心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2009年06月22日(月) 片棒担ぎ

半年ぐらい前のGrapevineを読んでいます。
斜め読みなのですが、特集は再飲酒後のAA復帰について。

記事を読むと、「10年間のcasual membershipのツケはとっても高くついた」とか「最初にAAに顔を出したのが1972年、それから飲むたびにAAに顔を出していたけど、最終的にしっかり酒が止まったのは1999年」などと書かれていました。

カジュアル・メンバーシップというのは、たぶん「うわべだけの(おざなりな)AAメンバー」というほどの意味でしょう。その時は真剣にAAをやってみようと思わなかったものの、後になって後悔にほぞを噛むハメになった、というような話の特集なわけです。まあ、たいていこういう話は「とはいえその○年間は無駄ではなく、私にとっては必要な苦しみだったのだ」みたいなまとめ方がくっつきます。

初期のAAでは新人の半数が酒をやめられたが、現在ではその数は1割にも満たないという話があります。それはそうだろうと思います。世間のアルコール依存症への理解は少しずつですが進んでいます。様々なところでAAを紹介してくれるおかげで、まだまだ酒が飲み足りない人たちがたくさんAAにやってくることになりました。
その結果、AAには来たけれど、まだ底をついていない人たちの比率が増えたのでしょう。

カジュアルなメンバーというのは、AAにとってはあまり有り難くない存在だと思います。彼らはさほど努力しなくても酒をやめられています。それが一時的な断酒にすぎないかどうかは、その時には分かりません(飲むまで分からない)。
一方、もっと病気が進んで真面目にやるしかない状態の人にとって、カジュアルなメンバーはやる気を削がせる存在です。「彼らは楽して酒をやめているのに、なぜ俺のスポンサーはこんなに厳しいことを言うのだろう」とかなんとか。

あるオープンスピーカーズミーティングで、壇上の人が「私は棚卸しもやっていないが、ミーティングに通うだけで何年も酒が止まっている」と話しているとき、僕の隣の仲間が吐き捨てるようにつぶやきました。

「ああいう連中は、人殺しの片棒を担いでいるだけだよ」

その通りだと僕も思うのです。


2009年06月20日(土) ビッグコミックオリジナル発売日

52.4Kg, 9.9%

ホームグループの会場へは高速の側道を通っていきます。
測道の脇には田んぼが広がり、5月には麦が実っていました。おそらくこれは転作奨励金目当ての麦作であって、真面目に耕作するつもりはなく、麦を収穫した後は冬まで荒れ放題にされるだろうと予測していました。
しかし先日そこを通ってみると、ずらりと稲が植えられているではありませんか。きちんと麦と稲の二毛作をしているのです。僕は勘違いを恥じねばなりません。

最近ネット上での露出が減っているのは、意欲が減退したからです。
他のことが楽しくなって、ネットが面倒になっているだけです。この週末も、nLiteをいじくり回しているうちに半分過ぎてしまいました。

今週はビッグブックの3章(ステップ1)の前半でした。僕の心に響いのは「ゆがんだ考えが身についているために、自分の力でやめられる人もほとんどいないだろう」という一節でした。精神病院の中で、ケースワーカー室からこの本を借りて読んだとき、この一節に対してとても腹を立てたことを思い出します。

「お前の考え方は歪んでいる」と言われて腹を立てない人はいないでしょう。だが僕の考え方は歪んでいた、と今では思えますし、そんな自分を笑うことも出来ます。自分の失敗、自分の愚かさを笑うことができる、これは大切なことだと思います。
過去を振り返れば、「あの頃の自分の考えは歪んでいた」と常に思うのですから、きっと5年後に現在を振り返ればやはり歪みを見つけるでしょう。

最近つくづく思うのは、酒はあまり早く止まらない方が良い、ということです。
早すぎる断酒は、しっかりした断酒にならないことが多く、自分の力で酒をやめられるという誤解を生む元になるだけに思えます。精神病院の患者さんの中には、3年、5年自力で断酒できたと主張する人も多いのです。そして彼らの多くは、再び自力の断酒に果敢に挑んでいくのです。繰り返すごとに困難になっていくとも知らずに。

「底付きの底を浅くする」という話もナンセンスに思えます。病気の進行を遅らせるよりは、たっぷり飲んでもらって、最短コースでどん底に到着した方が、酒をやめた後の人生が長くて良いでしょう。それが真の底上げなのでは?

だから僕は「自力で酒がやめられる」と主張する人の意見を覆して、ハイヤーパワーを押しつける気にはなれません。というか、「自力断酒だなんて、無駄な我慢しないで早く酒を飲んだら?」と思っているのがホンネです。
だって、それが思いやりというものでしょ?


2009年06月10日(水) 日常

夜食/ファンタ・チキンラーメンミニ(ネギ入り)
52.8Kg, 8.4%

銀行の預金に使っている印鑑がどれだか分からなくなったので、支店まで行って確かめてもらいました。その用事はすぐに済み、ついでに銀行のキャッシュカードをクレジットカード機能付きにするよう勧められました。

すでにその銀行の発行するクレジットカードは持っているので、「2枚を1枚にするのか?」と尋ねたら、カードの発行母体が別だといいます。そちらに切り替えて、携帯電話の支払いをそのカードですれば、年会費を無料に、そして夕方や休日のキャッシュカードのATM利用料が無料になる、というので申し込みをしました。そんなことで午前中が終わってしまいました。

クレジットカードを持っていると、不思議な特典が送られてくることがあります。たとえば生命保険の勧誘です。保険料は無料。そのかわり死亡時保険金もたったの20万円。ないよりマシという金額です。こんなものを勧誘して保険会社に何のメリットがあるのでしょう。
おそらく、それで得た個人情報を元に有料の保険を激しくセールスするに違いありません。残念ながら、僕にはそれを無視できる強さがありません。

ニュース検索のスクリプトをいじっています。Googleとlivedoorの変更に対応させなければなりません。文字コードを文字になおすのはpackだったかunpackだったか。Perlでメシを食っているわけではないので、なにを覚えてもすぐに忘れてしまうのです。


2009年06月08日(月) 立ち話

ミーティングの後、仲間と駐車場で立ち話をしていました。
先日AAのラウンドアップが終わったばかりなので、地元でラウンドアップの開催に立候補するかどうか、という話になりました。

ラウンドアップというのはAAの大会です。

関東では年に2回ラウンドアップをやっています。開催は「地区」の持ち回りです。地区は都県より細かく分かれているので、関東には二十いくつあります。順当に行けば、各地区が十年あまりに一回担当すればいいはずです。それがウチの地区が3年とか5年にいっぺんやってきたのは、ほかの地区でやらないところがあるからです。
やらないところは、できない事情があってのことでしょう。

関東にはおそらく二千数百人のAAメンバーがいるでしょうが、ラウンドアップに集まるのはせいぜいその1割です。参加する人にとっては意義深いものだと聞きます。それはそうなのでしょうが、「しかし1割のメンバーのためのものにすぎない」というのが僕の持論です。

昔はAAのイベントが少なく、ラウンドアップで集まる意義は大きかったと思います。しかし、いまや毎週末どこかでAAの集まりがあります。ラウンドアップの地位が相対的に下がるのは仕方ないと思います。

7月に代々木で一泊二日でやるステップのセミナーに参加しないかと誘われました。以前「やるなら是非行きたい」と言っていたのですが、グループの病院メッセージと重なってしまったのでお断りしました。お金もないしね。
大きなことより、足下の小さなことをきちんと片づける時期なのかも。

おすすめのセミナー(だと思う)なので、興味のある方はwebmasterまでお問い合わせください。


2009年06月06日(土) 無力

夜食/グレープフルーツジュース・バナナ
53.5Kg, 10.6%

ステップミーティングのテーマはステップ1でした。

アルコールに対して無力であることを認める。

「私は無力を認めた」と言いながら、同時に「もう少し自分なりに努力してみたい」と言うのであれば、それはステップ1をこなしたことにはならないのでしょう。

12ステップを「自分なりに解釈してやればいいと思う」という意見はもっともらしいのですが、実はそういう言葉を使う人はステップなんかやっちゃいないのです。

AAのビッグブックとか12&12という本に書かれていることを、「難しくてわからない」と言う人はたくさんいます。

中には頭が残念なことになっていて、本当に中身が理解できない人もいるでしょう。でもそういう人は少ないに違いなく、多くの人は本に書かれていることを納得したくない、その通りにやりたくない、自分はそんなことをしなくてもオッケーだと思いたいからこそ、「難しくてわからない」という言葉で回避するのでしょう。あるいは「こんなことは無意味だ」とかね。

それでも、ステップには関心がない、無関係で生きていきたいというのなら、それで構わないと思います。

ところが、そういう人がステップミーティングの司会をしていたりするので、頭が痛いわけです。「お前もそうじゃねえか」とか言われそうな気もしますけど。
少なくとも、振り返って自分もそうだった時期があるからこそ、そういうことが分かるわけです。ともかくどんなミーティングであれ、続けてもらうしかないか。


2009年06月05日(金) 意味不明

夜食/カップ焼きそば
53.1Kg, 9.6%

けだるい休みの日であります。
ご飯を食べると、すぐに横になりたくなっていけません。
食べてすぐに寝ると、猫になってしまいます。

猫になるには二つのルートがあって、ひとつは最初から猫として生まれ育つコース。もうひとつは、まず人間として生まれ、食後にすぐに寝て猫になるコース。

ニュース検索がきちんと動いておらず、読売とyahooぐらいしかひっかかりません。Googleとかlivedoorは無視されてしまっています。
なんとかしなくては、と思いながらも、寝るのが優先なのであります。


2009年06月04日(木) 憲法記念日に考えた(がひと月経過した)

夜食/CCレモン・バナナ
53.1Kg, 10.2%

憲法記念日はずいぶん過ぎてしまいましたが、天皇制というものついて少し考えてみます。

世界には、君主(国王や皇帝)がいる君主制の国と、それがいない共和制の国があります。

君主制の国の場合には、行政府の長の名前は通常「首相」です。たいていは議院内閣制で、首相は議員が選びます。国民が直接選挙する「大統領」のような存在はありません。

21世紀の現在、国を統治する権限のある君主はまれで、たいていは儀礼上の君主にすぎません。権限があっても滅多にそれを使わないので形骸化するのが普通です。歳費(お財布)を議会に握られているので、言うことを聞かざるを得ないのです。とはいえ、国政が混乱したときには、口を挟むこともあります。

君主制には国を統合する機能があるようで、スペインやカンボジアのようにいったん廃止した王制を復古した例もあります。

(共産主義・社会主義の国は別として)共和制の国の場合には、大統領と首相の両方がいます。アメリカは大統領しかいない変な国ですけど、これは例外ですね。

日本のような君主制の国に住んでいると、「首相さえいれば大統領は不要なのでは?」と思えてきます。特に、ドイツ、ギリシャ、イタリア、オーストリアなどの大統領を見れば、君主たちと同じような「儀礼のための存在」になっていますから、政治は首相がいれば十分と思わせます。

しかし上であげた国は、革命や戦争のどさくさで王制帝制を廃止した国ばかり。おそらく、センチメンタルな意味での国の統合のためには、やはり君主はいたほうがいいのでしょう。スペインやカンボジアのように廃王を連れ戻せればよいのでしょうが、それがかなわない場合には、仕方なしに国民の選んだ大統領を据えてガマンしているという感じです。

アメリカやフランスの大統領には強い権限が与えられています。彼らが国民から集める尊敬は、他の国の国王が集める尊敬に似ています。

天皇制がいいかどうかは分かりませんが、その機能をアソー君やらハトヤマ君が担えるかと言ったら、そりゃ無理でしょ、って感じですな。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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