心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年02月07日(木) How to お願い

病院メッセージに行ったのですが、患者さんが誰も来なかったので、ホームグループの仲間4人で1時間雑談をしました。

さて、神さまに「あれやってください。これやってください」とお願いすることは、悪い信仰なのでしょうか? いえ、お願いをしてかまわないと思います。

たとえば、今度の学期末の算数テストで100点満点を取ったらDSを買ってくれる、とお父さんが約束したとします。そこで「どうかテストで100点を取れますように」と神さまにお願いするとします。でも、お願いやらお祈りさえすれば、100点が取れると思っている人は滅多にいないでしょう。

だから自分でも努力します。この場合には算数の勉強をするでしょう。でも、努力すればすべての願いが叶うと思っている人も滅多にいません。この世の中は自分の思うようにはならない、という現実は子供の頃から突きつけられるのです。テストに解けない問題が出ちゃうこともあるし、テスト当日に風邪を引く不運もあるかもしれません。
人は時に「すべては自分の努力次第だ」という幻想を持ってしまうこともありますが、いずれ大きな挫折や、あるいはうつ病などによって、現実的な考えへと修正を強いられる仕組みになっています。だってその考えに固執すると、失敗の原因はすべて自分の努力不足に帰され、もっと頑張らなくてはという悪循環から抜けられなくなり、生きることが苦しくなりますから。

努力という「自分の担当部分」と、努力ではどうにもならない部分(つまり神さま担当部分)が両方揃ったときに、うまく望みが叶う仕組みです。担当部分の比率がどうなっているのか僕にはよく分かりませんが。

お願いをするときには、自分も努力をすること、それと結果が悪くても神さまを恨まないこと、この二つの約束を一緒にすることが大切だと教えられました。

お酒をやめようと努力しても、ふと気が抜けて飲んでしまうことはあります。我慢の断酒には限界があります。だから再飲酒すると、つぎはもっと努力(我慢)してみるのですが、それでも飲むときには飲んでしまいます。失敗を繰り返すうちに、酒をやめられる自信が失われ、問題の否認(やめる必要はない)とか、責任転嫁(飲むのは誰かのせい)とかが始まってしまいます。
断酒という大きな責任を、すべて自分の肩に背負ってしまう(つまりすべてが「自分の担当部分」だと思ってしまう)のは大変です。重い荷物は神さまに預けた方が良いのです。


2008年02月06日(水) 不可收拾

ステップ1:私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。

歩驟1.我們承認我們無能為力對付酒精,而我們的生活已變得不可收拾。

「酒精」に対して無能為力であり、生活が收拾不可になっていたことを、承認。と言う感じでしょうか。中国語繁字体のステップ1です。

酒を飲んでいても、いなくても「不可收拾」な日々であります。


2008年02月04日(月) 雪かきならず

よし、今日は会社の駐車場の雪かきをしてやるぜ! と気合いを入れて、長靴や手袋を持ち、防寒のために服の中にラッシュガードとスパッツも着て出かけたのですが、なかなか職場までたどり着けませんでした。

もう朝も遅い時間なのに、なぜ市内の国道が大渋滞しているのを不思議に思いながら高速の入り口まで行ったのですが、「事故通行止め復旧見込みなし」と言われて追い返されてしまいました。職場に電話してみたものの、誰もでません。雪のせいでまだ誰も来ていないか、みんな雪かきに出払っているのか・・・。

渋滞を避ける道を選んでいるうちに、お腹が痛くなってきました。田んぼの真ん中にあるデパートでトイレを借り、下道で行くのは無理と諦めて、そこで朝ご飯を食べながら事故処理が終わるのを待つことにしました。結局職場に着いたのはお昼過ぎ。雪かきはきれいに終わっていました。

さて、某掲示板で「新婚早々ダンナのアル中に悩まされる」という話を読んだりすると、身につまされることだったりするのです。どうしてあの時に妻が僕と別れなかったかと言えば、別れるのもそれなりに大変だったからなのでしょう。

「昔は断酒会でも、最後までダンナを支えるのが使命という感じの奥さんが多かったのが、最近では旦那さんが再飲酒すると、さっさと諦めて離婚しちゃう人が増えてきて」という話を聞いたのは、もう何年前だったか。

以前のAAホームグループに、旦那さんのアル中問題のために、奥さんが断続的に1年ほど通ってこられたことがありました。ところが旦那さんはいっこうに酒をやめる気配がないし、AAの僕らは「いかに酒がやめられなかったか」という話ばかりしていたのです。ある時その奥さんが、「お酒をやめることの難しさが分かりました。夫はいつかやめてくれるかもしれませんが、それまで彼の人生に付き合うつもりはありません。離婚することに決めました。だから、お医者さんも、AAも、もう用はありません」と言われて、それっきり来なくなりました。

僕ら一同「まさか、そんな結論になるとは」と呆然としたのですが、考えてみれば一番無難な選択なのかも知れません。

飲んでいようが、飲んでいまいが、アル中の旦那と暮らすのは大変なのです。いや、ダンナが酒をやめて、自助グループに通い、たとえステップをやったからって、その大変さが無くなるわけじゃありません。酒をやめた途端に以前の良い性格が戻るわけじゃありませんから。

その大変さにつきあえる能力を持った奥さんでなければ務まらないのが「アル中の妻」なんですかね。年間の結婚数が七十数万件、離婚数が二十数万件、とテレビでやっていました。「あの時あなたがお酒をやめなかったら、こうして夫婦でいることもなかったのに」と言われますが、実現しなかった選択肢と現状を比較されても困るよ。


2008年02月03日(日) 原因探し

統合失調症の家族の人にありがちな考えとして、病気になった原因を考えるのだそうです。この病気は破瓜(はか)の病とも言われ、思春期から20代にかけて発病することが多いのですが、その頃は人生の変動期でもあります。例えば、受験や就職に失敗した、失恋をした、友だち関係や金のトラブルがあった、というようなつまずきを経験する時期でもあります。そして、病気になった後で、受験の失敗や失恋のストレスが病気の原因だったに違いない、という考え方をします。

この考えには、じゃあその原因を取り除けば、病気も治るに違いないという願望が含まれています。もう一度本人が努力して受験や就職に成功したり、恋人や友だちに返ってきてもらえば、悩みも病気も消えてくれるに違いない、という願望です。
実際には、すでに病気が始まっていたからこそのトラブルだったかもしれず、因果関係が逆と言うこともあり得ます。

神経症みたいな心因性の病気では、原因を取り除けばけろりと治ることもあるのだそうです。うつ病でも、例えば会社を辞めたら治ったという話も聞きましたが、全般にはそう単純ではないようです。

アルコール依存症の人の話でも、「あれが原因だったに違いない」という病気の理由探しをする人がいっぱいいます。昇進に伴う仕事のストレスだったり、胃の手術だったり、経済的苦境だったり、家族内のトラブルだったり・・・。

「あれさえなければ、俺の人生はこうでなかったに違いない」

と思うのは勝手ですが、何の解決にもなりません。僕もずいぶんそういう考え方をしてきましたけれど、より飲みたくなるだけでした。もしそれがなかったとしても、別のことがきっかけになったことでしょう。

原因探しより、どうやって治療するかを考えた方がいいわけです。


2008年02月02日(土) 信じる力

人の恋路を邪魔する奴は、犬に喰われてと言われます。いやいやごめんなさい。「配慮の欠如」にチェック印です。月夜の晩ばかりではないので、野犬の群れに襲われないように気をつけますね。

さて、信仰心を持たない人のほうが珍しいと思います。

ついこの前のお正月に初詣に行った人は、おそらくお賽銭を投げて、なにかお願いをしたでしょう。家内安全とか、健康とか、お金とか、恋人ができますようにとか・・・。

で、でですよ。それは誰に向かってお願いしたのですか?
まさか、お願いが虚無の空間に吸い込まれて消えていくとは思っていませんよね。どこかに、あなたの願い事を聞いてくれる存在がいる、いるかもしれないと思うからこそ、お参りをするんじゃないでしょうか。

その存在(たぶん神様)は、あなたの健康運、金運、恋愛運その他を支配できる存在なんですよね。そういう力を持ってなければお願いしても仕方ないですから。それはあなたより「大きな力」、ハイヤー・パワーではありませんか? 信じる能力がないとか、信仰を持っていない人のほうが稀有なんです。自分のこれは信仰ではないと主張する人は、何か特定の宗教の信仰とは違うと言っているに過ぎません。

日本を訪れる外国人から見れば、神社に行くのも宗教にしか見えないそうです。知り合いの牧師さんの一家は神社に初詣には行かないそうです。結婚する二人がどんなに努力しても、それだけでは幸せになれるとは限らない、と思うからこそ、神様の前で三々九度をするのでしょう。

AAでは「自分で理解した」神を信じなさいと言います。それは信じられるものを信じることです。せっかく信じるのだから立派な信仰を持とうと思うと、信じることに失敗します。だって信じてないものを信じようとするから無理があるのです。

確かに、何かを叶えてくださいとお願いするだけの信仰心は、ちょっと子供じみている感じがするかもしれません。でも、それを出発点にして、信じる心を成長させるしかないでしょう。自分が今いるところから旅に出るのです。

自分には神様を信じる能力がある、と分かるだけで、とりあえず最初はそれでいいんじゃないでしょうか。現に信じているんだし。


2008年02月01日(金) 読み比べ

ひさしぶりに大型更新をしました。
http://www.ieji.org/archive/warning-signals.html

今のところ最後の入院になっている県立K病院のケースワーカー室には、AAの本が何冊か置いてありました。そこで生まれて初めてビッグブックを見たのです。そのほか、AAのパンフレット類も何冊かありました。それはずいぶん古いもののようでした。

その入院中に「AAをやるんだ」という決意を固めたものの、病院からAAミーティングに行けるのは水曜と土曜日だけしかありません。だから、ワーカー室のAAの本を読んでみることにしました。・・・が、それが全然頭に入ってこなかったのです。
すでにアルコールで記憶力とか、集中力とかがぶっ壊れていたのに違いありません。仕方ないので退院後にゆっくり読めるようにと、AAのオフィスに初めて電話して本を注文しました。その時に、もう売っていない冊子があるということを知りました。もとがオタッキーですから、絶版とか入手不能と言われると、余計に欲しくなります。とはいえ、ワーカー室のAAの本を持ち去るのは、本屋で万引きする以上に悪いことのように思われました(比較の問題ではない?)。

というわけで、病院の事務室で文句を言われながら何十枚もコピーを取り、ホッチキスで製本したのであります。今回の更新ネタもその一つです。

ところで、ビッグブックの旧訳と、新訳を読み比べてみました。
比べてみると、新しい訳はとてもいい訳ですね。分かりやすい。旧訳も悪い訳ではないのですが、「われら不可知論者」「使用者たちに」「ボブ博士の悪夢」あたりは他の章に比べてどうも質が悪く感じられます。章ごとに訳すときの気合いのムラがあったんじゃないか、とか勘ぐってしまいます。3章、5章は名調子なのにね。
新しい訳は、前半にちょっと硬くぎこちない雰囲気があるのですが、後ろに行くにつれて丸さが感じられます。この柔らかさが前半にももっとあったらいいのに・・と思うのは贅沢でしょうか。

ちなみに、病院のケースワーカー室のAA本は、個人が寄贈したらしくその方の名前が書いてありました。まだその本があるか聞いてみたのですが、もう処分されてしまったそうです。


2008年01月30日(水) 愛に時間を

というタイトルのハインラインの小説がありました。

愛って何だろう? という疑問の答えは持っていませんが、愛に時間は必要だろうと思います。インスタントな愛ってのはないでしょう。

愛があって一緒にいられれば最高なんでしょうけれど、恋人同士でも家族でもいつも一緒というわけにはいきません。自分の生活を放り出して、恋人との電話に熱中するのが愛だというなら、確かにそうでしょう。でもそれなら、おとうさんが満員電車に揺られて毎日同じ職場へ行くのも、おかあさんがまた汚れる皿や洗濯物を洗い、また汚れる部屋を掃除するのも愛なのでありましょう。だってそのぶん自分の時間を使っているのですから。
自分の時間を相手に分け与えるのが愛なのかもしれません。

「今忙しいから後で」と言われて、ずっとほったらかしにされると「愛されていないのかな」と不安になったりします。あなたの24時間のなかから、ちょっとだけ僕に割いてください・・て感じです。

殺人を犯した少年に、被害者の遺族が多額の損害賠償をしたとき、その意味をこんなふうに説明した人がいました。殺された人の人生の時間は永遠に失われ、殺した少年といえどもそれを「返す」ことはできません。また、少年は永遠に少年院の中に入っているわけではありません。けれど少年は少しずつお金を遺族に渡していくのを長く続けていくしょう。お金を稼ぐには時間が必要です。お金を渡す少年の行為は、自分の人生の一部を切り取って、遺族に渡していることにつながるのです、と。
なんだか「強制された愛」という言葉が浮かんでしまいますが・・・。

AAミーティングに顔を出すのも仲間に対する愛だろうし、スポンシーの電話を受けるのも愛でしょう。愛は時間を要求するのですから。

というわけで、「ステップ4の表なんて3つに分けなくても、ひとつにすればいいじゃん」という理屈をこねまわして、仲間との電話を1時間以上引き伸ばしてしまいました。いやー、愛されているんですね、僕って。え? 愛の強制だって?

やっぱり表は3つ要るんでしょう。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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