心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2008年02月23日(土) さぶう

昨日は暖かかったというのに、今日は一転して寒さが戻ってきています。木造の教会をお借りしているミーティング会場は寒く、ラッシュガードを着込んでいけば良かったと少し後悔をしました。

以前は「長野のAAは冬はメンバーが減る」と言われていました。寒くなって道の状態が悪くなると、無理してミーティングに通おうとしなくなる人が増え、結果的に飲んで消えていってしまうのだと・・・。最近は、それほど顕著な差を感じません。
精神病院も、正月明け・ゴールデンウィーク明け・お盆明けはアル中さんで混み合うのが通例でした。まとまった休みに連続飲酒に陥って、家族が入院させるというパターンが多かったのでしょう。こちらも今ではそれほどでもありません。
アル中さんはやっぱり年中無休なのであります。

さて、ギャンブルについてもアルコールと同じことが言えます。

いったん飲み始めたアルコホーリクが、もうどうしようもなく「次の一杯」を追い求めるように、ギャンブルに手を出した強迫的ギャンブラーは「さらなるギャンブル」を追い求めます。この強迫性(渇望)はどちらの依存にも共通です。

そして、飲み過ぎてトラブルを起こしたアルコホーリクが「もう二度と飲まない」という後悔と決心をするように、大負けに負けた強迫的ギャンブラーは「もう二度とギャンブルはしない」という決心をします。

だが、酒をやめただけのアルコホーリクがなんとなくイライラして落ち着かないのと同じで、ギャンブルを断っただけの強迫的ギャンブラーもそわそわと落ち着かない日々を送ります。

強迫性(渇望)は、依存対象を断ってさえいれば次第に収まっていくもののようです。だからアルコール依存症の人が「もう私には飲酒欲求がない。飲もうとは思わない」と言い出したりします。だが、その人がまた酒に手を出す日が来ます。ギャンブルの人も同じです。それは意志の力を越えたところにあるのです。

たまたま依存の対象が異なっていただけで、おそらく脳の中で起きている現象は同じでしょう。だがその共通性に気がつくためには、自分の持っている依存の本質を、きちんと見つめることが欠かせないと思います。


2008年02月21日(木) アイデンティフィケーション

AAミーティングで話をする前に「アルコホーリクの○○です」と名乗るのが通例です。アルコホーリクという言葉の代わりに、アルコール中毒者とかアル中とかアルコール依存症という言葉を使う人がいますが、表現の違いは大きな問題ではありません。

これはもともと、"My name is ○○. I'm an alcoholic." という言葉を日本語にしたものだそうです。「これから私はアルコホーリクとして話をしますよ」という宣言だとも言えます。

これはアイデンティフィケーション(身元確認)と呼ばれ、とても大切なことだそうです。自分はアルコールに問題があるのだ、と自ら認めるのはステップの基盤になることです。それから話を聞く人に対して、どんな立場から話をするのか明確にすることで、グループの「唯一の目的」を果たす手段のひとつにもなります。

もちろんアイデンティフィケーションはAAメンバーの義務ではありませんから、かならずそう名乗らなければならないわけではありません。ただ、アイデンティフィケーションをきちんとやりたいと思ったなら、お勧めなのは「少なくともアルコールに問題があることははっきりする言い方が良い」と思います。

複数の依存を抱える人が、たとえば「アルコールと薬物依存の○○です」と名乗るのは良くないと考える人たちもいます。AAの唯一の目的はアルコールなのだから、薬物のことが出てくるのはおかしいという理由だそうです。僕の個人的考えは、そこまで厳しくはありません。他の依存のことも一緒にアイデンティファイするのはその人の勝手だと思っています。

ただ、アルコールに問題があるのかはっきりしない言い方は良くないと思っています。たとえば「依存症の○○」とか「コントロール喪失の○○」とか「クロスアディクションの」などのように、アルコールに問題があるのかどうかはっきりしない表現はいただけません。クローズドミーティングに参加の可否、オープンでも話をしてもらえるのかどうか、そういうことを他の人が判断するのに、必要な情報が含まれていないと困ります。自分のグループではそれで通じても、他を訪れた時にどうなんでしょう?

もちろん、アルコールの問題を抱えていない、他の依存だけの人がアルコールのアイデンティファイをすることはないはずですし、そういう人がミーティングに参加して話をするかどうかは、個々のグループの選択でしょうから、この話題とは別のことです。

僕はミーティングでは「アルコール中毒者のひいらぎです」で始めています。なぜ「アルコール中毒者」という言葉なのか、というこだわりはまたの機会に。


2008年02月20日(水) 元に戻る?

1955年の「再販にあたって」を読むと、AAが広く世間一般に受け入れられていった理由をふたつあげています。ひとつは「たくさんのメンバーが回復したこと」、もうひとつは「家族関係が元に戻ったこと」です。

現在の日本のAAのメンバー数(推定四千数百人)では、たくさんのメンバーが回復しているとは言えないでしょう。しかし、そのことは良く言われることなので、改めてここで取り上げるまでもありません。

「家族関係が元に戻った」が何を意味するのかわかりませんが、原文は reunited homes なので、たとえば別居・離婚していた夫婦や親子が再び一緒に暮らすようになった、ということなのでしょう。でも、僕はそういう実例をAAの中で聞いたことがありません。

別れようかと思いながらも別れなかった夫婦が、酒が止まって時間が経ったら、関係が良くなってきたという話ならいくつも聞いたことがあります(なかなか良くならないという話も当然あります)。でもAAの他でもそういう話は聞きますから、酒が止まっていることで改善できるものなのでしょう。

別れてしまった奥さんや子供とまた一緒に暮らしたいと思っているAAメンバー男性はすごく多いように思います。けれどなかなかその願望が実現したという話は聞きません。

僕の見聞が狭いだけなのかも知れません。酒のせいでバラバラに住んでいた家族が、ふたたび一緒に暮らし始めた、というAAメンバーの話があったら、ぜひお聞かせ願いたいものです。

ただ、あまりのそのサンプルが少ないのであれば、やはり1950年代のアメリカのAAと、現在の日本のAAには、何かの決定的な違いがある、という結論になると思うのです。


2008年02月18日(月) 予備原稿

謙虚さとは自分を小さく見せることではなく、等身大に見せることです。
自分を大きく見せることの虚しさを知ると、今度は小さく見せることが良いと思い始めます。だから、自分にも人にも「小さく見せる」謙虚さを求めます。
人が陰口を言っていれば、そんなこと言わなければいいのにと責めたくなる。それはその人に「小さく見せる」謙虚さを(自分の心の中で)押しつけているのです。誰だって陰口は言わない方が良いと知っています。けれど、だから「陰口は言わない」というのは実は謙虚ではありません。だって、本当は言いたいのに、言わないでおくのは「小さく見せる」行為ですし、人が陰口を言うのを非難したくなるのは「小さく見せる」ように強制したくなるからです。

等身大であろうとすれば、当然陰口も口をついて出るでしょう。それによって、人を傷つけ、自分の評判を落とすこともあるでしょう。でも、それが自分の姿です。実質と評判はできるだけ連動していた方が良いのであって、「小さく見せる」ことによって評判が実質より高くなるのは謙虚な生き方ではありません。

そもそも陰口を言いたくなる原因である、恨みや恐れに対処していくことが、本当の謙虚さです。

とはいえ、回復には時間がかかります。陰口は人を傷つけることも確かですから、ここでも「まるで回復した人のように振る舞う」という方法論を使うべき時なのでしょう。つまり、恨みや恐れが手放せた人が陰口を言わないように、回復していない自分も陰口を言わないように務めることです。

ただ、この方法論は対症療法ですから、それを回復だと勘違いすると、陰口を禁じられた自分がまた別の恨みを抱えることになります。やはり恨みや恐れに対処する作業はべつにきちんと取り組む必要があります。

誰かが誰かの陰口を言うのを聞くのは、決して愉快な気分ではありません。けれど、ここで「まるで回復した人のように振る舞」ってしまい、陰口は悪いことなのに、この人は回復していないなぁと心の中で断罪してしまうのは、自分は陰口を言わないから回復したという幻想に囚われているのです。

行動を変えることによって内面が変化したふりをするのではなく、内面を変化させる努力をして結果として行動が変わるプロセスを楽しみましょう。


2008年02月17日(日) NATTO

妻が調子が悪いと言いだして、ご飯のおかずが納豆だけになってしまいました。
僕の父母は納豆を食べない人だったので、子供の頃の僕は納豆を食べたことがありません。納豆は食べませんでしたが、とろろ(長芋のすり下ろし)は嫌になるほど食べました。
結婚してから納豆を食う羽目になったのですが、慣れるまで大変でした。外見にせよ、匂いにせよ、口の中での感触にせよ、どうも納豆は食べ物って感じがしません。やはり腐っていると表現するのが正しいでしょう。
でも、芥子をたっぷり入れて混ぜることを覚えてから、納豆もそれなりに好きになりました。

よく言われることですが、納豆を最初に食べた人は勇気が必要だったことでしょう。ゆでた豆を藁づとにくるんでおいたら、いつの間にか腐っちゃったけど、他に食べるものがないから、餓死するよりましだ・・と思って食べたのでしょうか。

なぜ納豆菌によって腐った大豆を食べてもお腹を壊さないのか、理由は僕には分かりません。おそらく別の菌で腐った豆には、お腹が痛くなる原因物質があり、納豆にはそれが含まれてないのでしょう。では、その原因物質は、なぜお腹を痛くするのか・・・。おそらくは、人間がそう進化した結果なのでしょうが、じゃあなぜそう進化したのか、というふうに突き詰めていくと、結局「わからない」という結論にたどり着いてしまうものだと聞きます。

なぜ塩はしょっぱいのか、説明しろと言われても困ります。
同じように、ステップがなぜアルコホーリクを回復させるのか、と尋ねられても、僕にはさっぱりわかりません。AAを続ければ続けるほど分からなくなってくる気がします。ちょっとくらい何か理屈をつけてみたところで、結局突き詰めれば「わからない」にたどり着くのですから・・。

慣れるまで良さが分からないのは、納豆もステップも同じかもしれません。納豆を食べたことがないのに、納豆の味を論じても仕方ありません。食った者勝ちです。そして食べたことの無い人に、納豆の味を説明しても伝わらないのも当然です。


2008年02月16日(土) 停電とカフェイン

午前中は停電していたので、目が覚めていたのですが布団の中で過ごしていました。パソコンも使えないし、テレビも見られません。こたつもヒーターも使えないので部屋も寒くてしかたないし・・。電子ピアノを弾こうとした子供が「あっ、これも使えない」と気がついて、母屋のアップライト・ピアノを弾きにいってしまいました。

夕方ホームグループのミーティングの後、ファミレスで仲間とお茶。いつも僕はそこで食事をするのですが、今回は軽食とお茶だけにしておきました。そのぶん、ドリンクバーで紅茶のお代わりが多くなりました。

その最中から帰り道に、なんとなくイライラ感が強まり、帰宅後はさらにイライラしてしまいました。このイライラの原因は何なのだろうか・・・と考えていくと、やっぱりカフェインの摂りすぎだろうと思われます。全然眠くならないし。

コーヒーやお茶の中のカフェインも、やっぱり気分を変動させる薬物だと思います。その変動の幅はアルコールほど大きくはないのですが、何も変化しないわけではありません。年月と共に僕の体の中からアルコールの影響が薄れていき、同時に服用しているうつの薬が減って行くにつれ、カフェインの影響も無視できなくなってきています。
(血糖値による気分の変動も相対的に大きくなっています。つまり腹が減ると機嫌が悪いのです^^)。

だからと言って、じゃあコーヒーやお茶を飲まないでおこうとは、ちっとも思いませんが、飲み過ぎには気をつけようと思います。カフェインによる爽快感を強めようと、インスタントコーヒーをコップにたくさん入れ、どろどろのコーヒーを飲んでいる人の話を聞いたことがあります。人間どんな物質でも乱用できるんですね。

アメリカのAA会場には、カフェイン・フリーのコーヒーを用意しているところもあるのだとか。そういうアブスティネンスを求める人がいても不思議じゃありません。それは決して禁欲による行為ではなく、気分の外乱を避ける気持ちによるのでしょう。

まあ、僕も5年後にはコーヒーもお茶もコーラもやめているかも知れません。逆に、酒に舞い戻っている可能性もゼロじゃないわけです。つくづく困った脳みそです。


2008年02月14日(木) AAの中での自分の評判

AAの中での自分の評判。

評判は高いに越したことはないのですが、評判は狙って取りに行けるものでもありません。それは泡みたいなもので、勝手にぶくぶくと膨れたかと思うと、風に吹かれてどこかに飛んで消えたりします。したがって、評判の高い低いで、自己評価が上がったり下がったりするのは、それは「他者の評価への囚われ」です。
せっかく酒への囚われを取り除いてもらったのに、今度は別のものに囚われたのでは何のためのAAだか分かったものではありません。

AAの中で評判を与えてくれるのは「仲間」です。仲間は大切にしなければいけません。けれど、仲間は(どんなに飲まない期間が長い人であっても)同じ病気であり、わがままで身勝手で、不正直で、常に何かを恐れ、恨んでいる存在だということも忘れてはいけません。そう言う意味で、本当に「仲間」なのです。

仲間同士、仲良くできれば一番良いことです。でも、意見が合うとか仲が良いとかの理由で集まっている集団は、ひとつの衝突やいがみ合いで崩れてしまいます。意見が合わなくても、仲が良くできなくても「仲間とともに」「一緒にやる」ことがAAですから、それができている人同士は意見が合わなくても根源的な信頼が生まれます。

自分が相手にどう思われているか気にならない人はいないと思います。けれど、仲間への囚われから自分を解放していかなければ、細々とした衝突の繰り返しや、納得できない自己犠牲の連続によって、だんだんAAが嫌になってしまうでしょう。でも、それは自分が自分をそうし向けているのです。

仲間同士はひとつの原理と目的を共有できればいいのですよ。
仲が良く楽しそうなのが新しい人を「惹きつける」魅力になるのではなく、衝突やいがみ合いを繰り返しながらもひとつにまとまっている集団に「何かの力の存在」を感じてくれることが魅力でしょう。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加