心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2009年11月16日(月) コントロールと神の続き

昨日は「自分が神だと思う」とはいかなることか、という話でした。
それは自分のコントロールの及ばないことまでコントロールしようとすることだ、という説明をしました。

では、なぜそういう行動を取るのか。その動機は?

基本的には、自分が無価値な存在だと感じているからです。内心では箸にも棒にもかからないダメ人間だと思っているわけです。もちろんそういう耐え難い感情は、防衛機制によって抑圧されているので、本人は日常は意識していません(でも時々浮かんでくる)。

自分はダメ人間ではない、と否定するためには、有能な人間であることを証明して見せなければなりません。本来人間の価値は(少なくとも自分自身には)証明不要で自明なはずです。けれど自分に自信がない人は、人から褒められ、認められ、評価されることで、自分の価値の証明を常に必要とします。

より多くの責任を引き受け、より多くのことが自分の肩にかかっている、となれば、自分の力量不足を感じずにすみます(一時的にですが)。

結果として自分のコントロールの及ばないことまでコントロールしようとする、つまり自分が神になるのです。人間が神になってしまうと、精神的に具合が悪くなって、神経症になったり、うつ病になったり、依存症になったりします(実際、今日の雑記の内容はうつ病の本のほぼ丸写しです)。スピリチュアルな手段がうつ病や神経症に効く、という根拠はここにあります。

他の人の問題にまで首をつっこむのは悪い傾向です。
他の人の抱えたトラブルの解決に集中していれば、自分の問題から目をそらせていられます。人の服を洗濯して、自分は汚れた服を着続けるようなものだからです。
スポンサーとしては「人のことに構わず自分のことに集中しろ」とアドバイスするのですが、具合の悪い人は「自分のことに専念する」のが大の苦手ときているのです。すぐに子供がどうとか、奥さんがどうとか、職場やグループの誰かがどうとか、ネットの掲示板の誰かを「あれではいけない。なんとかしなくちゃならん」という話が始まってしまうのです(宿題をサボって逃げ出す子供状態)。

ここで問題になるのは、自分の抱えているマイナスの感情が抑圧されて自覚できていないことです。うつ病やら依存症として表面に現れてきているのですから、精神的になにかしら具合の悪さが隠れているはずなのですが、自分が神だと思っている人は完全無欠な自己像を保とうとしますので、自力ではそれに気がつけません。

そういう人が変わるためには、どうしても他者の介在が必要になります。それはプロのカウンセラーかもしれませんし、素人のグループかもしれません。

自分が無価値だと感じるのは、自分でそういうレッテルを貼り続けてきたからですが、まず自分がそう感じていることを認めなければレッテル張りはやめられません。セルフ・エスティームを回復するためには、神の立場から降りるという降伏を経験しなければならないのです。うつ病や依存症の再発しやすさは、降伏のしづらさの裏返しというわけです。


2009年11月15日(日) OSMのスピーチを聴いて思ったこと

ハリー・M・ティーボー博士は、初期のAAに大きな影響を及ぼした人であり、12ステップが回復をもたらすメカニズムを精神医学の立場から解明した人でもあります。彼の文章に、

「内面ではアルコホーリクは、人からであれ神からであれどんなコントロールも我慢できない。彼はみずからの運命の主人であり、そうでなければならない。彼はその位置を守るために最後まで戦うのである」(AA成年に達する, p.470~)

というのがあります。アル中さんは、自分の運命を支配することを望みます。

12ステップには神という言葉が出てくるので、信仰だなんだと難しい話になってしまいがちです。僕は12ステップにおいて大切なことは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを認めること」だと思っています。

だが、たいていの人は「自分は神だと思っている」とは自覚していませんし、そう言いもしません(神だと言う人がいたら病院に送った方がいいでしょう)。でも、ちゃんと神だと思っているのです。

物事には自分のコントロールの及ぶ範囲と、及ばない範囲があります。宝くじを買う行為は前者、それが当選するかどうかは後者です。自分のコントロールが及ぶ範囲は責任を引き受け、その範囲外は(神様の範疇なので)結果を受け入れるしかありません。そこにきちんと線をひく必要があります。仕事でも、友人関係でも、家庭生活でもそうです。線引きした自分側だけ責任を引き受ければいいのに、アル中さんはそうでないのです。

アル中さんは「がんばる」という言葉が大好きでもあり、大嫌いでもあります。なぜ大嫌いか。いままでも精一杯「がんばって」きたのに、アルコールのせいもあって惨めな状態になってしまった。成功するためにはもっとがんばらねばならないのか。もうがんばることに疲れている、というのが理由です。そしてまたがんばり出すときは、無茶苦茶がんばります。

失敗も成功も自分次第だと思っていれば、自分の運命を自分で支配できるという幻想にしがみついていられます。運命を支配する者=神だと思っているのです。まずその立場から降りなければなりません。

回復を取り上げてみてもそうです。自分が努力しなければ回復はしません(自分の範疇)が、回復には自分の力が及ばない部分もあります(神様の範疇)。これだけ努力したのだから、これぐらい回復していて良いはずだ、と思った時点でもうぶり返しているのでしょう。AC性の強い人ほど神様の立場から降りたがらない(範囲を超えて責任を取りたがる)傾向があるように思います。

僕がビッグブックでステップをやり直したとき、ステップ5の相手に頼んだのはビッグブックのステップの経験が全然ない職業宗教家のAAメンバーでした。彼は何度も「あなたは本当に自分が神様やってるよね」と繰り返してくれました。最初は僕も反発したものの、悔しいけれどステップ4の表はそれを明らかにしてくれました。

自分が神様をやっているうちは、他の神様なんて余計なちょっかいをしてくる邪魔な存在でしかありません。現人神が家庭や職場にいたら、周りの人が困っちゃうのであります。


2009年11月13日(金) 自分が作った壁

僕はAAに来てから10年近く、スリップ(再飲酒)は飲酒欲求(渇望)に負けて飲むものだと思っていました。飲みたくて我慢できなくなった人が飲むものだと思っていました。だから、「飲みたくてたまらない」状態にならないように気をつけていればいいし、AAもそのためのものだと思っていました。

実際そのように酒を飲んでしまった、という体験もミーティングではずいぶん聞きますから、そう思って当然だったかも知れません。自分より長い仲間が「そういうのはスリップって言わないんだよ」と言っても聞き入れず、じゃあどういうのがスリップなんだよ!、と言い返すぐらいの態度でいたのです。

その仲間の言葉を今の僕の言葉で言い換えれば、それは「再」飲酒ではなく前回の飲酒の続きをやっているだけだ、という感じでしょうか。

我慢でも何でも酒をやめ続けていると、あの強迫的な飲酒欲求は次第に静まっていきます。もう酒を飲む必要はないと感じるようになります。では必要のない酒をなぜまた飲んでしまうのか? よくよくAAメンバーの話を聞いてみると、確かにそういう(真の?)再飲酒をした人の体験がきちんと話されています。10年間それに気づかなかったのはなぜか?

それは僕の耳が(実際には脳が)そういう体験談をシャットアウトしていたからでしょう。アル中の耳とは不思議なもので、自分の意見を否定するような材料は拒むようにできています。

時間はかかったものの、僕のその心のファイヤーウォールを乗り越えて、真実が脳に届く瞬間がやってきました。例のジョー&チャーリーが書いた "A Program For You" という本に書かれた内容が、僕の心の壁にひび割れを作ってくれました。ようやく光が差し込んだわけです。

でもそんな本を読まなくても、同じことはビッグブックの「医師の意見」と2章と3章あたりに、繰り返し繰り返し繰り返し、くどいほど書かれています。僕はそれまでにもビッグブックを何度も読んでいたにもかかわらず、そこに書かれた真実を見落とし続けました。それはなぜか?

自分の考えを否定する言葉は無視していたからです。疑問に思っても質問すらしてみませんでした。ここでも僕の脳にはファイヤーウォールが張り巡らされ、光が届かない状態だったのです。

僕にビッグブックを一緒に読むスポンサーがいれば、僕の10年をずっと短く短縮できたかも知れません。だから僕はスポンシーと一緒にビッグブックを読むことにしています。説明をしながら読み進めていくと誰もが「同じことが繰り返し書かれている」ことに気づきます。ビッグブックを書いた人たちが、それだけ強調する必要があると思ったから繰り返し書かれているのでしょう。それはスポンサーがスポンシーにステップ1の一部として必ず伝える必要がある中身だと思っています。

その瞬間アル中は「今度こそはふつうの人並みにうまく飲める」と考えます。その時に「前の飲酒が自分にもたらした屈辱の記憶」を忘れているわけではありません。ただその記憶も、依存症の知識も役に立ってくれません。理性による断酒が潰える瞬間です。

多くのアル中さんたちは、自分の理性を信じています。他のことはともかく、ことアルコールに関してはアル中の理性は役に立たない。そのことを認められないアル中さん達を僕は笑うことができません。自分もその一人だったからです。

人間には三種類あると思います。

一つめは、他人の失敗を見て自分の将来の危険を避けられるタイプ。
二つめは、その失敗が自分の身の上に起こってようやく学ぶタイプ。
最後は、自分の失敗からも学ぶことができないタイプ。

自分自身を一番目のタイプだと思っている人は進歩できないわけです。そう思うのがまさに「アル中的思考」だからです。僕も含め、ことアル中さん達は全員三番目のタイプだと思って間違いありません。


2009年11月11日(水) 「神」って?

先日AAの病院メッセージでのことです。
この雑記はAAメンバーでない人も読んでいるので、ざっくり説明すると、AAメンバーが病院を訪問して患者さんと話をすることです。普段のAAミーティングの形式でやる場合が多いと思います。Grapevineを読んでいたら、take meetings to hospital/rehab という一節があったので、海の向こうでも同じことをやっているのでしょう。

ハンドブックの序文・3章・5章を読んで、参加したAAメンバー全員が話をし、余った時間で患者さんに話をしてもらいました。その中の一人が、「このパンフレットに神という言葉が出てきますが、神って何ですか?」という質問をされました。

質疑応答になってしまうと分かち合いにならなくなってしまうので、質問は後回しにしてもらって、終わった後で個人的に話をすることにしています。「AAは宗教とは無関係だ」と言っても、そういう人の疑いは晴れません。そこで、手短にこんな話をすることにしています。

どうして人は教会や神社で結婚式を挙げるのでしょう。どうして人が死ぬとお坊さんを呼んで葬式をするのでしょう。七五三や受験のお願い、あるいは初詣に神社仏閣に行きます。それはなぜか?

世の中には人間の力ではどうにもならないことがたくさんあります。日本人は古来から、生きている人が幸せになるためには(死んだ人が安らぐためにも)、人間の努力だけでは足りないことを知り、神や仏を頼ってきました。あなたもそれを強く意識しなかったかもしれませんが、初詣には行ったことがあるでしょう。それが信仰心というものです。

ただ、日本人の多くは信仰の「ブランド」にこだわりをもたないので、七五三は神社、結婚式はチャペル、葬式はお寺なんてことになります。AAも同じで、あなたがどのブランドの信仰を持っているか、あるいはなにも持っていないか、まったく意に介しません。どこか特定のブランドに押し込められるのじゃないか、と心配する必要はまるでありません。

ただ、酒をやめていくのに自分の力だけでは足りない、と考えはAAの基本です。あなたが反発を感じているとしたら、そちらのほうではないのですか?


2009年11月09日(月) 解離の話(その3)

小西さんの話の後半、DVの被害を受けた人に見られる解離性障害について。

もし動物が恐怖を感じることができなければ、危険な場所に留まり続け、生き残ることができないでしょう。恐怖は必要な生存本能です。人間も、例えば高い場所や暗い場所は怖いし、ナイフを振り回している人からは逃げようとします。これは動物的な脳の機能です。

そして危険や恐怖は、人間の心に強く残るようになっています(その方が生き残れる確率が高まるから)。恐怖を感じる危険は暴力だけではなく、恥をかく、大きな力の前に無力感を感じるのも恐怖体験になり得ます。

恐怖感は時間が経つと次第に減衰していくのが普通です。しかしそれは危険を離れて安全な場所にいるからです。逃れられない暴力にさらされ続けると、恐怖が「学習」されてしまい、その過剰な恐怖に対応するメカニズムが成立します。それが解離です。

道路にはセンターラインがあり、日本ではその左側を走ることになっています。車を運転する僕らは、反対車線を走る車がいきなりセンターラインを越えて飛び越してこない、と信じています。だから、かなり気を抜いて運転しています。人間の社会には、そのように無条件に信じなければならないことがあり、信じなければ生きていけません。

例えばセンターラインを越えて飛び出してきた車と正面衝突して重傷を負ったとすると、その恐怖でセンターラインが信じられなくなります。いつ反対車線の車が飛び出してくるか分からない、とても緊張した状態を強いられます。そういう事故が、その人の身に繰り返し起こったらどうなるでしょう。もうハンドルを握ることすらできなくなって不思議ではありません。

家庭という密室の中で、繰り返し暴力、無力感、屈辱を味わってきたDV被害者の解離症状を理解するキーワードは「学習された恐怖」です。

僕らは「いきなり人が殴りかかってきたりしない」ということを信じています。けれど、それが信じられなくなれば、駅でいきなり殴られるかもと思えば電車に乗れなくなる、というような行動の障害となって現れます。

トラウマを持つ人は、明日が来ることを信じられません(明日を信じられないのはトラウマを持つ人に限りませんけど、それはともかく)。例えば地雷が埋まり、銃弾が飛び交う戦場で育った子供は、親しい人がいきなり死ぬ経験を繰り返します。とんでもないことがいきなり起こる暮らしを続けてきた人は、「自分は早死にする」「先のことを考えても無意味」という確信を持つようになります。

明日がないのであれば、計画を立て努力しても無駄です。それが、何事にも真剣味が感じられない無気力な姿勢となって現れます。しかしそれは、やる気のなさではなく、脳が恐怖を学習した結果です。

小西先生の講座は、どちらかというと援助職向けでしたので、回避的で無気力な姿勢が、やる気のなさではなく、解離の症状であることを理解することが大事だ、ということが強調されていました。

治療者向けの話ではないので、どのように対処するかはごく簡単に触れられたのみでした。恐怖や不安を否認したり避けたりすることから、認識すること、コントロールすることへ。恐怖から逃げる方向ではなく、行動の制限を減らし自由を獲得していくことが、自己評価を上げることにつながるのだそうです。

例えば車の運転の例で言えば、運転は無理でも、自宅の車庫でハンドルを握ることから始めたり、夫が包丁を振り回したせいで、包丁が怖くなって料理ができなくなった女性が、小さなナイフを使うことから始めるなど。専門家向けの集中講座への言及もありましたが、さすがにそこまでの興味はありません。

解離の症状を、やる気のなさと誤解しない、というのが今回学んだポイントでした。

(この話は今回でおしまい)


2009年11月08日(日) 解離の話(その2)

小西さんの話の後半、DVの被害を受けた人に見られる解離性障害の続き。

パワポの資料を丸写しですけど。

「よく誤解される解離症状の表現形」

・人ごとのようで、真剣みが感じられない/へらへらしている

 酷い暴力を受けたにしては真剣に悲しんでいるように感じられず、診察室でもへらへらしている。→ショックを乗り越えたわけではなく、真剣味がないのは危ない状態。

・淡々と合理的にしゃべるが、行動が合理的でない/感情がないようにぼうっとしている

・(事件に関する)大事なことなのに覚えていないという/都合の良いことだけ覚えているように見える。

・事件について話し合おうとすると、具合が悪くなってしまう/別の話になってしまう/話せない

 →事件の話をしているのに別の話にすり替えてしまう。あることに全く触れられない。しかし知的能力はまったく損なわれていない。

・約束の当日、具合が悪くなる/電車を乗り過ごしたと言うが重大さが感じられない

 →それが無意識に行われる。離婚調停で家裁に行かなければならないのに、「忘れて」いたりする。それが極端に心証を悪くすることも。

・重症感があり、ヒステリー様の症状(歩けない、手が動かない、被害に「意味がある」痛みが感じられるなど)がある。

 →転換性と言われるゆえん。

解離が疑われた場合には、それが解離症状か確かめるのが鉄則で、それを自分ではどう感じているか確認する。感情がない(事件を怖いとか怒りを感じない)、記憶がとぎれていることを自覚している、自分が自分でない感覚や自分を別のところから眺めている感覚(離人感)、事件を思い出そうとすると記憶にふたをされた感じ、あるいは体の不調が起こる。


2009年11月07日(土) 回復研究会の集会

中央道始点の高井戸インターには入り口がないことを毎度忘れてしまいます。気がついて、第三京浜→環八→世田谷通り→狛江通り→調布インターと走りました。横浜から効率的に中央道に出る道があったら教えてください。

で、集会の感想。
「ひいらぎさんは、長野から高みの見物でいいですね」と言われましたが、離れているから見えてくることもあります。関東の連中の喧噪に巻き込まれたら、見えることも見えなくなったりするかもしれません。

ビッグブック・ムーブメント、あるいは基本に返ろうという運動は、2003〜04年ごろから盛り上がってきました。その頃からやっている人たちは、もう5〜6年やっているわけです。今回もその人達の姿を見て感じたことは、あの頃の力みや焦りが消え、自然体でやっているという印象です。

あの頃は、日本のAA(を含む12ステップグループを)今すぐ全面的に変えちゃろうという、大それた夢をみんなが心の中のどこかに秘めていたような気がします。それは、

「歯車を一度に全部逆回転させることはできない」(12&12 p.96)

という、当たり前のことが分かっていなかった、ということかもしれません。個人の回復の途中でも同じことが起こりがちですけど。

現実はそんなに簡単には変わらない。地道に実績を積み上げるしかありません。そろそろ、その「実績」がそれなりに積み上げられてきて、ゆっくりだけれども確実に広がって定着しつつある。「ああこの路線でいいんだ」という手応えをみんなが感じ始め、それが気負いを消してくれたのではないか。そう思いました。

今はビデオをDVDに録画する時代で、ディジタルなので何度コピーしても劣化しませんが、僕らの若い頃はビデオテープをダビングするしかありませんでした。先輩がナイスなビデオを持っていれば、頭を下げてそれをダビングしてもらいました(おたくがビデオデッキ2台持つのは珍しくなかった)。そうやって人から人にダビングが繰り返されていくと、次第に映像が歪み、色が乱れ、「写っているのが日本人かガイジンか分からない」ような状態になってしまいました。

おそらく日本のAAのステップの伝達に起こったのも、同じ現象ではないか、と僕は推測するのです。人から人に伝えられていく過程で、ずいぶん違ったものに変貌してしまったのではないかと。三十数年前に始まった頃はそれなりに原形を保っていたものが、伝えられているうちに歪んでいった。役に立つ変化もあったけれど、総じてAAは魅力を失っていったのではないかと、問いたいのです。

だから研究会の集会は、ビッグブックうんぬんよりも、「ステップをきちんとやりましょう」とか「12ステップグループはステップで問題を解決する人の集まり」という、とても基本的なことの再確認の場になっていた、と思いました。

ジョー・Mに言及すれば、彼は「スポンシーにビッグブックを使ってステップを伝える」ことを強調しています。ダビングを繰り返すのではなく、マスターのビデオテープから直接ダビングすれば劣化しない、当たり前のことです。日本のAAは「AAは伝言ゲームになってはいけない」という経験を得たということでしょう。

基本に忠実に取り組む、というこの当たり前の動きが、アルコールだけでなく、ギャンブルや薬物や感情のグループ、さらに家族のグループに広がっている現状は、とても頼もしく思えます。

あと細かな感想は、年数のファクターは無視できないな、ということ。ステップに真面目に取り組めば回復は早まるけれど、それでも十年分の回復を一年で成し遂げるってわけにはいきません。十年分回復するには十年が必要、と思いました。(けれど、十年経っても一年分しか回復していないってことはあるかも)。

12ステップのプログラムは、スポンサーからスポンシーに直接手渡されていきます。会場では伝える相手(スポンシー)を求めるスポンサー達が手を挙げていました。

「ひいらぎさんは手を挙げないのですか?」と聞かれ、
「今手一杯なんです」と答えました。

まあ田舎で地道にやっています。

田舎は静かで、いろんなことに巻き込まれずに済んでいいのですが、刺激が足りないとせっかく渡してもらったものもさび付いてしまいます。いろんなスピーカーの人の話が良いrefreshになりました。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加