの皆さんに訪問していただいて、本当にありがとうございました。
ログの解析結果を見て気が付いたのですが、5月にアクセス数が減って以後そのままです。たぶん、引っ越しをして雑記を書くのをサボっていたせいでしょう。

今年は芸能人が覚醒剤や合成麻薬で逮捕されるという事件があり、テレビや雑誌を賑わしました。薬物事犯は再犯率が高いことを指摘するコメンテーターもいましたが、その再犯をどうやって防ぐかという話はあまり出てきませんでした。それは、依存症という病気の再発をどうやって防ぐかが注目されなかったということです。

それでも薬物のリハビリ施設が各種メディアで紹介され、当事者や家族からの問い合わせも増えてスタッフの人は忙しかったそうです。

自助グループをやっているだけの僕でさえ、「あー面倒くさい」と思うことがあるのですから、毎日施設に常駐して対応しているスタッフであれば、悩む人の多さと再発の多さに心底うんざりしてしまうこともあるのでしょう。

しかし、そんな話を聞くたびに僕はビッグブックのドクター・ボブのストーリーを思い出します。彼はなぜ回復を伝えることに時間を費やしているのか、四つの理由を挙げています。

 一、義務感。
 二、楽しみだから。
 三、そうするなかで、自分にこれを分け与えてくれた人への借りを返すことになるから。
 四、そうするたびに、再飲酒に対する保険を少しずつ増やしていることになるから。

僕がAAや家路を続けていることは、まず何よりそれが楽しいからであり、人生を楽しむことは僕の義務だからです。

人生にはちゃんと意味があり、生きることは素晴らしい。アプリオリに分かっていたはずのことを、僕はどこかで忘れてしまい、飲んでいた頃は「何のために生きているのか、人生の意味が分からない」と嘆いていました。それは酒をやめただけではなかなか変わらなかったのも本当です。今は、それほど人にうらやまれるような生活をしているわけではないのに、生きることは楽しいと感じています。

人はいろいろな理由で回復のプログラムをやるようですが、僕の場合にはもっと楽しく生きたいという動機が一番重要でした。幸福とは困難がないことではなく、困難を乗り越えていける手応えのようなものだと思っています。

もっと人生を楽しんでほしい、というのがこれを読んでくれる人に僕が伝えたいことです。ただ夏休みの宿題は最初に片づけてしまった方が、あとをゆっくり楽しめるとは思います。いつまで「家路」が続くかわかりませんが、ともかく来年も続けてみようと思っています。

もうすぐ今年も終わります。今年一年ありがとうございました。良いお年をお迎えください。


2009年12月29日(火) 発達障害について(その3)

知能指数と学業成績は比例するのか?
知能指数に比べて学業成績が良い人を over achiver、悪い人を under achiver と呼びますが、この用語自体が、知能指数と学業成績の間に正の相関があることを示しています。

さて前回、IQ70未満を知的障害、その中で適応障害(社会障害)を起こす人が精神遅滞という話でした。その上のIQ85〜70を正常知能と知的障害の境界という意味で、境界知能と呼びます。おそらく正規分布から計算した数字でしょうが、約14%の人がここに入るとされています。

前回は、知能そのものが不適合の原因になるわけではない、という話でしたが、境界知能についてもそれは同じで、知能が境界域でも、大学を出て働いている、という人だって珍しくないはずです。境界知能でも(というかおそらく他の発達障害でも)問題になるのは、情緒的なこじれ、被害的な対人関係です。

「お前はこんなことも分からないのか」と親に責められながら、勉強を強いられる。努力を続けても成果が上がらない、常に人に後れを取る、となると、人間は豊かな情緒を発達させることが難しいようです。出来の良い他のきょうだいと比較され続けるのも同様です。「どうせ僕のことなんか誰も認めてくれないんだ」という極度の自信喪失の状態に陥るのもうなずける話です。

小学校教師の力量も大いに関係するそうで、良い教師にあたって9才の壁を乗り越えられた子は、やがて他の子に追いついて正常知能に達し、スーパー教師に恵まれなかった子は次第に後れを取って、やがて知的障害のレベルへと下がっていく。これがごく単純化されたモデルです。今始まっている特殊支援教育によって、学習の遅れが目立つ子への個別対応が可能になれば、解消していくことなのかもしれません。

つまり知能というのは固定的なものではなく、適切な補いによって発達させることが可能なわけです。

境界知能が注目されているのは、虐待を受けた子のほとんどが境界知能に属すること、それから非行の子も同じく知能が境界域になることです。それから、アスペルガーなど知的障害を伴わない軽度発達障害が注目されていて、その中でも境界知能が多いからです。

そもそも知能とは、様々な能力の組み合わせです。それぞれが数値化されたものを、強引に一つのIQという数字にまとめています。境界域の知能では、個々の能力がバランス良く低いのではなく、能力によってばらつきが大きい(発達に凹凸がある)ことがわかっています。つまり何か苦手な能力があるために、それに引きずられて全体の能力が下がっているということです。

虐待と境界知能の問題を、ものすごく単純にモデル化すれば、こんなふうかもしれません。
まず何か軽度の発達障害を抱えた子がいて、こういう子には育てにくさ(身辺自立が遅れる、親の言うことを聞かないなど)があり、それを補おうとした厳しいしつけがやがて虐待に発達して境界知能の原因となり、児童期には反抗挑戦性障害、思春期には不登校、非行を現し、成人後は何らかの適応障害(ひきこもり・アルコールや薬物の依存症・反社会性人格障害や境界例人格障害など)となり、子をなすとそれを虐待する、そんな構図ではないでしょうか。

戦後日本では、ほぼ一貫してアルコールの消費量が増えています。消費量が増えればアル中も増え、アル中の家には虐待がつきものと指摘されていますから、この悪循環に引きずり込まれていった家族も増えているのでしょう。

そう言う意味では、「どこかで誰かがちゃんと対応していれば、こうはならなかったはずなのに」という情緒的こじれを抱えた人たちが、依存症の問題を抱えて続々と自助グループにやってきているのが現状ではないでしょうか。抱えている問題それぞれは(例えば虐待の深刻さとか)は重篤でなくても、それぞれが掛け算で響いてくるだけに難しいわけです。そして自助グループでも方向が変わらなかった人たちが、着実に次の世代を生み出していく。陰惨な図です。

面倒ごとを押しつけてきやがって、という恨み節が出てこなくもありません。

農林業など第一次産業では状況判断がゆっくりで良いし、製造業など第二次産業でもわりと定型業務が多いものです。ところがサービス業(第三次産業)では、ハンバーガー屋やコンビニのアルバイト店員にまで短時間の状況判断能力が求められます。そうした産業界の需要に応えるために、学校や親が成績(間接的には知能)に振り回され、子供がみじめな思いをするはめになっています。
社会が高度化し豊かになって、ある種の障害者には助けが多くなって暮らしやすくなったと言えます。けれど一方では、社会の変化によって障害が顕わになり、苦労を強いられた人たちも生まれてきたわけです。


2009年12月27日(日) 発達障害について(その2)

知能検査の結果(IQの数字)は正規分布になります。
統計を取り扱う人間には常識以前のことでしょうが、正規分布の場合±1σ以下の範囲に約7割が入り、中央から±2σ以上外れるのは4%ほどに過ぎません。
IQのσ(標準偏差)は16だそうです(田中ビネー方式の場合)。

知的障害とはIQ70未満をさします。人口の2.1%だそうですから、上の計算と合っています。僕が子供のころに学校に存在した養護学級には、主に身体障害と知的障害の子たちが学んでいました。

知的障害のうちIQが50〜70を「軽度」と呼びます。軽度であれば、本人も周囲も障害の存在に気づかずに社会生活を送っている場合も珍しくありません。IQが50あれば日常生活には大きな不都合がないと言います。IQ50とは暦年齢の半分ぐらいの知能ということですから、成人の場合には約9才、小学校中学年ぐらいです。

小学校中学年の子がどんな暮らしをしているでしょうか。新聞記事を読んでも理解はおぼろげでしょうが、テレビ欄を見て好きな番組を探すことはできます。買い物をすることも、家計簿をつけることもできます(足し算さえできればいいんだから)。それなりの文章も書けます。私たちの日常生活では、小学生ぐらいの知能しか使っていないのです。

さすがにIQがあまり低くなってしまうと(健康的な問題を抱えがちなこともあって)、施設で暮らさざるを得ませんが、知的障害の約9割を占める軽度(IQ50〜70)の人は、社会参加に問題がなく、比較的単純な作業なら工場などで労働も十分に可能です。なんとか高校を卒業し、運転免許を持ち、働いて結婚して子供を持っている人もたくさんいます。療育手帳の取得率も1割未満です。

知的障害と精神遅滞は同義語ではなく、知的な障害を原因として社会的な適応障害が起きたケースのみを精神遅滞としています。精神遅滞は知的障害の約半分ですが、その約8割は「軽度」であり、適応障害がないはずの人たちです。

では何が問題なのか。それは情緒の発達にトラブルを抱えるからです。

純粋な知的障害の場合は、情緒の発達は普通の子と変わらず、すくすくと成長すれば安定した情緒を持った大人になります。しかし、知的な能力が低いほど、情緒も不安定になりやすいことも分かっています。

親の期待が過大だと、子供は大変苦しいわけで、「お前はこんなこともできないのか」と責められ続ければ、情緒がこじれてしまうのもうなずける話です。良く聞くのは、本来であれば特殊支援学級(昔の養護学級)に入れるべき子供を、親が頑張って普通学級に入れてしまう話です。親として子供のためを思ってのことでしょうが、子供はいずれ授業について行けなくなります。

小学校の先生から「9才の壁」という話を聞きました。小学校3〜4年生あたりでカリキュラムに抽象的な概念を扱う課題が出てきます。算数であれば分数や小数。国語であれば接続詞などです。この先5年生、6年生と進むと最小公倍数や文章題の解題などさらに難しさを増していきます。
そして、この3〜4年生でつまずく子供が多いのだそうです。(もちろんつまずく理由は知的障害に限りませんが)。母親が宿題を見てあげられなくなるのも一つの原因だそうです。そして知的な問題を抱えた子供は、抽象的な概念を把握する能力の発達が遅れるため、このあたりで授業について行けなくなるのだそうです。
またこの頃は子供が大人に対して秘密を持ち始める時期でもあり、それもハードルを作るわけです。

話を戻します。考えても見てください。自分がさっぱり理解できない外国語で行われる会議に毎日出席し、資料の意味は分からず、なのに時折質問を受けて答えなければならない日々を。理解できない授業に出続けるとは、そういうことです。さらに、暗号のような宿題を持って帰り、親には「お前はこんなこともできないのか」と言われる。これですくすくと情緒が延びるわけがありません。不登校やひきこもりにならない方が不思議で、もし高校卒業まで授業に静かに座っていられるのなら、並はずれた忍耐力の持ち主と言えます。

情緒のこじれが原因の適応障害は、知的障害に限らず発達障害全般に言えることです。情緒が未発達なゆえに衝動の制御が効かない状態で社会と接すれば、アルコールやギャンブルの問題が深刻化しやすいようです。それを依存症とひとくくりにするのではなく、精神遅滞の問題であるのか、依存症の問題であるのか、鑑別が必要だと思います。

社会適応がよい人たちにも依存症は過酷です。障害ががない人でも、いったん依存症で職を失うと再就職が大変です。ハンディキャップを抱えた人が、なんとか学校や最初の就職というハードルを乗り越え、安定した社会的地位を保てていたとして、病気のせいでそこから落ちてしまうと、今度は依存症とハンディキャップの両方が足し合わさった高さのハードルを越えなければならない困難があります。

依存症の人に知的障害(後で述べるIQ70〜84の境界知能も含めて)が多いのかどうか。それはおそらくこれからデータが出てくるだろうと思います。

僕が感じた一つの例を挙げてみたいと思います。
AAのミーティング・ハンドブックには、アルコホーリクを「足をなくした人間」にたとえているところがあります。切断した足が生えてこないのと、正常飲酒する能力を失ったことを同じとみなしているわけです。
これはどちらも「障害」という概念に一致します。障害という概念は、症状が固定して治癒不能になった意味です(法律やそのための診断の概念では別ですが)。トカゲの尻尾と違って人間の足は切れば生えてこない。アル中も正常飲酒できるようにはならない。どちらも症状の固定です。
この「足をなくした人間」という表現に対して拒否反応を起こす人がいて、それは自分が一生酒が飲めなくなったことに対する嫌悪の感情の表れであり、酒を飲めないことを(知識としてだけでなく)心情の上でも受け入れられるようになれば、自然に消失していきます。
しかし、中にはこの表現にいつまでもこだわる人がいて、不思議に思ったのです。

9才の壁のところでも書きましたが、知的障害を抱えた人は、抽象的な概念を把握するのが困難です。切った足が生えてこないのも理解できる。二度と酒が飲めないことも納得した。けれど、症状の固定は理解できない。なぜならそれは抽象的な概念だからです。そうやって枝葉にとらわれて幹を見なければ、本筋が流れていきません。

ビッグブックでは、アルコホリズムを身体の病気と精神の病気に分けて表現しています(その分類は医学的なものとは違います)。この twofold disease (二つの病気の組み合わせ)を理解することがステップ1の無力を理解するために大事なポイントになってきます。ところが、この二つの概念の把握に苦労する人がいます。どうも良くないのです。

ステップは小難しい抽象概念を操作しないとできないことなのか。おそらくそんなことはなくて、本質はもっとシンプルなものだと思います。AAから出版するわけにはいかないでしょうが、もっと分かりやすいステップの翻案書が出てもいいと思います。また、スポンサーやAAメンバーは、あまり些末な議論に入り込まずに本筋に導く努力が欠かせないのでしょう。


2009年12月24日(木) 発達障害について(その1)

初めてカトリックの御ミサに混じってみました。なんて正しいクリスマスの過ごし方なのでしょう。もちろん日本人らしく鶏肉やケーキもいただきました。まだ年内の仕事は残っていますが、大きな案件は片づいてほっとしています。

さて、そもそもなぜ発達障害に関心を持ったかというと、その数が多いからです。
アルコールの離脱症状で抑うつが出るので、依存症の人にうつ病が多いように思われがちですが、依存症の人に特にうつ病が多いわけではない(普通の人と変わらない)ことは、医者の側からも言われますし、自助グループの側からも実感できることです。うつ病の有病率は2%ほどで、統合失調症は1%程度。

ところが、発達障害となると、これが一桁多いわけです。ギャンブル依存症のリハビリ施設では、利用者のうち医療機関で発達障害の診断を受けた人が2割。それとは別に検査中の人が2割だそうです。利用者の発達障害を医療機関に評価してもらうことが欠かせなくなっているというのです。

知的障害と境界知能、自閉症とアスペルガーと高機能自閉症(PDD)、AD/HDとLD、そして第4の発達障害である「被虐待」。複数の障害を持っている人が多いことを考えあわせても、何らかの発達障害を抱えた人の割合は、うつ病や統合失調を大きく上回ってきます。さらには、医者にうつ病あるいは他の精神病と診断されていた人が、実は専門医の診断で発達障害であるが明らかになるケースも珍しくありません。

当然のことながら、そうした困難を抱えた人が、アルコールや薬物その他の依存症にもなり、自助グループにやってくることも頻繁に起きているのに違いありません。そして、本人ですら発達障害に気づいていない場合もたくさんあると思われます。そして、依存症の人の親も依存症というケースが多いことと、親が依存症の家庭にはネグレクトを含む虐待が多いことを考え合わせれば、依存症者が発達障害を抱えている確率はより高くなって不思議でありません。

こうした人たちは、その障害ゆえに社会適応に困難があり、(それが逃避的に何かに耽溺する原因になったのかも)、自助グループに入って続けていくのにも困難があるのは当然のことです。彼らも必要な支援があれば社会に適応してやっていけるように、自助グループの側に少しの配慮があれば、彼らに回復を提供することも可能になってくると思います。AAでは目が見えない人のためにビッグブックをオーディオCDにしたり、点字の本を作ったりしています。別のトラブルを抱えた人向けには、別の配慮を行うことも可能ではないでしょうか。

従来「まだ底をついていない」「やる気がない」「みんなと一緒にできない」「その場にふさわしい行動ができない(≒KY?)」などと言われてきたケースをもう一度見直してみると、それは「まだ苦しみ足りない」のではなく、すぐそれとは分からないハンディキャップを抱えていたがために依存症の回復プログラムに乗れなかった人たちが多かったのではないか。そして、彼らも適切な対応があれば回復の道に入れたのではないか、そう思うのです。

また、どうしても自助グループが役に立てないケースがあったとしても、その問題の所在が明らかであれば、お互い無駄な時間とエネルギーを使わず、自尊感情を傷つけあわずに済むというものです。

しかし発達障害と依存症の関係について考えるためには、まず発達障害についての知識がなければなりません。というわけで、ちょっと発達障害について学んでみたことを書いていきます。

付記:最近は障害を障碍(あるいはひらがなで障がい)と書くケースがあります。碍子(ガイシ)の碍で、礙の俗字。意味は「さまたげる」。現代表記では障礙を障害と書き換えますが、害の字が「がいする」にも通じるために、それを嫌う人がいるのでしょう(子供を子どもと表記するように)。


2009年12月23日(水) クリスマスコンサート

AAの会場に部屋をお借りしている教会のクリスマスコンサートのチラシをいただいたので、仕事の合間に行ってきました。今年の8月から使わせて頂いているのですが、来年の2月まで半年間は仮許可なので、失礼の無いようにしておきたい、という思惑もありました。

演奏するのは地元の夫婦のユニットで、奥さんがアルパという南米のハープとアイリッシュハープ、旦那さんがギターとアイリッシュフルート。南米の曲を中心に、クリスマスらしい曲あり、みんなで賛美歌を歌い、子供たちが歌を唄うのを聞くという90分でした。

小さな聖堂を埋めているのは、おそらくほとんどが信徒の人でしょう。それでも「キリスト教徒でない人にも賛美歌を歌わせてしまって、ごめんなさいね」という言葉が出ていました。ひょっとしたらこのユニットのファンの人も来ているのかもしれません。

僕は特定の宗教に属しているわけではありませんが、宗教に対するアレルギーはないので、教会という場所や賛美の歌に違和感はありません。これが20年前だったら大きなアレルギー反応が起こったことでしょう。あの頃は、教会や宗教だけでなく、どこにいても自分が場違いな感じがして、居るべき場所はこの世界には無いと感じていました。今は、自分はどこにいても構わない気がします。自分はどこにいてもいいし、歓迎されなければ去ればいい、と。

ソレアードや平和を作る人を聴きながら考えたことは、最近よく考える「信じるという能力」についてです。自分を信じる(自信)、人を信じる(信頼)、神を信じる(信仰)というものは、どれも同じ信じるという一つの能力なのだと思うのです。

話は変わって、AAでは会場に教会の部屋を借りていることが多いので、その教会の人と接する機会が少なからずあります。ミーティングが始まる直前まで部屋で話をしてくれる熱心な人もいれば、廊下で立ち話をしただけの人もいます。そして感じることは、やはり神父や牧師を職業とする人たちの頭の良さです。というか頭が良くなければ聖職者にはなれないのでしょう。それだけでなく、人と接する社会的スキルなど様々な能力などなかなかハードルも高そうです。(もちろん、何にでも例外はあるにせよ)。
牧師親子の歌声はプロ並みでした。医者や弁護士は自分の子供を同じ職業に就かせようとするそうですが、牧師はどうなのか。コンピューターの中のこびとさんたちを働かせる仕事を選んだ僕を、農夫だった父はどう思っているか。それを気にしたことがありませんでした。

「信仰を持っている人たちは、人生がどういうものであるかということについて論理的な考えを持っているのだ」(p.73)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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