心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年11月08日(日) 解離の話(その2)

小西さんの話の後半、DVの被害を受けた人に見られる解離性障害の続き。

パワポの資料を丸写しですけど。

「よく誤解される解離症状の表現形」

・人ごとのようで、真剣みが感じられない/へらへらしている

 酷い暴力を受けたにしては真剣に悲しんでいるように感じられず、診察室でもへらへらしている。→ショックを乗り越えたわけではなく、真剣味がないのは危ない状態。

・淡々と合理的にしゃべるが、行動が合理的でない/感情がないようにぼうっとしている

・(事件に関する)大事なことなのに覚えていないという/都合の良いことだけ覚えているように見える。

・事件について話し合おうとすると、具合が悪くなってしまう/別の話になってしまう/話せない

 →事件の話をしているのに別の話にすり替えてしまう。あることに全く触れられない。しかし知的能力はまったく損なわれていない。

・約束の当日、具合が悪くなる/電車を乗り過ごしたと言うが重大さが感じられない

 →それが無意識に行われる。離婚調停で家裁に行かなければならないのに、「忘れて」いたりする。それが極端に心証を悪くすることも。

・重症感があり、ヒステリー様の症状(歩けない、手が動かない、被害に「意味がある」痛みが感じられるなど)がある。

 →転換性と言われるゆえん。

解離が疑われた場合には、それが解離症状か確かめるのが鉄則で、それを自分ではどう感じているか確認する。感情がない(事件を怖いとか怒りを感じない)、記憶がとぎれていることを自覚している、自分が自分でない感覚や自分を別のところから眺めている感覚(離人感)、事件を思い出そうとすると記憶にふたをされた感じ、あるいは体の不調が起こる。


2009年11月07日(土) 回復研究会の集会

中央道始点の高井戸インターには入り口がないことを毎度忘れてしまいます。気がついて、第三京浜→環八→世田谷通り→狛江通り→調布インターと走りました。横浜から効率的に中央道に出る道があったら教えてください。

で、集会の感想。
「ひいらぎさんは、長野から高みの見物でいいですね」と言われましたが、離れているから見えてくることもあります。関東の連中の喧噪に巻き込まれたら、見えることも見えなくなったりするかもしれません。

ビッグブック・ムーブメント、あるいは基本に返ろうという運動は、2003〜04年ごろから盛り上がってきました。その頃からやっている人たちは、もう5〜6年やっているわけです。今回もその人達の姿を見て感じたことは、あの頃の力みや焦りが消え、自然体でやっているという印象です。

あの頃は、日本のAA(を含む12ステップグループを)今すぐ全面的に変えちゃろうという、大それた夢をみんなが心の中のどこかに秘めていたような気がします。それは、

「歯車を一度に全部逆回転させることはできない」(12&12 p.96)

という、当たり前のことが分かっていなかった、ということかもしれません。個人の回復の途中でも同じことが起こりがちですけど。

現実はそんなに簡単には変わらない。地道に実績を積み上げるしかありません。そろそろ、その「実績」がそれなりに積み上げられてきて、ゆっくりだけれども確実に広がって定着しつつある。「ああこの路線でいいんだ」という手応えをみんなが感じ始め、それが気負いを消してくれたのではないか。そう思いました。

今はビデオをDVDに録画する時代で、ディジタルなので何度コピーしても劣化しませんが、僕らの若い頃はビデオテープをダビングするしかありませんでした。先輩がナイスなビデオを持っていれば、頭を下げてそれをダビングしてもらいました(おたくがビデオデッキ2台持つのは珍しくなかった)。そうやって人から人にダビングが繰り返されていくと、次第に映像が歪み、色が乱れ、「写っているのが日本人かガイジンか分からない」ような状態になってしまいました。

おそらく日本のAAのステップの伝達に起こったのも、同じ現象ではないか、と僕は推測するのです。人から人に伝えられていく過程で、ずいぶん違ったものに変貌してしまったのではないかと。三十数年前に始まった頃はそれなりに原形を保っていたものが、伝えられているうちに歪んでいった。役に立つ変化もあったけれど、総じてAAは魅力を失っていったのではないかと、問いたいのです。

だから研究会の集会は、ビッグブックうんぬんよりも、「ステップをきちんとやりましょう」とか「12ステップグループはステップで問題を解決する人の集まり」という、とても基本的なことの再確認の場になっていた、と思いました。

ジョー・Mに言及すれば、彼は「スポンシーにビッグブックを使ってステップを伝える」ことを強調しています。ダビングを繰り返すのではなく、マスターのビデオテープから直接ダビングすれば劣化しない、当たり前のことです。日本のAAは「AAは伝言ゲームになってはいけない」という経験を得たということでしょう。

基本に忠実に取り組む、というこの当たり前の動きが、アルコールだけでなく、ギャンブルや薬物や感情のグループ、さらに家族のグループに広がっている現状は、とても頼もしく思えます。

あと細かな感想は、年数のファクターは無視できないな、ということ。ステップに真面目に取り組めば回復は早まるけれど、それでも十年分の回復を一年で成し遂げるってわけにはいきません。十年分回復するには十年が必要、と思いました。(けれど、十年経っても一年分しか回復していないってことはあるかも)。

12ステップのプログラムは、スポンサーからスポンシーに直接手渡されていきます。会場では伝える相手(スポンシー)を求めるスポンサー達が手を挙げていました。

「ひいらぎさんは手を挙げないのですか?」と聞かれ、
「今手一杯なんです」と答えました。

まあ田舎で地道にやっています。

田舎は静かで、いろんなことに巻き込まれずに済んでいいのですが、刺激が足りないとせっかく渡してもらったものもさび付いてしまいます。いろんなスピーカーの人の話が良いrefreshになりました。


2009年11月04日(水) 解離の話(その1)

乖離の話ではなくって。

小西さんの話の後半は、DVの被害を受けた人に見られる解離性障害の話でした。
解離性障害は、逃れられない暴力的な被害を受けた心が、その耐え難いストレスを、記憶や感覚の異常に「転換」したものと考えられています。DV被害者、虐待された子供、犯罪被害者などの話には定番とも言えます。

DSMの解離性障害の項目には、
・解離性健忘(以前は心因性健忘)=外傷やストレスに関わる記憶がなくなる。
・解離性遁走(以前は心因性遁走)=突然生活の場から離れ、その間の記憶がない。
・解離性同一性障害(以前は多重人格性障害)=いわゆる多重人格。
・離人症性障害=自分のことをまるで外から傍観しているように感じる。

さらに、IDC-10には、
・解離性昏迷、トランスおよび憑依障害、解離性運動障害、解離性知覚麻痺が載っています。

なんとか連合とか協会を、英語で association といいます。これは associate (連携する、関連する)という言葉の派生です。dissociate はその反対で、分離している、切り離されているという意味です。解離性障害の「解離」は dissociative で、本来人間は過去の記憶や、自分の体の感覚やコントロールは、全部が一体となって感じているものですが、その一部が「切り離されて」しまっていることを示します。

例えば解離性健忘であれば、子供の頃虐待を受けていた人で小学校の頃の記憶がすっぱり抜けているとか、性犯罪の被害や銀行強盗の人質になった人が、その間の記憶をまったく失っている、ということが起きます。DV被害者の場合には、DVを受けている間の記憶を失うことが起こります。

小西さんのセミナーで配られたパワポの印刷と、その書き込みを元に、解離の勉強のために、メモの清書が次回も続くのであります。


2009年11月03日(火) テレビで聞いたネタ

古今亭志ん生の言葉にこんなものがあります。

 『人間には、うぬぼれてぇものがあります。
  他人の落語を聞いて「こいつは下手だ」と思う時は、
  その相手は自分と同じくらいなんです。
  「こいつは俺と同じくらいだ」と思ったら、
  相手の方が自分より上手いんです。
  ですから「こいつは自分より上手い」と思うようだったら
  もう天と地ぐらいの開きがあるってぇことです』

さすが噺家だけにうまいことを言います。
同じことは、人生のいろいろな分野で、数値化できない何にでも当てはまります。

例えば家路っぽくするならば、「他人の落語」を「他人の回復度合い」に置き換えてみれば、もうそれで、それっぽい言葉のできあがりです。

 同じアル中の言葉を聞いて、「こいつ回復してないな」と思う時は、
 その相手は自分と同じくらいなんです。

ほらね。

数値化して比較できないからこそ、うぬぼれの入り込む余地がある、というわけか。

まあさすがに「いくらなんでも、こいつより俺の方がマシだ」ってのも、あることはありますが。まあ、それはそれ。


2009年10月31日(土) 小西さんのDV講座

9月末に社会病理学会の公開シンポジウムで信田さんの話を聞きました(タダだったから)。10月末は県の機関の主催するDV防止セミナーに行きました(タダなので)。講師は武蔵野大学の教授で小西聖子という人。この人は精神科医で臨床の人なのですが、学校の先生でもあるので話がわかりやすくて助かりました。セミナーといっても、小西先生の2時間の話があるだけの内容。フロアの参加者は六十数人でした(なぜこんなに少なかったのか?)。

話の前半はDVの概説、後半はDV被害が重い人に見られる解離症状についての説明でした。今回も自分へのメモ書きとして、講演の中からいくつか話題を書き留め、発展させておこうと思います。

何かと出てくる内閣府のDV調査はこちら。
http://www.gender.go.jp/e-vaw/chousa/index.html

よく言われることで、男から女へのDVだけじゃなく逆もあるのは事実で、身体的暴力・精神的嫌がらせや脅迫・性的なもののどれかを一度でも受けたという質問では、男女比は1:2になっています。国によっては1:1にもなるそうです。
しかし、介入が必要なほど重篤なケースに限れば女性が9割以上(調査では身体的暴力を複数回受けたのは男16に対し女117)。

つまり、DVは男女のパワーの差の問題であり、ジェンダー(社会的性差)の問題です。例えばもし男女間で経済力に差がない社会であれば、DVの様相はまったく違っていたはずです。けれど、小西先生はジェンダーの話に傾くことを戒めます。自分の唱えるモデルにあてはまる実例にのみ共感を示し、あてはまらない例を無視する態度では臨床家は務まらないという話でした。

これはよくわかる気がします。視野狭窄を起こしがちな社会活動家では、実際に困っている人相手の実務は務まらないということであろうかと思うのです。

しかし社会的な要素は大事です。
9月末に書きましたが、DV加害者(夫)は妻が悪いから暴力を振るう、という被害者意識いっぱいであり、被害者(妻)のほうは私が至らないからいけないのだ、という自責感(加害者意識)いっぱいです。そこには共依存のような心理的問題があるのでしょうが、妻が逃げ出して離婚しないのは、そういう理由ばかりではありません。

経済的な問題、自分の仕事のこと、子供の将来のことなど様々なことがあり、メリット・デメリットのトレードオフになってくれば、スマートな問題解決が無理なことも多いのです。

たったこれだけの文章を書くのに2時間もかかっています。守備範囲外だとそんなものでしょう。使い慣れない言葉ばかりだし、調べ物でネット検索すると読みふけってしまうし。というわけで、続きは明日(かも)。


2009年10月28日(水) 自傷行為について考える

この雑記を何のために書き出したかというと、最初は「心の家路」の集客のためでした。アクセスカウントを稼ぐには、更新頻度が高くないといけません。だから、日記形式で、日々の生活のことでも、考えたこと何でも記録していくことにしました。しかし、やがてアクセス数に関心を失ってしまい、ほとんど自分用のメモ書きとなっています。

考えたことを頭に定着させるためには、書くことが必要です。だから学校でも板書をノートに書き写すわけですし、AAのステップも棚卸しは頭の中ではなく紙に書いて行うのでしょう。この雑記は、僕が見聞きしたことを自分の頭の中に定着させるためにやっているのです。

さてお題。手首を切って自殺、大量服薬で自殺というのがあるので、リストカットや over dose(OD) は死ぬためにやっている(つまり自殺未遂)と解釈されがちです。けれど、死ぬためではなく、死なずに生き残るためにやる人の方がずっと多いのだと思います。

参考:kyupin先生のブログ
リストカット
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10040304313.html
リストカットについての私見
http://ameblo.jp/kyupin/entry-10329934008.html

ストレスコーピング(精神的緊張を乗り越える手段)としてのリストカット。抜毛癖もこのたぐいかもしれません。

それが外に向かえば暴力癖(間欠性爆発性障害)になるのかも。DV夫は職場では評判が悪くない場合が多いのだそうで、外で受けたストレスを妻に暴力をふるうことで解消しているふしがあります。勉強のストレスで放火癖がでる受験生とか。窃盗癖のある人は、ストレスがかかるとつい万引きしてしまう話を聞いたことがあります。
病的賭博や性的放縦にもストレスコーピングの要素があるのかも。

アル中さんやうつの人もふくめてメンヘル系のブログを数十眺めていますが、子供の頃の虐待(特に性的虐待)の話を読むとげんなりします(精神的ブラクラだから)(でも読む)。そんな風に読む側に覚悟を求めてくるブログの一つがこれです(それに比べればアル中さんたちのブログはヌルい)。

解離性同一性障害(多重人格障害)40余りの人格と共に生きる
その中のエントリで、
大好きだった彼女が
http://ameblo.jp/rin3718/entry-10334698938.html

「300錠以下の量でODしたとは言えない」

というのもすごい話ですが、これはリストカットに Delicate cutter と Coarse cutter があるように、delicate なODと coarse なODの違いなのでしょう。

アルコール依存症は「慢性的自殺」とか「緩慢な自殺」と言われますが、それは自ら臓器にダメージを与え続ける行為からそう言われるのだと思います。実際には、死にたくて飲んでいるのではなく、ストレスに負けずに生き残るために飲んでいるわけです。

自傷行為(時に他害行為も含む)は、何かのメリットがあるからこそするのでしょう。ただそれが局所解(local minimum)であることに気づけずにいる、と思うのでした。


2009年10月27日(火) アル中になりやすい人・なりにくい人

依存物質にはそれぞれ、毒性の強さとは別に、依存のなりやすさの違いがあります。
私たちはコーヒーや紅茶やコーラからカフェインを日常的に摂っていますが、カフェイン依存症になる人はわずかです。カフェインは依存になりにくいのです。一方、タバコを習慣的に吸う人はほぼ全員がニコチン依存になります。ニコチンはきわめて依存になりやすい物質です。アルコールは中間で、習慣的に酒を飲む人の中で依存になる人は約一割とされています(この数字はアメリカの話なので、日本ではもっと少ないかも)。

では、アルコール依存になる人・ならない人の違いは何か?

慢性アルコール中毒が病気だと考えられるようになる前は、酒に溺れるのは不道徳の証だと思われていました。そのころでも「酩酊という不道徳は遺伝する」ことが知られていました。つまり、アル中の子供はアル中になりやすいのです。これは、アルコール依存症に遺伝性があることを示しています。

ただ間違えてはいけないのは、遺伝するのは「病気になりやすい体質」で病気そのものではありません。血友病みたいな遺伝病とは違って、アル中は予防が可能です。酒を飲むから依存症になるのですから、飲まなければ予防できます。
つまり、親がアルコール依存症の人は酒を飲まない方が良いし、自分が依存症本人だという人は子供が成人しても酒を飲まないように教育すべきです。そうすればアルコール依存症は予防できます(他の依存症になる可能性は残りますが)。酒が飲めないのは不憫な気もしますが、どうせ依存症になれば飲めなくなるのですから、最初から飲めない方が苦労が無くてすみます。

遺伝の要素以外に、ストレス耐性という要素が言われています。
それは 1950年に書かれたこの文章 にも書かれていますが、将来アル中になる人は酒を飲むことで「際だった解放感」を得ます。つまり普通の人より「酔いの快感」が大きいと考えられています。人より気持ちいいので、人よりハマりやすいわけです。

酒が好きだから依存症になったという人もいますが、人より酒の快感が強かったので快感物質にハマってしまっただけの話で、その点では覚醒剤でラリっているのりピーと大差ありません。

では、なぜ「人より強く解放感を感じるか」。前の文章によれば、その人の受けているストレスが

「その社会のほかの人々よりはるかに強いか、あるいは彼が、ほかの人たちのようにその緊張をうまく調節する方法を学んでいないか、どちらかの理由による」

というわけです。しかし前者(他の人より強いストレスのせいで依存症になった)という人はまずいないと思います。例えば仕事のストレスが依存症の原因だ主張する人がいますが、ストレスになるほどの激務を毎日大酒を飲みながらこなせるわけがありません。
つまり、ほとんどは後者。ストレスの量は社会の他の人と変わらないものの、ストレスに弱いか、ストレス解消が下手だったわけです。そこへ酒を飲んだら大きな解放感を味わったので、病気になるほどハマってしまったというわけです。

重大なことを目の前にしても、人と夕食を楽しんで熟睡できる人がいます。当然こういう人はストレスに強い。一方、大したことでないのに心配して眠れなくなり、騒がなくてもいいことを騒ぐ人もいます。ストレスに弱く、アル中にもなりやすい人と言えます。

断酒する人の中には、酒に変わる楽しみが欲しいという人もいます。けれど、アル中さんの酒の快感は普通の人より強いのですから、酒より気持ちいいことなんて、そうそう見つかりません。ストレス解消の手段を追求するよりも、なぜ自分は人よりストレスに弱いのか、そのことに取り組むべきなのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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