心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年10月04日(日) 中川君の死に思う

中川元財務大臣が亡くなったニュースが流れています。
脱穀の作業中に、仲間からのメールで知りました。

もうろう会見の後に大臣を辞任、総選挙を迎えるに当たり周囲の勧めもあって断酒宣言。しかし落選後は再び飲むようになり、不眠を訴えて薬をもらっていたそうです。死因は循環器系の異常(アルコール性心筋症)だとか。

彼の死を「酒飲みがまた飲んで死んだ」で片づけるのは簡単です。

アル中は飲めば死ぬのですが、自分は例外だと思っている人は意外と多いものです。
AAメンバーでも「自分がスリップ(再飲酒)することがあっても、その時はもう一度AAでがんばります」なんて真顔で言う人がいます。飲んで生き残れるとは限りませんし、命までは取られなくてもAAに戻ってこられるとは限りません。
今の気持ちが「飲んでも戻ってくる」であっても、飲んでしまえば違うことを考え出すわけですから。

実際、AAで何年かやった後に飲んでしまって戻ってこない人はたくさんいるのですが、自分はそうなるとは思いたくないものです(でも可能性はある)。

今回得ているソブラエティが、自分の優秀の証明のように思うのは間違いです。断酒できたのは運が良かったからで、自分が優れていたからではない、という真実に目を向けるのは嫌なものですが、それをしなければ今のソブラエティを大事に守っていこうという気にはなれないでしょう。

もう10年くらい前のことです。ミーティングで司会を頼まれて、どんなテーマでもかまわないと言われたので「今度飲んだら死ぬかもしれない」というテーマにしたことがあります。その時10年以上のメンバーから「自分の場合にはそれはないと思う」と言われて、驚きました。

今度飲んだらやめられずに死ぬまで飲み続けるかもしれないのです(というか、その可能性の方が高い)。いつでも、何度でも手にはいると思うからこそ、人はソブラエティを粗末に扱います。

アル中には飲んでいる期間と、やめている期間があります。飲んでいる間に起こしたトラブルが自分の人生をダメにしたと思っている人は多いのですが、やめている間にやったこと(ソブラエティを粗末にしたこと)のほうがはるかに影響が大きいわけです。


2009年10月01日(木) 加害者性の獲得(その3)

暴力は被害者意識から発生する。

例えば神戸の震災の後性犯罪が増えました。地震という自然の暴力にさらされた影響が、自分より弱い者への暴力となって表出したのです。もちろん被害者意識が暴力を生むという図式は、暴力の一面をとらえているにすぎないのですが、DVの状況をよく説明してくれます。

人間は自分の理想とする状態と、現状とのギャップを埋めようと行動します。DV夫が妻に対して被害者意識を抱くのは、妻の行動が彼にとって望ましくないからで、その状況を修正するために暴力という手段に訴えるわけです。

それはちょうどアル中が、周りの人の行動が彼にとって望ましくないために、被害者意識から恨みをいだき、状況を修正するために相手を傷つける(迷惑をかける)行動に出ている図式とぴったり重なるわけです。

その行動様式からは想像しがたいことかもしれませんが、DV夫は妻と仲良くできることが理想だと思っており、アル中も周りの人と仲良くやりたいと思っているのです。しかし被害者意識を基盤に行動を決定している以上、彼らは不適切な行動を選択し続けます。

DV加害者プログラムでは、被害者意識の発生する個々の場面を想起し、そこにどんな信念が働いているか明らかにしていきます。被害者意識は彼の理想の実現に何の役にも立っていないことが明らかになっていきます。

AAのステップ4・5における棚卸しでも(ビッグブックのやり方では)、恨みを抱く相手との個々の場面の中で、自分が不当に扱われたと感じる仕組みを探っていきます。自分の満たしたい欲望(社会的、身体精神的、性的)が制限されたときの自分の反応パターン、そして代わりにどんな感情・行動が適切だったかを知っていきます。

どちらも、当人の行動とは裏腹に、心の中では仲良く平和にやりたい願望がある前提です。良くなるためには良くなりたい願望が必要なので、当然の話なのですけど。

被害者意識は不幸な状況の原因を他者に求めます。なぜなら被害者は正義だからです。しかし認知行動療法では、状況修正の責任は自分にあるわけです。

反省、あるいは被害者性を通じた他者の痛みへの共感という、どちらかといえばマイナスの感情を動機とするよりも、幸せになりたいという正の動機に基づく行動が評価を得て強化されたとき、人は(比較的)短期間に変わりうるのだろう、そんなことをシンポジウムのあいだじゅう考えていました。

そして個人的な経験をふまえれば、より深い反省は「変化が起きた後でこそ」可能なのであって、深い反省が深い変化を引き起こすわけではありません。

昔からAAでは言ったものです。「あなたの言葉も信じない、あなたの涙も信じない。ただあなたの行動だけを信じます」。反省の言葉や涙が、本当に心の奥底からのものであっても、それが何のあてにもならないことは、経験的に知られていたのです。


2009年09月30日(水) 加害者性の獲得(その2)

本社に出張だったので、電車の中でアミティの本を読んでいました。
アミティはシナノンの分派です。アメリカの薬物治療施設として時代を築いたシナノンは終盤にはリーダー達が変節してカルト化しました。それを嫌っていろいろな分派ができたのですが、アミティもその一つで、いろいろな依存症だけでなく、習慣的暴力なども扱っています。

アミティのプログラムの根底は、加害者における被害体験です。DV夫、子供を虐待する親、性犯罪者などには、過去に性的被害を受けたり、子供のころに親から虐待された経験があります。すべてのケースではありませんが、何割かにはこの図式が成り立ちます。暴力が伝染病のように伝搬していく図式です。アミティのプログラムでは、その経験を具体的に掘り起こすことで、被害者としての意識をまず確立し、それを基盤に自分の加害による被害者の痛みを追体験し、自分の加害者性を獲得させます。

つまりいったん被害者性を構築し、それを元に自分の行為の加害性認識につなげる方式です。

ところが信田さんの話では、カナダのDV加害者プログラムでは、この方式を採用していないのです。問題点ふたつの指摘がありました。

一つは時間がかかりすぎることです。前にも書いたように、心の痛み(反省)では人は変わらないし、変わるにしても時間がかかります。その間も家庭内で被害者がDVを受け続けるなら、それはDV加害者プログラムの目的を果たしていないことになります。

もう一つは、(これも書きましたが)DV加害者はもともと自分を被害者だと考えています。そんな彼らに「俺も被害者なのだ」という意識を与えると、それをいま自分がやっているDV加害の免責理由にしてしまうからです。そうやって責任を逃れれば、変わろうという動機も失われます。

依存症の場合には、プログラムに時間がかかるとしても、病気の苦しみが本人に変化の動機を与え続けてくれます。飲み続けていれば、仕事や金や信用を失っていきます。ところがDV夫の場合には、(社会で受けたストレスを家庭内で発散しているわけですから)仕事が順調で、社会的な地位も保たれ、人間関係も趣味も充実していたりします。本人が苦しんでいないので、(妻の犠牲のもとに)変化をいつまでも先延ばしし続けることが可能です。

そこで刑事罰を与えることで、強制的に変化の動機を与えることも必要になってくるわけです。ほかの先進国ではDVは親告罪ではなく、現場に踏み込んだ警官がDVだと判断すれば夫は逮捕されます。ところが日本では、妻が親告しなければなりません。夫と同じ家に帰る妻に、それができるかと言えばノーです。

結果として日本では刑罰ではなく、妻が家を出たり、離婚の請求というのが、夫が加害者プログラムにつながる動機になっているとのことでした。DVのある環境の元で、夫が変わるために妻が行動を起こす必要がある・・・酷な話だと思いました。

明日もまだ続くかも。


2009年09月28日(月) 加害者性の獲得

DVの話の続きです。今の僕の目標は、この文章をさっくり30分でまとめることです。

覚醒剤や麻薬の常習者を刑務所に入れて懲役させるだけで、出所後の再犯防止が実現できるでしょうか? 答えはノーです。精神病院に入れても酒をやめないアルコホーリクを、刑務所に入れても酒はとまらない。それと同じことです。のり塩スキャンダルでは警察の取り調べばかりが注目されましたが、本来であればどうやって再発を防止するかが問われなければなりません。(けどまあ、ダルクなどの治療施設の名前が出ただけでも良しとしますか)。

依存症治療の歴史を読んでいて鮮明になったことは、飲むのをやめる(断酒のきっかけ)に必要な動機と、やめ続ける(断酒の維持)に必要な動機は異なる、ということです。

きっかけは心理的な興奮によって実現します。例えばアジ的な演説で人の心を動かすことができます。何らかの強制でも可能です。要するに何かショックなことが起これば、人は過去と我が身を振り返って自分が変わろうと決心をします。

しかし決心に基づいた行動を続けることはなかなかできません(三日坊主)。興奮(あるいはショック)は長続きせず減衰してしまうからです。アル中さんを説教して反省を促し、酒をやめさせることは可能でも、断酒を継続させることは難しい。刑罰的な処置によって薬物の再犯防止が防げないのも同じことです。

真実はシンプルで「人は反省によっては変化しない」というわけです。

信田さんの話でも、DVの加害者プログラムでは、本人と対決的にならず、責めず、動機付けをして肯定的に支援することが大事だと強調されていました。この考え方はカナダのDV加害者プログラムの実績に基づくもので、実はそのプログラムはカナダの性犯罪者の再犯防止プログラムを母体として生まれました。カナダは性犯罪の再発防止では最先端で、信田さんのブログにもカナダに研修に行った話がありました。

過去ではなく、現在やっていることの肯定的側面を強化する。認知行動療法にはそれが有効です。このように加害者がある意味「褒められる」ことに対して、被害者側にはたまらん気分もあるでしょうが、この考えは被害者の安全を確保するために(DVでも性犯罪でも)加害者の変化を最優先した結果だとありました。

12ステップの棚卸しも反省のためにやるわけではなく、そういう興奮から離れて自分の心の動きを冷静に分析することが目的です。棚卸しがうまくいくためには、スポンシーが涙をうるうる流しながらでは困るのです。自分の加害者性とは冷静に向き合ってもらわなくてはね。

もちろんプログラムの目的がアカウンタビリティ(説明責任)、謝罪や賠償、再発の防止である以上、当事者にとって(例え褒められても)プログラムが心地よいなんてことはあり得ません。

週に一回のペースで12回。これを1クールとして、変化を起こすには数クールは必要だそうです。するとDV加害者が変化するには最低でも1〜2年は必要でしょうか。

さて、では刑事的な処罰は必要ないのか? むろん必要であって、加害者意識ゼロの本人をプログラムにつなげるためには、刑罰によって社会的な圧力を加えることが必要で、今の日本ではその法整備が進んでいないことが問題だという話もありました。

日本では加害者プログラムはまだ数カ所でしか行われていません。東京4、名古屋・京都・北九州各1。

まとまらない文章ですが、30分経ったのでこれで終わりにします。
明日は気が向けば、加害者性獲得について、別のことも書いてみたいと思います。


2009年09月27日(日) DV夫と加害者性、依存症と当事者性

渋谷の國學院大學まで、社会病理学会の公開シンポジウムを聴きに行きました。(テーマは「中高年男女の生きにくさ」)
シンポジストのひとりは信田さよ子先生で、これが目当てだったわけですが、残りの二方が学会所属の社会学者でマクロ視点から自殺を取り上げたのに対し、信田さんは臨床家としてDVを論じたのが対照的でした。
参加者の数を数えたら四十数人、これはかなり寂しい数字だと思います。そして人が少ないとネクタイを締めていない僕は目立つので嫌なのです。それはともかくとして。

おそらく社会学者にとってDVは専門外だからという理由で、信田さんの話は前説が長くなりました。おかげで介入手法についての話がざっくり略されたのは残念でした。僕にとってもDVは専門?外なのですが、話を聞いて依存症との類似点をいくつか思いついたので、メモ代わりに書いておきたいと思います。それは、DV加害者更正プログラムと、依存症の回復プログラムの類似性とも言えます。

DVには加害者(夫)と被害者(妻)がいます。
ところが暴力をふるう側は「妻のせいでこうなった」という被害者意識に満ちています。妻が「でもだって……」と口答えばかりして、夫の気に入ったようにしてくれない。あげくに具合が悪いと言って家事をサボる。夫として「妻にきちんとしてほしい」という愛情ゆえに、つい暴力に訴えてしまう。だから悪いのは妻だという理屈です。
一方妻の方は、私が至らないから殴られるのだと、自分の責任だと思う=加害者意識があるわけです。こうして支配の仕組みは深まっていきます。

このように加害者と被害者が意識の上で逆転している状態で、DVの原因(というか発端)を探っても問題の解決になりません。自分は被害者だと思っている夫が、加害者であることに気づくことが大事です。そのためにはDVそのものに焦点をあてる必要があるという話でした。

発端ではなく現状に焦点を当てる必要があるのは依存症も同じです。依存症の本では、この病気が primary disease だということが繰り返し強調されます。日本語では「原疾患」。

例えば糖尿病を治療しないでおくと、視力が低下し最後には失明します(糖尿病網膜症)。ここで網膜症の治療だけで、糖尿病の治療をしなければ、いつまでたっても良くなりません。原疾患の治療が大切です。

依存症はそのものが原疾患で、「依存症になった原因探し」をしても意味がありません。発端ではなく現状を解決することが大切だからです。しかし本人は酒が primary な問題だと認めたがりません。

例えば親がアル中で(AC)本人もアル中という場合です。その生きづらさが親に源を発していることは疑いがありません。だからこそ酒を飲むことも必要だったのでしょう。でも結果として親と同じアル中になってしまった。
ここで人は、アルコールの問題ではなくACの問題に焦点を当てたがります。まるでACが糖尿病で、アル中が網膜症であるかのようです。でも原因探しをしてもアルコールの問題は解決しません。もはや依存症そのものが primary な問題になっちゃったからです。

だから酒の回復を3年ぐらいやって、安定してからACの問題に取り組むのが基本です。それには「親のせいでこうなった」という被害者意識を一時凍結して、アルコールでの自分の加害者性に取り組んもらうしかないのですが、なかなかそういきません。被害者意識というお茶は甘くておいしいのです。
そして、いくらACの問題に金と時間をつぎ込んでも、途中で酒を飲んだら台無しだということに気づいてはもらえません。

フロイトに端を発する精神分析は、20世紀のアメリカで大流行しました。当然それを依存症に応用する試みがなされました。でも成功することはなく、1960年ごろに精神分析医は「反抗的な」アル中の相手をすることをやめてしまいます。彼らの敗因は依存症になった「原因」を探して解決すれば、酒の問題も解決すると信じたことでした。

仕事のストレスで酒を大量に飲んでアル中になったとします。仕事を辞めれば、酒の問題も収まると考えがちです。でも、最初は確かにストレスのせいで酒を飲んでいたかもしれませんが、途中から「依存症だから」酒を飲むようになっていたのですから、仕事を辞めても酒は止まりません。かえって経済的に困ってしまうだけです(困った方がいい場合もあるけど)。

うつ病から依存症に移行した場合にうつを治療しても酒が止まらないのも同じ理屈です。

DV夫が加害者性に目覚めることの難しさ。これは依存症本人が、12ステップでいうところの「性格上の欠点」とか「自分の側の問題」に気づくことの難しさに通じると思います。どちらも被害者意識を捨てることが必要だからです。

AC、依存症、DV、いずれでも原因探しをして他者の責任を追及することは、解決につながりません。ACでも親の影響を直視することはとても大事です(アル中が酒のことを直視するのと同様に)。が、その上でさらに、その結果自分がどんなに「困ったちゃん」になってトラブルを作ってきたか、そういう加害者性を見なければ、「そんな自分を変えていきたい」という動機が生まれず、回復につながりません。

そんなふうに、AC、依存症、DVはお互いよく似ているのです。まあ親戚みたいなもんだし。たいてい同居していますしね。

(つづくかも)


2009年09月23日(水) びよーいん

美容院にカットに行きました。
記録によると1月・4月・7月に行ったので、3ヶ月ぐらいの間隔です。
前回少し長めにカットしたので、今回は間隔が2ヶ月と短め(それでも長い方だと思いますけど)。

若い夫婦がやっているお店で、旦那さんがカット、奥さんがシャンプーの担当。こういう店は美容師さんも(ファッション雑誌から抜け出たようなと言わないまでも)それなりの格好が必要なので、出費もかさむだろうな、と余計な心配をしてしまいます。

いつも結構混んでいる店で、予約なしだと待たされるのですが、今回は予約していったのに客は僕一人でした。連休中で遊びに行っている人が多いせいか、給料日前だからか・・・。

お金のことを心配せずに美容院に行ける身分になりたいものです。


2009年09月21日(月) ビッグブック分かち合い

隣県から人が来て、お昼から夕方までビッグブックの分かち合い。
いつもならセッションひとつが30分〜1時間ぐらいです。それを一度に7回分ぐらい片づけました。医師の意見から3章まで。さすがに疲れて夕方から少し寝ました。

ひとりで読んでいても分からなかったものが、「ここはこういう意味だよ」と助け船を入れることで、「そうだったのか」とぐわっと理解が広がっていく姿を毎回見ることができます。そういう自分も過去に同じ体験があるわけですが。

初期のクリーブランドのAAで、教室みたいな所にビギナーを何十人と集め、教壇からビッグブックを「教えた」という話があります。これが成功したわけです。ステップが旅だとするなら、ビッグブックは地図であり行き先案内です。旅はその人自身にしかできなくても、道順は「教える」ことが可能です。

ビッグブックで、医師の意見から3章までがステップ1の部分だとすれば、74ページあります。一方12&12ではステップ1は6ページだけ。ほかのステップは結構ページ数があって、ステップ12なんか30ページもあります。でもステップ1は短い。

12&12はビッグブックと話の重複を避けて書かれていますから、ステップ1が短いのはビッグブックに十分述べられていて、それに加えるべきものがなかったからでしょう。実際12&12のステップ1の文章は、あんまり中身がないのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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