心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年04月06日(日) 予定

ゴールデンウィークの次の週には、地域のAAのラウンドアップがありますが、残念なことに実家の田植えと重なっていて行けません。田植えがどうしても外せない用事なのか・・と言えば、そこはビミョーです。実家の田んぼのほとんどは、農協による代理耕作を頼んであるか、人に貸してあるので、自分たちで食べる分しか耕作していません。その広さ、わずか一反五畝(約15a)。母と兄だけでも十分ですし、成人した甥も手伝ってくれます。

しかし、母が言うのであります。「お前が来てくれると、兄ちゃん喜ぶよ」と。
母はさすがに僕を動かす方法をよく知っています。「お前が来ると役に立つ」でもな
ければ、「私が嬉しい」でも「来ないと切ながる」でもなく、「兄ちゃん喜ぶよ」であります。実際行ってみても、兄が喜んでいるかどうか、かなりビミョーです。
ともかく、米を分けてもらえるだけのことは、しなくてはなりません。この「自分たちで食べるだけは耕作する」のも、はたしていつまで続けられるのやら。おそらく母が元気なうちだけでしょう。

さて、話は変わりますが、僕は人を好きになるときに、その人の「声が好き」という要素がかなりのパーセンテージを占めます。僕の場合、人の顔を覚えるより、声を覚えるほうが早いのですが、それと関係あるのでしょう。
そういう僕ですから、自分の容姿の美醜の評価よりも、自分の声がどう思われているかのほうが気になります。僕の声は、男らしい野太い声ではなく、男としては甲高く、緊張すればさらに高くなります。おまけに、口の中でごにょごにょ言っていて、聞き取り辛いと言われます。

昨年ある会合で、皆の前に出て話をする機会を与えられました。終わった後で「良い話でした」と言われたのは確かに嬉しかったのですが、それよりも「ひいらぎさんて、素敵な声ですね」と言われれたのが飛び抜けて嬉しかったですね。もちろん僕は、言ってくれた相手のことを(この人いい人だなぁ)と思うようになるわけです。

結局僕も単純な人間なのであります。


2008年04月05日(土) 年のせい?

僕は近視なので老眼鏡は不要なのですが、車の運転用とパソコン操作用では別のメガネを使っています。「これは老眼鏡ではない」と自分では思っていても、パソコン用に近視補正の度数を弱めたメガネが必要なのは、目が老いてきている証拠です。

はたまた、最近4〜5時間しか眠れないのは、これはうつがぶり返し気味なのであって、加齢のせいで睡眠が浅くなったわけではない・・と自分に言い聞かせたいわけですが、短い睡眠時間はもう年単位で続いています。

たとえ4時間しか眠れないにしても、12時に寝て4時に起きてしまうのは、僕の趣味ではありません。なので夜更かしということになります。

夜寝る前に10分ほどテレビを見る習慣だった時期があります。BS2の短い番組で、イギリス紳士用の山高帽を作る作業を紹介していました。AAミーティング前の仲間との雑談で、たまたまその番組の話をしました。全然性格の違う二人が、偶然同じ番組を見ているなんて、不思議ですねという話になったのです。が・・直後に気がついてしまいました、その深夜番組(というか早朝番組)を、朝の早いその人は起床直後に、僕は就寝直前に見たという違いに。

こまめに歯を磨かないと、すぐにシソーノーローになってしまうようになりました。

それにしても、本棚からは本が溢れ、床からいろんなものが積み上がるようになって・・ああこれではすっかり「オタク部屋」です。


2008年04月04日(金) 新グループ

いつかはアクセス数500をと思っていましたが、まさかこんなネタで突破してしまうとは・・。やはり他人の不幸はなんとやらでしょうか。そういえば、たまちゃんのところも、オットォ!(・o・ノ)ノ〜のご乱行ネタだとアクセス数が増えるのだとか。

妻の回復を引き出すべく本気で動き出すのか、それとも「もういい加減にしてくれ」ということにするのか、こればっかりは人生の選択として自分で決めねばなりません。そんなことに悩まなくても、変化を望まなければ、だいたい同じような毎日が続いていってしまうわけで、それが「ぬるま湯の不幸」というものでありましょう。
そもそも自分が何を望み、何を目標とし、何を動機としていくのか。それを明らかにするためにも専門家(カウンセラー)の手を借りる必要があるのでしょう。でも、今は忙しいから、それは来月からにしようかな、とか言うのは「明日から酒をやめるアル中の論理」と同じですな。

さてさて、暗い話はおいといて、新しいAAグループが始まりました。
まだミーティングが始まっただけで、地区やオフィスには登録してありません。次回の地区委員会まで無事にミーティングが続いていたら、登録することになるでしょう。
すでにあるグループは形が定まっていて、それを変えていくのは大変なことです。そして変えようとすることが常に正しい方向とも限りません。しかしながら、新しいグループというのはまだ形がないので、いかようにも自由に形を作っていけます。それが新しいグループの魅力でもあります。

数年ぶりに長野に帰ってきた仲間と一緒にやるのですが、その仲間が地元に落ち着くまで1年間ほど期間をおいたらどうかという意見はずいぶんありました。それを急かせたのは、彼の持っている情熱とも無謀ともつかないものが「落ち着いて」しまったら、新しいグループの意味が薄れてしまうからでもあります。僕はその情熱を支える役割をしていこうと思ったのですが、ここ1〜2ヶ月の準備段階を振り返ってみれば「足をひっぱてんじゃねーよ」と言われても仕方ありません。反省。

ともかく新しい会場には今夜12人の参加者がありました。AAでは吉兆の数字であります。このグループが神さまに愛されて続くのかどうか、それは今から心配しても始まりません。正式なAAグループとは何を示すのか、僕には分かりませんが、ともかく1ヶ月あまりに及んだ、僕のホームグループなしの状態は解消されました。

3月はドタバタしていたおかげで、「月末まで」の仕事が4月にはみ出しています。というわけで明日も仕事です。

「おしつぶされそうな、むずかしいときにも、生きる喜びはある」


2008年04月02日(水) 12の伝統

今夜中に出荷コードを出さなければならないので、会社で徹夜になるかと思ったのですが、お客さんから来週頭でいいよと連絡をもらったので、8時過ぎに仕事を切り上げてAAミーティングに行くことにしました。
ビッグブックミーティングで「12の伝統」のところ。最後に余った15分を二人でシェアしました。

アメリカで始まったばかりの頃のAAは二つの大きな不安があったと書かれています。ひとつはメンバーの再飲酒(これは当然ですね)。そして、当時のAAは本人も家族も一緒にやっていたので、しばしば三角関係が起こり、それがグループを破壊するのではないかという不安が二つめです。けれど、AAでのセックスの問題は、他の社会集団以上に深刻ではないことが次第に明らかになっていきます。

もっと深刻な問題は、権力や支配、そして金銭の問題です。だから、12の伝統はおもにこちらを扱っています。

AAメンバーは全員が平等だと言っても、人間はどこでも上下関係(序列)を作りたがる物です。ソブラエティの長さなんて、ただひとより早くAAにつながったというだけで、人間的優秀を示す基準ではないのですが、ソーバーの長い人間が偉いということになりがちです。

グループのビジネスミーティングで決めごとをするときに、意見を決めかねると、なんとなく皆が顔色をうかがう人がいます。それはグループの長老と言われるような人たちです。鶴の一言によって、意見が雪崩を打ったように変わってしまうこともあります。劣勢に立たされた側が、長老の意見によって優勢に早変わりとか。

本当の長老とは、余計な口を差し挟まず、グループの皆が「間違える経験を積む権利」を行使するに任せ、事態の推移を辛抱強く待ち、本当に危なくなったときだけ適切な助言をするために静かに待っている人のことです。

ところが人間とは弱いもので、「皆のために良かれ」「新しくつながる仲間のために」といいながら、トラブルの芽を摘んでいきます。転ばないように大事に育てられた子供は、転ぶことに弱く、起きあがれなくなると言います。AAグループでも「自分たちで間違える経験」を積まなかったグループは、「死にかけの執事」が去った途端に崩壊の危機にさらされます。

先ゆく仲間の責任とは、自分がいなくなっても、後から来た人たちが自分たちでやっていけるようにすることではないでしょうか。伝統12の言う「本当の謙遜」とは、なかなか難しいものであります。


2008年04月01日(火) 幻の姉

僕と兄とは6才離れています。実は2才年上の姉が存在するはずでした。が、生まれてすぐに亡くなってしまいました。その後に僕が生まれることになったのですが、姉が順調に成長していれば、僕は存在しないはずの子供で「幻の姉の代わり」でした。

農家ですから、男手が多いのは喜ばれますが、女の子だって必要です。かあちゃん、ばあちゃんが野良仕事から疲れて帰ってきた後で、家事の手伝いをしてくれる子がいれば楽です。

そんなこともあって、小学校時代の僕は「お前は女の子の代わりだから」と言われながら、食事の準備やかたづけ、掃除や、風呂の火の番などをさせられていました。今の時代であれば、男の子がこれぐらいの家の手伝いをしてもおかしくないかもしれません。けれど、当時の農村ではそれは明確に女性の役割でした。比べられる対象も、従兄弟ではなく、従姉妹たちでした。
僕は「女の子の代わり」であることに大きな疑問も持たず、「優しい子になれかし」という周囲の期待に応えるのが当たり前だと思っていました。まあ、別の女装させられたわけでもないし、不都合はなかったのです。
ただ、心の中では「生きているのは幻の姉ではなく、次男の僕なんだ」という強い思いがあり、それが時にはわがままな行動として噴出しました。「6才も離れていれば、兄弟ではなく一人っ子が二人のようなものだ」と母がよく言っていました。

中学生になって人間関係が変わると、僕はいじめられるようになりました。それは現代の小中学校にあるイジメのような残酷なものではなかったにせよ、僕は毎日くらい顔をして過ごすようになりました。それを見た両親は話し合った結果、「これからお前は男らしく強くなりなさい」と養育方針を変えました。

しかし、いきなり男らしくと言われてできるものではありません。体力や気力が人より優れないと知るや、お前は頭が良さそうだから一生懸命勉強しなさいということになりました。それは親の愛には違いないのでしょうが、問題のすり替えにしか過ぎず、問題は僕の中に温存されました。

アルコール依存症のパーソナリティ特性の研究では、自己愛性パーソナリティ障害が必ず挙がります。また性同一性について問題の指摘する報告もあります。僕はどっちもど真ん中なわけです。

男らしく強くと言われてもしんどいし、じゃあ女として暮らせてと言われても困るし。わがままを抱えながら優しいフリをする男をやるのが精一杯という感じです。


2008年03月30日(日) むずかしいときにも

毎年その年のテーマを決めています。
昨年一年は Keep It Simple でした。その指針どおり生きることが単純になったかと言えば、全然そんなことはなかったわけですが、まあ一応目標は掲げておかないといけません。
今年は「おしつぶされそうな、むずかしいときにも、生きる喜びはある」p.23
The joy of living we really have, even under pressure and difficulty.

安楽を人生の目的にしてしまえば、それが叶わないときには生きる喜びが失われます。

さて、人が変わろうと努力するときに、どのように変わりたいかという目標は大事であるように思います。たとえば、酒を飲んで苦しんでいても、酒をやめる行動を取れるとは限りません。酒をやめた自分という目標像をまず設定して、その目標に向かって努力するから、人は変わる努力ができるのだと思います。
何度も酒をやめることを失敗していると、酒をやめた自分の姿が想像できなくなり、それに向かった努力も虚しく感じられるだけです。だから、飲み続けている自分の悲惨な現状と、酒をやめた理想像とのギャップを明らかにして意識させてあげれば、人はおのずと変わりたいと思ってギャップを乗り越える努力を始めてくれるものだ、という考え方に僕も賛成です。

自助グループというのは、酒をやめた人間という一つの理想の像を提供することで、そこへやってきた人がその像を自分自身に投影するチャンスを与える場所になっているのではないでしょうか。

話が逸れました。

さて、どのように変わりたいのか自分でも分からない。変わった自分の姿が想像できない。そういう重苦しい局面が人生にはあります。そんな時にも、きっと「生きる喜び」はあるのだと思います。それは快晴の空の下のようなスカッとした喜びではないかもしれませんが、重く垂れた雨雲しか見えなくても、その上の太陽の存在を感じることに似ていると思います。

ま、しょうがねぇよ。


2008年03月28日(金) 孤独か衝突か

人間関係の悩みを解決する一つの方法は、孤独を選ぶことです。
そもそも人間関係がなければ、それで傷つくこともありません。
だから人は、アパートの一室に、あるいは二階の自分の部屋に、引きこもってみたりするわけです。

僕も飲んでいた頃は非常に孤独でした。自分で選んだ孤独なのですが、一方で淋しい気持ちも強く、誰かと親しくなりたいと思っていました。けれど、誰もこんな自分とは本当の意味で親しくなりたくないのではないか、と恐れていました。
孤独な人間にとって、自分から親しさを求めて拒否されることほど恐ろしいことはありません。だから、単調な孤独が続くほうを選んでしまいます。
実際には、自分が他者と親しくなるのを拒否しているだけなのですが、それを自分の落ち度として認めたくはありませんから、相手に「私とは親しくなりたくない」という責任転嫁しているのです。

どんなに親しい人であっても、いつも思い通りに動いてくれるとは限りません。どんなに信頼した人であっても、裏切られることはあります。人間関係を持てば、傷つくこと(傷つけられること)があるのは避けられません。
それでも多くの人たちは、孤独よりは、人間関係の悩みを選びます。

つまるところ、絶え間のない孤独か、それとも人間関係の悩みか、そのどちらかしか選びようがないのでしょう。時には出入りの少ない人間関係の中で、波風の少ない安定した状態が続くことがあり、孤独ではないが悩みもない平穏が続くこともあります。しかし、人はわがままなものですから、いつかはその平安も破綻します。

実は孤独であっても人間関係の悩みが無くなるわけでもなく、自分を拒否している(親しくしてくれない、思うようにしてくれない)誰かを恨むことは避けられません。だとすれば、わがままな自分とわがままな相手が付き合って、傷つけあっても孤独よりはましだと思うのです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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