心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年10月26日(月) リベンジ?

あれは16日の金曜日のことでした。
その日僕は神奈川にある本社にでかけ、帰路はいつものとおり小田急から横浜線に乗り、さらに特急に乗るために八王子で乗り換えたのでした。
八王子駅エキナカ、コンコースのトイレ前に Montly Sweets という名の売店があり、いろんなスイーツのアンテナショップが月替わりで入っています。10月は「王様からのご褒美」という店です。この店はロールケーキがお勧めなようで、真ん中にミルクプリンと生クリームが入っているジャージープリンロールと、季節限定のマロンロールの二種類がショーケースの大半を占めていました。

秋だからマロンがおいしそうだが、プリンが入ったロールケーキも捨てがたい。

迷った挙げ句にジャージープリンロールを選択しました。自宅まで3時間近くかかるので、保冷用のバッグ(100円)も購入。

金曜日とあって列車は混み合っていました。町田の駅で指定席を取るのに、いつも窓際のA席かD席を取るのですが、通路側の席しか取れなかった時点で悪い予感がしたのです。実際ほぼ満席で、網棚(といっても網でできてるわけじゃないけど)の上は新宿から乗った客の荷物で占められていました。仕方ないので、かなり座席から離れた場所にケーキを置きました。

特急の終点でローカル私鉄に乗り換えです。乗るのはわずか2駅、数百メートルにすぎませんが、どうせ会社が交通費を支給してくれるので乗らなければ損です(乗らなければ支給されない)。

携帯で調べると、乗り換え時間はわずか3分しかありません。実際は見間違いで、私鉄の乗車時間が3分で、乗り換えは10分以上余裕があったのですが、それは後でわかった話。無論、慌てた僕はケーキを忘れました。

それに気がついたのは私鉄の駅を降りてからでした。JRの駅まで歩いて戻り「先ほど到着の特急に忘れ物をしたのですが」と駅員に伝えると、彼はため息をつき「たいていの特急はこの駅で清掃作業をするのですが、あの列車は他の駅まで行きそちらで清掃されるのです」と言いました。その駅まで往復二千円以上使って自分で取りに行くか、明日荷物が回送されてくるのを待つか・・・。いくら保冷バックに入っていても、ロールケーキは明日まで持ちそうにありません。

諦めて駅前のデパートでショートケーキを買って帰りました。予定より1時間弱遅れて帰宅すると、楽しみにしていたイーグルスのプレーオフ試合は、もう決着がつく頃でした。

そしてこの月曜日。再び本社にでかけた僕は、しっかと紙袋を抱いてJRの特急から私鉄に乗り換えました。その紙袋の中には、ジャージープリンロールと季節限定マロンロールが両方とも入っていたことは言うまでもありません。こうして僕のリベンジはなりました。・・・が、なんか金銭的消耗が大きい気がするのは気のせいでしょうか。
(その間にイーグルスはプレーオフ敗退しているし)。


2009年10月23日(金) ミーティング休み

教会の人から電話があったのは、ミーティングの二日前でした。
葬式になるのでその日は会場の部屋を貸せないという連絡でした。教会を借りていると時々そう言うことがあります。結婚式は事前にわかっても、葬式はいつ発生するかわかりません。
そこで、その日のミーティングは中止にすることにしました。うちのグループのメンバーには、ホームグループしか出席していないビギナーはいないので、休みにするとミーティングの間隔が開きすぎるって心配はありません。これは他のグループから来ている連中も同じです。同じ日に別の場所でもミーティングはやっているのですから、そちらに行けば大丈夫。なので、悩まず中止を即断しました。

中止にして困るのはメンバーへの連絡です。あらかじめ休止がわかっていれば、前の回の参加者に伝えることもできるのですが、急な話ではその手は使えません。AAは会員名簿を作らないので、こういう時は個人的な連絡だけが頼りです。女性のメンバーなど連絡先を知らない場合には、わかりそうな人に伝言を頼んでおきました。

あとは、セントラルオフィスにFAXで連絡をし、車に乗り合わせて来てくれる施設の人には電話で伝えました。

それでも中止を知らずに来てしまう人もたまにはいます。当日の30分前には教会隣の駐車場で葬式を眺めながら事情知らずのAAメンバーが来ないか見張っていました。開始時間10分過ぎても、そういう人は現れなかったので、トラブルがなかったことに感謝して帰路についたのでした。

仮スポンシーは病院近くの会場に行き、入院患者の人がたくさん来て新鮮だったと電話をくれました。別のスポンシーは、また別の会場に行き旧交を温めたそうです。休んだら休んだで恵みはあるものなのでありましょう。


2009年10月22日(木) 嫌悪療法

中国に暮らす人が、妙にマズいタマゴを買ってしまい、調べてみると人工的に作られた偽卵であった、という話がありました。
その偽卵ではなくて、擬卵というものがあります。こちらは食べるものではなく、小鳥に抱かせるプラスチックの丸い塊です。文鳥やカナリヤのメスは交尾しなくても無精卵を生んで暖めてしまうことがあり、それを取り上げるとまた生んでしまいます(ニワトリ状態)。そこでニセ卵を抱かせて卵を産むのを防ぐのに使います。

ヘビは飼ったことがありませんが、生卵が大好きなのだそうです。与えてやると丸飲みし、食道内の突起を使って器用に割ります。ヘビに擬卵を与えると飲み込んでも割ることができず、非常に苦労して吐き出し、もう二度とタマゴを食べようとしなくなる、という話をかなり以前に聞きました。ヘビにもそれだけの知能があるわけです。

同じ理屈をアル中さんの治療に使えないか、と考える人がいるのは当然です。
催吐薬と酒を同時に飲ませます。これを何度も繰り返せば、酒を飲む→吐き気がするという条件反射が作られるはず、という理屈です。嫌悪療法と呼ばれて広く行われた時期もありましたが、現在ではあまり行われていません。ヘビやサルなら効き目があっても、人間は条件反射以外の余計な知恵を使うので役に立たないのです。

けれど、同じような治療は現在の日本でも行われています。
アルコール病棟の入院患者に主治医が「酒を飲ましてやる」と告げます。意地悪な医者だと、患者の酒の好みを聞いてウィスキーやらビールを用意し、おまけに若い看護婦に酌をさせたりします。もちろん酒を飲ませるのが治療ではなく、事前に抗酒剤(アンタビュースやシアナマイド)を処方し、医師が観察しながら飲ませます。
抗酒剤服用後に飲酒すると、アセトアルデヒドの効果で血圧が下がり、動悸が激しく、顔面が硬直、視野は狭窄します。この場合は医者がついているから大丈夫ですが、外でやれば救急車騒ぎになります。

この「飲酒テスト」は名目としては、抗酒剤服用後の飲酒をあらかじめ実体験することで、退院後の危険を減らす目的があります。もう一つは、抗酒剤の処方量の決定のためという名目があります。抗酒剤にも副作用があるので量は少ない方がいいのですが、人によって効き方が違うので少なすぎれば効果がなくなります。

中には飲酒テストを繰り返しやる病院もあるようで、名目はともかくとして実質は嫌悪療法を試みているのだと思います。アルコール病棟に入院しても依存症が治るわけもなく、退院後にすぐ飲酒してしまう患者さんもいます。中には退院直後に酒を買い、酩酊しながら帰宅するツワモノもいます。家族としては高い金を払っての入院なのに、オトーさんが酔って帰ってきたのではたまりません。病院も苦情を避けるために嫌悪療法を試しているのでしょう。

そういう病院を経験した人の話を聞くと、どうやら数ヶ月くらいは効果がありそうな感じです。やはり人間はヘビとは違うのであります。


2009年10月21日(水) hit bottom

「AAの誰もが、まず底をつかなければならない」(12&12 p.33)

回復には底つき体験が必要だと言われます。
では「底つき」とは何なのでしょうか?
僕はこのことに長い間明確な答えを出せずにいました。

「ほかの人と比べると極限まで行き着かなければ底つきの経験ができないアディクトもいる」(NA p.8)

AAの中には、仕事も家族も住む家も失った経験のある人がいます。彼らの経験は壮絶です。健康を極端に害してしまい、薄いお粥のようなものしか食べられない人もいます。福祉施設に暮らし、自分のものはバッグ一つに収まるだけの人もいます。まさに「底」というにふさわしい体験です。

しかし、回復に必要な底つきは、そういう種類とは違うようです。なぜなら、いろいろ失っていないうちから回復を始める人もいるからです。

では「底つき」とは何なのか、もう一度その問いに戻ります。
AAの本の中で「底つき」という言葉は、12&12のステップ1に出てきます。ステップ1はアルコールに対する無力を認めるステップです。「底つき体験」とは「無力を認める体験」そのものです。

ではアルコールに対して無力とはどんな意味なのか?
無力とは「力がゼロ」ということです。自分は酒をやめる能力がゼロであって、自分の能力を頼っていれば(現在は飲まないでいても)いつかは必ず再飲酒する、というのが無力の正体=底つき体験です。

自分は酒をやめる能力がゼロである。この大問題を解決するためには、自分以外の「力」が必要です。その力=自助グループとすれば、AAや断酒会に通い出すことが「底つき体験」ですし、ステップの場合には力=神とするわけです。

はしょって言えば、自力での断酒を諦め、自助グループを信じ出す(あるいはステップを始める)のが「底つき体験」そのものです。(通っていても信じていない場合もありますが、それはまた別の話)。

社会的などん底まで行き着かなくても、まだ失うものが少ないうちに回復が始まることを「底上げ」と呼びます。そりゃ仕事や家族を失わないうちに回復が始まった方が良いに決まっています。ずいぶん前から底上げの必要性が叫ばれていますが、はたして成果が出ているのでしょうか。自己流の断酒をしている人が増えただけの印象です。

AAにいる人たちの多くは自己流の断酒を試み、やがてそれを断念して「底つき」した人たちです。自分には自己流の断酒期間が必要だったと言う人もいますが、単なる時間の無駄だったと言う人もいます。自己流の期間を節約し、早く自助グループにつながることができれば、そのぶん「底上げ」につながります。

医療機関による依存症の早期発見・早期治療によって、断酒を始める人は増えていると思われます。けれど彼らの多くはまず自己流の断酒を試みます。自己流は底つきの時期を人生の後ろにずらす効果しかありません。アル中さんの平均寿命を延ばす効果はあるかもしれませんが、回復時期が後ろにずれるのは人生における苦しみの総量を増やしてしまいます。

早期発見・早期治療が「底上げ」につながっていないのが現状です。


2009年10月20日(火) 行動を変えることから

元々は弱小球団ヤクルトスワローズのファンだったのです。特に関根潤三のヌルい采配が好きでした。1989年の神宮最終戦では、クラブハウス前の通路に陣取って「野村監督反対!」を叫んでいた一人です(強くなったら面白くないと思ったから)。

が、強くなったらなったで面白く、スワローズのファン以上に野村克也監督のファンになってしまいました。なので、1998年彼が三顧の礼をもって阪神の監督に迎えられると、僕もタイガースファンに鞍替えしてしまいます(阪神では星野優勝の下ごしらえしかできなかったのが残念)。野村監督が楽天イーグルスの監督に就任すると同時に、僕がこの球団のファンになったのは当然です。

彼が選手に野球を教えるのに使う「野村ノート」には、こんな一節があるとテレビでやっていました。(行動が変わればバージョンから少し変化しています)。

『考え方が変われば、習慣が変わる。
 習慣が変われば、人格が変わる。
 人格が変われば、運命が変わる。
 運命が変われば、人生が変わる。』

考え方を変えるが人生を変えることにつながっていく、という話です。
アル中さんたちも、酒でダメになってしまった人生を変えるために、飲酒という習慣を変えよう(断酒)とします。習慣を変えるためには、考え方を変える。つまり、断酒というのは心の問題だと思うわけです。これは間違ってはいません。

間違ってはいないのですが、なぜ多くのアル中さんが習慣を変えること(断酒)に失敗するのでしょう?

それは考え方を変えることは、実は簡単なことではないからです。変えたいという意欲があっても簡単にはなりません。ではどうすればいいか?

「考え方が変わらないのなら、行動(習慣)を変えるしかない」

これが昔からの知恵です。飲んでいる行動を、ミーティングなり例会に行く行動に置き換えろ、というわけです。行動が変われば、それが考え方に波及し、さらにそれが例会以外の日常生活の行動に波及し、やがて人生そのものが変わっていく仕組みです。

自分の人生が良い方に変わっていないのなら、それは家にいる時間が長すぎる、というわけ。

たとえ日本一になっても野村監督は今年で解雇が決まっているそうです。ファンとして残された試合を楽しむほかありません。


2009年10月18日(日) 効力感

辛い体験をすれば、同じことは繰り返すまいと思うものです。

けれど、これは必ずしも真とは限りません。酒で失敗したアル中さんや、パチンコで有り金をすったギャンブラーは何を思うか? 「次はもっとうまくやろう」であって、酒やギャンブルをやめようとは思いません。

それは「苦しみが足りなからだ」という意見があります。

実際そうである場合も多いのですが、これも必ずしも真とは限りません。
厳罰化で飲酒運転は減りましたが、ゼロになったわけではありません。覚醒剤も同じです。失うものがどんなに大きくても、渇望に囚われた人は依存の対象を手放したがりません。共依存の奥さんがダンナの飲酒を手伝わなくなれば、飲み続ける苦しみは増していきます。けれどダンナは酒をやめません。

これは人が変化するためには、苦しみ(懲罰)だけでは不十分で、別のファクターが必要ということを示しています。「回復しないのは底付きが浅すぎるからだ」という理屈を振り回す人は、他のファクターに気づいていません。その人の説に従えば、極限まで行き着かなければ回復できないことになってしまいます。けれど、あまり失わないうちから真剣に回復を求める人もいます。それはなぜでしょう?

現状維持のデメリットがどんなに大きくても「自分は変われない」と思っている人の選択肢は一つしかありません(現状維持)。

酒をやめる気がなさそうなアル中さんでも、実は自分で何度か酒をやめよう(減らそう)と試した経験があるのが普通です。でもコントロール喪失がこの病気の特徴ですから、節酒や断酒に失敗します。すると、酒をやめられないことを体験から学んでしまいます。

問題があることは分かっている(飲み続けるのは辛い)、けれど変化もできない(酒をやめるのに失敗する)。この板挟みの状態を、人はどうやって打破しようとするか?

それが否認です。自分の酒は大したことがない、女房が大げさに騒いでいるだけだ、と思い直せば、(自分の中で)問題は消失します。問題がなければやめる必要もありません。こうしてディレンマは解消されます。

否認という防衛機制はいろんな形を取ります。
「自助グループに通っても仕方ない。どうせ飲むときは飲むんだから、最後は自分だよ」とか「自分は神を信じられない」とか、あるいは「ステップは酒をやめた後に人格を磨くためにするんだ」とか。

否認を打ち破るために必要なのは「効力感」です。それは「自分もやればできる」という感覚です。不信に陥っている人が効力感を得るのは簡単なことではありませんが、例えば実際に酒をやめている人の姿を見れば、自分にもやめられるという意識が芽生えます。

「真剣にやる気があれば、この友人のようになれるかもしれない。ぼくもなれるだろうか。もちろんだ!」(AA, p.19)

AAの創始者ビル・Wは、友人エビーの回復した姿を見て「自分もやればできる」という効力感を得ました。もしエビーが飲んだくれの残念な姿だったら、ビルも酒をやめようステップをやろうと思わなかったでしょう。

人の回復の手助けをするためには、まず自分が回復していなければならない。当たり前のことなのですが、そのことが分かっていない人も大勢自助グループにいます。回復していない奴に「底付きが足りない」と言われれば、お前にだけは言われたくないと思うでしょう。回復した人は人間的にすばらしい、とは言いませんが、必ず何らかの魅力を発揮しています。

奥さんが共依存行動をやめても、ダンナが酒をやめないのは、断酒会に行かないから、という理屈も分かってもらえたでしょうか。

とはいえ、否認にも至っていない(まだ自分の問題に気づいてもいない)人がいるのも確かで、もう少し苦しんでもらうしか無い場合も多々あります。苦しみと効力感がセットで揃わなければ、人は変わる準備が整わないのです。

11月7日のイベントに行く予定にしております。


2009年10月17日(土) 非定型うつ病について追加(その2)

日本ではメランコリー型のうつ病も非定型うつ病も区別されない、それはなぜかという話で、非定型に効果のある薬が使えないので区別する必要がないという理由を挙げました。

もう一つの理由は診断基準にあると思います。
メランコリー型・非定型という名前は、DSMに載っているのですが、どちらも「大うつ病」というくくりの中にあります。DSMは病気の原因よりも症状を重視します。原因を探るのは難しい、けれどマニュアルに基づいて症状を観察すれば、客観的基準で診断が下せる、これがアメリカ人の考える合理性なんでしょう。その結果、原因が違っていても抑うつ症状が出ていればうつ病と診断されることになりました。(とはいえ、メランコリー型と非定型の間には、かなり症状の違いがありますが)。

神経症という大きな概念があります。外部のストレス因子で具合が悪くなっているという考え方です。アル中旦那の飲酒(断酒後のドライドランク)のせいで奥さんの具合が悪くなっているのなら、ストレス因子=旦那です。旦那が2〜3ヶ月入院で留守の間は奥さんが元気になるなら、どんぴしゃです。

DSMには神経症という概念がありませんので、この場合なら「適応障害」という病名でしょうかね。(飲んでいようがやめていようが)アル中の配偶者に適応障害のひとは多いはずですが、実際は「うつ」という病名をもらっている人が多いのじゃないでしょうか。こういう人がうつの治療をしても良くならないのは不思議でもなんでもありません。それが離婚の段取りがついたらとたんに改善したりします。

神経症は(診断の)ゴミ箱と言われたことがありました。うつや統合失調や依存症などの鮮やかな症状があるなら診断も簡単ですが、なんだかハッキリしない患者にも病名は与えねばなりません。そんな時に神経症は便利だったというわけです。

その便利なゴミ箱がなくなってしまうと、代わりのゴミ箱が必要になります。それがうつ病だったというわけでしょう。昔だったら神経症と言われた人たちが、今はうつ病と言われ(当然三環系が効かないので)SSRI/SNRIを処方されている。発達障害やら器質性の人も混じっているでしょう。

そんなゴミ箱状態のうつ病の中で、ことさらにメランコリー型・非定型の違いを取り上げて別の病気に仕立てる必要がない、というのが現場の精神科医の意見なのだと思います。

最近ネットや新聞で「非定型うつ病」が取り上げられ目立ってきていますが、実は昔ながらの?非定型の人は少ないのじゃないかと思います。うつ病ではない、つまりメランコリー型でも非定型でもない人たち。それは前述の適応障害や不安障害、気分変調症(軽度の抑うつが長く続く)であったり、林先生の擬態うつ病や、kyupin先生の器質性障害なのでしょう。そういうのをひっくるめて「非定型」と呼ぶから、さらに話はややこしくなります。

遷延性うつ病で苦労していた(いる)身としては、「それはうつじゃねーだろ」と内心ツッコミたくなる場面は多々あります。ましてやその人や家族が酒を飲んでいたとなれば、真っ先に疑うのはアルコールの影響です。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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