心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

ホーム > 日々雑記 「たったひとつの冴えないやりかた」

たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
もくじ過去へ未来へ


2008年02月16日(土) 停電とカフェイン

午前中は停電していたので、目が覚めていたのですが布団の中で過ごしていました。パソコンも使えないし、テレビも見られません。こたつもヒーターも使えないので部屋も寒くてしかたないし・・。電子ピアノを弾こうとした子供が「あっ、これも使えない」と気がついて、母屋のアップライト・ピアノを弾きにいってしまいました。

夕方ホームグループのミーティングの後、ファミレスで仲間とお茶。いつも僕はそこで食事をするのですが、今回は軽食とお茶だけにしておきました。そのぶん、ドリンクバーで紅茶のお代わりが多くなりました。

その最中から帰り道に、なんとなくイライラ感が強まり、帰宅後はさらにイライラしてしまいました。このイライラの原因は何なのだろうか・・・と考えていくと、やっぱりカフェインの摂りすぎだろうと思われます。全然眠くならないし。

コーヒーやお茶の中のカフェインも、やっぱり気分を変動させる薬物だと思います。その変動の幅はアルコールほど大きくはないのですが、何も変化しないわけではありません。年月と共に僕の体の中からアルコールの影響が薄れていき、同時に服用しているうつの薬が減って行くにつれ、カフェインの影響も無視できなくなってきています。
(血糖値による気分の変動も相対的に大きくなっています。つまり腹が減ると機嫌が悪いのです^^)。

だからと言って、じゃあコーヒーやお茶を飲まないでおこうとは、ちっとも思いませんが、飲み過ぎには気をつけようと思います。カフェインによる爽快感を強めようと、インスタントコーヒーをコップにたくさん入れ、どろどろのコーヒーを飲んでいる人の話を聞いたことがあります。人間どんな物質でも乱用できるんですね。

アメリカのAA会場には、カフェイン・フリーのコーヒーを用意しているところもあるのだとか。そういうアブスティネンスを求める人がいても不思議じゃありません。それは決して禁欲による行為ではなく、気分の外乱を避ける気持ちによるのでしょう。

まあ、僕も5年後にはコーヒーもお茶もコーラもやめているかも知れません。逆に、酒に舞い戻っている可能性もゼロじゃないわけです。つくづく困った脳みそです。


2008年02月14日(木) AAの中での自分の評判

AAの中での自分の評判。

評判は高いに越したことはないのですが、評判は狙って取りに行けるものでもありません。それは泡みたいなもので、勝手にぶくぶくと膨れたかと思うと、風に吹かれてどこかに飛んで消えたりします。したがって、評判の高い低いで、自己評価が上がったり下がったりするのは、それは「他者の評価への囚われ」です。
せっかく酒への囚われを取り除いてもらったのに、今度は別のものに囚われたのでは何のためのAAだか分かったものではありません。

AAの中で評判を与えてくれるのは「仲間」です。仲間は大切にしなければいけません。けれど、仲間は(どんなに飲まない期間が長い人であっても)同じ病気であり、わがままで身勝手で、不正直で、常に何かを恐れ、恨んでいる存在だということも忘れてはいけません。そう言う意味で、本当に「仲間」なのです。

仲間同士、仲良くできれば一番良いことです。でも、意見が合うとか仲が良いとかの理由で集まっている集団は、ひとつの衝突やいがみ合いで崩れてしまいます。意見が合わなくても、仲が良くできなくても「仲間とともに」「一緒にやる」ことがAAですから、それができている人同士は意見が合わなくても根源的な信頼が生まれます。

自分が相手にどう思われているか気にならない人はいないと思います。けれど、仲間への囚われから自分を解放していかなければ、細々とした衝突の繰り返しや、納得できない自己犠牲の連続によって、だんだんAAが嫌になってしまうでしょう。でも、それは自分が自分をそうし向けているのです。

仲間同士はひとつの原理と目的を共有できればいいのですよ。
仲が良く楽しそうなのが新しい人を「惹きつける」魅力になるのではなく、衝突やいがみ合いを繰り返しながらもひとつにまとまっている集団に「何かの力の存在」を感じてくれることが魅力でしょう。


2008年02月13日(水) どう森

毎晩寝る前に、猫とモルモットにエサをあげています。なぜなら、エサをくれと鳴くのでうるさいからです。もう一匹ハムスターがいるのですが、これは鳴きません。なので、エサをあげることはありません。

もともと長女がきちんと世話をするという約束で飼うことにしたので、水もエサもケージの掃除も彼女に任せてあります。時々えさ箱が空になっていることがあり、何日もエサをやり忘れているらしいので、たびたび注意をしていました。

が・・、先日そのモルモットが死んでしまいました。餓死でしょう。「だから言わんこっちゃない」と怒りが湧きましたが、鳴いている彼女を見れば、十分自分のしたことの意味を感じているようだったので、あらためて僕が何かを言う必要は感じませんでした。

さて、我が家では一台のDSを姉妹で共有させています。二台買う金がないという理由もありますが、遊ぶ順番を待つことを憶えるのも大切だと思ったからです。『どうぶつの森』というゲームでは、複数のプレーヤーが同じ世界(島)で遊ぶことができます。だから、おねーちゃんと妹は「どう森」のなかで同じ家を共有し、その家のローンを共同して返済しています。

が、ある時二人でドンキー・コングを交代でプレイしている時、おねーちゃんが「ブチッ」と切れてしまいました。理由は妹には倒せるボスキャラが、おねーちゃんには倒せないからです。それも道理で、妹のほうがはるかにDSで遊んでいる時間が長いのです。おねーちゃんのほうは、妹より宿題も多いし、友達と遊んだり、ピアノを練習したりしなくてはなりません。一方妹のほうは友達いない少女なので、DSに集中できます。スキルに差が出るのも当然でしょう。だいたい「どう森」の家のローンだって、ほとんど妹のほうが返しているのです。

で、ぶち切れちゃったおねーちゃんが、「どう森」の妹のキャラクターを削除してしまいました。妹の使っていた家具はすべて家の外に押し出されていたそうです。当然ケンカになり、原状回復の試みもされたようですが、ゲームの中といえども覆水盆に返らずであります。

そんなわけで、子供は子供なりにいろいろあって大変なんであります。


2008年02月12日(火) 神さまの種類(掲示板から)

昨年、ソーバー数ヶ月のアメリカ人AAメンバーが2週間ほど長野に滞在し、僕のホームグループのミーティングに出ていました(当然彼は日本語が分からないのですが)。彼のスポンサーは大工さんで、ビル・Wの家の改装の時に床を張り替えたのだそうです。そして古い床材をもらってきて、その切れ端をスポンシーにあげました。
日本に来たそのAAメンバーは、ズボンのポケットから切れ端を出して見せ、「これが俺のハイヤーパワーだ」と言っていました。

もちろん彼の「神の概念」は変わっていくのでしょうが、とりあえず最初は信じられるものなら何でも良いのです。旅を始めるには最初の一歩が必要で、いきなり目的地に達することはできません。

ステップ2は「健康な心に戻してくれると信じるようになった」とあります。決して完全な信仰を持てとは言っていません。何かが「健康な心に戻してくれる」と信じるようになればいいのです。実はステップ2の難しいところは、神の問題ではなく、自分の心が健康(正気)かどうかという自問です。

ともかく、ステップ1の「アルコールに対する無力」と「自分の人生が手に負えない」ということがしっかり認識できていれば、ステップ2で「力のある誰かに何とかして欲しい」と思うでしょうし、そうすればステップ3で「じゃあ、言われた手順でやってみようか」という決心もつくのです。

飲んでいた頃のアル中さんにとっては「酒」が「自分より偉大な力」です。みんな飲んできた酒の種類は違っていたかも知れませんが、アルコールが入っているという本質はどれも変わりがありません。今度は助かる時にも、神さまの種類についてこだわりがあるかもしれませんが、好きな酒を飲んできたように、神さまだって好きずきで良いのです。

ステップ1がきちんとできていれば、神さまの種類なんてなんでもいいから「助けてくれ」という気持ちになるでしょう。神などという言葉が出てこないステップ1をしっかりやることで、神に関するこだわりからは自由になれますよ。


2008年02月11日(月) 違い

去年の10月から、ほぼ月一回ペースでAA関係で上京していたのですが、それもこの週末で一段落です。しばらくはAAイベントにも行かずに目の前のことをこなしていこうと思います。
この3連休はまとまった睡眠時間が取れず、今日こそゆっくり寝たかったのですが、子供の友達が遊びに来ていたので布団をひいて寝ているわけにもいかず、パソコンの前で半覚半睡で過ごしていました。

「経験の話のところでは、それぞれが自分の言葉、自分の見方で、いかに神との関係を打ち立てたかを述べている」第2章
「この本の個人の経験の部では、それぞれの語り手が、自分より偉大な力にどう取り組み、どう理解していったかをさまざまに書いている」第4章

かなり以前のことになりますが、病院メッセージに行って自分の順番が来て話をしたときに、「AAはあなたに何かを信じることを要求しません。神さまがお酒を止めてくれるとは信じていないメンバーもたくさんいます」という話をしました。いつもAAメンバーが話を終えた後は、時間の許す限り患者さんの話を聞くのですが、患者さんの一人が、こんなことをおっしゃいました。
「せっかくAAには神さまがあるのだから、AAは神さまを大事にして欲しい。信じなくてもいいなんて言わないで欲しい」
その人は年配の人だったので、ひょっとした断酒会の人だったのかも知れませんし、単なるひがみっぽい人だったのかも知れません。でも、僕はその言葉に衝撃を受け、深く感じるものがありました。

酒をやめたいという人が集まれば、そこに酒をやめる力が生まれる・・という理屈で集まるのであれば、ステップや神さまは不要です。この世の中には断酒会という素晴らしい組織があります。AAと断酒会を比べれば、確かに顕名・匿名、会費制・献金性、組織化・非組織化などの違いはありますが、それは表面に現れた違いに過ぎないと思います。本質的な違いは、スピリチュアルか、世俗であるかです。そこをあいまいにしてしまえば、AAがAAである意味が消えてしまいます。

霊性を大事にしないのなら、AAという看板を下ろして無名断酒会とでも名前を変えたほうがいいのです。いや、そんなことをすると「経験に始まり経験に終わる」という大原則を守れてないから断酒会という名前を使うな、と怒られてしまうかも知れません。あっちはあっちで厳しいのです。中途半端は何の役にも立たない・・・。


2008年02月09日(土) 餃子を作る人

家路のニュース検索に、餃子の中毒問題ばかりひっかかる状態が続いていました。
騒ぎをさらに加熱する日本のニュースメディアに業を煮やしたのか、中国の官僚が「日本はもう少しメディアを規制したらどうか」と注文をつけた、とこれまたニュースになっていました。

民主主義が機能するためには、報道メディアの存在が欠かせません。それはなるべく権力の受けないよう独立していた方が良いわけです。そうしておけばメディアは、統治機構とは独立した一種の権力を帯びます。とはいえ、報道メディアも単なる営利企業に過ぎなかったりするわけですが・・・、ともかく「独立性」というものは必要です。

アメリカでAAが始まってしばらくすると、ニューヨークに本部のオフィス(GSO)が作られ、そこへグループの献金が集まる仕組みが始まりました。AAのオフィスはサービス(奉仕)の機関であって、統治や支配をする存在ではありません。しかし、それにはある種の権威がありますし、金の集まるところに力も生まれるのは当然です。

GSOを作っていく過程とは別に、やはりニューヨーク在住のAAメンバーが「AAの雑誌」を作り始めました。これが AA Grapevine です。それが第二次大戦と同じ時期で、従軍する兵士たちの依存症問題に手を焼いていた軍が、対策としてこの雑誌を広く配ったのをきっかけとして、グレープバインはAAの雑誌としての地位を築いていきました。

オフィスがメンバーからの献金とビッグブックの売り上げで維持されたのに対し、グレープバインはその雑誌の売り上げで維持されていきました。今でもアメリカ・カナダのサービス機関は、GSOとグレープバインの二つに分かれています。

グレープバインは、AAメンバーからの投稿記事で成り立っています。どんな記事を載せるかという編集方針には、評議会と言えども(そしてオフィスも)口を挟めない仕組みになっています。決して、グレープバインがオフィスの権力(?)を監視するための報道メディアになっているわけではありません。けれど、AAメンバーの声が直接反映され、意見が広められる存在として、オフィスと独立したメディアを持つのは「民主主義の当然の知恵」でした。

日本にも「BOX-916」というAAの雑誌があります。発送やら集金やらの業務はオフィス(JSO)が行っていますが、編集部(編集委員会)はこれとは独立してボランティアのAAメンバーがやっています。そしてその編集権は「評議会といへども犯すべからず」という取り決めがあります。
輪番制とは言え一度引き受ければ2〜3年は毎月編集作業があるわけで、ボランティアの人たちは本当に大変です。だからそれは有給のオフィススタッフがやるべきだ、という意見もでています。しかし「独立した編集権」がAAの健全な民主主義の仕組みの一部であるからには、その編集権限をJSOスタッフや常任理事の人に任せるわけにはいかないのです。

まあ、民主主義なんて気にしない人達もいるみたいですが。餃子を食べながらそんなことを思ったわけです。


2008年02月08日(金) ベティ・フォードの自伝に学ぶ(その1)

「人は自分でできる範囲のことに直面し、明らかにされたことに対処できるようになるにつれ、より多くのことが明らかにされていきます」
 〜『依存症から回復した大統領夫人』/ベティ・フォード

初めてAAミーティングに行った人の感想はたいてい「みんなが何の話をしているのかさっぱり理解できなかった」というものです。僕も初めてのミーティングでは、なんだか皆が大げさな話をしているようにしか聞こえませんでした。その部屋にいる人の大半はアルコール中毒者本人らしい、という感想だけを持って帰りました。

僕は最初の頃、ハンドブック第3章の「アルコール中毒者を正常な酒飲みにするようなものはない」という言葉に(内心)猛反発していました。二度と正常に酒を飲めない、という事実を受け止めることができずにいたのです。だから、その段階で「無力」だとか「狂気」だとか「ハイヤー・パワー」なんて聞かされても、受け止め得ない言葉は僕の中を素通りしていくだけでした。
その時点で、僕に分かったことは、ともかく毎週その会場に行く必要だけでした。

例えば、パンツの中にウ○コを漏らしたという話を聞いても、僕の心には何も浮かんできませんでした。自分が過去に同じことをしている事実に直面できなければ、思い出さずにおくしかありません。人の心はそうやって自分を守っているのでしょう。

僕は自分の自由な意志で酒を飲んできたと思っていましたから、酔って布団から起きられない僕を上から母が見下ろしている場面ですら、思い出すまいと努めていました。

自分は(飲んでいても、いなくても)人を傷つけ続けてきた、という事実に直面できるようになるまでは、ステップ4の経験談を聞いても、物好きな人の不思議な修行の話にしか聞こえなかったのです。

あれからずいぶん時間も経って、多少はいろんな事を理解し、事実に直面できている気がしているものの、おそらく「対処できないから見ないふり」していることは、まだまだたくさんあるのでしょう。ともかく「より多くのことが明らかにされる」まで、続けていくしかないのでしょう。


もくじ過去へ未来へ

by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


My追加