心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年03月06日(木) ステップ3

ステップ3:
「私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした」

ここに書くことは本の受け売りですが、僕の深く納得することでもあります。

ステップ3には「神」という言葉が出てきますから、そこに注意が向いてしまうことは仕方のないことかも知れません。けれど、理解しがたいのは「意志と生きかた」とはいったい何であるか、ということかもしれません。

ジョー・Mによれば、「意志」とは考え方であり、「生きかた」とは行動であるそうです。

例えば僕は、人間関係の悩みを抱えていたり、金銭の悩みを抱えていたりします。そうした悩みは、自分と自分の外(他者や環境)との関係性にあるのですが、そもそもその悩みの原因は「自分の行動」にあるわけです。
もし、自分に非がなかったとしても、他者や環境は自分の思い通りには変わってくれないので、自分(の行動)を変えるしかありません。

そこで僕は短絡的に、自分の行動さえ変われば良くなると結論づけます。たとえば、酒を飲むことが問題ならば、酒を飲む行動を変えて飲まなければ良いと考えます。ところが人間の行動を支配しているのは、その人の考え方です。行動だけ修正してみても、考え方が変わらなければ、いずれその人は元の行動に戻るだけです。僕は自分の行動だけを修正しようと努めていたので、結局いつまでも酒は止まらず、人間関係や金銭の悩みを抱えていたのでした。

考え方(意志)を変えれば、行動が変わる。行動が変われば、結果として他との関係が変わってくる。だから、まず修正すべきは考え方ということになります。

ここでもう一つ問題なのは、考え方は自力で修正できるか、ということです。世の中は良い道徳や理念であふれています。良い理念を説く人はたくさんいます。あなたが(僕が)そうした理念に従って、考え方と行動を修正できていたならば、今頃こんな文章を読んだり書いたりしていないはずです。自力で修正できなかったからこそ、今の場所にいるのです。

そこで私たちは自分を修正できる力を持った存在を必要とするのです。


2008年03月04日(火) 問題なのは

「問題は酒を止めてからの期間の長さよりも、次の一杯を飲むまでの期間の短さである」

眼精疲労で頭がガンガン痛かったのですが、思うところがあって普段行かないミーティングへ行きました。ビッグブックの箇所はステップ3のところでした。

僕は飲んでいた頃、「自分の意志で突っ走ろう」という人生でもなかったと思っていたし、ましてや自分が「神のように振る舞う役者さん」だとは思ってもいませんでした。「自分で何もかも取り仕切っていれば、申し分のない満足と幸福とがつかみ取れる」とも思っていないつもりでした。

どちらかと言えば、いつも周りの目を気にして、どう思われるか、どう評価されるかばかり気にしていました。「こんなことをしたらどう思われるか」という恐れが行動を規制していました。だから自分はエゴイストなどではなく、状況の哀れな犠牲者だと思っていました。

けれど、相手にどう思われるか気にし、自分の振る舞いによって評価を上向かせ、相手が自分に接する態度を変えよう・・というのは、自分の行動を変えることで相手の気持ちを支配しようとしていることです。僕は怒りや攻撃によって相手を変えようとするタイプではなかったものの、もっと受動的にであれ相手を(自分を取り巻く世界を)自分の思い通りに変えようとしていたのでした。

つまり僕も、「自分の意思で突っ走る取り仕切りたがり屋」で「神の役を演じる役者さん」だったのです。そして、そんなことはうまくいくはずがなく、酒におぼれる原因のひとつでもありました。

そんな苦しい生き方はやめたいと思っても、自分の力でやめられたなら、AAにたどり着くほど道に迷うことはなかったのです。道徳心や自己規制などというものは僕の役には立たず、自分が神さまを演じる代わりに、自分の主(あるじ)である存在が必要なのでした。

AAの仲間のバースディミーティングに、僕はプレゼントを持って行く場合もあれば、手ぶらの場合もあります。以前は「ある人にはプレゼントをして、別の人にはしなければ、いったいその人に何と思われるだろうか」なんて真剣に心配していました。だからしたくもないプレゼントをするために悩んだりしていたのです。まさに、bondage of self(自我の束縛)でした。(セルフ・ボンデージというと違う意味だな)。自分を苦しめているのは自分でした。

僕は酒をやめようと言うメンバーに対して平等な敬愛を持っている(つもり)ですが、その上で、僕も弱くて愚かな人ですから当然人間に対しても「好き嫌い」があって当たり前です。なんであの女性のバースディには花束を持って行くんですか、などと聞かれても、そんなの言葉で説明しなくても分かるだろうに、ということです。

なんか久しぶりにミーティングで言いたいことを腹蔵なくしゃべれた気がします。僕は話は下手なので、聞きやすい話ではなかったとは思いますけど。


2008年03月03日(月) ブラックアウトについて

鏡を見たら、目玉が黄色くもなく、血走ってもいないので驚きました・・てか、それが普通か。いつもは見える八ヶ岳が、昨日は黄砂で煙って見えませんでした。

さて、ブラックアウトについて。

ブラックアウトとは、アルコールが原因の記憶喪失のことです。飲んでいた時間のことが、部分的にあるいは全部思い出せないことです。もちろん、人は酒を飲み選れば意識が混濁しますし、酔いつぶれて寝てしまうこともあります。その間のことを憶えていないのは当然です。
けれど、比較的意識がはっきりしていたのに、まるで思い出せないことがあれば、それがブラックアウトです。

たとえば僕の経験で言えば、前の晩に1軒目で飲んだ後、2軒目、3軒目とはしごしたのですが、1軒目でのことは憶えているものの、2軒目以降のことは憶えていなかったりしました。けれど財布の中身は確実に減っていましたから、行ったは確実です。
朝から酔っぱらっていて、ああゴミを出し忘れたと気がつき、あわてて出しに行こうとしたら、実はもう出してあったとか。酔っている間にコンビニで買い物してきたみたいだけれど、まるで憶えていないとか。友人が電話をかけてきたことをまるで憶えていないとか。

アル中本人には「酒を飲む人が、飲んでいた時間のこと忘れるのは当然のことだ」という思いこみがありますから、これが健康な酒飲みと病気の酒飲みを分ける症状だとは知りません。むしろ周囲の人のほうが、その異常さに気がつきます。

もちろん依存症でない人でも、疲れた時に大酒を飲んでブラックアウトの症状を起こすことはまれにあることだそうです。けれど、アル中さんのような頻度では起こりません。特にたくさんの酒を飲んでいないのにブラックアウトが起こるのも、アル中さんにしか見られないことです。

薬物でもブラックアウトの話を聞きます。おもしろいことは、ギャンブル依存や買い物依存というプロセス依存の人からもブラックアウトの経験を聞いたことがあります。


2008年03月02日(日) やれやれ

家電店に寄ったついでにプリンターのインクを買おうと思ったのですが、古い機種用のものはもう売っていませんでした。メーカーとしてはまだ売っているのでしょうが、売り場には流動性の悪い商品はもう置いてくれないのでしょう。

先日田舎の田んぼの真ん中に建っているデパートに行き、そこにテナントとして入っている家電店の売り場を冷やかしていたのですが、MD DATAのメディアとか、データDAT(DDS2)のテープとかを売っていたのでびっくりしました。東芝がHD DVDからの撤退を発表しましたが、メディアはいつまで売り続けられるのでしょう。

前の会社に勤めていたときに、お客さんから「フロッピーディスクドライブが壊れたので交換部品が欲しい」と電話がかかってきて、耳を疑ったことがあります。工場のような信頼性の要求されるところで、フロッピーみたいなドライブもメディアも壊れやすい媒体を使うでしょうか?
しかし詳しく話を聞いて、5インチのフロッピーで、納入されたのが1980年代とわかり、なるほど当時なら他に選択肢がなかったと納得しました。僕と同年代かそれ以上の技術者の方ならば、8インチフロッピーという団扇みたいにデカい媒体をご存じでしょう。

機械は売られなくなっても、それを動かす消耗品はいつまでも求められるものです。

話は変わります。
アメリカの公民権運動(人種差別撤廃運動)について詳しくは知りませんが、キング牧師の名前は覚えています。特にキング牧師の演説 "I have a dream" (私には夢がある)は僕の好きな文章です。

だがある時彼の伝記を読み、彼が女性問題を抱えていたことを知り驚きました。彼は牧師ですから、妻があり子もあったのですが、全米を行き来して公民権運動を指揮している頃、投宿先に女性を同宿させていました。彼自身そのことに悩んでいたものの、意を決して女性と別れると、また別の女性ということになって解決しなかったようです。
彼が最後に暗殺されることでわかるように、彼の運動は常に社会との軋轢の中にあり、その大きなストレスの解放が女性であった、と伝記は彼に同情的でした。が、やはり人間としては罪であろうと思います。

僕はその時いろいろ考えたのですが、結局彼に対する尊敬の念は揺らがないという結論に達しました。彼は自分が弱い人間であることを認めていました。僕はそれまで、強い人間でなければ世の中は変えられないと思ってきました。けれど、何かを変えるのに強くなる必要は無いことを学んだのです。

どんな人間でも雪のように純白の潔癖にはなれません。僕は強くて正しいことにあこがれていました。そういう人(そう見える人)を尊敬し、愛しており、自分もそうなれれば尊敬と愛を集めるだろうと夢想していました。けれど決して自分がそうなれないことも感づいていましたから、同時に憎んでもいました。しかし、自分の弱さを自分が許せるようになるという変化が与えられたとき、人の弱さを許し、弱さを抱えた人を愛せるようにもなりました。

僕はかの牧師のように世の中を変えることはないでしょうが、弱くて汚い人間として生きていければそれでよいと思っています。

週末二日続けて、AAの仲間の棚卸しを聞きましたが、どちらも終わりませんでした。

けんちん汁vs豚汁問題と、一品香について教えて頂いて、ありがとうございます。
僕の中では「豚肉なし=けんちん汁」「豚肉あり=豚汁」という分類にしたいと思います。


2008年02月29日(金) 一段落

僕の仕事にも納期があり、その日までに納品するのが基本です。
ただ、コンピュータープログラムは「一日に何個作れる」という計算の立つものではありませんし、そもそも総量がどれぐらいなのか作る前から正確にわかる仕事でもありません。似たようなプログラムを書き続けていれば、作業量の見積もりもだんだん正確にできるようになるのでしょうが、毎回新しい物を作るのですから予想の根拠がありません。
それでも仕事の計画は立てねばなりませんし、「いつ頃できますか?」というお客さんの質問にも答えねばなりません。
そこでなんとなく区切りの良い「月末まで」と答えてしまったりして、予想が間違っていたりすると月末忙しくなったりします。

今週は朝4時に寝て、8時台に起きる生活を続けていたので、ちょっとへばってきました。僕は外食の時にはお腹が一杯でも残すことができないので、つい食べ過ぎてしまって、この間に2Kg太りました。まあ過労で腸の働きが鈍って、出る物が出ていないせいもあるでしょう。

幸い仕事は木曜の深夜に仕上がって、今日金曜は「何か問題があったときのため」の待機出勤でありました。来週の仕事を前倒しでする気力もないので、机に座っているだけが仕事です。雑記も書いたのですが、脳が半分寝ていたので、脈略がない文章になってしまいました(いつものことか)。

せっかくだから小淵沢のミーティングに出ようかと思ったのですが、体のことも考えてやめておきました。会場から国道まで戻ったところに「一品香」(いっぴんこう)という名の中華料理店があり、そこの海鮮おかき980円が気に入ったのですが、残念ながら今日は諦めました。

ネットで探してみるとこの「一品香」という店はたくさんあるようです。けれどチェーン店というわけでもなさそうです。中華料理の店が多いようです。いーぴんしゃんとカナを振ってあるところもあります。何か中国語で意味のある言葉なのでしょうか。焼き肉の店に「南大門」が多いのと似たような事情でしょうか。そう言えば南大門は燃えちゃったんですね。

ドラッグストアと電器店とユニクロに寄り、吉野家で牛丼とけんちん汁を食べて、セルフでガソリンを入れて帰りました。吉野家のメニューにけんちん汁と豚汁が登場しましたが、この二つはどう違うのでしょう?
妻に言わせれば「どちらも同じもの」なんだそうですが、それでは30円の価格差を説明できません。

いただいているメールに個別に返事できていませんが、この週末に書きたいと思います。一品香の意味、けんちん汁vs豚汁について、掲示板の方ででもご教示頂ければありがたいです。


2008年02月28日(木) 最初の一回

さすがに月末はちょっと忙しくて、雑記を書いている暇がありませんでした。

さて、ビッグブックを使ったスポンサーシップ。僕はスポンシーと向かい合って、この本を1ページずつ読んでいくことから始めています。

まず最初に「初版に寄せて」を読みます。そこを読めばこの本が、AAの最初の100人が「どのように回復したかを、まさにそれがあったとおりに伝えること」を目的として書かれたことがわかります。

原書の中では文章の一部をイタリックで強調しており、日本語版ではその部分をゴシック体で目立たせています。けれど、なぜか「初版に寄せて」の precisely how we have recovered に対応する部分は明朝体のままです。どうしてなんでしょうね?

それはともかく、これから始まるスポンサーシップでは、この本を基本テキスト(つまり教科書)として、最初の百人と同じやり方でステップに取り組んでいくことをはっきりとさせます。スポンシーを導くのは僕ではなく、この本です。だから、もし僕の言っていることと、この本に書かれていることが矛盾してたなら、ぜひ本のほうを信用して欲しいとも伝えます。

当然そのステップには、「自分なりに理解した神」を求めること、棚卸しの表を書き、性格上の欠点を探し、埋め合わせを実行し、日々の棚卸しと祈りと黙想という作業が含まれます。

スポンシーの選択肢は、最後までやり通すか、途中でやめるかのふたつです。残念ながら僕もまだまだ未経験で、きちんとこなせたスポンシーを持った経験がありませんが、それもこれから解消していくでしょう。

ステップを始めるのは、早ければ早いほど良いと思います。なにぶんスポンシーは苦しんでいるのです。かろうじて酒は止まったものの、またいつ飲み出すか分からないという不安を抱えています。酒を飲まなくても、別の依存対象に手を出してしまうかもしれませんし、それさえ自分に禁じれば死にたくなってしまうかも知れません。だから早くステップをやって、それを解消した方がいいと思います。

もちろん、その前に入院が必要な場合だってあるし、ステップが効いてくる前にまた飲んでしまっては話にならないので、ミーティングに通い続け、仲間の中にいることが最も安全な方法でもあります。

ビッグブックの使い方も人それぞれで、1ページずつ読んでいく面倒な方法は取らず、事前に読んできて話だけする人もいます。最終的にビッグブックの中に書かれた考え方・やり方が、スポンシーの頭の中に移るのであれば、途中どんなやり方でもかまわないと思います。


2008年02月26日(火) 対応策

地球温暖化という言葉がよく使われるようになりました。
その中でもよく使われる理屈は、産業革命以降の人間生活の工業化によって、化石燃料を大量に燃やした結果、二酸化炭素排出量が増え、そのCO2の温室ガス効果によって地球が暖まっているという説です。
確かに僕の子供の頃に比べれば、気温は高くなっています。気象庁が気温に使う「平年」とは過去30年の気温の平均値ですが、この平年値がだんだん上がってきています。
人間が化石燃料を使うようになったのは事実ですし、焼き畑農業などによって森林の砂漠化が進んでいるのも本当でしょう。空気中の二酸化炭素の量が増えているのも事実です。

でも、人間の活動と、二酸化炭素の増加あるいは気候温暖化が、結びついているのかどうか、本当のところは分かりません。大きな地球の変動の一部であって、人間の活動とは無関係だという人もいます。真剣になって研究している人たちもいますが、結論は容易にはでないでしょう。

原因が何かに関わりなく、気温が上がっていってしまうと困ります。長野県内でも、気温が上がったせいで、低温を好むリンゴが不作になったりしています。より標高の高い畑へ移ろうという人たちもいます。

これが続けば、北半球の人間は北へ北へと移住していかなければならなくなるでしょう。そして、赤道付近は住むには暑くなりすぎて無人の帯となり・・。

まあ、そうなると決まったわけではありませんが、そうならないためにできることと言ったら「CO2の排出量削減」でしょう。誰が原因を作ったかとは関わりなく、策は行っていかなければならないということです。

同じように、「なぜ自分は依存症になってしまったのか」というのは、酒が十分止まってから考えればいいことで、飲みながら考えても仕方ありません。ステップだと言う前に、まず入院して酒を切ってこなくては話にならない、とビッグブックにも書かれているわけです。「飲んでいる人と酒のやめ方について話しても仕方ない」とビルも書いています。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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