心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年07月02日(木) 階段

52.9Kg, 10.6%

ねんきん定期便というのが郵送されてきました。今年3月までの年金加入の記録が細かく報告されています。経費のかかることでしょうが、いままでこういう報告書がなかった方が変だったわけで、これが普通なんだと思います。

年金というのは25年払ってないともらえないのだそうです。40代後半の僕はそろそろその条件を満たしてもよさそうですが、まだ数年かかります。僕らの世代は学生に加入義務がなかったので、その年数分減っているのですが、僕はそのほかにも未加入期間があります。

20代の頃は飲んだくれて年金払ってませんでした。それどころか、地方税や健康保険も払ってなくて、保険証をもらえなかったし。水道代も払えなくて、トイレ流せなかったりして。身分証明書がなかったので借金できなかったのは、かえって幸いだったかも。本を古本屋に売った金で酒を買ったりしていました。

そんな半引きこもり、半無職状態で自殺未遂をして、実家に戻る羽目になりました。それから田舎でアルバイトを始め、親の金で運転免許を取って、小さな会社に正社員で潜り込みました。それから転職やら倒産やら。

今の会社に移って本社に挨拶に行ったとき、玄関前に社長のベンツが駐めてありました。それを磨いている人は縁故採用の運転手なんだ、という話を聞いて、僕はなんだか腹が立ちました。社長の贅沢が、まるで社会的不正義か何かのように思えたのです。後日、その憤りを実家の母に話したところ、聞いていた母がいきなり泣き出しました。

「飲んでどうしようもなかったお前が、社長が運転手を雇うような会社にようやく入れたんだねぇ。こんな日が来るとは、かあちゃん思わなんだよ」

返す言葉もありませんでした。

それを意識していたわけではありませんが、無職の状態から一歩ずつ階段を上ってきたのだと思います。経済的安定を目指して、三段とばしでその階段を駆け上がりたいと思ったこともありました。でもたとえば、自分勝手に考えて転職を試みても、結果は失敗でした。仕事も、なるようになるし、なるようにしかならないことなんだと思います。
今後少しは楽になるという保証はありませんが、経済的なことも「それが必要であれば与えられる」と思っています。そのために必要なのは、目の前にやってくることを、次々と片づけていくことでしょう。

もちろん、今でも時々三段とばしで上りたくなるときもあります。そんなときに、思い出す言葉があります。最近もまた、その言葉に出会いました。

「私は完璧にはほど遠いが、完璧になることを求められているわけではない」

とはいえ、宝くじは買うのであります。


2009年06月30日(火) ハートをつなごう、つづき

NHKの番組「ハートをつなごう」の摂食障害の二日目。
女性の本人の人が、自助グループへ行ってみたものの、メンバーが語る内容が自分よりずっと激しい症状でどん引きしてしまった、という体験を話していました。

AAでも同じことはしょっちゅう起きている気がします。
以前、禁煙外来に行ったとき、内科の先生が「明らかにアルコール依存で肝臓を壊して入院している人で、家族も困っているというので断酒会を勧めてみたのだが、ナタで鶏の首を切り落とした話などを聞いてきて、続けて通うことを拒絶されてしまった」と話していたことも思い出します。

確かに自助グループでは、(自業自得とはいえ)自分がいかに酷い有様になったか、という話が語られます。人間らしくない生活という程度の話ならまだしも、人を騙したとか、物や金を盗んだとか、人間性を欠いていく過程が語られます。

そういう話はビギナーを遠ざけるから良くない、と言いたいわけではありません。必要な話だと思います。大切なことは「話す態度」なのだと思います。

「正直な自己開示」であるべきものが、「露悪趣味」や「病気自慢」になっていやしないだろうか? と思うのです。

回復には底付きが必要です。けれど、底付きとは、社会的地位や金銭や家族や若さを失ってぼろぼろになることを意味しません。アル中さんはいつだって底付き可能です。「下り坂に加速がついていて自分じゃ止められない」と気がつけばいいだけの話です。

「自分はこんなに酷い有様になった。というのも、自分が意固地で人の話に耳を傾けるだけの素直さを欠いていたからだ。だからあなたは、いろいろなものを失う前に、率直さを取り戻した方がいい」

という思いやりの態度が必要なのだと思います。

ある女性の比較的若いメンバーは、自分は若くしてAAにつながって回復したためにジジババ連中の嫉妬を受ける、と嘆いていました。

僕も自分の中の嫉妬心に気をつけなければなりませんね。「飲みたければ、飲みたいだけ飲んでみればいい」と言いたくなる気持ちの陰に、嫉妬心が潜んでいないかとか。


2009年06月29日(月) 努力して

52.9Kg, 9.8%

NHK教育で摂食障害を取り上げた番組を見ていました。
オーガーラ先生が「ふつうダイエットは成功しないものだが、摂食障害の人はそれを成功させてしまう」という話をしていました。

一ヶ月半で10Kg落とした二郎さんは努力家として飛び抜けていると思います。けど、薬でもアルコールでも依存症になる人、摂食障害になる人は、誰でも努力家だと思います。

最初から気持ちよく酒が飲める人は少数派です。大酒が飲めるようになるためには、相当な訓練が必要です。二日酔いで激しく苦しんだこともあったに違いありません。なのに、それでめげて酒をやめることなく、気持ちよく飲むためにと、酒の種類を変えたり、店を変えたり、飲む時間帯を変えたり、いろいろ考えたことでありましょう。お金も時間もたくさんつぎ込んで、他の楽しいことを犠牲にして、立派な大酒飲みになったわけです。ついでにアル中にもなりましたけど。
(そうやって「大酒飲みになる」のに大きな努力をしたのに、「大酒飲みをやめる」のには努力は要らないという心理がどこから来るのか?)

薬だって上手な使い方が出来るようになるには、かなりの努力が必要です。

努力して依存症になった、ということは見落とされがちな視点なのかもしれません。


2009年06月26日(金) 適正飲酒?

53.0Kg, 7.2%

さて、節酒というか適正飲酒の話。
アル中さんは飲み過ぎるからいけない。ほどほどに飲めば良し。
それが出来ないから病気であって、飲み過ぎないためには「もっと飲みたい」という気持ちを抑え込まねばなりません。例えその欲求が飲酒再開後それほど強くなかったとしても、何ヶ月、何年と飲酒を続けるうちに制御できなくなってしまいます。
アル中ではない普通の酒飲みたちは、飲んだくれを見て「なぜ、ほどほどにしておけないのか?」という疑問を持ちます。

では、アル中でない普通の酒飲みは、適正飲酒をしているのでしょうか?

酒席で普通の酒飲みと一緒になったら、酒をもっと飲むように勧めてみてください。勧めに応じて多く飲む人もいるでしょう。その場合には、もっとしつこく勧めてみてもいいです。いずれ必ず「もうこれ以上勧めないでくれ」とか「いらない」と言い出すでしょう。

つまり普通の酒飲みは「もっと飲みたい」という気持ちを抑え込んではいません。彼らは飲みたいだけ飲みます。これ以上いらないというところまで飲み、満足して帰って行きます。その満足の量が、人によってはビールたった一杯だったりもします。彼らは「ほどほどに飲む」ために、意志の力もいらないし、努力もいりません。

つまり飲みたいだけの量を飲んでいる、という点では、普通の酒飲みもアル中さんも変わらないのです。結果が違うだけ。

結局の所、アル中さんを普通の酒飲みに戻すためには、トラブルが起きない程度の少量の酒で十分満足できる陶酔感が得られるよう脳を戻す必要があるのでしょう。

適量の飲酒に戻れたとしても、それを保つために努力や気配りが必要なら、それはアルコール依存症が治癒したことを意味しません。単に症状が小康状態を保っているだけなのでしょう。


2009年06月25日(木) 適正飲酒?

53.0Kg, 7.2%

さて、節酒というか適正飲酒の話。
アル中さんは飲み過ぎるからいけない。ほどほどに飲めば良し。
それが出来ないから病気であって、飲み過ぎないためには「もっと飲みたい」という気持ちを抑え込まねばなりません。例えその欲求が飲酒再開後それほど強くなかったとしても、何ヶ月、何年と飲酒を続けるうちに制御できなくなってしまいます。
アル中ではない普通の酒飲みたちは、飲んだくれを見て「なぜ、ほどほどにしておけないのか?」という疑問を持ちます。

では、アル中でない普通の酒飲みは、適正飲酒をしているのでしょうか?

酒席で普通の酒飲みと一緒になったら、酒をもっと飲むように勧めてみてください。勧めに応じて多く飲む人もいるでしょう。その場合には、もっとしつこく勧めてみてもいいです。いずれ必ず「もうこれ以上勧めないでくれ」とか「いらない」と言い出すでしょう。

つまり普通の酒飲みは「もっと飲みたい」という気持ちを抑え込んではいません。彼らは飲みたいだけ飲みます。これ以上いらないというところまで飲み、満足して帰って行きます。その満足の量が、人によってはビールたった一杯だったりもします。彼らは「ほどほどに飲む」ために、意志の力もいらないし、努力もいりません。

つまり飲みたいだけの量を飲んでいる、という点では、普通の酒飲みもアル中さんも変わらないのです。結果が違うだけ。

結局の所、アル中さんを普通の酒飲みに戻すためには、トラブルが起きない程度の少量の酒で十分満足できる陶酔感が得られるよう脳を戻す必要があるのでしょう。

適量の飲酒に戻れたとしても、それを保つために努力や気配りが必要なら、それはアルコール依存症が治癒したことを意味しません。単に症状が小康状態を保っているだけなのでしょう。


2009年06月24日(水) AAの有効性

53.6Kg, 9.7%

雑記のタイトルが短くなる前は「たったひとつの冴えないやりかた〜飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常、あるいは自助グループへの諦念混じりのつぶやき」でありました。

AAに100人のニューカマーが来たとして、そのうち10年20年と酒をやめ続けられる人は、おそらく数人でしょう。一回顔を出しただけの人も母数に入れれば、その比率はもっと下がり一人未満になってしまうかもしれません。
そういう現実からすれば、僕が今の日本のAAに対してシニカルな見方しかできなくなっているとしても、仕方ないではありませんか。

だからといって、僕はAAに対して失望しているわけではありません。信頼を失ったわけでもありません。

それは僕のソブラエティの2年目の夏でした。3年のバースディを済ませた「先ゆく仲間」が再飲酒してしまいました。彼は週に6日ミーティングに通っていました。当時はこちらでは会場がまだ少なく、毎晩出席するのは実に大変なことでした。そして毎週末のように遠方のAAイベントに参加していました。
そんなに熱心にAAをやっていたにもかかわらず、彼は飲んでしまったのです。

ミーティングでよく読まれる第5章に、「私たちと同じことを徹底的にやって、それでも回復できなかった人はほぼ絶無だった」とあります。それは誇大表現ではなかろうか、と思ったわけです。

幸い今では、考え方が違っています。
僕はAAの中で見聞が広いわけではありませんが、少なくとも「あんなに熱心にステップに取り組んだのに、なぜ彼は飲んでしまったのだろう」という例はひとつも見聞きしたことがありません。ステップは(ほぼ)常に有効で、取り組んだ人がほぼすべて回復するというのもウソではありません。

もちろん、ステップをやったのに飲んでしまったと言われたなら、「そりゃやり方が不十分だったのだよ」と言えば済む話ですから。

まあミーティングだけでやめられている人は、それでいいのかもしれません。でも、その一方で、ステップが伝われば助かる人たちに手が届かずに終わっているのが現実です。

ステップセミナーをやろうという話になっても、「ステップの話が出来るメンバーが少ないから無理だよ」という理由でボツになってしまうのです。シニカルにならざるを得ないじゃないですか。


2009年06月23日(火) 能力の上限

携帯電話の料金を照会してみたら、今月の無料通話がまだ一万二千円以上残っていると表示されたので、スポンシーに電話してみることにしました。(またauの計算ミスかも)。

最近ミーティングに行く回数が減って、ホームグループにもなかなか顔を出せないでいる、という話でした。

さもありなん。

酒をやめて1年、2年、3年と経っていくと、いろいろ周囲の期待も高まってきます。最初のうちは断酒優先で、仕事も軽減されているというパターンが多いでしょう。というか、さんざん酒で同僚や上司に迷惑をかけた結果、「大事な仕事はあいつにはやらせるな」という雰囲気になるのが普通です。

それが「今回は断酒が軌道に乗ったかもね」ということになると、いつまでも戦力外に置いて無駄飯を食わせておくわけにもいきません。次第に仕事の量が増やされて、いままで定時退社していたのが、残業しないと間に合わなくなってきます。あるいは出張やらなにやら。

本人のほうも、いままで職場に迷惑をかけたという意識もあるし、期待されてないのも悔しい、みんながまだ働いているのに「お先に」と帰るのも気まずい。それに、自分だって仕事の能力では人後に落ちない(はず)という意識もあったりする。
だから、仕事が増えるのが本人大歓迎だったりします。

そこで、「酒をやめるのが大事なのではない、やめて何をするかが大事なんだ」とかなんとか、もっともらしいエクスキューズを思いついちゃったりして。

そうやって会場へ行く回数が減り、次第にAAから遠ざかり、いつの間にか何ヶ月もミーティングに行ってなくて、今さら行きづらいし、別に飲みたいとも思わないし・・、そうやって何ヶ月か何年かは飲まずに過ごすんだけど、気がついたらまた飲んだくれていて、と螺旋を一回りするわけです。

などと言うことは、いちいち説明しなくても分かるはずなので、

「仕事を任せるほうも期待していて、あなたもその期待に応えたいと思って、でもやっぱりその仕事を断ってミーティングに行くことは必要なんだよ」

という話もしました。そういう制限も合わせたのが「自分の仕事の能力」なのだということです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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