心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年08月06日(木) ああ面倒

53.1Kg, 8.3%
晴れ、暑い一日

7月はミーティングが8回、病院メッセージが1回、委員会が1回でした。
なんとなくAAの回数が減っている気がしたのですが、数えてみればそれなりの回数です。ではなぜ数が少なく感じたか、といえば「自分が司会をしていない、通常のミーティング」の数が少ないからでしょう。

8回のうち5回はホームグループのミーティングで、そしてなぜか毎回司会進行役を務めています。司会役は負担の重い役割ではありませんが、それなりの責任はあります。遅刻してはいけないとか、ミーティングが「それなりの雰囲気」になるように気を遣ったりとか・・・。

このグループを始める前2年ほど、ソーバーの年数がある人たちのグループでお客さんみたいな立場で楽をさせてもらいました。それで僕はすっかり怠け者になってしまったようです。ああ楽がしたい。

元々僕はAAがおっくうなたちで、「ああAAに行くのが面倒くせぇ〜なぁ」と感じているのが通常です。ただ、自分の内側に関心が向きすぎる僕にとって、ミーティングは外側に関心を向け直す良い機会であるのは確かです。なにごともバランスなのでしょう。

AAが夢みたいにすばらしくて、毎回いい気分になれるんだったら、そりゃ覚醒剤みたいで怖いよ。退屈で面倒なぐらいがちょうどいいんでしょう、たぶん。

某ブログより。

> 広汎性発達障害系の人でこじれつつ時間が経つと、幻覚妄想が出てくることがある。

なるほどそういうことか。


2009年08月05日(水) 最後の一杯が

54.0Kg, 8.7%
晴れのち雨

The farther you're away from your last drink,
最後の一杯が過去に遠ざかるほど、

the closer you are to your next.
次の一杯が近づいてくる。

そんなもんでしょう。

2007年問題、というのはこの年から団塊の世代が定年退職を迎え、様々な社会問題が起きてくることを指したものです。アルコール依存症の場合、仕事が支えになって依存症の悪化が防がれていた人が、退職して飲み放題になり病気が表面化してくることです。

病院メッセージにまめに行っていた頃の観察では、入院患者の中に「定年アル中」の人たちが一定数の割合で見られました。定年後1年か2年ほど大酒を飲み、奥さんや子供に頼み込まれて入院してくるのがパターンでした。
現役世代の人には、「仕事のために」「家族のために」酒をやめようという意欲が見られますが、定年アル中さんたちは断酒意欲が乏しいのが特徴です。

彼らは二言目には「現役の頃は大丈夫だったのだが、定年を迎えてからダメになった」と言います。まるで定年が悪の根源のようですが、聞いてみれば現役時代もちゃんと酒を飲んでいます。

酒が悪いのではない、また仕事を(あるいは仕事に替わる何かを)すれば大丈夫だ、と彼らは自分に言い聞かせるようようです。だが、定年後の飲んだくれで病気が進行していることを見落としています。退院して再び仕事や趣味に生き甲斐を見いだし、酒のトラブルがやんだ、という話は聞いたことがありません。

科学者のように統計を取ったわけじゃないので、この先は印象です。
奥さんが生きている限り、定年アル中さんたちは飲みながらでも生き延び、時々入院してきます。奥さんが亡くなってしまうと、福利厚生に問題が生じるようで、かわりに娘さんが入院させに連れてきたりするのですが、それも長続きせず、顔を見なくなってしまいます。

飲んでいようがいまいが、奥さんに先立たれると男は長生きできないようです。


2009年08月04日(火) 人の集まり

53.8Kg, 8.9%
晴れ

断酒系の掲示板って、メンヘル(精神病)の掲示板なんですよね。
だって依存症は精神病だもの。
頭や心を病んだ人ばかりが集まる掲示板なんだから、トラブルがあって当たり前。
中傷や非難もある程度はしかたないじゃないのさ。
だって、それも病気の「症状」なんだから。
「具合の悪い人」「お加減の悪い人」がいるのは仕方ないこと。
酒さえ飲んでなければマトモってわけじゃなくて、シラフでも変なのがアル中さん達ですから。それに巻き込まれて自分まで具合が悪くなっちゃたまらんです。
テキトーに受け流していきましょう。

リアルの断酒グループでも同じことです。
「お加減の悪い人」を何とか良くしてやろうと、自分まで巻き込まれてはグループの意味がありません。
Live and Let Live
というスローガンがAAにあるでしょ。
「人は人、我は我なり」
ですよ。人の問題に首を突っ込んでなくて、自分の問題に集中しましょう。
それが一番嫌なのは分かりますけど。

かといって「具合の悪い人」をグループの中でほっておいて良いわけでもなくて、スポンサーになった人に面倒をまかせるわけです。だから、きちんとデタッチできないうちにスポンサーをやると、スポンシーの問題に巻き込まれて大変です。

それでも、誰かからうるさいことを言って貰えるうちが華(はな)です。いくら言っても聞く耳を持たない、と思われたら誰も何も言ってくれなくなるからね。ひらたく言うと見放されたと言うこと。そういう状態で何年も過ごしている人がAAには一杯いるんだよね。事情を知らない新しい連中が次から次に来て巻き込まれるので、ご本人は意識してないんだろうけど。

うるさく言われなくなったから良くなった、なんて思うのは大勘違い。皆が関わり合いを避けてるだけだってば。お互い気をつけようね。


2009年08月03日(月) 禁煙について

体重は計測なし。
晴れ。

僕の禁煙については「家路」本体にも書いてあるので、興味のある人だけそちらを読んでもらうとして、今回は禁煙補助薬のことを。

僕がやめた当時、医者が使えた補助薬はニコチンパッチのみでした。当時は禁煙に健康保険適用がなかったので全額自己負担で、一週間分が約1万円でした。これが約4週間分。後半はパッチのサイズが小さくなる分だけ多少安くなり、診察料ともあわせて総額4万円ほどでした。

その後しばらくして、ニコチンガムが使えるようになり、禁煙治療にも健康保険が使えるようになりました。

最近登場した「チャンピックス」という服用薬は、なかなか良い薬のようで、禁煙成功の話もたくさん聞きます。このチャンピックスとはどんな薬なのか、ちょっと調べてみました。

依存症の治療に使う薬は、アゴニスト(作動薬)かアンタゴニスト(拮抗薬)のどちらかです。

人の脳には、依存物質ごとにそれを受け止める受容体があります。この受容体が(例えばアルコールで)刺激されれば、渇望感が消える仕組みです。そこで受容体を別の薬(アゴニスト)で刺激してやれば、渇望が消えて楽にやめられる、という理屈です。

アゴニスト(作動薬)としては、オピオイド(ヘロインやモルヒネ)の依存症に使うメサドンが有名です。オピオイド受容体を別の薬(メサドン)で刺激してやれば、楽にヘロインがやめられるわけです。これをメサドン置換療法といい、ヘロイン依存をメサドン依存にしているだけなのですが、ヘロインよりメサドンのほうが害が少ないわけです。このメサドンがやめにくい薬なのだそうですが、それは別の話。

「依存」と「寛解」という言葉を知っている人は、「アゴニストによる治療中」という分類もあることを知っているでしょう。アゴニスト投与が終わってからが寛解時期のカウント開始です。

アンタゴニスト(拮抗薬)については詳しく書く必要はないでしょう。アルコールで言えば抗酒剤のことです。受容体を邪魔して気持ちよくさせない(気持ち悪くさせる)ことで、依存対象を忌避させようというアイデアです。

前述のチャンピックスは、ニコチンパッチやガムのようにニコチンを含んだ薬ではなく、アゴニスト&アンタゴニストの薬だそうです。まずアゴニストとしての機能があってタバコへの渇望感を減らしてくれます。同時にアンタゴニストとしての機能もあり、タバコを吸ってしまったときの満足感を減らす効果もあります。

チャンピックスは依存性の少ない薬のようで、「タバコはやめられたが、今度はチャンピックスがやめられなくなった」という話はないようです。再発率も高いようですが、これは依存症全般に言えることで、仕方のないことなのでしょう。

チャンピックスの3ヶ月分で、自己負担が2万円弱だそうです。いまは良い薬があってうらやましい。ああそうだ、副作用にうつ症状が出る場合があり、うつ病持ちの人は要注意(禁忌なのかどうか)だそうです。


2009年08月02日(日) 「間違い」と「間違え」

53.5Kg, 8.9%
曇り時々雨

ある人のブログを読んでいたら、「〜の間違えではないか」という文章に出会いました。僕は「間違え」という言葉は使わないので、すこし奇異に感じました。

「間違い」と「間違え」はどちらも名詞のようです。
言い間違い・言い間違え、というふうに、〜間違い・〜間違えのペアはいくらでもありそうな気がします。はたしてどちらが正しいのか?

調べてみました。

「間違い」は「間違う」という動詞が、「間違え」は「間違える」という動詞が、それぞれ名詞化したものです。

間違う、は五段活用で、意味は誤ること。
間違える、は下一段活用で、意味は取り違えること(例:姉と妹を間違える)。

例えば、「間違われる」は「間違う」+「れる」、「間違えられる」は「間違える」+「れる」。

はてさて「言い間違い」の場合には、Aと言おうとしてBと言ってしまうのですから、「間違え」が起きているわけで、「言い間違え」が正解です。

しかしながら、行為としての「間違え」(取り違え)があれば、結果として「間違い」(誤り)は発生しています。つまり「間違い」は「間違え」を包含しているとも考えられます。ならば「言い間違い」も誤りとは言い切れません。

また「間違う」という動詞にも、誤るという意味があるので、両者の意味的な境界は曖昧です。

「間違い」と「間違え」、「間違う」と「間違える」は、場合によってどちらかがより適切ではあるものの、他方が誤りであるとも言えない関係なのだ、ということがわかりました。


2009年08月01日(土) 根拠のない自信

54.4Kg, 10.7%
くもり時々雨

自動車の車検。代車としてダイハツの軽自動車を借りました。チョイ乗り中心なら軽自動車を維持して、家族みんなで遠出するときはレンタカーというスタイルでもいいのかもしれませんね。

ニュース検索に引っかからなければ、ダイアモンド・オンラインなんて絶対読まないサイトなんですけど、そこにうつ病と自信に関する話がありました。既知の話ですが、あらためて書いておきます。

自信とは自分を信じることです。そして、信じることには根拠は要りません。よく人を揶揄するために「根拠のない自信」という言葉を使いますが、そもそも自信に根拠は要らないのです。

親にとって子供とは「生きてさえいればいいもの」です。勉強が出来なくても、学校に行かなくても、人に迷惑をかけても、子供は可愛いものです。そういう無条件の承認を得てこそ、子供は自己信頼を育てることができます。

親の愛情が「〜であれば」という条件付きであった場合、子供の自己信頼も条件付きになります。大人になって人が認めるような実績がないと、自信を持てなくなってしまいます。学歴とか仕事の成果とか良い配偶者とかね。

では、どちらのタイプのほうが逆境に強いでしょうか。努力が習慣になっている後者でしょうか? 実はこのタイプは将来の見通しが暗くなり、不安が大きくなるとくじけがちです。親から無条件に愛され、根拠がなくても自信を持ち続けられるタイプのほうが、失敗にめげずに仕事を続けられます。

ダ〜の記事では信仰についても触れていました。人は神の存在証明があるから神の存在を信じるわけではありません。この場合も信じることに根拠は要りません。信じたいという気持ちがあれば十分です。

自分に対しても、他の人に対しても、神に対しても、懐疑主義を捨てる(努力をする)のが、うつ病再発防止に有効なのだと思います。


2009年07月31日(金) まずは自分を

53.4Kg, 7.4%
晴れのち雨

NHK教育で児童虐待の番組を見ました(これも結構古いの話)。
虐待されて育った子供は、感情に歯止めが効きません。例えば怒り出したら、相手が謝罪しようがお構いなしに、徹底的にやっつけてしまいます。怒りの感情を親に(も他の大人にも)受け止めて貰えなかったために、どこで矛を収めたらいいのか分からないのだそうです。
番組では施設(病院?)に預けられた中学生の女の子が、スタッフに「もうお風呂に入ったの?」と聞かれただけで、ブチ切れ暴れ続けている場面を流していました。お風呂に入る準備をして順番待ちをしていたのに、「もう入ったの?」と聞かれ、それが「まだ入ってないんだ!」と責められる理不尽と受け取ってしまったようです。
スタッフは彼女の感情の爆発に時間をかけてつきあい、話を聞き、暴れることではなく言葉によってコミュニケーションすることを学ばせていました。

こうして、(親はしてくれなかったけれど)感情を受け止めてくれる大人「も」いること、話を聞いてくれる大人「も」いることを知っていき、それが大人に対する、社会に対する信頼と絆を取り戻していく過程であるという話でした。

例え傷ついていたとしても、子供の心は柔らかく、傷を乗り越えて成長する余地があります。虐待する生き方を何十年も続けてしまった親のほうが変わりにくいのだそうです。そうした親自身、子供のころに虐待を受けているわけですし。

とはいえ「私は子供のころから親に虐められてきたので、いま問題行動を起こしても仕方ないのです」と開き直られても、周囲にとっては迷惑でしかありません。(こういう人に限って、正直な自己開示と「イタい私自慢」を混同する)。

傷ついたまま大人になった人は、なぜか「治療者」になろうとする人が多いのです。それが医者や看護婦として社会的に実現されればまだしも、自称カウンセラーというのは見ていて痛々しいです。自分の問題を放っておいて、人の問題に首を突っ込もうとしているわけです。

これを「傷ついた癒し手」というのだそうです。想像してみてください。満身創痍で血をだらだら流している看護婦が、他の人の擦り傷にバンドエイドを張ろうとしている構図を。まず自分の傷の手当てをお願いしたい。クライアントよりカウンセラーのほうが重症で具合が悪くては治療になりません。

カウンセリングの講座を受けるほど積極的でなくても、集団の中でカウンセラー的立場に身を置きたがっている人も大なり小なり同じでしょう。

病気を治す医者は、患者より健康でないと困ります。これはカウンセラーでも同様。そして子供の世話をする親についても同じでしょう。まずは自分の回復なのであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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