心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2008年02月04日(月) 雪かきならず

よし、今日は会社の駐車場の雪かきをしてやるぜ! と気合いを入れて、長靴や手袋を持ち、防寒のために服の中にラッシュガードとスパッツも着て出かけたのですが、なかなか職場までたどり着けませんでした。

もう朝も遅い時間なのに、なぜ市内の国道が大渋滞しているのを不思議に思いながら高速の入り口まで行ったのですが、「事故通行止め復旧見込みなし」と言われて追い返されてしまいました。職場に電話してみたものの、誰もでません。雪のせいでまだ誰も来ていないか、みんな雪かきに出払っているのか・・・。

渋滞を避ける道を選んでいるうちに、お腹が痛くなってきました。田んぼの真ん中にあるデパートでトイレを借り、下道で行くのは無理と諦めて、そこで朝ご飯を食べながら事故処理が終わるのを待つことにしました。結局職場に着いたのはお昼過ぎ。雪かきはきれいに終わっていました。

さて、某掲示板で「新婚早々ダンナのアル中に悩まされる」という話を読んだりすると、身につまされることだったりするのです。どうしてあの時に妻が僕と別れなかったかと言えば、別れるのもそれなりに大変だったからなのでしょう。

「昔は断酒会でも、最後までダンナを支えるのが使命という感じの奥さんが多かったのが、最近では旦那さんが再飲酒すると、さっさと諦めて離婚しちゃう人が増えてきて」という話を聞いたのは、もう何年前だったか。

以前のAAホームグループに、旦那さんのアル中問題のために、奥さんが断続的に1年ほど通ってこられたことがありました。ところが旦那さんはいっこうに酒をやめる気配がないし、AAの僕らは「いかに酒がやめられなかったか」という話ばかりしていたのです。ある時その奥さんが、「お酒をやめることの難しさが分かりました。夫はいつかやめてくれるかもしれませんが、それまで彼の人生に付き合うつもりはありません。離婚することに決めました。だから、お医者さんも、AAも、もう用はありません」と言われて、それっきり来なくなりました。

僕ら一同「まさか、そんな結論になるとは」と呆然としたのですが、考えてみれば一番無難な選択なのかも知れません。

飲んでいようが、飲んでいまいが、アル中の旦那と暮らすのは大変なのです。いや、ダンナが酒をやめて、自助グループに通い、たとえステップをやったからって、その大変さが無くなるわけじゃありません。酒をやめた途端に以前の良い性格が戻るわけじゃありませんから。

その大変さにつきあえる能力を持った奥さんでなければ務まらないのが「アル中の妻」なんですかね。年間の結婚数が七十数万件、離婚数が二十数万件、とテレビでやっていました。「あの時あなたがお酒をやめなかったら、こうして夫婦でいることもなかったのに」と言われますが、実現しなかった選択肢と現状を比較されても困るよ。


2008年02月03日(日) 原因探し

統合失調症の家族の人にありがちな考えとして、病気になった原因を考えるのだそうです。この病気は破瓜(はか)の病とも言われ、思春期から20代にかけて発病することが多いのですが、その頃は人生の変動期でもあります。例えば、受験や就職に失敗した、失恋をした、友だち関係や金のトラブルがあった、というようなつまずきを経験する時期でもあります。そして、病気になった後で、受験の失敗や失恋のストレスが病気の原因だったに違いない、という考え方をします。

この考えには、じゃあその原因を取り除けば、病気も治るに違いないという願望が含まれています。もう一度本人が努力して受験や就職に成功したり、恋人や友だちに返ってきてもらえば、悩みも病気も消えてくれるに違いない、という願望です。
実際には、すでに病気が始まっていたからこそのトラブルだったかもしれず、因果関係が逆と言うこともあり得ます。

神経症みたいな心因性の病気では、原因を取り除けばけろりと治ることもあるのだそうです。うつ病でも、例えば会社を辞めたら治ったという話も聞きましたが、全般にはそう単純ではないようです。

アルコール依存症の人の話でも、「あれが原因だったに違いない」という病気の理由探しをする人がいっぱいいます。昇進に伴う仕事のストレスだったり、胃の手術だったり、経済的苦境だったり、家族内のトラブルだったり・・・。

「あれさえなければ、俺の人生はこうでなかったに違いない」

と思うのは勝手ですが、何の解決にもなりません。僕もずいぶんそういう考え方をしてきましたけれど、より飲みたくなるだけでした。もしそれがなかったとしても、別のことがきっかけになったことでしょう。

原因探しより、どうやって治療するかを考えた方がいいわけです。


2008年02月02日(土) 信じる力

人の恋路を邪魔する奴は、犬に喰われてと言われます。いやいやごめんなさい。「配慮の欠如」にチェック印です。月夜の晩ばかりではないので、野犬の群れに襲われないように気をつけますね。

さて、信仰心を持たない人のほうが珍しいと思います。

ついこの前のお正月に初詣に行った人は、おそらくお賽銭を投げて、なにかお願いをしたでしょう。家内安全とか、健康とか、お金とか、恋人ができますようにとか・・・。

で、でですよ。それは誰に向かってお願いしたのですか?
まさか、お願いが虚無の空間に吸い込まれて消えていくとは思っていませんよね。どこかに、あなたの願い事を聞いてくれる存在がいる、いるかもしれないと思うからこそ、お参りをするんじゃないでしょうか。

その存在(たぶん神様)は、あなたの健康運、金運、恋愛運その他を支配できる存在なんですよね。そういう力を持ってなければお願いしても仕方ないですから。それはあなたより「大きな力」、ハイヤー・パワーではありませんか? 信じる能力がないとか、信仰を持っていない人のほうが稀有なんです。自分のこれは信仰ではないと主張する人は、何か特定の宗教の信仰とは違うと言っているに過ぎません。

日本を訪れる外国人から見れば、神社に行くのも宗教にしか見えないそうです。知り合いの牧師さんの一家は神社に初詣には行かないそうです。結婚する二人がどんなに努力しても、それだけでは幸せになれるとは限らない、と思うからこそ、神様の前で三々九度をするのでしょう。

AAでは「自分で理解した」神を信じなさいと言います。それは信じられるものを信じることです。せっかく信じるのだから立派な信仰を持とうと思うと、信じることに失敗します。だって信じてないものを信じようとするから無理があるのです。

確かに、何かを叶えてくださいとお願いするだけの信仰心は、ちょっと子供じみている感じがするかもしれません。でも、それを出発点にして、信じる心を成長させるしかないでしょう。自分が今いるところから旅に出るのです。

自分には神様を信じる能力がある、と分かるだけで、とりあえず最初はそれでいいんじゃないでしょうか。現に信じているんだし。


2008年02月01日(金) 読み比べ

ひさしぶりに大型更新をしました。
http://www.ieji.org/archive/warning-signals.html

今のところ最後の入院になっている県立K病院のケースワーカー室には、AAの本が何冊か置いてありました。そこで生まれて初めてビッグブックを見たのです。そのほか、AAのパンフレット類も何冊かありました。それはずいぶん古いもののようでした。

その入院中に「AAをやるんだ」という決意を固めたものの、病院からAAミーティングに行けるのは水曜と土曜日だけしかありません。だから、ワーカー室のAAの本を読んでみることにしました。・・・が、それが全然頭に入ってこなかったのです。
すでにアルコールで記憶力とか、集中力とかがぶっ壊れていたのに違いありません。仕方ないので退院後にゆっくり読めるようにと、AAのオフィスに初めて電話して本を注文しました。その時に、もう売っていない冊子があるということを知りました。もとがオタッキーですから、絶版とか入手不能と言われると、余計に欲しくなります。とはいえ、ワーカー室のAAの本を持ち去るのは、本屋で万引きする以上に悪いことのように思われました(比較の問題ではない?)。

というわけで、病院の事務室で文句を言われながら何十枚もコピーを取り、ホッチキスで製本したのであります。今回の更新ネタもその一つです。

ところで、ビッグブックの旧訳と、新訳を読み比べてみました。
比べてみると、新しい訳はとてもいい訳ですね。分かりやすい。旧訳も悪い訳ではないのですが、「われら不可知論者」「使用者たちに」「ボブ博士の悪夢」あたりは他の章に比べてどうも質が悪く感じられます。章ごとに訳すときの気合いのムラがあったんじゃないか、とか勘ぐってしまいます。3章、5章は名調子なのにね。
新しい訳は、前半にちょっと硬くぎこちない雰囲気があるのですが、後ろに行くにつれて丸さが感じられます。この柔らかさが前半にももっとあったらいいのに・・と思うのは贅沢でしょうか。

ちなみに、病院のケースワーカー室のAA本は、個人が寄贈したらしくその方の名前が書いてありました。まだその本があるか聞いてみたのですが、もう処分されてしまったそうです。


2008年01月30日(水) 愛に時間を

というタイトルのハインラインの小説がありました。

愛って何だろう? という疑問の答えは持っていませんが、愛に時間は必要だろうと思います。インスタントな愛ってのはないでしょう。

愛があって一緒にいられれば最高なんでしょうけれど、恋人同士でも家族でもいつも一緒というわけにはいきません。自分の生活を放り出して、恋人との電話に熱中するのが愛だというなら、確かにそうでしょう。でもそれなら、おとうさんが満員電車に揺られて毎日同じ職場へ行くのも、おかあさんがまた汚れる皿や洗濯物を洗い、また汚れる部屋を掃除するのも愛なのでありましょう。だってそのぶん自分の時間を使っているのですから。
自分の時間を相手に分け与えるのが愛なのかもしれません。

「今忙しいから後で」と言われて、ずっとほったらかしにされると「愛されていないのかな」と不安になったりします。あなたの24時間のなかから、ちょっとだけ僕に割いてください・・て感じです。

殺人を犯した少年に、被害者の遺族が多額の損害賠償をしたとき、その意味をこんなふうに説明した人がいました。殺された人の人生の時間は永遠に失われ、殺した少年といえどもそれを「返す」ことはできません。また、少年は永遠に少年院の中に入っているわけではありません。けれど少年は少しずつお金を遺族に渡していくのを長く続けていくしょう。お金を稼ぐには時間が必要です。お金を渡す少年の行為は、自分の人生の一部を切り取って、遺族に渡していることにつながるのです、と。
なんだか「強制された愛」という言葉が浮かんでしまいますが・・・。

AAミーティングに顔を出すのも仲間に対する愛だろうし、スポンシーの電話を受けるのも愛でしょう。愛は時間を要求するのですから。

というわけで、「ステップ4の表なんて3つに分けなくても、ひとつにすればいいじゃん」という理屈をこねまわして、仲間との電話を1時間以上引き伸ばしてしまいました。いやー、愛されているんですね、僕って。え? 愛の強制だって?

やっぱり表は3つ要るんでしょう。


2008年01月29日(火) 金銭的埋め合わせ

3千円を封筒に入れて送りました。

ステップ9は「埋め合わせ」です。元々のオックスフォード・グループでは、この言葉は「償い」あるいは「賠償」だったのですが、AAでは「埋め合わせ」という言葉に代えてあります。それは賠償などという言葉を聞いただけで、アル中さんはメゲてしまい、ステップ9どころかステップ全体を避けてしまうからだそうです。ビル・Wはこうしたアル中心理を理解し、別の言葉に置き換えるのがうまかったのでしょう。

埋め合わせには大きく分けてふたつあると言われます。ひとつは謝罪、もうひとつは物質的埋め合わせ。

相手を傷つけたこと(迷惑をかけたこと)を詫びるのが謝罪です。このときに依存症という病気の説明をすることは大事だと思います。飲んでいた頃の僕らの行動は、いつも不可解でした。人は相手の不可解な行動(狂気)に触れると、人間そのものについての信頼を失って傷つくのです。相手が依存症のことを知っていれば、知らせることは不要でしょうし、言い訳になってしまうなら謝罪だけしたほうがいいと思います。
「申し訳ありませんでした」とか「ごめんなさい」とか、最初はなかなか言えないものですが、だんだん慣れてくるものです。生きていれば人を傷つけ続けるもの、埋め合わせも続いていくものですから、慣れます。それを回復というのかもしれません。

借りたもの(奪ったもの)は返すのが原則です。
お金を返そうと思う時に、借りていた全額耳をそろえて返したいと思うものです。つまり格好良く返したい。格好良く埋め合わせしたい=格好良くステップをやりたい、これは「自分の古い考え」ってやつですね。僕はこのせいでずいぶん先延ばしをしました。
少額ずつでもこつこつ返せばいいのだと教えられて、やっと始められました。
で、毎月一万円ずつ送る決心をしたのですが、我が家でも諭吉君は絶滅危惧種ですから、「申し訳ないけど今月は送れない」という月が何ヶ月も続いてしまいました。しかし、ふと思ったのです。最低一万円ぐらいでないと「恥ずかしい」と思ってしまった僕は、やっぱり格好良く埋め合わせをしたいという虚栄心にとらわれていただけではないかと。

貯金ができるぐらい生活に余裕がある時は、金を返す気持ちはさらに減少するのも体験してきました。


2008年01月28日(月) ブラックアウト

ブラックアウトと言う言葉は、もともとは世界大戦中に空襲から町を守るために行った灯火管制が語源だそうです。きっと真っ暗になるという意味だったのでしょう。だから、劇や映画の場面転換時に暗くなるのもブラックアウトと呼ばれます。暗くなるのはなにも光だけじゃなく、飛行機乗りが強すぎる加速度を下向きに受けると、血液が下半身に集まってしまい目の前が真っ暗になるのもブラックアウトと呼ぶのだそうです。

アルコール性ブラックアウトというのは、酒を飲んだ事による一時的な記憶喪失(健忘)です。飲み過ぎた翌朝に、前の晩のことを憶えていなくて青ざめたことがありませんか?

みんなで宴会をしたときに、飲み過ぎてつぶれてしまい、机に突っ伏して寝ているヤツがいます。こういう人が翌朝になって、前の晩のことを途中までしか憶えていないのは当然です。だって途中から意識を失って(寝て)いたのですから、憶えているわけがありません。意識を失っていなくても、泥酔してもうろうとしていれば、記憶に障害があっても不思議じゃありません。

そうではなく、回りの人から見れば、ちゃんと最後まで意識があったのに、翌日に本人が一部か全部を思い出せないことがあれば、それがブラックアウトです。

アルコール依存症の人でなくても、大酒飲みが大酒を飲んだ晩にブラックアウトを経験することもありますが、それはまれな話です。ところが、アルコール依存症の人は、ブラックアウトの経験を豊富に持っています。その経験に「単に途中で寝たので以降憶えていない」経験を足しあわせば、アル中は本当に記憶喪失が得意技だとわかります。

依存症になりかけの頃は、まだ酒量も多くなく、人と飲んでいるときに泥酔することもまずありません。その頃に、相手から見れば「昨日の晩は酒の量も多くなく、きちんと話もできていた人」が翌日記憶が飛んでいるという経験をします。このブラックアウトは、「依存症への境界線をまたぎ越えた証拠」だとか、「いずれ依存症になる人とならない人を区別する症状」だとか言われます。

本当はどうなのか知りませんが、ブラックアウトを体験したらお酒をやめるのが最善だと思います。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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