心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年12月24日(木) 発達障害について(その1)

初めてカトリックの御ミサに混じってみました。なんて正しいクリスマスの過ごし方なのでしょう。もちろん日本人らしく鶏肉やケーキもいただきました。まだ年内の仕事は残っていますが、大きな案件は片づいてほっとしています。

さて、そもそもなぜ発達障害に関心を持ったかというと、その数が多いからです。
アルコールの離脱症状で抑うつが出るので、依存症の人にうつ病が多いように思われがちですが、依存症の人に特にうつ病が多いわけではない(普通の人と変わらない)ことは、医者の側からも言われますし、自助グループの側からも実感できることです。うつ病の有病率は2%ほどで、統合失調症は1%程度。

ところが、発達障害となると、これが一桁多いわけです。ギャンブル依存症のリハビリ施設では、利用者のうち医療機関で発達障害の診断を受けた人が2割。それとは別に検査中の人が2割だそうです。利用者の発達障害を医療機関に評価してもらうことが欠かせなくなっているというのです。

知的障害と境界知能、自閉症とアスペルガーと高機能自閉症(PDD)、AD/HDとLD、そして第4の発達障害である「被虐待」。複数の障害を持っている人が多いことを考えあわせても、何らかの発達障害を抱えた人の割合は、うつ病や統合失調を大きく上回ってきます。さらには、医者にうつ病あるいは他の精神病と診断されていた人が、実は専門医の診断で発達障害であるが明らかになるケースも珍しくありません。

当然のことながら、そうした困難を抱えた人が、アルコールや薬物その他の依存症にもなり、自助グループにやってくることも頻繁に起きているのに違いありません。そして、本人ですら発達障害に気づいていない場合もたくさんあると思われます。そして、依存症の人の親も依存症というケースが多いことと、親が依存症の家庭にはネグレクトを含む虐待が多いことを考え合わせれば、依存症者が発達障害を抱えている確率はより高くなって不思議でありません。

こうした人たちは、その障害ゆえに社会適応に困難があり、(それが逃避的に何かに耽溺する原因になったのかも)、自助グループに入って続けていくのにも困難があるのは当然のことです。彼らも必要な支援があれば社会に適応してやっていけるように、自助グループの側に少しの配慮があれば、彼らに回復を提供することも可能になってくると思います。AAでは目が見えない人のためにビッグブックをオーディオCDにしたり、点字の本を作ったりしています。別のトラブルを抱えた人向けには、別の配慮を行うことも可能ではないでしょうか。

従来「まだ底をついていない」「やる気がない」「みんなと一緒にできない」「その場にふさわしい行動ができない(≒KY?)」などと言われてきたケースをもう一度見直してみると、それは「まだ苦しみ足りない」のではなく、すぐそれとは分からないハンディキャップを抱えていたがために依存症の回復プログラムに乗れなかった人たちが多かったのではないか。そして、彼らも適切な対応があれば回復の道に入れたのではないか、そう思うのです。

また、どうしても自助グループが役に立てないケースがあったとしても、その問題の所在が明らかであれば、お互い無駄な時間とエネルギーを使わず、自尊感情を傷つけあわずに済むというものです。

しかし発達障害と依存症の関係について考えるためには、まず発達障害についての知識がなければなりません。というわけで、ちょっと発達障害について学んでみたことを書いていきます。

付記:最近は障害を障碍(あるいはひらがなで障がい)と書くケースがあります。碍子(ガイシ)の碍で、礙の俗字。意味は「さまたげる」。現代表記では障礙を障害と書き換えますが、害の字が「がいする」にも通じるために、それを嫌う人がいるのでしょう(子供を子どもと表記するように)。


2009年12月23日(水) クリスマスコンサート

AAの会場に部屋をお借りしている教会のクリスマスコンサートのチラシをいただいたので、仕事の合間に行ってきました。今年の8月から使わせて頂いているのですが、来年の2月まで半年間は仮許可なので、失礼の無いようにしておきたい、という思惑もありました。

演奏するのは地元の夫婦のユニットで、奥さんがアルパという南米のハープとアイリッシュハープ、旦那さんがギターとアイリッシュフルート。南米の曲を中心に、クリスマスらしい曲あり、みんなで賛美歌を歌い、子供たちが歌を唄うのを聞くという90分でした。

小さな聖堂を埋めているのは、おそらくほとんどが信徒の人でしょう。それでも「キリスト教徒でない人にも賛美歌を歌わせてしまって、ごめんなさいね」という言葉が出ていました。ひょっとしたらこのユニットのファンの人も来ているのかもしれません。

僕は特定の宗教に属しているわけではありませんが、宗教に対するアレルギーはないので、教会という場所や賛美の歌に違和感はありません。これが20年前だったら大きなアレルギー反応が起こったことでしょう。あの頃は、教会や宗教だけでなく、どこにいても自分が場違いな感じがして、居るべき場所はこの世界には無いと感じていました。今は、自分はどこにいても構わない気がします。自分はどこにいてもいいし、歓迎されなければ去ればいい、と。

ソレアードや平和を作る人を聴きながら考えたことは、最近よく考える「信じるという能力」についてです。自分を信じる(自信)、人を信じる(信頼)、神を信じる(信仰)というものは、どれも同じ信じるという一つの能力なのだと思うのです。

話は変わって、AAでは会場に教会の部屋を借りていることが多いので、その教会の人と接する機会が少なからずあります。ミーティングが始まる直前まで部屋で話をしてくれる熱心な人もいれば、廊下で立ち話をしただけの人もいます。そして感じることは、やはり神父や牧師を職業とする人たちの頭の良さです。というか頭が良くなければ聖職者にはなれないのでしょう。それだけでなく、人と接する社会的スキルなど様々な能力などなかなかハードルも高そうです。(もちろん、何にでも例外はあるにせよ)。
牧師親子の歌声はプロ並みでした。医者や弁護士は自分の子供を同じ職業に就かせようとするそうですが、牧師はどうなのか。コンピューターの中のこびとさんたちを働かせる仕事を選んだ僕を、農夫だった父はどう思っているか。それを気にしたことがありませんでした。

「信仰を持っている人たちは、人生がどういうものであるかということについて論理的な考えを持っているのだ」(p.73)


2009年12月21日(月) この雑記について

この雑記も最初は日記形式で日常をつづっていました。
すると僕の周りの人が雑記に登場するのですが、次第に誰かのことをネットで全世界に向けて書くのも「いかがなものか」という気分になってきて、だんだん日常を書くことが減りました。

かわりに増えてきたのが、考えていることを書くことです。
大学ノートに書くことを、かわりにこの雑記に書いているようなものです。
何かを勉強しているときにはその復習であり、なにかアイデアがひらめいたときにはそのメモ書きです。アイデアの場合には、それは僕の仮説に過ぎないので、メールや掲示板で指摘を受ければ、アイデアを捨てたり、修正したり、論証不足として結論を先送りしたりするわけです。従って、雑記は完成されたものではなく、未熟な状態のものが提供されているわけで、そこは読む側も分かっておいていただきたいものです。常にクリティカルな視点は持っていて欲しいということです。そうして僕が考えたことは、現実に活動する中で役に立つかどうかが試され、経験として僕の一部になり、役に立つことが実証された考えは使える道具となります。

また、この雑記は、頭の中をさらしている、とも言えるわけで、かなりの羞恥プレイです。

だからこそ、5年前、10年前に自分が書いた文章は恥ずかしいわけです。誰だって自分の少年期・青年期の日記を読み返すと「その恥ずかしさに悶えてしまう」のではないでしょうか。それは成人してからも同じであり、以前に書いた自分の文章を読んで恥ずかしく思わないのだったら、それは進歩がない、回復がないことを意味するのではないかと思います。

それと、以前から「セラピストになれるのではないか」と言われることもありますが、そんなこともないでしょう。僕が「自分の経験という井戸」を持っているのは依存症という分野だけだからです。依存症専門のセラピストは儲かりそうもありませんしね。

雑記を書くのにあてる時間は最大30分程度と決めています。それ以上時間を使うと、他の時間を浸食してしまうからです。ただ、先日のDV関係復習のような慣れない記事は、資料を読み返したり、本を調べたりするので1時間、2時間とかかっている場合もあります。それは「調べて正しいことを書こう」というよりも、「学ぶためには時間が必要」だからです。


2009年12月20日(日) 料理・学習・動機づけ

料理が下手な人がいます。
本人も料理が下手なことは分かっていて、なんとかしようと思っているのですが、自分では解決できずにいますから、下手だと言われると傷つくわけです。

料理が下手な人には特徴があって、たいていテキスト(レシピ)どおりに作りません。
テキストに書いてあるとおりの材料を集め、指示通り包丁で切って、順番どおりに鍋やフライパンに入れて加熱すれば、だいたいテキストの写真に似た料理ができあがります。味もまあまあです。僕も料理は下手だという自覚があるので、何か作ろうと思えばネットでレシピを探すことから始めます。

おそらく料理には勘所があって、それをマスターすればよりおいしく作れるのでしょうが、それは普通に料理が作れるようになってから、次のステップとして取り組めばいいことです。

テキスト通りに何度も作っていると、だんだん上達してきて、季節の食材の変化にも対応できるようになり、冷蔵庫の中の食材だけで料理が作れるようになります。つまり「応用」がきくようになるわけです。

テキスト通りに作ってうまくいく経験を重ねると、一度も作ったことのない料理でも、レシピを入手してそのとおりに作れば、たいていの料理を作れる自信がついてきます。これが「自信」というやつで、経験のないことも「できる」手応えをつかむことによって、その人の能力はぐっと上がるわけです。(経験のあることをできると思うのは、ちょっと自信とは違う)。

自分が料理が下手だという事実に直面して、テキスト通りの料理の仕方を身につけ、それが一通りできるようになったら、他の料理に応用していく・・・。自分なりのやり方を加味するのは、それができてからで遅くありません。これは楽器の演奏でも、資格試験の勉強でも、人が何かを「学習」するときの基本手順です。

12のステップもこの基本手順どおりの構造をしています。おそらく他の断酒のやり方でも、体系化されているものは同じ構造だろうと思います。ともあれ、まず自分が抱えている問題に直面しなければなりません。しかし、(たとえ料理が下手という程度であっても)欠点というのは直視したくない、受け入れたくないものですから、合理化という防衛機制によって無理矢理受け入れやすい形に変形してしまいます。そのせいで「学習」という手順の最初の一歩を外してしまうのです。

この合理化は、問題を否認させたり、他者に責任転嫁するという形を取ります(断酒会やAAのやり方がどうのという話も、たいていこれが出所です)。一人の人がこの合理化の壁を突破して進歩できるようになるには、それなりの時間がかかります。それを少しでも短縮するために、「動機付け面接法」というのが注目されています。ただ、動機付け面接法は、回復の入り口に導く方法であって、回復なり学習の手段そのものではありません(つまりステップや指針の代替にはならない)。

AAでスポンサーをやったり、ニューカマーの相手をする人は、この動機付け面接法に関心を持っても良いんじゃないかと思います。


2009年12月19日(土) 軽症のアル中

アルコール依存症も病気なので、軽症や重症の違いがあるのは当たり前です。

例えば、うつ病でも、重くなれば昏睡状態になってしまいますが、軽ければ医薬品ではなくハーブで治療が済んだりします。

「アル中には重症も軽症もない」というのは、極端な表現で正しくないのですが、しかし、使う場所によっては正しくもあります。

AAや病院にやってくる人たちは、ほぼ決まって「自分はそれほど重症ではない」と感じるようです。かくいう僕も「自分はそれほどひどくない」と思っていた一人です。根拠はいろいろあって、自分はまだ家族があるとか、働いているとか、刑務所に行ったことがないとか、でもそんな程度のことなのです。

そもそも病院やらAAに来ている時点で負け(という表現もヘンですが)なのです。要するに重症です。

ネットでこんなことをやっていると、見ず知らずの人から相談のメールが舞い込むことは珍しくありません。その中には「自分は酒をやめた方が良いか」という相談もあります。例えばこんな話です。

会社の同僚と酒を飲みにいったら、恥ずかしいことをしでかしてしまった。ところが自分にはその記憶がない。おまけに同僚からは、最近のお前の酒の飲み方はおかしいと言われる。どうしたらいいか。

まだ誰からも断酒を勧められていないわけですが、ブラックアウトは依存症になる人の特徴で、これから依存症になるのか、もうなっているのかに関わらず、断酒するしかないと返事をします。すると、その人は酒をやめてしまうのです。
(もちろん、メールで相談を受けた時点でもう重症でやめたがらない人もいますが、それは別の話)。

詳しく聞いてみれば、IDCなりDSMの診断基準を満たすでしょうが、もうパターンもわかってしまったのでたずねることもしません。だいたい僕は診断をする立場じゃないですし。それと、僕はその後を追跡するフォローアップはしません。

ただ、僕にメールを送った人なら分かると思いますが、1月1日には過去にメールをいただいた人に年賀のメールを送っています。すると、その返信で近況を知らせてくれる人が結構いて、2〜3回メールのやりとりをすることがあります。それで、その後も努力の必要もなく酒をやめていることが知れるのです。

リアルでも、AAメンバーとして活動していると、ときおり「私も実は以前は酒を飲んでいまして」という人に会うことがあります。この場合も同じで、家族に量が多すぎることを指摘された段階で、酒をすっぱりやめてしまっているのです。もちろん、その時点での診断基準は満たしているようです。

そんな具合に、軽症のアル中さんというのは、自分の健康に対する意識が損なわれていなくて、おまけにアル中さん特有の認知の偏りもまだなくて、自分の飲酒について危険を感じた段階で、素直にすっと酒をやめてしまうのです。医者に行くまでもありませんし、酒をやめ続けることに何の困難も感じていないようで、年賀のメールだけが僕との接点です。

逆から見れば、医者やAAに行く羽目になる人というのは、もうそれだけで重症です。「家路」にしても、雑記や掲示板を何度も覗く段階で、軽症でないのは明らかなのです。読んでいる人が全員重症なので、一緒くたに扱っても問題ないというわけ。(読者が家族や関係者であっても、その人たちが相手にするアル中さんが重症ばかりなので、これも問題ありません)。

ネットで「プレアルコホーリック」と称している人がいますが、ネットで活動しないと酒がやめ続けられないのなら、もう「プレ」じゃないだろうと思うのです。

「自分は軽症だ」という主張そのものが、重症を物語ってしまうわけです。この逆説に気づくのも回復のうちでしょう。


2009年12月17日(木) ある種の技法

二郎さんの掲示板で、家族が抗酒剤を本人に無断で飲ませると、家族を信頼できなくなってしまう、という話がありました。実際、みそ汁などにこっそり入れられて、それを知らずに酒を飲んでしまったために、セルフ嫌悪療法をやってしまった、という話はたまに聞きます。

(実際にはそんな経験はないのですが)、もしスポンシーから(一応しらふという設定として)「妻(母がでもいいけど)がみそ汁に抗酒剤を入れていることがわかった。もう信用できない。妻をどうすればいいだろう」という相談を受けたとします。

いきなり話がそれますが、「妻をどうすればいいでしょう」というのは相談ですが、「そんな妻とはもう離婚するしかありません。どう思いますか?」というのは、もう離婚すると決めているのですから相談ではありません。その場合には、まずその指摘から入ります。人の意見を自分の耳に入れるために必要なスタンスをスポンシーに示唆することは大事なことです。

話を元に戻します。本人が家族を信用できない以前に、本人がいままで信用できないことばかりしてきたからこそ家族の信用を失って、こっそり抗酒剤という仕打ちを受けるわけです。しかし、この種の説教はスポンシーの耳にあまり入りません。説教はアル中さんの耳に届かないのです。「それとこれとは話が別」などと屁理屈をこねられるのが関の山です。

恨みの感情をどう取り扱うか、というステップの話はスポンシーがステップをやっていれば効果があると思いますが、それ以前であれば話をしても効果がないと思います。

スポンサーとして言うべきことは、おそらく「それであなたはどうしたいのか?」でしょう。スポンシーは「妻がどうすべきか」を話していますから、そもそも主語が違うのです。
「主語を私にして、〜したいと表現してみよう」と導きます。

「私は妻がこっそり抗酒剤を入れるべきではないと思います」
主語は私になったけれど、〜したいになっていません。

「私は妻にこっそり抗酒剤を入れてほしくありません」
願望の表現になりましたが、いま一歩。

ここら辺で「つまるところ、あなたは奥さんが信用してくれないのが不満だということでしょう」と導けば、

「私は妻に信用してほしい」
「私は妻に信用される人間になりたい」
「私は妻にこっそり抗酒剤を入れられない人間になりたい」
という言葉になるでしょう。
そして、そのために何をすればいいか考えてもらえば、「毎朝妻の前で抗酒剤を飲む」という結論が出てくるかもしれません。

自分が信用できないことばかり繰り返してきたことを反省し、信用されるためには信用される行動を取らなければならないと決意し、そのための具体的行動として毎朝妻の前で抗酒剤を飲む・・・という思考がアル中さんはとても苦手です。おそらくそうした思考を司る脳の部位がアルコールで損傷を受けたか、飲む前から損なわれていたのでしょう。機能が回復するには時間がかかるのです。なので、説教が意味を持ちません。

いたずらに自尊感情を傷つけることはせず、自発的な行動を促す・・・てこれ子供の相手をするときの話じゃなかったっけ、と思うのですが、酒をやめたばかりというのは実際子供みたいなものなのです。あるいはリハビリのお手伝いという感じ。

この手法には、自分が信用できないことを繰り返してきたという事実への直面化がなされていません。なのでこの技法ばかりってわけにはいかないと思います。


2009年12月16日(水) 子供が好きなのではなく利用している

AAのミーティングに出るより、家で家族と一緒にいたい、という発言をする中年おじさんアル中は少なくありません。さらに話を聞いていると、どうも奥さんとではなく、子供と一緒にいるのが楽しいという話になっていきます。一見ほほえましい話なのですが、実はこれは具合の良くなさ(精神状態の悪さ)の表れです。
職場も居心地が良くないようですし、奥さんとの関係もぎくしゃくしたまま、ということが多いからです。

人間は、自分を褒めてくれる人をいい人と感じ、自分をけなす人を悪い人と感じます。実に子供っぽい行動原理ですが、こういう根源的な部分は何歳になっても変わるところがありません。

もしその人が、職場で「あなたは仕事ができる人だ」とか「あなたのおかげで皆が助かっている」と高く評価されているのなら、彼は職場が好きになるでしょう。しかし、彼は酒でミスをしたり、休んだりして同僚に迷惑をかけてきた「負の遺産」を抱えています。信頼を取り戻すまでには長い時間がかかります。大事な仕事をまかせてもらえないだけで、彼の自尊感情は傷つき、職場に対してネガティブな感情を持たざるを得ません。

もしその人が自助グループで熱心にやっていたなら、少なくとも「彼は真面目にやっている」という評価は得られます。ビギナーが高い評価を得るのは難しくありません。ただ
例会にたくさん出席しているだけでいいのですから。しかし、こんなところに来る羽目になった運命を恨んでいるようでは、「まだ下降中」と見られるのは仕方ないことです。

では、その人の家庭はどうか?
その人の奥さんや親は「迷惑をかけた対象」であり、信頼はしてもらえません。信頼しないのが家族の健康の証です。しかし、彼はそれが面白くないわけです。

ところがここに一つの例外があります。それは子供です。子供にとってどんな親でも、親は親です。虐待によって児童相談所に保護された子供ですら、家に戻りたがります。自分に至らないところがあったので親が自分を見捨てたのだ、と小さい心を痛めるのです。
アル中さんは子供にも迷惑をかけ、傷つけているのですが、それでも小さな子供は父親と友好関係を結ぼうとします。それが彼にとって唯一「自分を評価してくれる人間」なので、「子供といる時間が一番幸せに感じる」という話になるのです。

子供にも父親に対する憎しみが当然あります。しかし、それが問題行動となって表出してくるのは、子供自身がさらに成長する時間を経てからのことです。

人間は自分が必要とされていることに満足を感じます。この場合は父親が子供を「自分の精神安定剤代わり」に使っているわけで、これも一種の虐待と言えますし、子供の心に新たな傷を重ねてしまいます。酒をやめたアル中が家にいるよりも、毎晩例会に出て、週末は大会に行っていて不在が続く方が、長期的に見れば子供にとってプラスになるのですが、具合の悪いアル中さんは(酒を最後まで手放さなかったように)子供との関係維持に固執します。何しろ子供は彼にとって「最後の砦」なのですから。

子供のいない独身の人の場合、甥や姪、あるいは世話になっている牧師や住職の子などを代役に当てているケースも見たことがあります。自分の子供ほど強い固執があるわけじゃなさそうですが、傷ついた自分をいやすために、子供という力の弱い存在を利用している点では同じです。

断酒が続けば職場での評価もそこそこ戻り、奥さんや親もそれなりに信用してくれるようになります。この頃になれば、子供を利用する動機も少なくなり、普通のお父さんたちと同程度の関わりに戻っていくのでしょう。これもある種の回復といえます。
しかし、酒を飲んでいるお父さんに傷つけられ、酒をやめたお父さんにも傷つけられた子供は、いずれ何らかの形のトラブルを起こしてそれを表現します。断酒会でもAAでも、きちんとやっていれば子供の被害は軽減できますし、起きたトラブルに対処していく能力も備わります。
しかし、回復のプログラムを経ずに年数を経た父親の場合、子供のトラブルを深刻に捉えなかったり(つまり否認だ)、「俺は依存症から立ち直った立派な人間なのに、子供たちのこのだらしなさは何だ!」と恨みを持ってトラブルを拡大してみせたりします。

「親と同じにはなるまい」と思いながら、息子の5割が親と同様にアル中になり、娘の25%がアル中と結婚するのだそうです。遺伝的な体質があるにせよ、(飲んでいてもいなくても)親がそのように子供を育てるわけです。自助グループへの参加は、子供の将来の幸せのためにも良いわけです。

子供と一緒にいることが、子供のためにならず、かえって傷つけているのだ、と気がつくことが第一歩です。自分が回復しないのは勝手ですが、子供にツケを回すのは親としてどうか。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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